日本国内には459の国道がある。その全てに1から始まる連番が振られていると思われがちだが、実際には欠番がいくつか存在しており、全国道中で最大の番号は507号となっている。それぞれに与えられたナンバーは、日本の国道網における相対的地位を表すものであると言って良い。そして、日本の道路網の根幹をなす国道内での順位付けは、基幹道路としての重要度そのものを意味している。また、国道に振られたナンバーは、数字が若いほどその路線が重要な道であることを示すものでもある。そして、1より若い番号は存在しない。国道1号線は、日本の国道の頂点に立つものであり、国内最重要路線である。
国道1号線は東京都中央区の日本橋から始まり、大阪府大阪市まで続く。総延長は565.4km。その前身は、江戸時代に敷設された五街道の一つ、東海道だったと言っても良いだろう。1号線の起点から終点までの実に9割までが、旧東海道に沿うようにして流れている。このコンテンツは基本的にはドライブレポートである。しかし、国道1号線を語る上で、やはり旧東海道の旅情に触れない訳には行かない。現在の国道1号線と、往時の東海道を今に伝える史跡などを併記しながら、起点日本橋から終点大阪市まで走破したい。特に安藤広重の手になる保栄堂版東海道五十三次との絡みで話を進めて行こうと思う。
なお、東海道五十三次は以下の通り。品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島、沼津、原、吉原、蒲原、由井、奥津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田、金谷、日坂、掛川、袋井、見附、浜松、舞阪、荒井、白須賀、二川、吉田、御油、赤阪、藤川、岡崎、知鯉鮒、鳴海、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関、阪之下、土山、水口、石部、草津、大津。これに起点日本橋と終点京師の二枚を加えた総数五十五枚に上る作品集が、広重の東海道五十三次である。
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現在の日本橋はもちろん江戸時代のものではない。明治44年にかけられたもので、橋の欄干部分に据えられた龍などの塑像や、ガス灯を模した照明が明治時代の雰囲気を出している。ただ、首都高速の下になってしまっているため、いまいち橋自体の影が薄い。橋の中ほどには「日本国道路元標」のプレートが埋まっている。
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日本橋は東京駅から目と鼻の先の距離にある。兜町や霞ヶ関、そして皇居と言った名実共に日本の中心地と言えるような地名も、日本橋近辺に密集している。いずれも単なる商業地区とは若干趣を異にする場所である。従ってこの周辺の街並みは整然としていて、道はまっすぐ伸び、広さも十分で、とかく渋滞しがちなイメージがある東京の道でも比較的走りやすい。実際に現地を走った時間が早かった所為かもしれないが。
1号線はスタート直後に皇居へ突き当たると、外堀を回るようにして進んでいく。奇しくも日本の道の元締め(?)である国土交通省の庁舎に近い桜田門交差点で左折、南の品川方面へ向かうのだが、その途中は思いのほか起伏が激しかった。また、スタート直後の都心部ほど道がまっすぐではなくなり、路上駐車も目立つようになる。あまり走りやすい道路状況ではないが、このあたりは市街地走行の宿命だろう。広重は海沿いの町・品川を描いていたが、現在の1号線はかつての東海道よりも内陸側を走っており、また埋め立てによって海岸線も江戸時代より東にスライドしていることもあって、湾岸地帯の面影は無い。横浜市内までの区間では、15号線が東海道伝いに延びている。
さすがに東京二十三区内なので、道の両側にはビルなどの大きな建物が立ち並んでいる。最近では、東海道新幹線品川駅の開業がこの地区の目立った出来事だろう。
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「お江戸日本橋七つ立ち」と言う。広重も日本橋では早発ちの大名行列を描いている。
今回の行程では日本橋を午前7時過ぎに発った。ちなみに「七つ」が指す時間は季節によって変動したが、少なくとも現在の午前7時よりはるかに早い時間帯である。
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品川を通り過ぎ、大田区を抜けると多摩川越えである。江戸時代にも立派な橋のかけられた時期はあったが、たびたび洪水で流されてしまい、ついには近辺に渡し場が置かれて渡し舟で代用されるようになったと言う。
現在は多摩川大橋がかかっている。この橋を渡ると神奈川県川崎市に入る。大田区あたりからすでにそうなのだが、高層ビルはこのあたりまで来るとめっきり見かけなくなる。だからと言って道沿いに活気がなくなるわけではない。交通量も多い。横浜あたりまでの1号線は「第二京浜」と呼ばれる。川を渡ってすぐにある東芝の工場が印象的だ。
1号線が走り抜ける川崎市の市域は思いのほか短い。鶴見川を渡る少し前のあたりから、道は横浜市に入る。多摩川と鶴見川の2本の河川の間は、かつてアゴヒゲアザラシが移動したと言う出来事からも分かるように、結構狭い。
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広重が描いた渡し場は、1号線の1本隣、15号線沿いにあったらしく、六郷の渡しのようである。1号線を走っていると目に付くのは矢口の渡し。
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神奈川宿(神奈川県横浜市神奈川区)〜保土ヶ谷宿(神奈川県横浜市保土ヶ谷区) |
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意外にと言おうか、横浜市に入ったあたりから道幅が少し狭くなって来る。交通量は決して少なくは無いが、それでも目立って流れが悪くなるわけではないので、それはそれで適正なのかもしれない。ただ、年の瀬の午前9時前という時間に横浜を走ったので、普段がこの通りとは言いかねる。
JR横浜駅の近くを通り過ぎるあたりまでは、車窓から高層ビルを望めたり出来、横浜の都会的なイメージに近い風景が展開されるのだが、保土ヶ谷区に入ったあたりから、権太坂をはじめ俄かに坂道が多くなる。丘陵によって近接地域であっても交流が途絶しがちになるためか、「みなと横浜」と言うよりも、むしろ内陸都市の下町的な風情が漂い始めてくる。時間によっては丘陵地形に日差しがさえぎられる形になるのか、日陰道を走る事になる。
