英雄と怨霊の間


 将門の首塚(前編)
 2003.04.08

 
 最近、とある友人からこんな質問をされました。「将門って神なの?」と。

 彼はゲーム「真女神転生」プレイ中にこんな疑問を持ったようです。そこで、このゲームのマニアであり、しかも将門マニアで、妖しげな話に興味のある私にお鉢が回ってきたのですが、結論から言ってしまえば、将門は神と言ってしまって差し支えないでしょう。もっとも、最近ではもしかすると、件の彼のように、将門を怨霊として認知している人のほうが多いのかもしれません。この件に関しては都市伝説がらみで興味深い事例があるので、例の如く都市伝説にひきつけて話をしてみようと思います。今回のネタは、そんなわけで将門の首塚です。

 発端がゲームの話なので、創作作品の中での将門の扱いについて例をいくつか。まず既出の真女神転生シリーズです。サイドストーリー的な作品はそうでもないですが、本流では、外界の悪魔が跋扈し、異教の神々がしのぎを削る修羅の巷と化した東京において、将門はこの地の守護者として超越的な力を発揮するキーパーソンとして登場します。怨霊としての側面は全くといっていいほど描かれず、まさしく神そのものです。何せ、天孫系の神々が将門公と呼び、ヘブライ系の神の侵攻を退けるほどの大物なのですから。

 そして、将門の物語として個人的には絶対外せないのが、荒俣宏氏著の『帝都物語』です。10年以上も前に映画化されたのは、この長編小説の序盤部分だったので、この物語の行き着く先を知らない人は多いかもしれませんが、小説版のラストまで読むと、この作品はまさしく、東京の守護者としての平将門と、日本史上希に見る祟り神としての平将門の、相克の物語です。神としての将門の、複雑な性格が分かる一作かもしれません。

 あと変わったところでは、内田康夫氏著の『中央構造帯』なんてのもあります。これは将門の呪いと噂される銀行マンの怪死事件の謎を追う推理小説です。比較的最近読んだのでここにあげておきましたが、将門の生地・茨城県岩井市における将門評や、首塚以外の将門伝説もいくつか見られます。この作品では将門の神としての顔よりも、人間将門と怨霊将門が前面に出ているようです。せっかくだから岩井市のホームページを紹介しておきます。地方自治体のホームページとは思えないほど充実した、将門伝説コーナーがあります。

 『中央構造帯』には、首塚の隣にオフィスを構える大銀行が登場しますが、実際に、東京都千代田区大手町、このオフィス街の一角、三井物産本社ビルの横に、平将門の首塚はあります。平将門にまつわる伝説は、千年以上前から数々存在していますが、この首塚に関してはそれらの伝説とはまた異質な、一つの有名な噂があります。将門に限らず、日本全国に首塚というものは多々ありますが、彼の首塚は、未だに祟ると言うのです。

 実際の首塚そのものの印象は、見る人の主観によって大きく左右されると思いますが、どうやら”怨念渦巻き妖気漂う”といった雰囲気の場所ではないようです。強いて言うなら、都市空間の中のエアポケットとでも言うべき、奇妙な空間と言ったところでしょうか。奇妙だが不気味ではない。この微妙なニュアンスの違いは、将門伝説を考える上では大きな意味を持つと思われます。

 かなり人口に膾炙された話なので、ご存知の方も多いでしょうが、都会のド真ん中にあるこの塚に対し、周辺にオフィスを構える企業は、並々ならぬ畏敬の念を抱いているとか。それが具体的な形となった一つの例が、オフィス内の机の配置に気を使い、首塚に対して尻を向けることのないような配置にしている、というものでしょう。他には、首塚の写真を撮影する場合、真正面から撮影すると祟りがあるので、塚の上の石碑が斜めに移る角度から撮影するようにしなければならない、というものもありますし、巷間の心霊スポットよろしく、心霊現象の噂もちらほらとはあるようです。しかし、将門の首塚にまつわる怪奇な噂は、戦後間もない時期の、GHQにまつわる一件によって止めを刺されるでしょう。これはおそらく現代の将門伝説の中で、最も有名な物のはずです。

 今さら言わずもがなかも知れませんが、この話は、終戦直後、日本を統治下においていたGHQが、将門の首塚を撤去しようとした時に、様々な変事が相次ぎ、結局この首塚をどかすことが出来なかったというものです。聞く所によると、塚を撤去しようとしたブルドーザーが転倒し、この事故による被害者が出たほか、計画に携わった責任者の中にも、死者を始め、いろいろな不幸に見舞われた人たちがいたようです。この出来事そのものはどうやら厳然とした事実のようで、そこから将門の祟りという解釈が生まれたのでしょう。将門が生き、怨霊に満ち満ちていた平安時代の伝説とは違い、科学万能の時代、二十世紀半ばに起きたこれらの怪事件は、その同時代性ゆえに、他の将門怨霊伝説とは一線を画する、強烈なインパクトを持っています。

 平将門(?−940)は、朱雀天皇の治世に、坂東(関東)で叛乱を起こした人物として知られています。将門の起こした叛乱は、承平の乱とか、そのものズバリ平将門の乱とか呼ばれています。一般には、当時の都から遠く離れた辺境である、坂東の地に独立政権を打ち立てるための戦いであったと解釈されていますが、そもそもの始まりは、将門と、彼の叔父との間に発生した女性問題や土地に関するいさかいでした。結果としてこのときの争乱は、将門側の勝利という形で決着がついたものの、一族の関係には亀裂が入り、それが後々の、中央政権まで巻き込んだ大乱につながって行った、と言うのが実情のようです。

