脚への執着


 カシマレイコ(後編)
2003.08.27

 
 タイムリーと言ってよいのかどうか、カシマレイコ(前編)をアップしてしばらくした頃、掲示板にサッちゃんについての書き込みがありました。以前にも触れましたが、「サッちゃんの歌には悲劇的な起源があり、その核心部分にも触れる秘匿された四番がある」という話は、独立した一つの都市伝説として存在しています。問題はその起源論に関する部分にあり、サッちゃんは冬の北海道で列車事故などによって上半身と下半身を切断されて亡くなった女の子である、と説明されることがあります。この話も実は独立した話として語られることのあるものです。最近投稿された内容はサッちゃんの項に追加してありますのでここでは詳細は割愛しますが、この話でもサッちゃんは事故に遭ったことを思わせる血まみれの状態で現れ、そしてやはり脚に対して執着を見せています。さらにややこしいことに、列車事故による下半身の切断は、上半身だけの妖怪・テケテケや、カシマレイコの起源にまで流用されるモチーフです。数多く存在する脚を欲しがる怪異ですが、やはりその中でも一番古株と思われるのはカシマレイコでしょう。しかし、ただでさえカシマレイコおよびかしまさんの話はバリエーションが多いというのに、さらにテケテケやサッちゃん、果ては足取り美奈子やイルカ島と言った脚取り怪談(?)が生み出されるのは一体どういうわけなのでしょう。今回の主眼は、つまりそういうことです。「脚」と「足」がちゃんぽんで使われるという見苦しい表現揺れがありますがご了承ください。いちいち意識的に使い分けるのが面倒だし、この際「脚」だろうと「足」だろうとさほど重要ではないので・・・・・・。

 前回すでに少し触れたように、脚に対する呪術的関心と言うのはさほど一般的では無いように思います。統計を取ったわけではありませんが、古くからの妖怪を集めた資料などを見る限り、邪眼・浄眼の信仰ににつながる「目」あたりは、確かに人々の関心を集める部位であったような印象を受けます。肝心の脚ですが、幾つか情報を掴んだ範囲では、日本の神々の中でも一際起源が古く、出自も謎だらけのアラハバキ(荒吐、荒覇吐)神などは足への信仰と結び付けられることもあるようです。ただ、アラハバキ自体が他の神を主祭神として祭る社に客人神(まろうどがみ)としてひっそりと祭られるようなかなりマイナーな存在なので、脚に対する関心の形としてはやはりマイナーです。生島足島神社という何やら意味ありげな名前にも思い当たり、足島神とは足にゆかりの神様かと思っていたら、これは「足りる」の足だそうで、脚(および足)とは関係ないようです。

 なおカシマレイコの話では稀に脚ではなく、事故で腕を無くした美貌のピアニストが主役になることもあります。脚に限らず四肢の切断というモチーフは、怨霊・祟り神を鎮めるために手段としては割合メジャーなもののようで、以前にコラムにも取り上げた平将門も、首塚胴塚伝説の他、四肢はおろか体のパーツをもっと細かく分断されて各地に埋葬されたと言う伝説も残っています。思えば将門の生首も体を求めて夜な夜な唸り声を上げていたと言いますし、体の一部を欠損した霊と言うのは、失ったパーツに対して強い執着を抱く物なのかもしれません。将門の首がバラバラにされた体を一つに接いで、もう一度朝廷に戦いを挑もうとしていたことを考えると、カシマレイコが執拗に脚を取り戻そうとするのは、単に無くしたパーツを取り戻すためという以上に、より恐ろしげな目的を成就するための準備作業であり、怨念封じ伝説の流れを踏襲したもののようにも思えてきます。

 脚にまつわる呪詛の話をもう少し。かつて、京都市山科区の小金塚という地区で毎夜民家の玄関先に紙で作られた草履が届けられるという出来事がありました。紙草履は民芸品のように綺麗につくりこまれていたそうです。最初のうち紙草履を届けられた家の人は、それが何なのかはよくわからずにさして気にもとめていなかったのですが、たびたび届けられるその紙草履は日を経るごとに数を増し、さすがに薄気味悪くなりました。そこでこのことを人に話したところ、同じように夜毎紙草履が玄関先に届けられた家が他にもあることがわかりました。こうして話が大きくなっていき、土地の古老の知るところになったのですが、この人は即座に紙草履に秘められた意味を読み取ったそうです。曰く「足封じ」の呪いであると。事情を知る古老は、この呪いをかけられた人間はどこにも逃げることが出来ず、そのまま衰退していくのだ、と語ったそうです。やがてこの出来事を看過できないと判断した山科警察署が動くかもしれないというところまで騒ぎが大きくなり、「事件」の経緯がマスコミに報道されるまでになったのですが、結局誰が夜毎呪いの紙草履を届けていたのかを特定するまでには至りませんでした。小金塚地区はもともと未開発の地域で、事件発生当時は開発に向けて本格的な造成作業が始まった時期でした。そうした中、開発のために不利益を被った誰かの仕業ではないか、という所までは噂になったようです。事件の仔細はあまりわかりませんが、土地の古老がすぐに紙草鞋の呪いを見破るあたり、これは比較的メジャーな呪術なのでしょうか。同朋社刊の『ワールド・ミステリー・ツアー13 (8)京都篇』に収録された怪奇探偵こと小松壮彦氏の寄稿文に詳しいこの話ですが、これ以外で私が呪いの紙草鞋の話を聞いたのは、テレビドラマ「赤かぶ検事」シリーズのうちの一話だけです。どの程度一般的な呪詛かは今一つ掴めていません。

