「首なし」の意味するもの


 首なしライダー
2002.11.02 



 ある変質者が道路沿いの木にピアノ線を張り巡らしておいた。彼はその仕掛けを作っておき、そこを通ったライダーの首が飛ぶのを薄笑いを浮かべながら眺めていた。
 その後、この行為の犠牲者が出た道路を白い車で通りかかると、ほぼ確実に首のないライダーに遭遇するという。その変質者は白い車に乗っていたので、死んでも死にきれなかったライダーの怨念が首なしライダーとなって犯人の乗った車を探しているのだろうか。
 しかし、その犯人はいまだ捕まっていない。

 道路を走っているときに後方から近づいてくる一台のバイク。ふとした拍子に気がつくと、そのライダーには首が無い・・・・・・。上の話は日本各地の道路に伝わるそんな首なしライダーの話の一パターンです。この話ではライダーの首を飛ばしたのは変質者の仕掛けたピアノ線ということになっていますが、他には暴走族同士の抗争の中で、対立するグループのメンバーの首を飛ばす目的でピアノ線の罠を仕掛けたり、故意ではなく暴走族の騒音に腹を立てた近所の住民が張り巡らせたロープに首をはねられるてしまうなどのバリエーションがあります。いずれにせよ、線・ロープ様のものに突っ込んで首をはねられる話が主流になっています。それ以外では、捻じ曲がった道路標識などによっても首を落とされます。ヨーロッパではトラックの荷台からはみ出した鉄板などに首を切断されることもあります。このヨーロッパの話は怪談ではなく、ライダーが首を無くして死んでしまってもバイクだけは惰性で走り続けていたのだ、という話ですが。日本の首なしライダーは、ライダーの亡霊(?)だけあって、いずれも走行中に何らかの障害物に突っ込んで首を失う話です。

 多くのバリエーションが存在する中でも、かなりの話に「走行中に首を失う」というモチーフを見ると、やはり何かネタ元になった事件は存在したのではないか、という気にはなって来ます。もちろんその後の幽霊云々の部分を切り離した、純粋にライダーが首を失っただけの事件・事故のことです。

 残念ながら他の話同様に元になった事件を突き止めるのは難しいにしても、首のない亡霊の話というのは洋の東西を問わず、昔から多く伝えられています。首なしライダー誕生の背景には、そういう事情が影響しているのかもしれません。

 たとえば、福井県には賊ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家軍の亡霊が首のない武者行列となって現れるという言い伝えがありました。地元では「ほととぎす忌」と呼ばれる柴田勝家の命日4月24日になると、福井市内を流れる足羽川にかかる九十九橋あたりに、首なし武者が現れるのだそうです。この話は、観光地の土産物屋でよく見かける、土地の民話を集めた500円ほどの小冊子絵本などにも載っていることが多いようです。私が確認した同様の本では、武者ばかりでなく、馬までもが首なしとされていました。また、この武者行列に関しては、それを目撃した体験を人に話したりしても災いが振りかかり、その様子を絵に書きとめた人やその絵を手に入れた人が不幸に見舞われた話も残っているそうです。しかし、このあたりはオリジナルから派生した別バージョンなのかもしれません。この類話の中で、当時の原形を一番とどめていて、かつ史料性が高いのは、享保17年(1732年)に表具師の男が目撃した首なし武者の話でしょうか。

 フィクション(?)になりますが、スリーピーホロウという首のない騎士の亡霊にまつわる話を扱った映画もありました。

 思うに首のない「亡霊」の話が、古今東西を問わずに多く見られるのは、やはりその「首なし」という言葉が持つ力の故でしょう。人間に限らず、大抵の動物は、首をなくせば死んでしまいます。首を失った胴体からは、完全に生命が失われ、単なる物体に成り果てると言うのに、それが動き回ると言うのは、色々な言葉で飾り立てるまでもなく、端的かつ強烈にその存在の異様さを物語るのです。スマートにその異常性を伝えられるだけに、首なし○○という存在は、怪異談の題材にかなりなじみやすいと言えるのではないでしょうか。