かつての街道時代はこのあたりが東海道最初の難所だったようだが、車での移動に関しては特に問題となるようなものではない。
なお、横浜市内を走っている有料道路・横浜新道は国道1号線のバイパスであり、名目上も国道1号線となっている。
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権太坂は箱根駅伝などで何らかの言及がされることも多い有名な坂。名前の由来として、旅人に坂の名前を尋ねられた土地の老人が、聞き違えて自分の名前を答えたためにそれが定着した、という伝説がある。
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戸塚あたりでは、道は完全に片側一車線対面通行となっている。JR東海道本線戸塚駅近くでは、交通が集中するために渋滞も頻繁に発生しそうだった。ちょうど広重が東海道五十三次の戸塚で描いた吉田大橋の少し先あたりからである。車の数に対して道幅が狭い事を顕著に物語っていると言えるが、Y字路になっている不動坂交差点でちゃんと市街地を迂回できるコースに進めるようになっている。この迂回路はタダで走れる。横浜新道を走ってきた場合も、こちらのルートと合流する。時間帯や状況にも拠るのだろうが、駅前を通るだけで結構なタイムロスになりそうだ。先を急ぐ車は、普通はこちらを利用するという事なのだろう。戸塚市街を走る車は、その界隈に用事があるか、さもなくばよほどの物好きかのいずれかという事になるのだろうか。
二手に分かれたルートと合流したあたりからは下り坂だが、ここを越えれば箱根のあたりまでしばらくは、目立ったアップダウンが無くなる。道幅も、バイパスと合流した事とあいまって少しの間、広くなる。
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広重が戸塚宿で描き残した「左りかまくらみち」の道しるべ。本来の設置位置から程近い妙秀寺の境内に移されている。
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藤沢宿(神奈川県藤沢市)〜平塚宿(神奈川県平塚市) |
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よほど天気が悪いのでもなければ、横浜市から藤沢市に入るあたりから富士山を望めるようになるはず。おそらく、東京からでも高いビルなどからなら見る事は出来るのだろうが、遮蔽物に目隠しされる事なく、気楽に富士山をみられるようになるのは、やはり藤沢以降だと思う。富士山に関しては、天候に恵まれさえすれば静岡県内までの1号線であればほとんどの場所から見る事が出来るはず。もちろん、東京から下っていく場合はどこかで富士を背後に背負う形になり、運転しながらでは見えなくなってしまう。
藤沢を抜けると次は茅ヶ崎市だが、ここには宿場は置かれていなかった。藤沢宿と平塚宿の間は結構距離があるように思うのだけれど。
茅ヶ崎から平塚に入るあたりまでは、沿道に松が植えられている。おそらく、後の時代に植樹しなおされたものだと思うが、東海道時代をしのばせる風情がある。
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東海道の松並木は、防風林であり、日除けであり、旅人がミスコースをしないためのガイドでもあった。
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大磯宿(神奈川県中郡大磯町)〜小田原宿(神奈川県小田原市) |
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大磯のあたりまで来ると、1号線は海近くを走る道となる。また、ほぼまっすぐな道で、大きな建物も少なくなるために、進む方向の見通しが良くなる。そろそろ、前方彼方に横たわる箱根の山塊が視界に飛び込んでくる頃合である。また、本当に海岸べりを走る西湘バイパスに一部の車が流れるためか、かなり快適に流れる区間だと思う。
すべるようにして大磯町を抜けると小田原市入り。小田原では戦国北条氏が築いた堅牢な小田原城が有名だが、後の江戸時代には、ここへは徳川氏の譜代本多氏が封じられた。小田原藩は幕府が江戸の守りのために最重視した、彼の箱根の関所を管轄する藩だった。
1号線も、再現された小田原城の近くをかすめてついに箱根の山へと進路をとる。現在では一大観光地となった箱根を控え、小田原市内でも山際の地区では小田原の名産であるかまぼこをはじめとする練り製品を売るお土産店が目に付くようになる。
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小田原城に関してはお城スコープ参照のこと。
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「箱根の山は天下の険」などと歌われ、また「くるしくて、どんぐりほどの涙こぼるる」とも言われただけあって、箱根の山道はこれまでで最大の難所と言えるだろう。東海道3大難所の一つだという事である。日本全国津々浦々の山岳路の中にあっては際立った急登と言うわけでもないのだが、カーブは結構連続するし、上り続ける区間も長い。ただ、1桁国道の面目躍如か、整備が行き届き、それでも走りやすくはなっている。道沿いには旅館などが建ち並んでいるのも、普通の山道と違う点と言える。場所柄を考えると、山岳道路特有の悪路に対してよりも、雪への備えを心配すべきかもしれない。また、観光地の宿命で、シーズンには交通集中によって渋滞も発生するようである。なお、国道1号線最高点(標高874m)は、箱根の山中にある。一度上り坂を登りきってしまうと、そこからしばらくは芦ノ湖に向かい、道は下っていく。
さて、芦ノ湖を過ぎると程なくして道の駅「箱根峠」がある。東京側から走ってきた場合、ここが最初の道の駅となる。比較的こじんまりした駅だ。この先、箱根峠を越えると静岡県三島市入り。
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箱根観光の中心はなんと言っても芦ノ湖周辺になるのだろうか。箱根神社や箱根関所跡と言った渋めの施設ばかりではなく、彼の有名な彫刻の森などもある。芦ノ湖近辺以外にも、大涌谷、強羅、その他諸々見所は多い。
