現代人は電気妖怪の夢を見るか


 ケータイ三題噺
2003.07.29

 
 例えばこの地球上に、どこか遠い星からやってきた高度な科学力を持った宇宙人の宇宙船が不時着したとします。その宇宙人は別に地球侵略を企んでいるわけではなく、本当に不慮の事故でこの星に着陸しただけの、そこそこ友好的な連中だったとします。さて、そこで人類が次に考えることとは一体何なのでしょうか?宇宙をはるばる旅してきたのなら、それ相応の科学力を持っているに違いない。ならば人類にもその科学技術の一端だけでも伝授してもらおうではないか。そういう発想にたどり着くことは、想像に難くないと思います。でも、果たしてそれは合理的な考え方と言えるのでしょうか・・・・・・・・・などと書いて見ましたが、指摘される前にネタばらしをしてしまえば、これは星新一氏のショートショートで扱われたことのあるテーマです。その話にどのようなオチがついたかは、敢えて伏せておきます。

 最近、ケータイを買い換えました。以前使っていたものは、iアプリが出始めてそれほどたっていない頃の物。あらためて振り返ってみると妙に長期間に渡って使い続けた物ですが、久しぶりに新しい機種に買い換えてみると、すごいことになっていました。なんかもう必死です、最近のケータイ。実際には最新機種より一世代前のモデルですから、上戸彩嬢がCMでうっとりするほど高スペックのものではないのですが、それにしても色々な機能が付いています。社会人になって以降、すっかり通話機能付きメーラー兼ページャー兼時計のような扱いを続けてきたケータイを、久しぶりにじっくり触った気がします。ふと考えてみると、ここ数年であっという間に日常生活に浸透してきて、無くてはならないものの地位に上り詰めた携帯電話なる機械は、非常に不思議なものです。そんな不思議なケータイにまつわる話をいくつか、ちょっと考えてみました。

▼電磁波
 基本的にデスクワークしかしない仕事に従事しているので、主にケータイをいじるのは仕事中ではなく通勤電車の中です。地下鉄を利用する関係で、他の端末との交信は出来ません。専らダウンロードしたりデフォルトで入っていたりしたゲームで遊ぶばかりですが、そんな時、例のアナウンスが流れてきます。曰く、「混雑時の車内では他のお客さんの迷惑になるし、医療機器に悪影響を及ぼすこともあるので電源は切れ」、と。改めて説明する必要もないことなのでしょうが、ケータイが発する電磁波がペースメーカーなどを誤作動させる可能性があるから、という理由です。よくよく注意して聞いてみると、車内アナウンスでは、電磁波云々の説明は端折られています(少なくとも名古屋の地下鉄では言っていないはずです)。このことは今や知らぬ者が無く、いちいち説明する方がかえって野暮ったいくらい、当たり前の情報になっているのでしょう。しかし、そんな当たり前の情報の本当のところは、果たしてどうなんでしょうか?

 ケータイが発する電磁波は、ケータイという道具の使用法の関係上、脳味噌へダイレクトに影響を及ぼし、結果として脳腫瘍の発生率を飛躍的に高める、という物騒な話が聞かれるようになってから随分経ちます。ケータイの電磁波(および電波)は色々悪さをするらしく、脳腫瘍に限らず、特に女性の場合は胸ポケットに入れておくと乳がんの発生率を高めると言う話もあるようですし、セルフのガソリンスタンドでは火災を発生させることがあると言い、飛行機の機内で通話しようものなら重大事故につながる恐れもあると言います。しかし、これらの話のどこまでが本当のことなのかは怪しい限りです。現実には私達の身の回りのそこかしこにケータイ以上に強力な電磁波を発生させるものが存在している以上、満員電車のペースメーカー、病院内部での医療機器、飛行機内の精密機器に対するケータイの悪影響を懸念し、利用を控えるように求める訴えにも若干説得力不足のきらいがあります。一応、別に電車内や病院・飛行機の機内で通話をすることを是とするものでないことだけはお断りしておきます。どんな悪法でも個人が好き勝手にそれを破っていたのではやがてあらゆる秩序の破綻につながると言うこともありますし、そんな小難しい理屈は抜きにしても車内・機内のような公共性の高い場所での通話が他人の迷惑であることは間違いありません。あくまでケータイの電磁波はそんなにやばいものなのか、という話です。 しかし、ケータイの電磁波がきっかけとなって火災が発生したと言う事件に関してはかなりはっきりしたことがいえます。現実には、まっとうなマスメディアの調査力をもってしてもこのような事件・事故はいまだ確認されていません。また、電磁波と脳腫瘍やら乳がんとやらの因果関係も今ひとつはっきりしていないのが実情です。一度、ケータイ電磁波の危険性を取り沙汰した本を読んだことがありますが、何やら「と」のオーラを漂わせる本だった記憶があります。どうも、電磁波の危険性を喧伝しているのは、一部の原理主義的急進派のような気がします。もう少し分別のある資料では、「まあ体に良い影響は与えないかもしれませんね」程度の論調になっているようです。

