血液型「政治」学


 血液型占いAtoZII
2004.12.13
 
 
 70年代に入ってから「血液型人間学」を提唱した能見正比古氏とはどのような人物だったのか。今回参考にした氏の著書『血液型と性格ハンドブック』では、以下のように紹介されています。

 『著者 能見正比古(昭和56年10月没) 大正14年生れ。金沢市出身。東京大学工学部電気工学科卒。同法学部政治学科中退。教科書編纂、放送作家、総合雑誌・百科事典編集長、出版社役員を経て評論・創作に活動中。血液型人間学を開発し、今、その世界の第一人者。「血液型人間学」「同愛情学」「同政治学」等著書多数。ABOの会主宰。B型。』

 最初の『血液型でわかる相性』以降、有名人のエピソードを提示し、「これは○型特有の性格に起因する逸話なんだよ」と語る手法がウケ、正比古氏は血液型関連書籍でいくつかのヒットを飛ばすようになります。正比古氏の生前には血液型をめぐる論争もそれほどには過熱していなかったようですが、彼の没後、息子である俊賢氏は各方面からの批判の矢面に立たされ、これを一身に背負うことになります。

 俊賢氏は、正比古氏の存命中から親子共同で血液型と性格の研究を続けて来た人です。もっとも、正比古氏の没後は血液型人間学に対する風当たりが強くなり、反対派に対抗する意味もあって、どちらかというと自説の普及に一層精力的に努めている様子。今回は俊賢氏の主張を十分に確認する事ができなかったので、今後詳しい部分のすり合わせは必要になってきそうですが、その内容の大筋に関しては、この30年近くの間にも目立った変遷はなさそうです。そして、これはどうも本人たちもあまり触れたがらない話題のようなのですが、能見親子の提唱する「血液型と性格」は、古川の唱えた「血液型と気質」の流れを汲むものとしてしまっても良いでしょう。ただし、古川学説との差別化をはかるためか、「血液型人間学」には注目すべき新説が織り込まれています。

 『血液型というのは、その意味は全身的な体質型であり気質型(ママ)なのですが、初め、血液から発見されたため、血液型と命名されてしまいました。このため多くの人々が、血液だけの型かと誤解するようになったのです』(「血液型と性格ハンドブック」)

 どういう理屈で血液型と性格に相関が出来上がるのかについて、理論的には言及されていません。統計によって実証されているのだし、語るに落ちるということなのかもしれません。各血液型の性格決定は古川の頃から、アンケートの回答結果を血液型毎に集計し、それぞれの回答傾向を見ることで行われています。

 ここで一つ注目したいのは、古川竹二のオリジナルで「気質」という言葉の占めていたポジションが、いつの間にやら「性格」という表現に取って代わられた点です。どうも古川は性格形成に関わる先天的要因を「気質」と表現し、そこに経験なり何なりの後天的要因が加わって「性格」が形成されると考えていたフシがあります。そのためか、自説を組み立てるためのサンプルとして子供に対するある種の執着を見せており、その調査が新聞沙汰にまでなった事がありました。1928年6月2日の『東京朝日新聞』は「児童の気質調べに奇怪な血液検査 小石川窪町小学校の保護者から厳重な抗議申し込み」という見出しで、『読売新聞』は「お茶の水高女教諭の大暴挙 独断の研究材料に小学生の血液採取 犠牲になった百六十名の生徒」という見出しで、それぞれ古川の行為を糾弾しています。かなりマッドな感じに報じられていますが、結果的にはこれで古川の名前が売れ、古畑らの協力者を得ることになりました。まあそれは今回の趣旨を考えれば、過ぎ去りし時代の話ということになりますから、深くは触れません。

 息子俊賢氏は「血液型人間学」を、従来の学問の枠組みの中では理解不能な、さらに発展的なパラダイムであると考えているらしく、ことあるごとに「血液型占い」をこき下ろしています。言われてみれば、能見説は先代正比古氏の頃からとりあえずは科学(疑似科学)的な装いを持っていますが、「血液型占い」を叩き、自説との差別化をはかることで、遠まわしに自説が科学的なものであるとの主張を強めているようでもあります。

