この道 : 酷道418号線
【黒瀬街道】
がしかし、そもそも酷道に挑もうという者が、世間一般の価値観に照らし合わせて賢明であるはずはない。ここはおもむろに右折。自転車で乗り入れているため、道幅の狭さに関してはまったく問題にならない。 |
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二俣トンネルに差し掛かる。昭文社刊の『MAXマップル 2003年版』では崩落危険個所の表示がある物騒なトンネルだが、見た感じそれほど差し迫った危険があるようには見えない。ただし、一度中に入ってしまうとまったく明かりがない。トンネル内で道が曲がっているらしく、出口側の光も差し込まない漆黒の闇だ。ある程度進んで行くと出口側の明かりがカーブ部分の壁面に反射しているのが見えてくるが、このトンネルの構造を知らずに走っている状態では、出口側が昼でも異常に暗い空間のように見え、恐怖すら感じた。「トンネルの向こうは不思議の町でした」という『千と千尋の神隠し』のコピーが思い出される。事実、このトンネルから先が酷道本番の感はある。また、自転車で走っていると、平衡感覚やら距離感やら、諸々の感覚が狂わされていく実感があり、決して愉快な空間ではない。 |
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二俣トンネルから先は、道の荒廃度合いが一気に加速する。 |
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舗装はとうの昔に荒れ果てダート化している。所によっては、舗装面の下に封じ込められていたゴロタ石までもが剥き出しになっている。しかし、大自然の威力はそれだけでは飽き足らず、路面を落ち葉で覆い尽くしてしまった。そして落ち葉の腐食分解は進み、園芸用には申し分なさそうな、ふかふか真っ黒な腐植土となっている。左の写真などは、「箱根山中を通る旧東海道」といって紹介しても、まず十人中九人までが疑いすらしないだろう。もはや国道の面影は欠片もないと言いたいところなのだが、既に一周してしまって、雰囲気だけは「日本最古の国道」といった趣なのだ。 |
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木曽川の対岸に一見すると民家のような建造物を見かけ、多少勇気付けられる。 |
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谷側にガードレールが一切存在しない酷道区間だが、ここに来て壊れかけの柵が姿を現した。風雨に晒されてかなり草臥れているのがわかる。ガードレールにしても自動車の重量を支えきれるわけではないが、この柵もまた貧弱なもので、道を踏み誤った人の体重を支えられるのかどうか怪しいものだ。「これ以上つっこむと道を踏み外しますよ」というメッセージ以上のものではないのだろう。 |
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なおも進むと橋が姿を現した。酷道区間に入ってからでは一、二を争うほど立派な橋だ。そして、この橋のたもとにこの道が国道418号線であることを証明するものを見つけた。まったく、ここまでの道のりは、これを見つけられなかったら、そのあたりにある林道、廃道、ハイキングロードとは何ら区別がつかないような荒廃ぶりである。「自分が走ったのは確かに418号線だったのだ」と心に深く記銘する意味で、これを撮影。しかし、そのすぐ脇には靴が捨てられていた。人の通わぬ深山幽谷、冷たい湖面に面した橋の上…。嫌な連想が脳裏をかすめるが、片方だけが残されている状態だったので、ここまで車で来た誰かが落としていったのだろう。 |
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しかし、安息の時間は長くは続かず、すぐに心を折られるような事態が発生した。ドロドロの轍の中、野生の小動物が死んでいた…。 |
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「もう嫌だ、逃げ出したい」という気分になったところへ、418号線はさらに追い討ちをかける。路上に横たわる倒木、倒竹。半ば道を塞ぐような形で存在する岩、同じく行く手を遮る崩落。ついにはブッシュに遮られ、道はほとんどその姿をくらましてしまった。大自然の脅威を前にしたとき、一個の人間とはかくも非力なものなのか。 |
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絶望の沼地を行くアトレイユのような気分になりかかったところで、しかし、ついに荒れ放題だった路面にアスファルト舗装が復活した。視界も一気に開け、前方の山の上には鉄塔や民家らしき建物の姿も確認できた。ゴールは近い。先ほどのブッシュは酷道418の断末魔だったか。 |
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既出の『マップル』を見ると、八百津町付近の国道418号線の脇には「黒瀬街道」と表記されている。昭和51年に刊行された『八百津町史』によると、昔このあたりには「黒瀬湊」と呼ばれる地名があったらしい。この「黒瀬湊」の詳細はわからないが、木曽の山中から切り出し、木曽川を流れ下ってきた木材の集積場だったような気がする。418号線のルーツは、その黒瀬に通じる道として比較的古くから開かれていた街道だったのだろう。 もちろん、本当に古くからの道は丸山ダムの竣工とともに水没することになったはずだが、後年になってこの黒瀬街道の流れを組む道として、主要地方道恵那川辺線が設置される。おそらく、これが418号線直接の前身だ。前述の『八百津町史』によると、今をさかのぼること30年程前から、「辞職坂」などと呼ばれるほどの急坂もある町内東部の山岳地帯に高規格の道を通す事が切望されていたようだ。そのための方策として『町史』は、「恵那方面に抜ける国道の設置」を挙げている。してみると418号線は、八百津町に動かされる形で制定されたことになるのだろうか。実際に設置された国道は、八百津町の案に相違した、上述のような「酷道」だったわけであるが。 『町史』が編纂された時期、恵那川辺線にはまだいくつかの「木橋」が残っていた。これを車の通行も可能な「永久」式の橋に架け替えることも町の目標の一つだったらしく、こちらは現況を見ても、しかと達成されている。しかし、この「永久」式という呼称も皮肉なものだ。年々荒廃が進んで行く418号線の中にあって、「永久」式の橋だけは、文字通り半永久的にその姿を保ち続けていくことになるのだろう。 |