10世紀半ば、坂東の地で叛乱を起こした平将門は、何度かの合戦の後、追討軍によって討ち取られ、この世を去りました。将門記はその場面を中国の伝説に登場する蚩尤(しゆう)の最期になぞらえています。蚩尤とは、もとは漢民族と敵対していた苗族の軍神だったのが、苗族が漢族に敗れるのと同時に、漢族によって悪神に貶められ、漢族の神である黄帝によって倒された存在です。蚩尤はあらゆる武器を発明した神と言いますから、戦乱の象徴、闘争の根源的な存在なのかもしれません。戦において、悪鬼羅刹の如き強さを見せた将門を象徴する表現と言えます。ちなみに黄帝に関しては、日本で言うところのヤマトタケルのような存在でしょうか。蚩尤が戦いの神であったのに対し、本草学(漢方薬に関する学問)にゆかりのある神です。とあるスタミナドリンクには、黄帝の名前が使われてますね。
それはさておき、歴史上実在した武将、平将門の生涯はここに幕を閉じるのですが、日本の神霊界でも屈指の大霊である平将門の伝説は、このときから始まったといっても良いでしょう。将門伝説は数々ありますが、と言ってその全てをいちいち紹介していくわけには行きませんので、ここでは首塚がらみの話題に限って紹介していきます。
坂東で討たれた将門の首は、京に運ばれ、獄門にさらされます。ところが将門の首は、時が経っても腐る気配すらなく、それどころか夜な夜な恐ろしげな恨みの言葉を発したと言います。平治物語によると下の様な感じです。
むかし、将門が頚、獄門にかけらてたりけるを、藤六といふ歌詠が見て、
将門は米かみよりぞきられける俵藤太がはかりことにて
と、よみたりければ、此首、しいとぞわらひける。二月に討たれたる頸を、四月に持て上りて懸たりけるが、五月三日にわらひたりけるぞ恐ろしき。
将門の首は二月に討たれ、四月には獄門にさらされたようですが、藤六左近という人が、少し気の利いた歌を詠んだところ、その機知に感じ入り(古典の授業で言う掛詞と言う技法が使われた歌です。米と俵(藤太)がかかっています)、笑ったと言います。さらにそれより後の時代の太平記には、平治物語の記述を元にしたと思われる部分があります。内容や表現は酷似していますが、こちらはさらに将門の怨念を感じさせる記述になっています。
その首獄門に懸けて曝すに、三月まで色変ぜず、眼をも塞がず、常に牙をかみて、「斬られしわが五体、いづれの所にか有るらん。ここに来たれ。首ついで今一軍せん」と夜な夜な呼ばはりけるあひだ、聞く人これを恐れずといふ事なし。時に道過ぐる人これを聞きて、
将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にて
と読みたりければ、この首からからと笑ひけるが、眼たちまちに塞がつて、その尸つひに枯れにけり。
太平記の将門は、その首に満ち満ちた怨念を、より強い形で表現しています。首は、切り離された胴体ともう一度つながり、再び戦をしようと、夜毎叫び続けています。ここで再び「将門は〜」の歌ですが、太平記将門は、この歌を聞き、何かに満足したのか、たちまちただの物言わぬ生首となったようです。長きにわたり腐りもせずに叫び続けていた彼の生首は、瞬く間に真っ白なしゃれこうべとなったとか。
おかしな表現かもしれませんが、将門の首は、胴体から切り離された後も三ヶ月ほど”生きて”いたと言うことになります。それでこその首塚伝説かもしれません。自分を屠った者達に対する恨みを抱えたままの首は、あるとき故郷恋しさに天へ飛び去り、東国を目指して飛んだと言います。そして力尽き墜落したのが、現在の東京大手町にある首塚の位置です。将門の首が地に落ちた時、大地は鳴動し、天は闇に閉ざされ、恐怖した土地の人が、将門の首を手厚く葬ったのが首塚の始まりだとされています。しかし、この伝説は、太平記の記述との整合性に問題ありですね。
もともと伝説と呼ばれるものにいろいろなバージョンが存在すること自体は珍しいことではありません。太平記と平治物語で微妙に細部が異なっているのも、その一例と言えるでしょうが、じつはこの同一事実に関する伝承の違いは、肝心の将門の首の所在についても存在しているのです。
