「中世の山城 荒砥城」 (4)
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■波乱万丈の荒砥城
この時代は、戦(いくさ)が繰り返さられていた戦国時代です。荒砥城と千曲川をはさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、上田ヶ原の戦い(1548年)や戸石城の戦い(1550年)で、甲斐の武田晴信(信玄)との戦に勝ち、領地を守ってきました。
信濃埴科郡屋代郷(現在千曲市屋代)の一重山に屋代氏(村上明国の孫の家盛が分家し、地名を採って屋代を名乗ったのが始まりという。屋代満照=村上義国の孫の国衛の子満照が、屋代家を継ぐ=満照寺が居住館)が築いていた屋代城の、当時の当主屋代満照の子、屋代正国が武田氏の誘いに応じ、1552年寝返りにより武田氏に加勢、1553年ついに葛尾城は落城し、村上氏は越後の長尾影虎(上杉謙信)に救いを求めこの地を去り、山田国正は滅亡、荒砥城は城主を失い、屋代氏が城主となる
長尾影虎の力を借り村上義清の軍が千曲市八幡附近で武田軍と戦闘勝利し領土回復し荒砥城を取り戻したが、3ヶ月後に武田軍に火をかけられ村上義清の領土回復は3ヶ月で終わった その後再び屋代氏の居城となる
1584年、武田信玄が病死滅亡した後、屋代秀正は「上杉景勝」に属し海津城代の山浦景国(村上国清=村上義清の子)の配下になったが過去の経過が根に持ち折り合いは良くなかったようです。荒砥城は屋代氏、清野氏などの七氏による交代で守られることになりました。
当時上杉軍の海津城の副将をしていた屋代秀正は、1583年、地方に支配力を伸ばしていた「徳川家康」が山浦景国と折り合いが良くなかった屋代秀正に更級地方の支配を任せる密約を持ちかけられ、屋代秀正は上杉氏を背向き、海津城を出て荒砥城に入城しましたが、「上杉景勝」の軍勢に攻められ落城、屋代秀正は家康を頼って逃亡し、以後家康の進出を嫌って荒砥城はことごとく破壊され廃城となり荒砥城の役目を終えています。
荒砥城の主人公
山田氏(村上義清支族)の居城として築城、→村上義清支族の屋代氏が信玄に寝返り信玄に攻められ葛尾城は落城し山田氏は滅亡→
屋代氏(信玄より褒章)→
村上義清(1次川中島合戦で勝利3ヶ月間の領土回復)→
屋代氏(3ヶ月後、信玄が城を奪い返す)→
屋代氏や清野氏など7氏による共同管理(武田氏滅亡後上杉氏に属し屋代氏が海津城の副将になった為)→
屋代氏(上杉氏から家康に寝返り)、「上杉景勝」に攻め落とされ、そして
破壊廃城と正に波乱万丈の荒砥城でした

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■狼煙による通信
四方八方見晴らしの良い立地条件の荒砥城は有事を発見の際の緊急連絡に狼煙を上げて千曲川向こうの村上義清の葛尾城や同盟武将 の城に連絡を取り合ったのではないかと思われます。
■笄(こうがい)の渡しと荒砥城
坂城町苅屋原の笄橋付近に笄の渡しの碑がありまます。
武田信玄と激しい戦いの末、居城が陥落し、村上義清は上杉氏を頼り越後へ、奥方が着の身着のまま逃げ千曲川の対岸にある支城である荒砥城に逃げる際、渡しの船頭に事情を話し頼んだところ船頭は命を張って無事に対岸の力石(千曲市力石)に渡してもらったお礼に髪にさしてあった笄(櫛)を手渡したことから村人は義清公夫人を偲んで笄の渡しと呼ぶようになったとされています。現在は笄型の橋が架かっています。
渡しがあった場所と現在の笄橋と「荒砥支城」があった山 。智識寺の前の「女涙坂(おなみさか)」・裏山に荒砥城の支城があったらしい

「女涙坂(おなみさか)」の物語
北信濃政略の武田信玄の軍勢に立ち向かう北信濃の名族、村上義清もその居城葛尾城に火を放たれ遂に落城しました。
時に天文二十二年(1553)の四月九日でした。この時、義清の奥方は侍女とともにひそかに城をぬけ草木を分けながら千曲川に逃げました。「笄の渡し」の船頭は命を張って無事に対岸の力石(千曲市力石)に渡してもらい、支城の荒砥城に逃げる途中に智識寺の前に差し掛かったときに振り返ると、住み慣れた「葛尾城」が炎上、崩れてゆくのを見て泣き崩れたというそれ以来この坂道を「女涙坂(おなみさか)」と呼んでいます。その荒砥城も攻撃を受け城主を失っています。
案内看板参照
■荒砥城の夜明け
城主や武将達は美しい朝日を向かえ、今日も戦がありませんことを祈っていたことでしょう?

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