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箱根の山の西側斜面は、比較的なだらかな下り坂となっている様に思う。また、県境を越えて静岡県側に入ると道幅が広がる事もあって、かなり走りやすい。幾重にも折り重なるようなカーブを下っていく途中、富士山を真正面に見たり、はるか眼下に広がる三島の市街地と駿河湾を見晴るかす事が出来たりと景観が非常に良い。
坂を下りきると三島市街である。また市街地走行なので渋滞に悩まされそうだが、神奈川県側に比べれば道路事情は良く、市街地の一部を除けばまず順調に流れそうな気配であった。むしろ、道が良いためにかなり飛ばす車が多かったようにさえ思える。
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広重の描く三島宿は霧の朝。背景には1号線からも近い三島大社の鳥居がシルエットで表現されている。当時の浮世絵には詳しくないが、なかなかの技巧ではないかと。
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沼津宿〜原宿(ともに静岡県沼津市)〜吉原宿(静岡県富士市) |
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沼津市から富士市にかけての1号線は、沼津バイパスとなっている。信号がほとんどない上にまっすぐな道。沿道に立ち寄るべき商店などもないために、ここを走る車は皆かなりのスピードを出していた。あまり具体的な数字を書くのもまずい気がするが、その速度は間違いなく、一般国道ではなく高速自動車国道のそれであった。本当にこれでいいのだろうかと思うほどである。富士市から先もバイパスになっており、状況は似たり寄ったり。
静岡県内の1号線に押しなべて言えることだが、有料無料問わず、かなりバイパス化が進んでいる。快適にすばやく移動できるのは結構な事だが、沿道の様子はもう一つ印象に残りにくい。市街地経由で走るか、バイパスで混雑を避けるかはお好み次第。
このあたりで印象的なのは、道沿いの風景と言うよりは、少し離れた富士市の臨海部に密集する工場群だろう。駿河地方全般ににある程度共通する地形と言えるのかもしれないが、山と海に挟まれた広くもない平地に多くの建物が密集する光景は、1号線全線を通しても特徴的なのではないか。
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吉原近くの街道は、珍しい「左富士」で知られていた。江戸から京都に下る場合、普通は右にみる富士山が、このあたりだけは左手に見えていたのである。1号線を走ってはみたが、そんな場面はあったかと不思議に思うほど印象に残っていない。
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蒲原宿(静岡県庵原郡蒲原町)〜由井宿(静岡県庵原郡由比町) |
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富士市の隣・庵原郡蒲原町からそのまた由比町までの間は、前述の海と山の間が本当に猫の額ほどしかなくなる。それだけの限られた平地に、JR東海道線が走り、東名高速道路が走り、その隙間に国道1号線と蒲原や由比の町が広がっていると言う感じである。1号線と併走するような形で蒲原町から由比町に伸びる道は、歴史国道の指定を受けている。反面、このあたりも1号線はバイパス化されていて、すぐ脇を走る東名並のスピードで車が走っている。風情も何もあったものではないが、緩やかだが長い下り坂となっているこのあたりでは、眼前に広がる駿河湾の眺めが良い。非常に風光明媚な区間なのだが、黄昏時だと海面からの照り返しがまぶしくなるのが玉に瑕である。
さて、狭い平地も薩た峠(さつたとうげ:「た」は土偏に垂。HPでは使えない文字らしい)の裾のあたりまで来るとほとんどなくなってしまう。道は半ば海上に橋脚を立てるようにして確保されていた。しかし、ここを抜ければ静岡市(旧清水市域)の広い平地に入る。
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現在の薩た峠近辺の道路事情から分かるように、江戸時代には海岸部に道を通す事が出来なかった。ちょうど8号線の親不知子不知(新潟県)に通じるものはあるが、疲れはしても命の危険は少ない峠越えの道が確保できた分だけ、東海道の方がマシだったと言えよう。
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旧宿場の名前と同じ興津IC付近で1号線は二手に分かれる。すなわち、臨海部の旧清水市街を通って静岡市の都心部に抜けるルートと、それらを迂回して静岡市郊外の丸子にまで至る静清バイパスである。今回は市街地ルートをセレクト。
清水市は静岡市に吸収合併されるような形になり(形式的には対等合併の結果、新市名として「静岡市」が採用されたということになるのだろうか)、行政区分としては消滅しているが、今でも「清水港」のネームバリューは健在のようである。1号線沿いにも港町清水を前面にアピールした土産物屋や食べ物屋の看板が多く目に付く。
やがて道は次第に海から遠ざかり、旧静岡市街(といっても実質は現在も静岡市街なのだが)に向かう。静岡県庁や静岡市役所のあるあたりがかつて府中宿と呼ばれた地区で、今でも城下町の名残の町名や入り組んだ地割りだけは残っている。幸か不幸か1号線はそう言った雑駁さの残る区画は避け、JR静岡駅前を通り過ぎ、安倍川を渡り、山の中に入り込んだ静岡市郊外地区に向かっていく。
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ちなみに府中とは近世以前の行政区分で各国の首府が置かれた土地を指す地名。静岡(駿河)に固有の地名ではないが、東海道の宿場の名前にまでなっているのは、徳川家康が晩年をすごしたと言う経緯のある土地だからか。
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丸子宿(静岡県静岡市)〜岡部宿(静岡県志太郡岡部町) |
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かつての宿場時代から、丸子宿の名物はとろろ汁だった。そのあたりからも分かるように、丸子から岡部にかけての道は山の中である。ヘアピンカーブの連続と言ったものではなく、長い直線的な上り下りを繰り返すだけなため、走りにくいという事はない。むしろ、山間にしては脅威を感じるほど直線的な道路なのかもしれない。周辺環境にしても、割と開けているというか、ガソリンスタンドなどの店舗も存在しているため、気張って挑むほどの峠越えではない。同じ山中には道の駅「宇津ノ谷峠」もある。登り車線側・下り車線それぞれに設置されたSAのような道の駅である。いずれにせよ、バイパス利用で丸子まで来たのでなければ、この山の中に入る直前までは静岡市街だし、峠を越えればすぐに藤枝の市街地である。