 にもかかわらず、危ないケータイ電磁波の話がそれなりに市民権を得て、さほど懐疑的な意見が目立たないのは、やはり嫌ケータイ派やその予備軍が少なからず存在しているということの現れなのでしょうか。ケータイに対してあまり好印象は持っていない人々によるアンチキャンペーンに、この話が巧みに利用された感はあります。一方で自制するべき行為と言う自覚もありながら、マナー云々と訴えかけられても、ついケータイの誘惑に負けて電車内などで使ってしまった経験のある人は多いでしょう。そのへんの微妙な心情が暗黙のうちに各人の共通認識になっていて、所構わずのケータイ利用に対する一定の牽制として、嘘も方便的に「人の生死や重大事故につながる恐れがある」という理屈が通用しているのかもしれません。
 
▼アンサー
 ケータイにまつわる怪しい話の中でも、正統派怪談話と言えるものに「アンサー」の話があります。10台のケータイを用意し、その中の別のケータイへ順繰りに電話をかけていくと、9人までは謎の怪人・アンサーが質問に答えてくれると言いますが、残る一人には逆にアンサーの側から質問が投げかけられ、それに答えられないと体の一部を奪われてしまうのだとか。なんでも、アンサーは頭部だけで生まれてきた畸形児で、そうやって体のパーツをそろえていくそうです。

 質問に答えてくれる何者かと言う点ではこっくりさんに通じるものがありますし、逆に質問に答えられないと攻撃されるというのは学校の怪談を思わせる話です。体のパーツが足りないから他から奪ってくると言うモチーフも、どこかで聞いたようなイメージがありますが、具体的な例はちょっと思いつきません。畸形から連想したのはイザナギ・イザナミの最初の子、蛭子(ひるこ)です。蛭子は骨の無いぐにゃぐにゃの体をしていて、手足も無かったと言いますが、この子は葦の船で海に流され、両親から捨てられています。捨てられた子供の方は両親に対して恨みを抱きそうなひどい仕打ちですが、別に蛭子の復讐談は聞きません。むしろ、「蛭子」の名前からもわかるように、「えびす様」という縁起の良い神様として祭られています。ちなみに蛭子の逸話は、子作りの際に女性が積極的であってはいけない、という教訓が込められていそうで興味深い話ではあります。蛭子系の話と言うと少し語弊があるかもしれませんが、手塚治虫氏の「どろろ」に登場する百鬼丸は、やはり蛭子に良く似た境遇で生まれて来て、長じてからは自分の体の各部を奪った妖怪を退治することで、失われたパーツを取り戻すと言う運命を背負っていました。もともとは自分の所有だった物を奪い返すのですから、別に非難されたり無関係の人間が恐怖する理由も無いので、やはりアンサーの話とは趣が違いますね。畸形・身体各部の欠損からのアプローチは案外厄介そうで、この程度でネタ切れです。持たざる物はどこかから奪ってくれば良い、というある意味で極めてシンプルな刹那的な発想が現代的といえば現代的なのですが。

 アンサーはまずケータイありきの話で、ケータイ以前から存在していたとは到底思えません。まさか固定電話を10台用意して・・・・・・などという話も無いでしょうし、ポケベルで同じようなことをするのも苦しそうです。トランシーバーやらアマチュア無線やらでというのも現実的ではないでしょう。けれども、アンサー誕生の萌芽とでも言うべきものは、電話と言う道具が発明された頃からすでにあったのではないかと思います。

 電話口での応答に使われる「もしもし」という言葉は、「申す申す」が変化した物、と言われています。この話をどの程度まで一般的な内容と言って良いかはよくわからないですが、そういう説明を受けたことがあります。しかし一方で、「もしもし」とは、人外のものとのやり取りに使われることのあった言葉だとも言います。電話の「もしもし」と直列で結びつけるのは早計かも知れませんが、しかしこのような曰くありげな言葉が電話でのやり取りに使われると言うのは、何やら因縁めいたものを感じてしまいます。考えてみれば電話と言う機械は、それ以前はほとんどシャーマンの独壇場であった目に見えない相手とのやり取りを、何らの霊感を持たない一般人にも可能な行為にしたのですから。もちろん、現在「もしもし」と言う言葉にそのような意味があることを意識して口にしている人などは圧倒的少数でしょうが、顔の見えない相手と話のやり取りすることに付きまとう、理屈を超えた人間の原初的な不安感は、おそらく電話黎明期でも現在でも普遍のものでしょう。聞き覚えのある声と口調、しかし顔の見えないこの相手は、本当に自分が意図している相手なのか。受話器を通して聞こえてくる声はあまりクリアではありませんし、声だけで正しく本人と認識するのは若干苦しい面があります。被害者は基本的に高齢者とは言え、その弱点をついた「オレオレ詐欺」なんてのもあります。それとはまた別の問題として、少し前には出会い系殺人もありましたし、受話器の向こうで何が起こっているのかわからない、顔の見えない相手とのコミュニケーションにより現実的な恐怖感が植え付けられたのかもしれません。反面、顔が見えない状態で相手と話できることこそが電話の大きな利点であり、テレビ電話が普及しない理由の一つもそこにあると言われています。電話に付きまとう不安は電話の利点と表裏一体のものであり、このへんはジレンマを抱えていると言えます。それ故に長所短所を適当なところで折衷させていて、そのために携帯電話怪談が生まれてきた、と考えてみるのも面白そうです。

