来し方行く末


 楽屋ネタ2004
2004.09.01

 
 早いもので、この2004年9月で、サイトを開設してから3年目になります。過去を振り返る趣旨の雑文は、去年の同じ時期にも書いていますし、客観的に見ておもしろい読み物だとも思えない自覚がありますが、それでもあえてまた、今年も自慰的書き物を残しておきます。何だかんだと言っても、管理人が、自分とサイトの来し方行く末を考えるには都合が良いので…。

■何のために「都市伝説」か?
 なぜ、そしてどのような経緯をたどってこのサイトを開設したかについては去年の段階で書いていますが、いったい何がしたくてサイト運営を続けているのかについては、3年の歳月を経る間に自分の中でも大きく変わってきているような気がします。

 都市伝説について、何かしらの「研究」めいたことを行おうとするときのアプローチは、大別すると社会学的方法と民俗学的方法の二系統になると思います。簡単に言ってしまうと、「これこれこういう話がはびこる背景には、かくかくしかじかの世情が影響している」というような分析を行うのが社会学的アプローチ、「この種の話の起源をたどっていくと、○○時代から伝えられているあるパターンの民話にまで遡れる」という感じの論理を展開していくのが民俗学的アプローチ、と言ったところでしょうか。日本国内での話で言えば、前者は川上善郎氏らなどが、後者は松谷みよ子氏らが代表格の研究者でしょう。もっとも、都市伝説研究の開祖(?)であるブルンヴァンの場合は、両方の手法を併用するような形で都市伝説を解析していましたから、両者の折衷型こそが都市伝説研究の正統と言えるのかもしれません。

 さて、当初において私がどういう分野から都市伝説にとりついたかと言うことになれば、それは一応のところ「文化人類学の視点から」と言うことになります。学部生時代に文化人類学を専攻し(学部レベルでは真似事と言うのもおこがましいのですが)、その絡みで都市伝説について調べていたのが始まりなのですから、実態はどうあっても、そのように言わざるを得ない部分もあります。しかし、この「文化人類学」と言う学問分野がくせ者です。これは、良く言えば学際的、悪く言えばごった煮的な雑駁さのある学問なのです。早い話、社会学や民俗学をも取り込んで成立しているといっても過言ではなく、無責任な言い方をしてしまえば「何でもアリ」の学問と言うことになってしまいます。ちなみに同じ人類学でも、より社会学的性格の強い人類学を「社会人類学」と呼び、文化人類学との区別を行うこともありますが、この境界線は両者とも結構あっさりと踏み越えてしまうので、絶対的なものではありません。

 民俗学と文化人類学の区別にも、かなりややこしいものがあります。在学中には、「両者の間に内容上の大差はないものの、日本伝統の呼び名が民俗学で、文化人類学は西洋風の呼称なのかな」程度の認識でやっていました。今となってみると、それはそれでさほど間違った考え方でもなかったようです。最近になってあらためて確認してみたところ、民俗学と文化人類学の守備範囲には一致する部分も多いのですが、柳田国男を事実上の創始者とする日本民俗学とは、もっぱら日本の文化のみを研究対象とし、補足的に日本に近い地域の文化も研究するという、「文化人類学の日本限定版」のような学問であるとのこと。民俗学について一言で言ってしまうと、「ヨソのイエのことは関知しない」というスタンスのようです。

 話を本筋に戻すと、私は、そんな「何でもアリ」の文化人類学をとっかかりに都市伝説のことを調べ始めたわけです。当初は気まぐれに社会学的アプローチと民俗学的アプローチの両方を行ったり来たりしていた感がありますが、最近の自サイトの動向を見ると、少しづずつ社会学分野に傾斜してきているのかなと思います。「オルレアンのうわさ」であるとか「豊川信金」の記事があるあたり、そういう傾向が良く現れていると思います。機会があったらそのうちに、関東大震災の朝鮮人虐殺事件についてもまとめてみようかな、などとも考えております。

 対する民俗学的アプローチをおもしろいと感じるのも事実ですが、私の場合は、こちらは都市伝説研究の方法として民俗学的解釈を持ち込む事それ自体がおもしろく、民俗学的な情報をこねくり回しているうちに満足してしまうような弱みがあります。例えば「3本足チキン」。実際にはかなり苦しい論理なのでしょうが、『「3本足チキン」は、日本神話に登場する「ヤタガラス」の相似形だから、両者の間には何かしらの関連があるのではないか』などと、もっともらしく言ってみるのもそれなりに楽しいものです。思うにこれは、「本歌取り」を楽しむことに通じる感覚なのでしょう。こういう議論は、知的な装いを持ちつつも、遊びの要素も内包したものだからこそ楽しいのだと思います。そして、私の場合はそういうアプローチをすると、「本歌取り」の元歌を探し出したところで妙な達成感を感じ、思考が止まってしまうようです。そのくせ、何か物足りないような隔靴掻痒感も感じます。

 そんなこんなで、サイト開設から3年ほどもかけてようやく、どうやら自分の興味は、「都市伝説」と言う形で紡ぎ出される個々の物語そのものにではなく、それを媒介する「人間」と言う存在に向いているらしい、と言う結論に到達しました。なんだか、こういうサイトの管理人としては偏屈に過ぎる考え方のようで心配です。


※2004.12.18 追記
 以前、民俗学と文化人類学の区別に関する流れの中で、「アメリカ民俗学」という言い方はないなどと書いており、恥を重ねていました。そんなことはないというご指摘を頂きましたので、訂正しました。「ヨソのイエのことは研究しない」というところから誤解が始まっていたわけです。