 足封じというならば、恐ろしげな怪異によって物理的に脚を奪い取られるというのは、これ以上ない足封じの呪いです。どうもこの「足封じ=逃げられない」というシチュエーションに対する恐れは、多くの都市伝説怪異が共通して喚起するもののようです。かつて口裂け女の噂が大流行した時、彼女の俊足は噂の担い手である小学生の関心を強く引いたらしく、速さのインフレのような状態を発生させていますが、これも「逃げられない」ことへの恐怖の表れでしょうし、足封じの変形と言えるでしょう。この口裂け女の特徴を踏襲したのか、その後の都市伝説怪異には、あまりに速く動くので逃げられない、という連中が多く現れました。人面犬、首なしライダー、ターボばあちゃんなどなど。カシマレイコの同類といって差し支えないであろうテケテケも、かなり素早く動けるようです。カシマレイコ自身の足が早い(?)という話は聞いたことがありませんが、彼女の場合は相手の脚を奪い、移動の自由を完全に剥奪して相対的に自分が圧倒的高速で動けるようになるので、逆転の発想によって逃げきれない恐怖を表現しているのかもしれません。もっとも、彼女はトイレ、果ては夢といった閉鎖空間に現れることも多いので、俊足はさほど必要ないのも事実でしょう。従って、逃げ道なしという状況を、実際的なものというよりも威嚇に近い方向へと特化させ、脚を奪うという形で結実させたのでしょうか。幸いにしてカシマレイコが用いるこの方法ならば、逃げ道を封じて相手を殺害するという流れを、少ない手数で実現できます。ごく端的に言ってしまえば、カシマレイコの話が持つ恐怖とは、逃げ場がない閉塞感に由来する恐怖であり、呪文などの方法は逃げ道を求める心理が後付けで生み出した苦肉の策ではないかと思います。

 戦乱の時代であれば、腕や脚を失った人もさほど珍しくはなかったと思います。外見だけならば、さながら丹下左膳のような人もザラにいたはずです(ちなみに丹下左膳の右腕がないのは確かけじめのために失ったと記憶しています。戦闘で失ったものではありません。極道でいう指詰め、北斗の拳に見るラオウ対ファルコの構図です)。しかし、逆に平和な時代となると、外傷が原因で手足を失う人は少なくなります。思えば戦国時代が終わった後にやってきた江戸時代は、ごく初期の頃を除けば二百余年もの間、諸外国との戦争はおろか内乱さえも起こらなかった我が国でもっとも平和な時代でした。明治に入ってからは中国やロシアとの戦争がありましたが、そのいずれもまがりなりにも勝利しており、悲壮感に満ち満ちた戦いではありませんでした。そんな戦い傷つくことの痛みを忘れたかのような時代を経て、日本人は太平洋戦争を経験しました。巷には傷つき行き場を失った「軍神」達の姿があり、その悲劇的な境遇が自分にふりかかる事を恐れ、そうした恐怖心から生まれたかしまさんなりカシマレイコの物語は、ひとたび堰を切って溢れ出した恐怖の奔流を象徴するかのごとく、一つの神話体系とも言えるほど多くの話を生み出したのかもしれません。

 カシマレイコと脚の関連については、当サイトでカシマレイコについて紹介した文の中に、今にして思えば書いた本人でさえ「妙だな」と思う箇所があります。

 日本各地の小学校のトイレに現れると言う幽霊で、両足のない女性の姿で現れる。


 ここです。引用元の資料がおおむねこのような表現を用いていたわけですが、足のない女性の幽霊とは何となく違和感を憶える表現ではありませんか?少なくとも日本では、幽霊は足のないものと相場が決まっています。最近元気の良い所謂ジャパニーズホラーに登場する幽霊のお歴々はみな足があるようですが、少なくとも慣用的には幽霊とは足がないものとされています。マンガ的な構図にはなりますが、死んだと思っていた人がひょっこり姿を表したとき、その場に居合わせた人たちがまず相手が幽霊ではないかと疑ってみる。すると相手はこう答える。「足があるだろう」と。ドラマなどでこんなやり取りを見たことのある人も多いでしょう。足のない女性の姿というのは、少なくともカシマレイコという幽霊とも妖怪ともつかない霊的な存在にとってはさほど強いアイデンティティとはなりえないような気がするのですが、それでも脚(あるいは下半身)のない怪異たちの話が後をたたないというのは興味深いところです。