 いろいろな資料を追えば追うほど、将門の叛乱は、彼の明確な意思によるものというより、様々な事情の積み重ねが彼自身も想像していなかった結果を生み、それが収拾のつかない大きな奔流となって将門自身を飲み込んでしまった物のように思えてきます。もともとは女性問題と土地の領有について決着をつけるためのものだった叔父との戦いが、同族との間にしこりを残し、結果、ことあるごとに将門は一族の者と衝突するようになり、やがては兵力の衝突にまで発展します。将門は、半ば行きがかり上発生したこの闘争にも勝利しますが、このとき負かしてしまった相手がいささか悪く、朝廷に近い立場にいた相手だったため、将門に叛意あり、ということになっていきます。しかし、一度は弁明が受け入れられます。そして、一連の闘争においてその力を示した将門は、坂東の地において、次第に大きな権力を握っていくようになります。しかしここでまた彼に厄介な問題が降りかかってきます。中央政権がしいた秩序に対して反攻的な、坂東のアウトローとして評判が悪かった興世王や藤原玄明らが、坂東においては中央寄りの人間を凌駕するほどの力を持っていた将門に、庇護を求めて来たのです。幸か不幸か将門には、自分を頼って来る者を無碍には出来ないところがあったらしく、結局、ならず者連中を受け入れてしまいますが、このことが朝廷との関係を悪化させてしまいます。それでもまだこの頃までは、朝廷側としても、将門の動きを、現実の軍事的脅威と言うよりは、辺境の地で土豪が粋がっている程度に認識していたようです。むしろ、中央と将門の決裂を決定的にしたのは、将門の新皇宣言だったようです。八幡大菩薩の使いを自称する素性の知れない女(巫女とも遊女とも言われます)が、将門が新しい天皇となる人物だと言い、それに乗った形となるわけですが、これによって対面を傷つけられた朝廷側は、本格的に将門追討の兵を繰り出してきます。そして、幾たびかの戦いの末に、将門は討ち取られ、その首は京に運ばれるのでした。

 行き当たりばったりとまでは言いませんが、何か明確な野望なりを抱えた野心家の叛乱という感じはしません。そればかりか、良い評判の無い人物を、自分を頼ってきたからと言って拾ってしまうあたり、愚直さにもつながるほどの実直さを持った人物に思えてしまいます。ムカデ退治の伝説などで知られる俵籐太こと、藤原秀郷という人物は、将門に与しようと思って彼のもとを尋ねていったのですが、そのときの将門の振る舞いがいささか軽率で思慮が足りなかったため、大器ではないと見て、味方するのを止めたという話も一部には残っています。後にこの秀郷が将門を討ち取るあたりが運命の皮肉なのですが。

 どうもお人よしっぽいところがあったような将門ですが、坂東の君主としての彼の評判は、資料によって様々です。しかし、決して悪評ばかりの人物ではなく、中には領民に慕われていたというものもあるようです。なんと言っても将門は逆賊・朝敵なのですから、散々にこき下ろされたとしても不思議ではないはずですが、多少なりとも好評価が与えられているあたり、案外、朝廷を倒すなどとは思わなかったとしても、実際に領民のためと言う理想を掲げて、坂東の独立自治を目指して戦った人なのかもしれません。

 実際の将門像は大体このような感じだったのですが、今のようにメディアが発達していなかった時代の話ですから、坂東を遠くはなれた中央の人は、反逆者・平将門なる人物が、いったいどのような素性の持ち主なのかは知る由もありません。そのため、都では将門に関する風評が、暴走気味に広まっていったようです。何しろ、恐れ多くも天皇に対し、かつて無い規模で反旗を翻したと言う大反逆者なのですから、京の人にとっては悪鬼羅刹のように思えたことでしょう。将門は全身が鉄で出来た大男であるため、弓矢も刀も全く通さないとか(鉄身伝説)、戦場には常に七人の将門が姿を現し、誰が本物なのか全く見分けがつかないとか(七人将門伝説)、あまりに人間離れした噂も流れていました。結局、全身が鉄で出来ていたと噂された将門は、彼に仕えていた桔梗と言う女性が敵に内通したため、弱点(こめかみ、眉間、目などと言う話がある)を見抜かれ、討ち取られます。この逸話に関連して、そのときの将門の怨念により、桔梗の故郷では桔梗が花を付けなくなったという伝説もあります。また、七人将門に関しては、正体は泥人形(藁人形とも)と言われていて、将門の死後それらは溶けてもとの土くれに戻りはしたものの、それがひどく呪われていて、近づく者に害をなすという話も生まれました。その呪われた土のありかというのが千葉県市川市の八幡不知藪(やぶしらず)で、この森に入り込んだ者は生きて森を出ることが出来なかったとか。この話には面白い後日談があって、水戸黄門こと徳川光圀がまだ若い頃、若気の至りでこの森に入り込み、数日間帰ってこなかったという逸話があります。光圀は諸国漫遊こそしなかったものの、ちゃんと老境に入るまで生きた人物ですから、この迷いの森からは脱出できたのですが、それ以後この森を立ち入り禁止にしたのだとか。

 生前からこのような怪奇な噂が付きまとっていた将門ですが、平貞盛(ちなみに清盛の祖先です)、そして前述の藤原秀郷らによって討ち取られ、この世を去りました。もっとも、将門の怨霊伝説は、ここから本格的に始まるのですが、話が随分長くなりそうなので、今回のコラムは前後編とさせていただきます。将門の生前の事績を追ったところで前編は締めとして、以下後編に続きます。今回紹介した将門の生前の記録は、主に将門記から取ってきました。