■「怖い話」は苦手

 星の数ほどあるWebサイトの中で、「都市伝説系サイト」と言うカテゴライズは、意外にファジーなものだと思います。漫然とネットサーフをしているだけでも、「怖いサイト」または「オカルトサイト」というくくりで都市伝説系のサイトを紹介している場面に出くわすことがあります。そこで紹介されているサイトは、他の有名サイトだったり、稀には拙サイトだったりする事もあります。都市伝説のサイトをそういうものだと捉えるのは、別に突飛な事でもないでしょう。一部ポータルサイトでは、オカルトや超常現象のカテゴリの下のサブカテゴリとして、都市伝説が存在していたりもします。しかし、「都市伝説を広める人間の方に興味がある」などと言っている人間には、これが悩みの種だったりもします。

 都市伝説研究の始まりである、かのブルンヴァン御大の著作にさえ、ヒッチハイクする幽霊(=日本でいうところのタクシー幽霊)の話が収録されている以上、この種の心霊談が都市伝説の一形態であることは間違いありません。というより、御大が「都市伝説」と言う新語を生み出す時に、心霊談・怪談の類もこれに含めると定義したようなものなのです。これにケチをつけるのは、天に唾する行為です。その流れで、拙サイトでもいわゆる心霊談の類も紹介しています。しかし、都市伝説は怪談が全てでないこともまた事実です。問題はこのあたりにあります。それなりの期間にわたってこのようなサイトを運営していると、「怖い話が好きでこのサイトに来た」、あるいは「心霊現象に興味があって迷い込んだ」という方に出会うことも少なくありません。率直に言って、私は、「お前は怖い話が好きなのか」と聞かれれば「まあ、人並み程度」と答えるしかありません。かの大槻教授や松尾貴史氏のような原理主義的否定派を見ていると、それはそれで何かが違うような気がしてきます。原始時代から霊的なものの存在が長らく語られてきている以上、そういうものに感応できる人も存在するのだろうし、そういう意味では霊の存在もまったく事実無根のものではないと思います。その反面、最近では心霊現象一般に関する興味が急速に失われつつあります。それどころか、心霊の実在を既成事実のごとく扱うテレビ番組に辟易したりする事もあります。総合すると私の心霊観は、「みんながみんな理解し、共感することのできない世界を一般化・普遍化して語るのは間違ってるのだろうな」といったところなのでしょうか。以前に読者の方から、霊界に関する解説を綴ったメールを頂いた事もありますが、私は霊感が皆無で、そこに書かれていることの1%も理解できませんでした。それに懲りて、「あまりスピリチュアルなレベルの話については関知しません」などと言う断り書きを追加したこともあります。以来、霊についてはノンポリで、「触らぬ神に祟りなし」的な姿勢を貫いております。下手に関わりを持つと、それだけで独立したサイトが作れるような内容ですし。

 また、心霊界の事情とは別に、実は幽霊が出てくるタイプの話そのものもあまり好きではないと言う事もあります。幽霊は、存在するだけでもすでに十分怖いのです。もしこれがストーリー上に登場してくると、話そのものの出来・不出来、あるいは「面白さ」とは別の次元で、条件反射的に恐怖の感情が喚起されるようなところが気に入らないのです。お笑いで言うのなら、下ネタのポジションがそれに近いのかもしれません。下ネタも、これが出てくると面白い面白くないとはあまり関係なく笑わざるを得ない部分があります。この種のネタは、折々に挟むのならともかく、これ一辺倒になると、どうしても場が間延びしてしまうように感じます。

 随分話が脱線しましたが、私は、怪談・心霊談愛好者の方に比べれば、冷めた目でそういうものを見ていることは間違いありません。なので、掲示板などで「すごく怖かったです」的な感想を聞かされると、複雑な気持ちです。発言者にしてみれば少なからず賛辞的な意味合いをこめた発言なのだとは思いますが、こちらとしては先方を騙しているような気がしてきて、結構居心地の悪い思いをします。過去には何度か、それよりもさらに突っ込んで「サイトの雰囲気でも怖さを演出した方が良いのではないか」とうような指摘をされたこともあります。現実問題として、拙サイトは浮かれムードを基調にしているようなところがありますが、これはむしろ、「ここは怖さを追求するサイトではありません」と言う事を暗にほのめかすための方策として行っているものです。

 さらに悪い事には、少なからずの「怖い話」を収集しているうちに、私の恐怖を感じる感覚は鈍磨してしまったらしく、自分では自サイト内で紹介しているいかなる話も怖いとは思えなくなりました。そればかりか、「リング」や「呪怨」と言った世間的に高い評価を得ているホラー作品を見ても、「それがどうしたの?」くらいにしか感じなくなっていることにも気が付きました。そんな体たらくなので、もし今後、怖さを追求したコンテンツを作ろうとしたとしても、怖さの勘所を外した寝ぼけたようなコンテンツができあがってくるのは想像に難くありません。多分、そのようなみっともないまねをする事は金輪際ありません。

 冒頭で宣言したまさにその通りに、他の人が見ても面白いとは思えない内容をグダグダ書き連ねただけの話になりましたが、作っている人間の意識が分かり、どういう趣旨のコンテンツなのかが分かっている事は、読者諸賢にとっても、多少は意義のあることなのではないかな、と。

 最後に、去年もやっていた「下位コンテンツから都市伝説の部屋へのアクセス数」の2004年8月版です。本当に世間一般の関心を反映したものかどうか、確度を保証できないのは去年と同じです。

コンテンツ名 アクセス(実訪問者)数
1,鮫島事件、犬鳴村 755
2,放送・メディアの都市伝説 255
3,学校の怪談 254
4,エイズの世界へようこそ 223
5,“達者”再録 223
6,ショッピングセンターの女児暴行 220
7,死体洗い 218
8,ドラえもんの最終回 165
9,口裂け女 152
10,ディズニーランド誘拐事件 113