 せっかくだから「血液型占い」について言及しておきましょう。提唱者自ら「占い」と銘打った「血液型と気質」の末裔に関しては、いちいち専門家が出張って否定するほどのことは無いと思います。ある意味でこれは、「科学的論争はやってられないから」とシャッポを脱いだようなものだからです。そもそも「血液型占い」をやっている人たちは、生粋の占い師も多く、学問的論争に価値を見出せないだろう人も多いのです。最近、血液型論争に関する本を濫読気味に消化している関係で、原典がなんだったかは覚えていませんが、こんな例えがありました。「天文学者が星占いに苦言を呈するようなものだ」。まさにその通りです。実際のところ最近では、「既に結論の出た話題だから、占いにせよ性格判断にせよ、相手にする価値は無い」とする専門家も多くなっており、「なぜ信じる人が後を絶たないのか」が学術的関心の中心になっているようです。

 まあ、個人的には「血液型人間学」も学問ではなく限りなく占いに近いものだと考えていますが、提唱者が学問だと言っているのだから戦う意志はあるのでしょうし、さまざまな論争に晒されるのも致し方なしかな、と思います。

 少し回り道しましたが、「血液型人間学」に対する批判書は数多あります。雨後のタケノコどころか梅雨時のキノコなみに大量発生した「血液型人間学」もどきの血液型本をいちいち批判するなど間尺に合わないでしょうし、頭を潰せば血液型信奉者の動きも止まると言う発想でしょうか。大抵の批判書は、能見親子の批判を行っています。もしかすると、能見親子にしても願ったりかなったりといったところなのかもしれません。

 数多い血液型本の中には、肯定派否定派問わず、どうも便乗本のように見える内容の本もあります。出版業界では柳の下のドジョウは2匹3匹では終わらないのが常識と言われており、1タイトルでもヒットが出ると、類似本や便乗本が次々と出版されますが、それなのでしょうか。ここ最近、血液型に関する本を濫読してみた程度の知識でも、粗を見つけだせるようなお粗末なものまであります。

 さて、よりどりみどり状態の血液型関連本も、肯定・否定のどちらのイデオロギー(大袈裟?)にも属さないまっさらな中立派が読んだ場合、占い本の方はそれなりに面白おかしく読むこともできそうですが、おそらく批判本に魅力を感じる事はできないでしょう。無味乾燥な数字を列挙して、「統計の取り方に問題がある」とやったり、提唱者の発言の言葉尻を捉えて批判したり、「血液型と性格を論じる風潮は人種差別的思想の中から産まれ、行き着く先も血液型差別である」「当たっていると思わせるのは、言葉の曖昧さのため」などと主張したり、批判の手法は概ねそのようなところに収斂します。このやり方は、うわべは変えつつも、本質の部分では、この論争が始まってから十年一日の如く変わっていない印象です。どれも真実には違いないのでしょうが、予定調和の下に執筆された感が拭えず、必要以上に相手を叩いている風も見て取れて、専ら「否定派が読んで溜飲を下げるために書かれた」という雰囲気のものが目に付きます。これでは肯定派を変心させることはもちろん、中立浮動票を否定派に取り込むことも期待できそうにありません。

 読み物風の批判本は読み手におもねっているようでどこか軽薄な印象を受けるのですが、心理学の専門家が書いたであろう本も、肯定派陣営に対して苦戦を強いられているような印象です。こちらは、読み物にするにはあまりにも堅すぎます。大体、学者同士の論戦ならともかく、学者対占い師(あるいは占い師とも学者ともつかない鵺的な相手)の対決では、学者側が圧倒的に不利です。占い師という人種は、自分の洞察力と弁舌を頼りに生き抜いてきた人たち。ベテランともなればさらに経験が加味された海千山千ぶりを発揮します。彼らの場合、相手を説得するために用いる手段が論理的である必要はなく、商売上培ってきたテクニックを存分に発揮し、口八丁手八丁で相手を煙に巻き、瞬発力で何となく納得させたってかまわないのです。