 ところで、首なしライダーの話では、首を失うのは大抵暴走族です。もしかしたらそういった人種を快く思わない人たちの気持ちが、「他人の迷惑を省みない行為を繰り返していると、その報いでろくなことにはならない」という教訓話めいたことを言おうとして、首を失うという悲惨な結末を設定したでしょうか。また、車を運転する人の中には、バイクが走行中には車一台分のスペースを取っているのに、渋滞時や信号待ちの時には車の間をさっさと通り抜けていってしまうことに軽い苛立ちを感じる人も多いようで、バイクやライダー全体に対する不満も、この話の成立に影響しているのかもしれません。ここでは、首を断たれるということが、さらし首のような見せしめの効果を持っているという解釈もできます。さらし首は究極の形ですが、有史以来人類が発明してきた様々な刑罰の中で、体の一部を切断する刑というのは、受刑者に犯罪者の烙印と、劣等者の屈辱を与えるという見せしめ刑の意味合いが強いそうです。もちろん裏を返せば、受刑者の周囲の人間に対する犯罪抑制効果も考えての事です。

 私が聞いたことのある範囲では、古代中国で行われていたと言う『腐刑』と言う刑罰が屈辱刑の好例でしょうか。この刑は、男性の局部を切断する刑で、この刑に処せられた者は男でも女でもない中途半端な存在として蔑視されるばかりではなく、傷口からわいた膿の腐臭が体に染み付くという、二重の屈辱を味わったそうです。ただし、この話の裏が取れていないので、もしかしたら話半分程度の内容なのかもしれませんが。

 上の話では、首なしライダーが探しているのは自分を変わり果てた姿にした犯人なのですが、なくした首を探しているという話もあるようです。人は、胴体から切り離された首と、首を失った胴体のどちらに人格を認めるかと尋ねられると、切り離された首にこそ人格が宿ると言う答えの方がすんなり納得できるようです。確かにこの両者が切り離されていない限りにおいては、魂や心というものは胸にあると言っても違和感はありません。しかし、思考を始め諸々の精神活動をつかさどるのが脳であると言うのもまた事実なのですから、二つが切り離された時に首の方に人格を認めるというのも、それはそれで当然でしょう。都市伝説の中には事故で切断された首にまつわる話もあります。例えば、現場に居合わせた通りすがりの人々の好奇の視線に晒されることに耐えかねた生首が、「見るな」と話したり。他にも、やはりバイク事故の話なのですが、二人乗りで後ろに乗っていた彼女の首が走行中のアクシデントでなくなっていることに気付き、事故の現場と思しき場所に行くと、取り残された首に「私どうなったの?」と尋ねられたり。

 都市伝説と言ってよいのかどうかはわかりませんが、鉄道関係者の間には次のような俗信もあるそうです。

 列車への飛び込み事故の現場は悲惨なもので、飛び込んだ人の体は文字通り四分五裂することもたまにある。しかし、そのような現場を体験した駅の職員は、ゴミのように散乱した体の各部の中でも、不思議と首だけはきちんと地面に立つのだと証言する。


 やはり、人間の人格、ひいては尊厳は、最終的には首に認められるものなのでしょう。見せしめとしてのさらし首という発想も、その裏返しと言えます。

 となると、首を失った胴体と言うのは肉体的に死んでいるのと同時に、人間としての尊厳を奪われた物体であり、魂(尊厳)までもが「殺されている」という辱めを受けているとも解釈出来ます。同じ首なし亡霊の話でも、元暴走族の首なしライダーの話は、「迷惑行為の報いで悲惨な末路を辿ったのだ」という因果応報を説こうとしているのかもしれませんが、この項の冒頭で紹介した話のように、本人に落ち度無く首を失う羽目になった首なしライダーや、古くから伝わる首なし伝説は、むしろ彼らへの同情心から語り伝えられている様な気がします。