呪いと祓い


 ムラサキカガミ
 2003.01.17


 嫌ですね、こういう話。

 私がこの話の存在を始めて知ったのは、小学校の高学年の頃だったと思います。当時友達が、知っていると呪われるという、なにやら恐ろしげな話の存在をほのめかしていたのが、全ての始まりでした。知らない方が良い、と言いながらもどこか優越感に浸っているふうでもある態度に何か釈然としないものを感じ、同時にストレスがたまっていく感覚を憶えたものです。

 そんな私が幸か不幸かこの呪われた話の全貌を知ることになったのは小学館の学習雑誌(学年は不明)の読者投稿ページでした。曰く、”ムラサキカガミと言う言葉を20歳までに忘れないと死ぬ”・・・・・・。

 あれほど知りたがっていた話なのに、その内容を知ってしまったときの感想は「おいおい、勘弁してくれよ」と言ったところでした。正直これを投稿した奴と、掲載した編集者をこそ呪ってやりたい気分でした。

 そんな私ですが、今こうしてムラサキカガミに関するコラムなどを書いております。奇しくも件の雑誌にムラサキカガミの話を採用した編集者と同じような立場になっているわけですが、少なくともこの話を聞いて死ぬことはありませんでした。もっとも何歳の時に死ぬという言及はなかったので、憶えていると”100年後くらいにはほぼ確実に死ぬ”と言う意味だったのかもしれません(なお鏡の破片に全身を刺し貫かれて死ぬ、というパターンもあります)。モノによっては憶えていると”不幸になる”とか、そもそも私の周りの友人が言っていたように”呪われる”というバージョンもあります。結婚できないというものもあります。こちらに関しては胸をはって「不幸ではない」とか「呪われていない」などという事は出来ません。また結婚も確かにしていません・・・・・・。などと、いまだ20歳に遠い、前途ある少年少女をビビらす様なことを書いていても仕方ないので、呪いとそれを解く方法も含めて、このムラサキカガミの話に関して言及してみたいと思います。かつてこの話にビビった者として・・・。

 ムラサキカガミ。紫の鏡、パープルミラーなどと呼ばれることもあります。

 似たような話として、「赤い沼」、「紫の亀」、「黄色い(黄色の)ハンカチ」、「イルカ島」、「呪いの亀」、「血まみれのコックさん」、「黄色いミイラ」、「銀色のナイフ」などがあります。他にもまだまだあるはずです。一つ一つ数え上げていけば枚挙に暇がないでしょう。この中ではイルカ島が若干特殊な例で、憶えていると訪れるとされる災難の内容が、不幸になるとか呪われるとか抽象的なものではなく、ある種の幽霊や妖怪のような存在に足を奪われる、というものになっていることがあります。これはどうやら「足、いるか?」からの発展形のようです。黄色いハンカチなどは、むしろ「幸せの黄色いハンカチ」として有名で、なぜ呪いの言葉なのかなどと疑問に思ってしまいます。もしこれを憶えていて呪われるのであれば、日本中で一体何千万人が呪われてしまうのでしょう?

 何にせよ、同様の類話のなかでも最も知名度が高いのがムラサキカガミの話でしょう。余談ですがSNKのゲーム・「月華の剣士」に紫鏡(しきょう)と言うキャラが出ているのを見て、かなり真剣な顔をしてムラサキカガミの呪いについて語っている小学生ぐらいの男の子を見て、この話の威力を実感したこともありました。相当ショックを受けていたらしく、かつての自分の姿とダブったものです。それにしてもなぜ、呪いの言葉が紫の鏡なのでしょう?それに関して以下のような話があります。

 関西地方のとあるところに、間もなく成人式を迎える女性がいた。彼女は成人式、特に晴れ着を着ることを楽しみにしていたのだが、不幸にもその日を迎えることなく、交通事故で亡くなってしまった。
 この女性は普段から紫色の鏡を大切にしていたので、遺族はこの鏡を棺の中に入れてあげようと考えたのだが、亡くなった女性がいつも肌身離さず持っていたほどの物なのに、どういうわけかこの鏡の行方がわからず、結局鏡が見つからないまま葬儀が執り行われた。
 その後、この女性に関する悪い噂が立った。女性は生前良い評判のない男と付き合っており、その別れ話がこじれたために亡くなったというものだった。そして、紫の鏡はその男性からの贈り物だったというのである。
 この噂は全く事実無根のものだったのだが、出所は亡くなった女性の女友達だった。
 やがて成人式の日。亡くなった女性にまつわる悪い噂を流していた友人が行方不明になった。そして行方不明になった当人と入れ替わるように、その人の部屋からあの紫の鏡が見つかった。
 行方不明になった女友達はその後再び姿をあらわすことがなく、彼女の両親は心労が重なりついには亡くなってしまった。
 ムラサキカガミという言葉が呪われた言葉となったのは、この怪奇な出来事以降のことである。