 なんだかだいぶ話がそれてしまった感じがしますが、電話という発明は素性の知れない相手とのコンタクトを一気にありふれたものとしましたし、携帯電話はその電話をより身近なものとしました。ケータイがある種の異界への接続をごく普通のものとするツールであった以上、アンサーを始めとする携帯電話怪談の誕生は自然な流れなのかもしれません。

▼新しいチェーンメールの形?
 長崎の男児殺害事件は、一部では従来の「ショッピングセンター女児レイプ伝説」を再燃させるものだったようですが、もう一つ都市伝説的な出来事を発生させています。加害者に関する情報が極端に制限される少年事犯の場合、ネット上で加害者のプライバシーがさらされる事態はすでに当たり前のようになりつつありますが、今回は(真贋合わせて)加害者少年の顔写真と称されるものが写真付きメールで出回る騒動に発展しました。私の知る範囲ではテレビや新聞などでそのような表現を用いて報道されている場面は見たことが無いのですが、このメールはつまるところチェーンメールでしょう。当然、何人に回せなどと言ったメッセージはついていなかったでしょうが、何となく興味を引くものであったために次々と転送され、拡散していく様はチェーンメールそのものです。掲示板への書き込みであれば、管理人への削除依頼という対処も可能でしょうが、不特定多数が無作為に送信するメールに規制をかけるのは、要するに世間話に規制をかけるようなものです。私信の内容をチェックする機構でも作らない限り、如何ともしがたい問題でしょうが、現実にはそのような対処はまず不可能です。次に似たような事件が発生した時、確実に同じようなことは起こるでしょう。その時には個人のモラルに期待してメールの拡散が食い止められるように願うのが関の山でしょうが、それも難しそうです。

▼苦しいなりに総括
 ケータイが発し、様々な悪影響が懸念される電磁波は、結局はなんだかよくわからないとらえどころのないものだからそのような話が生まれてくるような気がしてなりません。現在、我々の生活の中では様々な科学技術が用いられていますが、それらを支える色々な科学理論をきっちりと理解して使っている人はどれほどの数いるのでしょうか。科学技術を利用するのと科学理論を理解するのは全くの別問題です。しかし、まったく理解もせずに利用するのもなんとなく心もとないので、私も含め、一般の人は科学理論をニュアンスで理解しようとするのではないでしょうか。そして、複雑な理屈で動いている機械を使っているうちに、本当に科学的な理論まで理解しているような気になってきて、そういう弱み(?)に付け込んで電磁波のような怪しげな話が幅を利かせて行く。思えば、科学の発達以前、人間は人知を超えた事象の中に神、精霊、妖怪など超常的な存在を見出し、それによって理解の空白を埋めようとしてきたのかも知れません。ケータイ電磁波の話も、不可解なものをどうにかして合理的に理解しようとする人間の想像力の産物であるなら、大枠でとらえればこれも現代の妖怪と言えるでしょう。ケータイ電磁波に限らず疑似科学系の都市伝説は、それと気付かないよう現代の時勢に合わせて巧妙に擬態した、なかなかしたたかな妖怪連中の話と言うこともできる思います。いかに科学的な理論を並べて超常現象を説明しようとも、それを専門としている科学者諸氏ならいざ知らず、一般人がその理屈を完全に理解することなど不可能で、そういうものなのだ、ということでその話題についての思考を切り上げる。ニュアンスで理解するから、そのあいまいな「科学的知識」に基づいて、「そういうこともあるだろう」と怪しげな疑似科学を新しく生み出す。大体、科学者や専門家と呼ばれる人たちにしても、今日のように学問分野が細分化してしまっていては、畑違いの話には素人同然なのではないでしょうか。自分では分別があるとは思っていても、実は専門分野外の話についての考え方は、例のスカラー波を恐れる白装束集団と五十歩百歩だったり。科学はオカルト領域の闇を払いながら、一方で自身が新たな闇を生み出しているようです。

 そもそも妖怪なる存在は、人間の精神活動の中でもどちらかと言うとネガティブな部分から生まれてきやすいものです。ケータイは便利な道具で、人々の関心をひかずにはおれないものですが、それゆえに怪しげな話や欲望との接続点にもなりやすいものです。そのようなツールにもろもろの「妖怪」談が付きまとうのも、当然のことなのでしょうか。

 今回「三題噺」などというタイトルをつけてしまったため、まさに自縄自縛、別々の話を何とか一つにまとめる羽目になりましたが、どうにかオチはつきました。ついたと思いたいです。そもそもケータイつながりなんだから三題噺じゃねーよ、というようなツッコミはご容赦を。ちょっと苦しいかなと思いつつ、とりあえず、お後がよろしいようで。