【目次】
  
  カラー口絵(16頁) 
 
  序『金瓶梅』はなぜ「肉麻(いやらしい)」か?
  T ホルトゥス・エロティカ―官能の庭
    あけっぴろげ!
    春画のなかの庭園
    鞦韆のシンボリズム
    天の井戸と地の井戸
  U 非在の肉体―からだ抜きの行為
    男の性的階層化
    ファロスの政治学
    春画におけるジェンダー
    ポドエロトマニア
    後庭の花
    馬上の愛あるいはアクロバット
    房中術の表象
    間奏曲―ファン・フーリクと春画
  V 文字か絵画か―肉麻性のゆくえ
    密室の擬近代
    ポルノ文学の文体
    匿名性と個
    裸体・身体・肉体
  
    あとがき
    参考文献
    図版一覧

  

挑的淫津流出、

如蝸之吐涎。

淫気連綿、
如数鰍行泥○中相似、

婦人在下、
没口子呼呼達達不絶。

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それでは、大盤振る舞い! 「序文」をまるまるご覧にいれましょう!

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◆序 「金瓶梅」はなぜ「肉麻」(いやらしい)」か?

 「肉麻ろうまあ(ro`uma´)」なる中国語は、おそらく明代に生まれた。「麻」とは、リネンとしての「あさ」のほかに、もともと「しびれる」(「麻痺」など日本語にも生きている)の意があり、そこから、「肉麻」には、「いやらしくてむずむずする」の意が生まれた。たとえば、毛虫を見ても、気障きざなやつを見ても、「肉麻」な感じがするといえるが、「肉」の字が喚起するイメージからして、みだらで猥褻な行為など「いやらしくてむずむずする」と感じさせるほうに重点が移った。「いちゃつく」「いやらしいことをする」という動詞としてもつかわれる。
 さて、中国における「肉麻」な文学といえば、だれしも『金瓶梅』を思いうかべることだろう。明末、十六世紀のおわりごろに成立し、十七世紀の初頭に刻本として流布しはじめたこの小説については、わからぬことがあまりにも多い。たとえば、作者に擬せられた者として、王世貞おうせいてい・李開先・馮惟敏・屠隆・趙南星・湯顕祖など、名だたる戯曲作家がずらりとならぶが、いずれも確証を欠く。
 それはともかくとして、『金瓶梅』の「肉麻」性つまり「いやらしさ」が奈辺にあるかを、邦訳によってながめてみよう。第二十七回、西門慶が第五夫人の潘金蓮とともに邸内の葡萄棚の下で投壺あそびなどするほどに、もよおしてきたくだり―
 
近づいてこのありさまを眺めた西門慶、酒興に乗じて、これまた上下すっかり脱ぎすて、瀬戸物の腰掛の下に腰をおろすと、まず脚の指もて花の心をからかいます。(1)それからこんどは紅い刺繍の靴をぬがせたうえ、戯れにその二つの脚帯をとき、両足に結えて両側の葡萄棚に吊しますと、金龍探爪にさも似たかっこうで、牝戸大張、紅鉤赤露、鶏舌内吐といったぐあいに相成ります。(2)まさに、今がたけなわというところへ、春梅が酒をあたためて持って来ましたが、(以下略)。
 
 この引用文中、十二字を原文のままとしているが、訳さずとも読者にはおおむね見当がつくと踏んだのであろう。しかり、ヴァギナの細部を端的に抽出(リプレゼント)したこの十二字は、日本の春画における「大開絵(おおつびえ)」、すなわち拡大鏡をとおして見たヴァギナのクローズアップの絵を思わせる。たとえば、歌川国貞の《吾妻源氏》中の最後の二枚などを―。日本の春画は思いきり「褻視せつし(クローズアップ)」的である。「窃視せつし(ヴォワイエリスム)」も春画の重要なキーワードであるが、私の造語「褻視」も、とくに日本の春画空間を解くキーワードとなろう。
 中国の春画が徹底して非「褻視(せっし)」的であることについては、本書の主たるテーマのひとつとして、おいおい論ずることになろうが、それはともかくとして、『金瓶梅』の、たとえばいま挙げた十二字がまことにもって「褻視」的であり、それゆえに、なんとも「肉麻」な感をいだかせるのは歪めないであろう。
 ところで、さきの引用文において、私が(1)(2)とした二個所は、訳者が断りなしに省略したところである。原文を挙げるならば―
 