基本的に将門の首は、京から東国に向かったとされていますが、中には東国で断たれた首が、怨念のあまり京にまで飛んだという伝説もあります。そのため、京都にも将門の首が落ちた地とされる場所があります。また、京から東国に飛ぶパターンの中にも、東京に到達するよりも早く、現在の岐阜県大垣市の上空にさしかかったところで、落下したとする伝承があります。この大垣市にある落下地点は、現在は将門を祭る御首(みくび)神社となっています。左がその写真です。社殿を撮影しようとした時、デジカメのメモリがいっぱいになってしまったので、残念ながら境内の様子を撮影したものはありません。境内にある神社の由来によると、将門の首に起きた異変を知った、御首神社から程近いところにある南宮大社が将門調伏の祈祷を行ったところ、この南宮の神が矢を放って、首を射落としたそうです。この御首神社は、首から上の守り神として崇拝されていますが、もしかするとこのご時世、会社をクビにならないようにと、そのうちにリストラ避けの信仰も生まれるかもしれません。それはさておき、他にも有名無名の将門首塚伝説は存在しているようです。ちなみに胴塚は、将門の故郷である茨城県岩井市に存在しています。
首が空を飛び、故郷を目指したと言う伝説自体、現実的ではありません。その意味では、そもそも大手町の首塚に、本当に将門の首が眠っているかどうかは怪しいものです。ただ、この問題については、将門の類縁者が、獄門にさらされていた首を故郷に持ち帰った経緯を、寓話的に語ったものが、飛ぶ生首の伝説であるという解釈も可能です。もっとも、そういう見方をすれば、大手町のものに限らず、各地の首塚のいずれかに、将門の首がある可能性も否定できなくなります。にも関わらず、東京大手町の首塚ばかりが有名になったのは、やはりそれ相応の理由があるはずです。そして、その理由こそが、首塚の新しい”伝説”を生み出す遠因になった、と私は考えます。
怨霊怨霊とことあるごとに喧伝される将門ですが、その怨念が向けられた主たる対象は、都にいた人たち、特に為政者と言ってよいでしょう。おそらく、将門の地元、坂東の人々には、将門が怨霊であると言う頭は、あまりなかったように思います。
現在の東京大手町に将門の首が落下した時の様子を伝える伝承は、いかにも大怨霊、祟り神にふさわしいエピソードのように見えますが、舞台が坂東で、登場人物がそこに暮らす人々だからと言って、純粋にその土地の伝承と言ってよいのかどうかは疑問です。当時の坂東に、出来事を文字化して書物という形で残すことが出来るほどの知識と教養を持った人は、そう多くはなかったはずです。しかもそのほとんどが、将門と敵対していた体制側の人間だったことでしょう。必然的に将門に関するネガティブな描写が多く用いられたこと考えられます。
民間伝承であれば、おそらくは口承によるものでしょうが、一度文字として記録されたものと違い、口伝えでは、話の内容は容易に変質してしまいます。この現象は話し手の主観によるところが大きいでしょうし、口承伝承が発生以後、変質せずに伝わっていくのはまず不可能です。首塚の起源に関する伝承は、多分に中央の人間のイメージが取り込まれているのではないでしょうか。
おそらくは10世紀頃にまで起源が遡れる大手町の首塚ですが、この地の将門信仰に大きな変化が生じたと思われるのは、徳川氏が江戸に入り、この地が日本最大の都市へと発展していった時期でしょう。この時期、江戸にはそれ以前には考えられなかったほどの人口が流入しました。日本各地からそれぞれ異なった文化的背景を持つ人々が集まり、混沌としたごった煮の状態となった当時の江戸は、文化的に空白地帯となっていたのかもしれません。そんな中で、この寄り合い所帯の街は、自分達独自の価値観を生み出し、自分達の街を作り上げていったことだと思われます。そんな状況下、江戸の人々の信仰と言う部分に関して、将門は大きな存在となっていったようです。
当時は今からは考えられないほど娯楽の少ない時代でしたから、寺社の祭事と言うのは今よりもかなり重要視されていました。祭りとは、その名の通り、本質的には神を祀り上げる儀式ですから、祭りにおいては、どんな神を祭るかはかなり大きな意味を持つ要素となります。そして将門は、江戸っ子達の神として、非常に都合の良い性格を持っていたように思われます。
多分にステレオタイプ的ですが、今日では日本の文化の中心は東京で、それに対するカウンターカルチャーの大阪、という構図が持ち出されることがあります。当時の日本では、この東西の関係が逆になっていました。当時の日本の首都は京都でした。実質的には江戸が政治の中心であり、国内最大の都市であったにも関わらず、形式的には、江戸は京の下に置かれていたわけです。江戸の人々には、京都に対する反発心を少なからず持っていたことでしょう。そのためか、江戸の文化は京都を中心とする関西圏とは対照的なものへと育っていきましたし、その反発心は信仰の部分にも強く影響したと思われます。将門は、かつて京に対して反旗を翻した、関東出身者です。時代の隔たりはありますが、その生涯、その姿勢、それ自体は後の江戸っ子たちに通じるものがあります。幸か不幸か、将門は古今稀に見る大怨霊として、都人を恐怖させた存在です。性質は凶で、力のベクトルは破壊的な方向に向いてはいるものの、将門の力は強大で、神霊としての格も相当高かったと言えます。人から神になった存在として、同じ関東には“東照大権現”徳川家康がいますが、神としての将門の格はそれをはるかに超えています。“日本太政威徳天”菅原道真と並び賞されるほど強大な、日本史上最強の祟り神だったのです。