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丸子の丁字屋は広重もモチーフにした老舗。出来ればここでとろろ汁を食べたかった。異様に暗い写真ですみません。
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藤枝宿(静岡県藤枝市)〜島田宿(静岡県島田市)〜金谷宿(静岡県榛原郡金谷町) |
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さて、藤枝市内に入っても道は比較的順調に流れていた。大道ではなく、沿道にはコンビニや日用品を売る店もあるため、地域密着型の生活道路と言う雰囲気の道だが、藤枝市の北部に迂回ルート(藤枝バイパス)があり、交通が分散するためだろうか。
藤枝市街を抜けて少し行くと、お隣の島田市に入る。やがて1号線は北側に折れ、藤枝バイパスに接続するコースと合流する。そこから少し西へ向かうと新大井川橋である。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と称された東海道屈指の難所・大井川にかかる橋だ。江戸時代の大井川に橋はかかっていなかったので、箱根以上の難所と目されていたのである。雨で川の水量が増加したら何日も川岸で足止めを食らうという、厄介な場所であった。もちろん、現在では橋がかかっているのであっという間に渡れてしまうが、川止めを食らう恐れがある事情から、島田宿と金谷宿は大井川の両岸と言う、直線距離ではかなり近接した場所に開かれていた。金谷から先は遠州だ。
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大井川を渡ってすぐに、道は再び山間へと入り込んでいく。ここも山一つ越えれば掛川市街という場所なので、恐ろしく山深い場所というわけではない。この山の中には、「小夜の中山トンネル」という名前のトンネルがあり、「小夜の中山夜泣き石」で知られる夜泣き石があるのも、この付近である。夜泣き石は現在、小夜の中山交差点近くにあるお土産屋裏手の公園に移されている。この辺りを通っていた旧東海道が、かなり急峻な峠を通る道であったために新道が敷設され、それに伴って夜鳴き石も移転されたそうだ。
トンネルを抜け、旧日坂宿の頭上をまたぐような長いスロープを下っていくと、間もなく掛川市だ。掛川市内に入ると1号線はまたしても本線と掛川バイパスに分岐する。掛川バイパスは夜間無料昼間200円の有料道路である。有料を嫌って本線を走ったが、このときはさほど込み合うということはなかった。本線からほど近くにある掛川城には、全国各地にある再建天守閣を持つ城の中でも少数派の、木造再建天守の城である。東京側から下ってくると見落としてしまいがちだが、上り斜線を走ってくると、丘の上に建っている事もあって、かなり目立つ城だ。
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『昔、一人の妊婦が賊に殺された。今際の時、彼女は子供を産み落とした。子供を慕う彼女の霊は傍らにあった石に乗り移り、夜毎泣き続けた。』夜泣き石のいわれである。
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袋井宿(静岡県袋井市)〜見附宿(静岡県磐田郡豊田町)〜浜松宿(静岡県浜松市) |
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袋井市から磐田郡豊田町にかけての道も、掛川市内と比べて目立った変化は無い。どうしてもありふれた街中を走るイメージが強い。変化と言えば、多少起伏がある程度だろうか。袋井市内においては、国道1号線は袋井市街を横貫する県道253号線、および413号線に対するバイパスの位置付けとなっているようである(袋井バイパス)。
袋井バイパスの区間が終わって間もなく、道は再び1号線と有料の磐田バイパスに分岐する。どうもこちらはバイパスを走った方が無難な気がする。私が走ったタイミングでは、磐田市の市街地を走るルートは流れが滞りがちだった。
天竜川を越えると浜松市に入る。ここまでほぼまっすぐ西に向かって伸びてきた1号線だが、天竜川を渡ったあたりで、浜松の中心地を避けるようにコースを大きく南よりに変える。浜松は、静岡清水が合併する前までは静岡県下最大を誇る五十万都市であった。旧浜松宿は現在浜松市外の中心になっているJR浜松駅からもさほど離れてない場所にあったため、このあたりに限っては1号線は旧道沿いからかなり逸れているという事になるのだろうか。早くから開けていた街だったので、大道を通しづらかったというわけでもないのだろうが、ごみごみとした市街地を避けてのびるため、広く、まっすぐで、非常に流れの良い道だ。ともすれば沿道の建物もまばらになりそうな1号線から、浜松駅近辺に立ち並ぶ高層ビルの明かりを右手に見つつ、浜松市の南側をすり抜け、次の町・浜名郡舞阪町へ。
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磐田市見付にある見附天神社。東海道とは必ずしも関係はないが、霊犬「しっぺい太郎」にまつわるおもしろい伝説が残っている。
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舞阪宿(静岡県浜名郡舞阪町)〜新井宿(静岡県浜名郡新居町)〜白須賀宿(静岡県湖西市) |
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浜松市を抜け切る直前で、道は再び二手に分かれる。1号線本線と、遠州灘沿いを行く浜名バイパスだ。バイパス側は景観がよく、道もよく整備されていて高速道路並の高規格道路になっている。走っていても非常に気分が良い。対する本線側は、舞阪町に入った直後あたりから弁天島の海水浴場や温泉、舞阪本陣跡、ホテル、競艇場、新居関所跡など、浜名湖沿いに色々な施設があり、ずいぶんと観光地化が進んでいる。この近辺に遊びに行く場合にはもちろんこちらへ進まなければならないが、そうでない場合には渋滞に巻き込まれる可能性は高い。