 こちらの話は関西地方(大阪とされることが多いようです)が舞台になっているので、関西を中心に広まっている話のようです。より一般的なのは次の話かもしれません。

 ある女の子が、大切にしていた手鏡に悪戯をして、絵の具で紫色に塗ってしまった。ところが、この紫色はあとからどれだけ洗い流そうとしても、落ちることがなかった。
 やがて女の子は自分のこの行為を気にしながら、二十歳の頃にはなくなってしまった。いまわの際にはうわごとのように、「ムラサキカガミ、ムラサキカガミ」と繰り返していたと言う。
 何でもこの鏡は、インドで作られた古いもので、呪術的な意味合いのある特別なものだったそうだ。


 ディティールの異なるものは他にもいくつか存在しているようですし、全く別のエピソードもあるかもしれません。ただ、いくつか別個に存在していた紫の鏡に関する話が、最終的に一つの言葉に収斂して行くというのはあまり合理的な考え方ではないでしょう。おそらくは、ムラサキカガミという言葉が先にあって、それにまつわる呪われたエピソードは後付けなのではないしょうか。

 もともとムラサキカガミという言葉に意味があった可能性までは否定しませんが、紫という色にしろ、鏡という道具にしろ、少なからず神秘的かつ呪術的な意味がこめられたものです。この話の性格を考えるに、不条理の恐怖を煽るために曰く因縁のありそうな造語を生み出したという考え方も出来ると思います。敵を知り、己を知れば・・・・・・とは孫子の言葉ですが、逆もまた真であるはずです。すなわち正体のわからない相手には、どのように対処すればよいのか分からず、とらえどころのない不気味さをかきたてられる事を承知の上で、ムラサキカガミという意味があるようなないようなつかみ所のない言葉を、呪いの言葉として設定したのかもしれません。そして、得体の知れない不気味さよりは、底の見えた恐怖に逃げようとした人たちや、あるいは面白半分で話を付け加えようとした人たちによってムラサキカガミ誕生の経緯が語られるようになったのかも・・・・・・とここまで行くと発想が飛躍しすぎかもしれませんが。

 無気味な呪いの言葉の恐怖から逃れようとしたと言えば、ムラサキカガミの呪いを打ち消すための呪文をはじめとする祓いの手段も、まさしくそのような心理から生まれたものでしょう。この祓いの手段は数々あります。呪文以外の具体的な呪い避けの方法としては、横断歩道の白い部分を踏むというものがありますが、やはり呪文の類いが相当数、確認されています。呪い避けの言葉とは、「ピンクの鏡」、「水色の鏡」、「永遠に光る金色の鏡」、「白い水晶玉」、「助けてホワイトパワー」などです。ムラサキカガミの不気味さの根源は、やはり紫という色にあるのか、呪い避けの呪文は、不可思議な紫色を明るく華やかな他の色で打ち消すかのような言葉ばかりです。特に清浄なイメージのある白が好まれるようですね。20歳未満の人で、どうしてもムラサキカガミの呪いが心配な人は、理屈は抜きにしてここにある呪文を片っ端から唱えとけば大丈夫でしょう。

 呪い避けを薦めるなど、呪いというものが実在して、かつその対極にある祓いにも実効性があるような書き方をしてきました。「怪力乱神を語らず」などと言えればかっこいいのですが、こと呪いに関してはその存在を全面的に否定することは出来ないのです。

 呪いの中でも藁人形に五寸釘を打ち付ける「丑の刻参り」は、もっとも有名なものでしょう。この呪いの歴史は古く、また現在でも時折神社の境内などで藁人形が見つかることもあるようです。科学万能の時代にいかにもアナクロな感じはしますが、この呪いの藁人形も、状況次第では呪いたい相手に対してダメージを与えることができるのです。