(1)挑的淫津流出、如蝸之吐涎。
 
(2)西門慶先倒覆着身子、執麈柄抵牝口、賣了個倒入○花、一手○枕、極力而提之、提的陰中淫気連綿、如数鰍行泥○中相似、婦人在下、没口子呼呼達達不絶。
 
 (1)は、おおむねご推察どおり。「挑的テイアオデ……」とは、「(欲情を)かきたてられ、その結果として……」の意。
 (2)は、なかなかむずかしい。「麈柄(しゅへい)」とはペニスの陰語。「倒入(『金瓶梅詞話』本は、「人」に誤る)花」とは、投壺(なげや)の用語のひとつに「○花倒入(矢羽根のあるほうを下にして箭壺やつぼに投げ入れる)」があるのをつかい動詞化したもの。ただし、「麈柄」を矢に見たてたときの矢羽根は陰毛であろうから、この動作を一発「賣了かまして」から「提(ここでは「浸ひたす」の意であろう)」するとは?西門慶の高等技術か。
 ともあれ、この「褻視」的な描写リプレゼンテーシヨンは、まごうことなく「肉麻」である。わけても、「淫津(気)」のあふれ出るさまを、蝸だの鰍どじようだのがのたくるさまにたとえるとは!日本の「大開絵」も、「淫津」のあふれ出るさまを細密に描いて、いやらしい。こんなものは、他者がリプレゼント(再現・描写・表象)すべくもない、もっとも体内的(胎内ウーム的)な存在なのに、されてしまったからである。
 もっとも、性行為の、つまり「肉麻な」行為のあからさまな描写は、『金瓶梅』がはじめてというわけではない。たとえば中唐の詩人として知られる白行簡(七七六〜八二六。白楽天の弟)の名を冠した写本『天地陰陽交歓大楽賦』なるものが、一九〇八年に敦煌莫高窟の蔵経洞で発見されたが、美辞をつらねた高度の韻文である「賦」の形式を藉りて「陰陽交歓」の「大楽」をあからさまにうたいあげている。罕見の文字や俗語を多用し、さらに写本なるがゆえの誤字・脱字・衍字もすくなからず、はなはだ難解である。
 この『大楽賦』の通俗的な邦訳はすでに数種あったが、いずれも誤訳が多く、飯田吉郎氏がはじめて原写本にもとづく学術的な校訂と訳注をこころみた。その飯田氏も指摘しているように、『大楽賦』の「表現の大きな特徴の一つは、伝統的な詩語の中に、唐代の知識人が共有したであろう房中術書からの言葉や語彙を選択して、融合させている点にある」。
 房中術書の伝統は古い。房中術とは、主として男の健康と生殖と快楽のための性医学であり、とくに「還精補脳」という理想をめざしての性交時の体位がくわしく追求された。房中術書は、したがって、あからさまなポルノグラフィックな側面をもつ。明代には、この種の房中術書がおびただしく出版された。
 さて、『金瓶梅』における「肉麻」な描写も、房中術書の流行と無縁ではないだろう。―と思っていたが、じつは、あまり関係がなさそうなのである。それはそうだろう、『金瓶梅』の男女たち、わけても西門慶と潘金蓮は、快楽だけを追求している。西門慶は人なみに子孫繁栄をねがってはいるが、前妻がのこした娘ひとりだけ。第六夫人の李瓶児が生んだ待望の坊や官哥も一歳ひとつになったとたん死んでしまう。西門慶の死後に正妻の呉月娘ごげつじようが孝哥こうかを生むが、要するにかれは子宝から見はなされていた。みずからの「不老長生」も荒淫のため三十歳そこそこで死ぬ。房中術とは無縁の男なのである。
 かくて、快楽のためだけの性行為が全篇をおおう。さまざまな体位の描写はもとよりだが、性戯にまつわるあらゆる些事が、さきの短い引用にも見たように、じつに「褻視」的に描写リプレゼントされる。行為そのものよりも、行為にまつわる些事の再 現リプレゼンテーシヨンはいやらしい。「肉麻」である。
 性行為に限らず、『金瓶梅』は、あらゆる些事の描写において詳細をきわめる。「細やかな日常生活の描写」こそが『金瓶梅』の魅力なのだと、日下翠氏は述☆3べた 。私のことばなら、あらゆる些事の「褻視」的な再現、あるいは「大開絵おおつびえ」的な描写―そのいやらしさが「肉麻」性ということである。
 さて、『金瓶梅』という奇妙な書名は、申すまでもなく、潘金蓮・李瓶児・○春梅という三人の女たちの名から一字ずつ採ったものである。しかし、近年の英訳者デーヴィド・トッド・ロイがThe Plum in the Golden Vaseとしているように、「金瓶」すなわち美しい瓶あるいは壺のなかの梅とも解しうる。梅(メイ)は●(メイ/表示デキマセン)に通じる。美しい壺(ヴァギナ)のなかにひそむ梅毒あるいは不運という、これまた「肉麻」な隠語かもしれない。