舞阪宿と新居宿は浜名湖が遠州灘とつながっている箇所(今切)の左右両岸に位置する宿場だった。現在バイパス側は浜名大橋がかけられているが、本線の方は大半が埋め立て地の上に敷設されているようだ。昔このあたりに渡し場があったという感じではない。なおこの界隈の道は、極端に狭いということもないがごちゃごちゃした印象を与える。
新居町を抜け、湖西市に入るあたりまで来ると、歩行者や脇道に出入りする車が少なくなって、道が狭いなりに走りやすくなってくるだろうか。このあたりから一山越えると、愛知県入りだ。遠州灘を望む潮見坂を、海を背にして上っていくと、1号線の両側は畑ばかりになる。
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このあたりの1号線も海に近いコースである。ただ、漁村風だった由井のあたりとは違う風情だ。
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愛知県に入って最初の宿場は豊橋市東部にある二川宿である。江戸時代においても、遠江から三河に入った最初の宿場であった。二川宿周辺、というよりは1号線が豊橋市に入った直後あたりから、沿道の景色は農村風景から市街地のそれに変わっていく。民家、店舗、工場、その他諸々が林立しだしてなかなかにぎやかだ。
広重は、二川宿に関しては柏餅を商う店を作品中に登場させているが、現在の二川周辺に柏餅の名店・老舗は特に無い。国道のほうは、JR東海道本線二川駅に程近い旧道の少し北をかすめる様にして流れている。
二川以降、豊橋市を出るまで、国道1号線は市内の人口稠密地帯を走り抜けていく。道沿いの様子はいかにも地方都市らしい雰囲気をかもし出している。そして、西新町交差点では豊橋市内を東西に走る路面電車(市電)と遭遇する。市電と併走する区間は1kmほど。豊橋市役所近くの西八丁交差点までで、ここは三重県伊勢市まで伸びる国道23号線との交点となっている。また、旧吉田宿はこのあたりにあった。
なお、朝一番で日本橋を発った場合、一日の行程としてはこのあたりでそろそろ限界だろう。順調に走り続けたとして、ここまでの所要時間は約10時間と言ったところ。
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二川宿には大名の宿だった本陣の遺構が残っているのをはじめ、そこはかとなくかつての雰囲気も残っている。
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御油宿(愛知県豊川市)〜赤坂宿(愛知県宝飯郡音羽町) |
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豊橋市を抜けて、宝飯郡小坂井町、豊川市、宝飯郡音羽町と走り抜けていく区間の風景は、豊川市の一部を除けば途切れ途切れに背の低い建物が続くと言った感じで、散漫な印象を与える。食べ物屋は比較的多い区間であるが、あまり特徴的な風景は無い。
御油宿は豊川市のはずれにある。国道からは外れた細い生活道路の先が旧御油宿で、宿場時代を思わせる古い建物も結構残っている。また、御油には現在残っている限りでは最大規模と言える街道時代の松並木が残っている。旧東海道の沿道には松が植えられていたが、割合早くから松食い虫の被害にあっていたと言う。
松並木を抜けてからいくらも行かないところが赤坂宿。御油宿と赤坂宿の間は旧東海道では最も近接しており、1.6kmほどしか離れていない。歩いてもせいぜい二十分弱の距離であるため、国道を車で行けばあっという間に通り過ぎてしまう。赤坂宿にはかつての旅籠で、現在も旅館としての経営を続けている大橋屋がある。
道は、東名高速道路の音羽蒲郡ICを右手に見ながら、山間へと伸びていく。山とは言っても低い山であるが。
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広重は、御油宿では往来を行く旅人を強引に引き込む客引き、赤坂宿では宿の内部の様子を描いている。当時からこの界隈には目立った風景が無かったのだろうか。
今は街道時代純正の松並木が売り物。
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岡崎市内に入ってからもしばらくの間は山と山に挟まれた地区が続く。道沿いにはコンビニなどを始め商店も建ち並んでいるが、賑わう市街地の雰囲気とはまた違う。表通りから一つ奥まったところに入ると、岡崎の名産八丁味噌の老舗のいくぶんクラシックな仕込み蔵(工場?)があったりと、なかなか渋い味わいのある町だ。この本宿地区界隈は、現在でこそ他区間と同じく片側2車線が確保されているが、このような形で整備されたのは比較的最近のことである。以前はこのあたりに差し掛かると道幅が狭くなると言う状態が長らく続いていた。
旧藤川宿は、本宿よりも少し先にある。名鉄名古屋本線の線路をまたぐ高架の直前で、左手の脇道に入ったあたりである。現在このあたりは歴史国道に指定されていて、近くには新撰組の近藤勇の首塚もある。対する現在の国道1号線は、東名高速道路岡崎IC付近までは、どちらかと言うとのどかな雰囲気の中を行く道である。道沿いには色々な商店などが建ち並んでいるが、その隙間から見える遠景は田園地帯である。
東名高速の下を潜ると、周囲は一気に市街地化する。岡崎宿は現在の岡崎市の中心地近くにあった。当時からここは五万石の城下町だった。江戸時代の岡崎は、宿場町であり城下町だった。ここ岡崎で広重は、矢作川にかかる矢作橋と岡崎城を描いている。現在岡崎城は鉄筋コンクリート製の城として再建されている。道はこの城の目と鼻の先を通り抜け、城と同じく鉄とコンクリートでできた矢作橋を越えて行く。この橋のたもとには、日吉丸と蜂須賀小六の出会いの場面を再現した石像があるが、この話自体は後世の創作である。
岡崎の中心市街地あたりから交通量は多くなる。岡崎の隣、安城市に入っても車は多い。道沿いには大型車の出入りするような施設が目立つ。
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ちなみに岡崎市に隣接する街には豊田市がある。豊田の人口は四十万弱で、愛知県下第二位の都市の座を同規模の豊橋市と競っている。トヨタ自動車の本社もある街だが、一般国道は3桁国道があるだけ。県内の主要鉄道路線からも外れた位置にある。そのゆり戻しか東名と第二東名のJCT設置工事が進んでいる。