 はっきりとした場所は残念ながら覚えていませんが、何年か前、とある片田舎の町で呪いの藁人形が見つかったことがありました。その藁人形からは、呪いを掛けた相手が誰であるのかはっきりと分かったそうです。小さな町のことだったので、呪いをかけられていた当人もその藁人形の事を知ってしまいました。それから間もなくして、その呪いをかけられていた人は、急に体調を崩して床に臥せってしまいました。病院に行ってもはっきりとした原因はわかりません。その人の体調はだんだんと悪化していきました。そんな折、丑の刻参りを行っていた人物が逮捕されました。すると、それを機に少しづつ体調が快方に向って行ったそうです。

 丑の刻参りを行っても、被害者に対して実際的なダメージを与えることは出来ません。少なくとも科学的にはありえない話なので、例え呪いをかけた相手が何かの拍子に死んだりしても、”不可能犯”となり、傷害罪や殺人罪は適用できません。しかし、この時の逮捕容疑は恐喝でした。もう一度この時の状況を説明しておくと、呪いの儀式が行われていたのは、うわさが簡単に町全体に広まってしまいそうな小さな町でした。従って、呪いの儀式をかけられた相手が簡単に特定できるような状況を作り出したことが、恐喝罪の適用につながったようです。この場合の恐喝罪とは、何かを脅し取ろうとか言うよりは、お前に対して強い害意をもっている人間がいるぞ、というのを相手にほのめかすことでしょう。要するに、猫の生首とか、小動物の死体を送りつけたりとかするのと同列の陰険かつ悪質な嫌がらせと言うことですね。呪いの手段としてはもっともポピュラーな藁人形で、それがどういう意味を持っているかは広く一般的に認められているのですから、法的に悪質な嫌がらせの手段として認められたわけです。

 察しの良い方ならもう気付いておられるでしょう。呪いをかけられ体調を崩していた人は、誰かが自分に対して非常に強い害意をもっている、ということを知ってしまたっために強度のストレスにさらされ、その結果心身症のの症状を発症していた、というわけです。

 プラシーボ効果と言う言葉があります。プラシーボとは偽薬の意味で、例えば病気にかかっている人達に対して、ただの小麦粉などを「これは薬だ」と言って”処方”してやると、その小麦粉を飲んだ人のうちの何人かは本当に病気が治ってしまうのだそうです。これは人間の思い込みの力によるもので、この現象をプラシーボ効果と言うのです。人間の思い込みの力と言うのは結構強烈で、もっと極端な例になると、被験者に漆の木(触るとかぶれます)を見せておき、目隠ししたあとに漆とは全然別の、全く無害な木に触れさせてもかぶれの症状が出たり、漆の木の代わりに焼け火箸のような鉄棒を見せておき、同じようにして目隠しをしたあと常温の鉄棒を押し付けると、火傷のような跡がついた、という実験結果があります。

 このような話を踏まえて考えると、自分に呪いがかけられていると思い込んだ時、身体的に何の異常もなくても、体調がおかしくなったりしてしまうのは無理もないことかもしれません。本物の薬は使い方次第で毒にも薬にもなりますが、これはプラシーボ(偽薬)が毒として作用してしまった事例です。この理屈で行くと呪いというものが強ちデタラメではないと言うことになるわけですが、同時に呪いを避けるための祓いも、呪いと同程度に真実であると言うことが出来ます。要は気の持ちよう、鰯の頭も信心とは、蓋し真理なのでしょう。

 もっとも、呪いをかけたことによって事故などの災難に襲われた、というような話はプラシーボ効果で説明は出来ませんが、これは単なる偶然でしょう。むしろ、ちょっとくらい悪いことが重なったとしても、それを気にしてしまう方が問題なのかもしれません。

 ムラサキカガミの話は、忘れなければいけないという部分が特に悪質です。忘れよう忘れようと意識してしまうとかえって忘れなくなってしまうものなのですから。あまり気にしすぎると本当に「呪い」にかかってしまいます。話のとおりに二十歳の頃に死んでしまうと言うことはないにしても、決して好ましい事態は招きません。やはり、この話は気にしないのが一番でしょう。どうしても忘れられない場合でも、呪いと同じくらい祓いにも力がありますから、この話を知っていたとしても心配するほどのことはありません。どうしても困ったら、「ホワイトパワー」で大丈夫です。この呪文は、呪いのことが心配な人ほど強い効果を発揮するはずです。