 もちろん、伝統的な幽霊の場合に言う「足がない」と、カシマレイコの「脚がない」は微妙に意味合いが違うのは事実です。古い幽霊の場合、脚がないというよりはぼんやりとして見えないという表現の方が適切なのかもしれません。一般的には江戸時代の絵師、圓山応挙がはじめて足のない幽霊の絵を描いたといわれていますが、現実には当時すでに足のない幽霊はある程度一般的な認識となっており、それを形にした応挙の作品がたまたま最古の作品と言われているに過ぎない、という説もあります。その美人画のような応挙の作品に描かれた女性の幽霊の脚は、光の加減で見えなくなっているかのように、下へ行くにつれぼんやりと透けていき、やがては完全に見えなくなるようになっています。妖怪画家として有名な鳥山石燕のいずれかの作品では、本来脚であるべき箇所がおたまじゃくしの尻尾のように描かれているのを見た記憶もありますが、こちらは思い違いかもしれません。彼の作品集である『図画百鬼夜行』に治められた「ゆふれゐ」の絵は、むしろ応挙スタイルとなっているようです。いずれにせよ脚は、おそらくはついているのでしょうが、はっきりとは見えない風に描かれています。一方、カシマレイコやその亜種たちの場合は、ご存知のように物理的に脚がありません。脚がないと一言に言っても、江戸時代の幽霊は境界のはっきりしないアナログ式、最近の連中は1か0かのデジタル式となっているわけです。

 カシマレイコの話では、人の脚を奪い相手を殺すと言うパターンが主です。現実問題として、脚を失うことは直ちに致命傷にはなりえません。もちろん大出血をするので放っておけば失血死するでしょうし状況にもよるのですが、適切な止血処置を施せば死の危険に直結するほどのダメージではありません。それでも脚取りと死が結び付けられるのは何かしらの理由があるのでしょうか。そもそもカシマレイコは、何らかの事情で足を失って亡くなり、その後幽霊乃至は妖怪といった超常的なものに変異して人に仇なすようになった存在です。要はもともと人間だったわけです。そのカシマレイコが、腹いせではないのでしょうがほとんど無差別に人を襲い、自分と同じように脚を失って死ぬ人間を増やそうとしているのです。脚を奪うというモチーフは、伝統的に幽霊のものとされている「脚がない」という属性を、強制的に生きている人間に付与するものであり、人間を悪霊化させる流れを記号的に表現しているものなのかもしれません。私は霊感0なので霊界のルールといったものは良くわかりませんが、たまにオカルト的な文脈の中で、この世に未練を残していった亡霊が寂しがって生きている人を自分の方へと誘い、そうやって取り殺された人もまた同じように生者を死の世界へとひきずりこむ悪霊となるという話を聞きます。カシマレイコが人間の足を狙うのは、道連れとして自分の仲間というか同類、あるいは自身のコピーを作るという意味もあるのでしょうか。・・・・・・しかし、不幸の手紙式に話が伝染していくパターンからふと思いついた構図ですが、某大ヒットホラーシリーズをなぞったようで逆に胡散臭いですね。呪文でカシマレイコの襲撃をやり過ごせるパターンの話はともかく、助かるためには自分が聞いたのと同じ内容を何人かに話し、自分が呪いから逃れたら後は野となれ山となれ、というパターンはまさに・・・・・・。呪いのビデオから逃げられなかった深田恭子嬢が、まさに第二の貞子を彷彿とさせるようにフェードアウトしていったシーンが思い出されます。

 『様々な方法があるにも関わらず、「橋」というものが一つにしてしまった罪は重い』。出典不明なのに妙に印象に残っている言葉です。カシマレイコが文字通り神出鬼没の機動力を手に入れたのは、脚を失うことで歩行という当たり前で常識的な移動方法に縛られなくなったからなのでしょうか。反面、いくらも歩かないうちにすぐに駄目になってしまう紙草鞋が足封じであり、そこから波及的に破滅をもたらす呪いであったように、足回りを封じられることはどうしようもない閉塞感を意味するものです。カシマレイコが脚を奪うのは、移動という当たり前の事を当たり前に出来なくなることに対する恐れを具象化したものでしょうが、自らが当たり前をかなぐり捨てることで異形化したところにもカシマレイコの恐怖があるように思います。しかも、ことによるとカシマレイコにより脚を奪われ殺されるという事は、カシマレイコの同類とさえ意味するのです。人間の体の中でもかなり重要な部位であるにも関わらず、さほど注目されてこなかった(ように思える)足回りの話題に特化した怪異であるために、反動からカシマレイコはこれほど肥大化し、力のある物語となったのでしょうか。

 当初から先行き不安は感じていましたが、案の定ひどい乱文になしました。カシマレイコの話題は呪われているのでしょうか。折を見て修正していかなければならなさそうな今回のコラムですが、この調子だとカシマレイコがつぎはぎだらけのフランケンシュタインになる日も近そうです。


今回色々と参考にさせていただいた水木しげる先生に敬意を表して。
水木しげるの妖怪ワールド

鳥山石燕の妖怪画に関してはこちらでほとんど網羅されています。
Feeding Spot・・・【不思議の扉】で妖怪をはじめ様々な不思議を扱っておられます。