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池鯉船宿では、広重は馬市に題材を求めている。宿場と言うよりは野原に何頭もの馬がつながれているところを描いた絵だ。このあたり(知立市内)の国道では旧東海道を偲ばせる若干の松並木は目に付くが、見た感じは至って今風の国道である。道は片側2車線、沿道には工場等が目立ち、大型トラックの往来も多い。旧跡としては街道時代のものよりもむしろ、伊勢物語に出てきた八橋の、かきつばたの碑のほうが有名だろう。「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもう」である。
知立を出ると、刈谷市、豊明市と進む。車窓から見える景色に若干の変化が見えてくるのは豊明市に入ったあたりからだろう。道が片側1車線の対面通行になり、道路沿いに建ち並ぶ建物も普通の民家がメインとなる。
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右手に馬と蹄鉄をかたどった中京競馬場の看板を見るあたりから、1号線は桶狭間に入る。戦国時代に今川義元が討たれた古戦場で、今も相変わらずと言うべきか、道が狭い。微高地に挟まれた文字通りの狭間を、国道は走る。にもかかわらず、名古屋市内への南の入り口であり、交通が集中する場所であるため渋滞も発生しやすい。片側1車線対面通行区間が基本で、時々思い出したように広くなるのがこのあたりの1号線の特徴である。
桶狭間を抜けるか抜けないかのあたりが東海道の鳴海宿だ。かつては絞りの産地として有名だった。このあたりで生産されていた有松絞りと言えば当時の女性からも愛好されていたようで、広重が描いた鳴海宿の登場人物は女性が中心だった。現在でも、名古屋市が制定した有松の町並み保存地区には古い町並みが残されている。
中汐田の交差点あたりから道は一気に広くなる。名古屋都市高速の高架下を走りながら都心部方向へ向かう。
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旧街道に古い町並みの残る鳴海界隈。国道沿いでもやや古めかしい建物が目につくが、少しづつ建物の新陳代謝が進み、それに伴い国道の幅員も拡張されているようだ。やがてこのあたりの風景がすっかり様変わりする日も来るのだろうか。
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ここまでしばらく北進を続けてきた国道1号線は、名古屋市の中心市街に入る直前で向かって左方向へ折れる。少し進むと熱田神宮がある。国内では伊勢神宮に次ぐ格をもつ大社である。
熱田神宮のすぐ南、その名も神宮南交差点は国道19号、22号、247号との交点になっている。247号方向に左折して少し行くと、堀川の河岸には七里の渡し跡がある。旧東海道はここから次の桑名宿までは船旅だった。なお、熱田湊は桑名宿の次の宿場である四日市宿とも渡し舟で結ばれていた。こちらは十里の渡しと言う。船でどこまで進むかは、旅人の裁量次第だったようだ。実質は懐具合次第だったか。なお広重は渡し場ではなく、熱田神宮の祭りの様子を描いている。
国道1号線は当然の事ながら陸路を行く。名古屋市の南部地域を走り抜けて次の町へ。
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熱田(旧宮宿)から先、桑名の浜まで旧東海道は海路。現在、堀川縁の七里の渡し跡には常夜灯が復元されている。
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かつての東海道には存在しなかった、熱田〜桑名までの陸路は、非常に走りやすい道となっている。特に名古屋市内区間は、やたらに広くまっすぐに整備された道だが、中川運河を越えたあたりから急に風景が田舎っぽくなり、それにあわせるように幅員も狭まる。とは言え、信号の数も少なくなるため、快適に走れはするだろう。名古屋近隣から三重方面に走る場合は、1号線よりも海沿いを走る23号線の方が良く利用されるようだ。
1号線は桑名に入るまでの間に海部郡蟹江町、同じく十四山村、同弥富町、木曽川にかかる尾張大橋を渡ったところで三重県桑名郡長島町と走り抜けて行く。一応三大都市圏の一つには数えられているはずの名古屋市周辺町村なのだが、ほぼ全線通して非常にのどかな車窓風景が展開される。
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長良川と揖斐川を一跨ぎにする伊勢大橋を渡って桑名市に入る。この橋の少し下流には、建設の是非をめぐって色々と物議をかもした長良川河口堰も見える。木曽川を渡る時の尾張大橋もそうだったが、鋼鉄製の大きなアーチが印象的である。近づいてよくよく見てみると、無数の錆が浮いてきている。老朽化というにはまだ早いかもしれないが、結構年代物なのだろう。
桑名市に入った直後は、相変わらず片側1車線ずつの対面通行である。道沿いの民家もかなりクラシックな様子で、昔からずっとある道路という感じだが、そこから少し進んで桑名市中心市街に入ると、最近になって工事がされたであろう真新しい舗装の上を走るようになる。三重郡朝日町、川越町と進んでいく間、道は再び狭くなる。
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七里の渡し跡をはじめ宿場の雰囲気を残す一角は伊勢大橋から程近い揖斐川沿いにある。あたりに漂う桑名名物しぐれ蛤の匂いが、旅情を誘う。
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四日市は三重県最大の都市で中京地区屈指の工業都市でもある。1号線沿いからでは時たま建物の間から覗く程度だが、臨海部などにはいくつか大きな工業施設が立ち並んでいるようだ。高度経済成長期には石油化学工業の街として大きく飛躍した四日市だが、同時に四日市喘息という公害問題を発生させた過去もある。もちろん現在では文字通り過去のものとなっている。
1号線は四日市市内を縦貫するように、北から南へと流れていく。途中で市の中心部も通るが、道の広さもありさほど渋滞しそうではない。むしろ、少し郊外側のほうが潜在的な渋滞の要因を抱えていそうだったが、現実にはどうなのだろうか。
追分交差点から少し進んだところで右折して高架道路に乗る。若干ルートがわかりにくいのだが、こちらが正しい1号線である。雰囲気としては静岡県内で見られたバイパスのようによく整備された道で、ここを走る車は皆、かなり飛ばすようである。少し先、亀山市あたりまでは同様に整備された道が続く。