 いかに学者が「科学的根拠」を元に血液型占いを否定してみても、占い師は「でも、理屈は理屈として、経験的に思い当たる節はあるでしょ?」と論理的なやりとりを放り投げてしまう事ができる訳です。能見親子の主張も、「(理屈はとりあえず置いといて)統計のようなもの=現象が血液型と性格の関連を物語っている」というものですから、似たようなものでしょう。学者がそれをやったとしたら、事実上の敗北宣言であり、学者としてのアイデンティティやら威信の喪失にもつながります。学者はうかつに占い師の領分に踏み込む事ができず、占い師は学者の領域で勝負する必要が無いから常に自分のフィールドにこもってさえいればよい。ここまで来ると、既に学術論争ではなく、政治的な駆け引きの世界に踏み込んでしまっています。それでもなお、愚直なまでに否定派論客たらんとする学者もいて、これまた批判がビジネス化しているのではないかと勘繰りたくもなったり。

 おそらく、本当に血液型性格判断・血液型占い信奉を駆逐したいのなら、否定派も政治的にやらなければなりません。「毒をもって毒を制す」です。

 「科学的かつ論理的な批判」は、最初から血液型性格判断に批判的な目を向けている人にしか受け入れられない可能性が高いです。わかりやすいのは印象批判でしょうか。おそらく、学者同士の論争で露骨な印象批判を用いれば、そこは真っ先に叩かれますから、もちろん学者にこんな真似はできません。

 具体的な方法を挙げるのであれば、例えば「血液型占いは時代遅れでダサい」というレッテル張りを行うことでしょう。もっと過激かつ直接的に行くのなら、理論はすっ飛ばして「信じてるヤツは迷信深い愚か者」とぶち上げてしまうのもありでしょう。これはかなり危険な香りがしますが、何にせよ、とにかく「血液型で性格がわかる」などと言ったら白眼視されるような空気を作れば良いのです。血液型で性格を見ようという発想が欧米で見られない背景の一つには、この考え方があるためとも言われています。前段で取り上げられたとおり、これが差別的な発想の中で生まれた思想であるため、進歩的な人であるように振舞いたいのなら、ホンネの部分はともかく、少なくともタテマエでは否定しておかないと、周囲から後ろ指をさされると言うのです。

 どのようにしてキャンペーンを張るかについては、極めてありきたりの方法しか思いつきませんでした。時に論理的な説明で、時に感情を煽ることで、人心を誘導するやり方はマスコミの十八番です。本や新聞なんかでは駄目です。最初からこの話題に興味のある人しか読みません。興味の有無に関わらず情報を垂れ流せるメディア、テレビなどが望ましいところです。もっとも、現状ではマスコミの中でも最大の威力を有するであろうそのテレビが血液型占いの広め屋をやっています。救われないものです。

 と思っていたら、2004年12月8日付で、時事通信が「血液型番組に改善求める=BPO青少年委」と言う記事を出しました。これでここ最近の血液型性格判断ブームも一段落するかと思ったら、必ずしもそうではなさそうです。肯定派の中にも最近の血液型番組の軽薄さを憂う声はあったらしく、むしろこの勧告を歓迎している風すらあります。血液型と性格に相関があるとする考え方は、直系傍系の違いはあるにせよ、全てどこかでつながった家族のようなものだと思っていたのですが、この家族はかなり仲が悪い様子。歴史上の骨肉相食む争いと言うのは必ず何がしかの利権が絡むものでしたが、血液型の各閥間の闘争も似たようなものだとしたら、もしかして、血液型界の頂点に立つ事は、傍目に見ている以上に巨大な利権を生むことにつながる…?

 途中からはなんだかドロドロとした話になりましたが、こんな不穏当な企みはめぐらさずにすむのが一番です。そのためにも、「血液型で性格がわかる!」なんていう話は、盲信せずに「所詮は占い」程度に聞いておいた方が良いでしょう。