気性が攻撃的なのが少し難ですが、これに関しては丁重に祀り上げればクリアできる問題です。粗略にすれば祟り、敬虔な信仰をささげれば加護を与えてくれると言うのは、日本の神全般に少なからず当てはまる特徴です。将門も、神として祀り、信仰すれば、かつての大怨霊としての力を、自分を信じる者への加護に変え、強力な守護者となってくれることでしょう。
神としての格、そして人であった頃の性格と言う二点において、将門は江戸の守護者としてこれ以上ないほどふさわしい存在なのかもしれません。実際に、いろいろな話を見るにつけ江戸っ子は、将門の事がかなり好きだったようで、特別な思いと共に、かなり熱心に祀っていたようです。将門を祭神とする神田明神も、そして首塚も、将門信仰の中心、聖地のような場所であったと思われます。
その聖地・首塚は、江戸が東京と呼ばれるようになってから150年程経った時、未曾有の危機を迎えました。首塚に対する信仰心など微塵も持たない、外国人によって撤去されそうになるわけです。日本の統治を進めるGHQにとって、人が神になり得るという神道の思想は、戦時の天皇の神格化を想起させる危険な思想でした。もしかすると、人から神へと昇華した将門という存在は、感情的にあまり愉快な存在ではなかったのかもしれません。将門を否定したい、そんな思いがあったか否かは不明ですが、GHQは首塚を撤去しようとし、そして一連の祟り騒動が起き、結果として首塚は残りました。奇しくも新旧の“朝敵”の対決のような形になったこの事件ですが、将門の信奉者である江戸っ子にとっては、あとから自分達の場所に入り込んできて、我が物顔に自分達の信仰の対象を破壊しようとした、“侵略者”の鼻を明かしてやったような、溜飲が下がる思いの出来事だったのかもしれません。それ見たことか、将門様の祟りだ、とばかりにこの話をあちこちでしたことでしょう。将門に限らず日本の神と言うのは、本質的には粗略にすると祟るものなのです。
ところが、この話は、各種メディアによる情報伝達手段が発達した二十世紀の後半の社会において、怨霊の祟り話として認知されるようになってしまいました。“江戸っ子は将門が好き”で、“東京(江戸)に三代住んで初めて江戸っ子と呼べる”、という論法を聞いたことがあります。三代住んで云々はともかく、信仰と言うのは人間の精神活動の中でも最も深遠で、ある種複雑怪奇なものです。他者が簡単に理解できるものではないでしょうし、三代住むところまでは望まないものの、ある程度の時間信仰の中に身を置いて、ゆっくりと、皮膚感覚的に理解するしかない物なのかもしれません。そのため、首塚の祟り話は、関係者に災厄が相次いだという事実それ自体は広く認知されるようになっても、首塚に対する江戸っ子の思い、信仰心までは理解されず、ただ扇情的で、おもしろ半分に話されるだけの、安っぽい怪談話になってしまったのではないでしょうか。ここに至って、再び過去の履歴が将門を祟り神に仕立ててしまったのかもしれません。
現代の首塚伝説にかかる状況は、表層的な情報だけが先行し、その背景にある物がおざなりにされた結果生じた物のように思えます。現在、大手町の首塚は、非常に綺麗にされているそうです。もちろん、行政側が都の史跡として整備したと言うこともありますが、そればかりではなく、常に誰かが塚の回りの掃除をして、整然とした状態に保っているのだとか。将門を怨霊として悪戯に恐れるのは、過去に将門を信仰し、現在も将門を慕っている人々に対する冒涜のようにも思えます。しかし、単なる怨霊ではない、東京の守護者将門公として復権までの道のりは、遠いかもしれません。
※2003.12.31 追記
過日、故あって将門の首塚(将門塚)に行って来ました。私がこの塚周辺をうろうろしていた早朝の十分ほどの間に、地元の人(近くに人が住むような所があるのかどうかは良く分かりませんが)やビジネスマンなど4〜5人が塚に詣でていました。結構人の出入りはあるようで、その様子を見るにつけ、やはり怨霊だ心霊スポットだというのはちょっと不遜なのではないかと思った次第です。 |
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