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東海道に限らず、旧街道筋を走っていると良く見かける「追分」と言う地名は、主要な街道と脇往還の交点のことを指す。
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四日市を抜けた後の1号線は、鈴鹿市内に入る。先述の通り、この区間の道はまるで高速道路と見まごうほど良く整備されている。アップダウンは結構あるし、緩やかながらカーブも連続する区間だが、信号の数が極端に少ないため、道行く車のスピードはかなり早い。沿道には田畑が広がり、1号線から少し離れた場所に民家が集まっているという感じの風景が多々見られる。石薬師宿のあたりも、庄野宿のあたりも、1号線の上から見る感じでは民家のまばらな集落と言ったところか。
鈴鹿市は鈴鹿サーキットなどで知られる街だが、1号線はサーキットの少し北を通って西隣の亀山市に向かう。サーキットとの間は直線距離ではさほど離れてはいないが、郊外を走る道である。鈴鹿市街は通らない。
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石薬師宿、庄野宿ともに、どちらかと言うとのどかな場所。そのことが幸いしたか、東海道にちなんだ史跡なども残されている。
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亀山市内に入っても、1号線はこれまでの高規格道路の続きである。亀山市内は鈴鹿山脈が間近に迫っている事もあり、かなり起伏にとんだ地形となっているようだ。市内を貫流する鈴鹿川のあたりと、1号線(亀山バイパス)が走っているあたりでは、水平距離に比してかなりの高低差となっている。
亀山市内には東名阪自動車道の終点・亀山ICがあり、1号線はその亀山ICに接続している。この亀山IC周辺は亀山市郊外と言う事にはなるものの、かなり開けた印象である。 なお、東名阪自動車道は国道25号線(名阪国道)によって天理市から始まる西名阪自動車道と結ばれている。つまり、亀山IC付近は1号線と25号線の交点も存在している。名阪国道は高速道路との差異が見つからないほどの道路であるが、ありがたい事に無料で走れる。奈良方面へ向かう場合には非常に重宝する。
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旧亀山宿は亀山城近辺。亀山城跡は、お城スコープ参照のこと。
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亀山ICを通り過ぎると間もなく鈴鹿郡関町に入る。すでにバイパス区間を抜けたため、道は片側一車線対面通行である。このあたりには道の駅「関宿」がある。数ある道の駅の中では、比較的小さい部類に入るものだろうか。この先は鈴鹿の峠越えに挑む事になるのでここで休憩や補給をするのもいいかもしれない。
また、道の駅からは旧関宿が近い。関宿の旧道は道100選にも選ばれ、歴史国道の指定も受けている(東海道関宿)。道の駅から鈴鹿峠に走った場合、直後に通る交差点を右方向に曲がると関宿にたどり着ける。宿場の雰囲気と住人の日常生活が程よく調和した感じの宿場である。
道の駅を宿場観光のベースにするのもいいかもしれないが、宿場側にも無料の駐車場があるので念のため。
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「関町」の名前が物語るように、関町内にはかつて鈴鹿関が置かれていた。不破・愛発と並ぶ古代三関所の一つだが、場所は不明。
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阪之下宿(三重県鈴鹿郡関町)〜土山宿(滋賀県甲賀郡土山町) |
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東海道最大の難所と言うと箱根の峠越えのイメージだが、なかなかどうして鈴鹿峠も結構な登りだ。箱根峠との最大の違いは、道が片側2車線で広くつくられている事だろうか。なお、沿道には商店はおろか建物そのものがほとんどない。急カーブを繰り返しながら高度を稼いでいく典型的な山道だろう。視界に飛び込む前方の山の斜面の、かなり高い位置にこれから進んでいくことになるであろう道が走っているのが見えたりして、山道としてのインパクトは箱根を凌駕していると言っても良いかもしれない。
途中、上り車線と下り車線が別れ別れになる箇所を経て鈴鹿トンネルに至り、トンネルを抜けるとそこは滋賀県甲賀郡土山町だ。同じ鈴鹿峠でも、滋賀県側のほうが勾配が緩く、道も割合まっすぐに伸びている。長い下り坂が終わろうかと言う場所に、道の駅「あいの土山」がある。最前の関宿に比べると一回りほど大きな道の駅である。名前の由来はもちろん、「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、間の土山雨が降る」の鈴鹿馬子歌だ。
土山町を出ると、蒲生郡日野町を通って甲賀郡水口町に入る。ちなみに甲賀郡という地名から分かるように、この近くには甲賀の里忍者村など、甲賀忍者にちなんだ観光地がある。
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阪之下宿は名前の通り1号線の下方にある集落、土山宿は道の駅近くにある。
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水口宿(滋賀県甲賀郡水口町)〜石部宿(滋賀県甲賀郡土山町) |
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鈴鹿峠を越えてからしばらくの間は牧歌的な風景の中を走ってきたが、水口町に入ってから少し進むと、周辺の都市化が急速に進む感じである。沿道には大型ショッピングセンターをはじめとする店舗などが立ち並び、郡部としてはかなりにぎやかだ。当然、地元の人の車が多くなるために交通量もかなり増えてくる。大渋滞ではないが、実はかなり快適に走れる峠越えの道に比べると、展開が若干ゆったりしたペースになるのが曲者だろうか。
ただ、道が賑やかなのは水口町内だけのようで、水口の隣甲西町まで進むと、再び車の数は少なくなってくる。道幅も再び狭まる。石部町内に入ってもこの傾向は変わらない。
建物の途切れ目から、少し離れたところにある山が見える。このあたりが国道1号線全線を通じて最も海から遠く離れた箇所だ。
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石部町の隣、栗東市で1号線は北から延びてきた8号線(北陸道)と合流する。ここから京都までの区間は、1号線と8号線の重複区間だ。一桁国道同志の合流だけあって、栗東第二ICとの接続箇所にもなっている交点から先は、車線が増える。余談になるが栗東市は、比較的最近になって市制を敷いた街であり、競馬ファンには馴染み深い西のトレセンもある。栗東の坂路と言えば通には有名で、これがためにかつては日本の競走馬のレベルが西高東低になったとも言う。1号線は坂とは無縁の至って平坦な土地を走っている(高架はあるが)。
栗東市を走っている時間は短い。すぐに草津に入る。街道時代からの名物である姥が餅屋も健在である。かつての東海道の旅人達は、姥が餅の店を見て京都が近い事を感じたのだろうか。車で走っていても栗東・草津あたりからは急速に沿道が都会化し、かつての都が近いと言うのが実感として分かる。矢倉のあたりで1号線は二手に分かれるが、左方向に進んでしまうと名神高速道路の瀬田東ICに運ばれてしまうため、右へと進む。この段階で幅員は再び狭まる。
間もなく大津市内へ。瀬田川にかかる瀬田の唐橋を左に、近江大橋を右に見ながら、眼前に立ちふさがる山を迂回するようにして大津の中心地へと向かう。このあたりは再び道幅が狭くなる関係もあって、流れは若干悪くなるかもしれない。大津駅前界隈を通り抜け、蝉丸神社にほど近い逢坂1丁目交差点を過ぎ、山間の薄暗い上り坂を上りきった先が京都市だ。
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俵藤太の百足退治、武田信玄最期の言葉で知られる瀬田の唐橋。かつては京への入り口だった。現在は近江大橋と共に道100選に選ばれている。
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意外に勾配のきつい下り坂を下ると、山科の町が広がっている。ここは、京都市内でも山によって隔てられた場所になるため、京都の都心まではもう一度山を越えなければならない。1号線は山科の町の南を回り込むようにして東山に至る。東山トンネルを抜け東山区に入ると、ビルの立ち並ぶ京都の街が見えてくる。長いスロープを下っていくと、世界遺産清水寺が近い事を示す標識が目に付く。
現在の1号線は鴨川にかかる東海道の終点・三条大橋を通らない。1号線が通るのは、三条大橋よりも下流側、牛若丸と弁慶の五条大橋の方である。しかし残念な事に東京側から下ってきた場合、五条大橋に立つ牛若丸と弁慶の像も、お尻しか見えない。
鴨川より西側は、京都市の都心部だ。背の高いビルの間を、1号線は走る。道がまっすぐなのは1000年以上に渡って続いた帝都時代の名残だろう。五条堀川交差点を左折し、やはり世界遺産に登録されている西本願寺の前を通り、JR京都駅の西側を抜け、間もなく右折。
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東海道の終点・三条大橋。欄干部分が木で出来ているためクラシカルな橋に見えるが基礎はコンクリート製。たもとでは弥次さん喜多さんの像がお出迎え。
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これも世界遺産の東寺の前を横切った直後、再び左折。ここから先、1号線は大阪街道と呼ばれる。いよいよ最終目的地大阪が間近に迫ってきている。この大阪街道沿いは、さすがに直前まで走っていた京都の中心部に比べれば背の高い建物がなくなる。建物の数そのものもだんだんと減っていくので、京都市の郊外に向かっている事がわかる。やがて、宇治川を渡って、京滋バイパスや第二京阪道路の高架が見えてくるあたりで、道は久世郡久御山町入りする。それにしても、東寺前で左折して以降、久御山町内まで10kmあまりは地図で見ても分かるほどまっすぐ真南に向かうような道である。久御山でいくらかコースを西よりに変えても、まだほとんどカーブはしない。
木津川を渡り、八幡市を抜け、洞ヶ崎の坂道を上りきったところで、ついに大阪府に。この枚方市あたりでは、1号線は京阪国道と呼ばれる。
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とにかく京都は世界遺産が多い。1号線からも近い三箇所のほかに、銀閣寺、金閣寺、龍安寺、仁和寺、上賀茂神社、下鴨神社、二条城などがそう。
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枚方市から先、寝屋川市、守口市と、1号線は淀川沿いに、終点をまっすぐ指していくように伸びている。道沿いにも種々雑多の建物が立ち並び、しかもそれらが次第に高さを増していくようで、日本第二の都市の中心に近づきつつある事がよくわかる。
守口市の隣がとうとう大阪市。とにかく道行く車の数が多い。そして、音に聞く迷惑駐車の数も徐々に増えていく。お世辞にも走りやすい道とは言えない。このあたりは名古屋などを走る時と同じだが、歩道側の車線を極力避けるようにして走らなければ危ない。刻一刻と悪化していく状況に消耗しながら蒲生4丁目交差点を右折。1号線最後の最後の曲がり角である。あとは終点までひたすら直線である。
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走り始めてからのべ20時間近く。総走行距離560km強。ついにたどり着いた1号線の終点・梅田新道交差点は、大阪以外の人にも馴染み深い御堂筋(国道176号線)と交わる交差点だった。大阪駅にも近い、大阪市の都心である。同じ都会でも、1号線の起点である東京日本橋とはずいぶん趣が違う。この交差点に聳え立つ34階建ての巨大な高層ビル・大阪駅前第3ビルが印象的だ。これは、4棟つながっている大阪駅前ビルの中でも一番高いビルとなっている。
1号線はこの場所で終点だが、北九州市にまで至る2号線の起点もまたここである。この交差点の一角、駅前第3ビルの直下にある大阪市道路元標をカメラに収め、長かった国道1号線(及び東海道)の旅も無事終了。
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ここは四日市市から始まる25号線、富津市から始まる176号線の終点であり、和歌山市に至る26号線、上野市に至る163号線、津市に至る166号線の起点でもある。
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