昭和は遠くなりにけり


 忘れられた鳥居
 2004.1.17

 
 この写真は、京都のとある駐車場で撮影したものです。見ての通り、鳥居の写真です。ただ、神社の入り口に立っているようなありふれた鳥居とはまた別物のようです。これもまた見ての通りなのですが、壁面にぴたっと貼り付けられている訳ですから、これをくぐってその奥に進む事など出来ません。写真ではスケールが分かりにくいですが、そもそもこの鳥居の大きさにしてからが、せいぜい20cm四方におさまる程度のものでした。こんな小さな鳥居をくぐれる人間がいるはずはありません。車を駐車スペースに入れようとしていて、たまたまサイドミラーを覗いた時に映りこんでいて気がついたものですが、最初は「はて、何だろう?」と不思議に思いました。そして一呼吸あってから「前身駐車をしろ」と言うことなのではないかと思いつきましたが、結局はバックで入れました。そこまで思い至っておきながらも、あえてバックで入れようとした不敬虔に罰があたったのか、はたまた他所事を考えていて注意が散漫になっていたせいかは定かではありませんが、このときに車の後部をバックミラーの死角にあった柱にこすり付けました。軽い屈辱と気落ちを感じながら車の後部を確認すると、問題の鳥居がすえつけられているのは、バック駐車すると高さも左右位置もちょうど車のマフラーの真正面になりそうな場所でした。各ブロックごとに一つずつの割合で、同じような鳥居がすえつけられています。私の読みはまぁ、正しかったのではないかと思います。

 普通に「バック駐車禁止」と書けばよいところを、わざわざ鳥居を使おうとした理由まで説明しきれないのが苦しいところです。我田引水的ですが、何とか説明しようとするならば「場所が京都だったから」としか言いようがありません。ちょうど最近になって京都の府民性というか市民性にまつわる話が掲示板の方でありました。その時に私が引き合いに出したのが、「京都の客先でぶぶ漬け(お茶漬け)を出されたら『もう帰れ』の合図」と言う話です。これもどうやら都市伝説的な話で、京都に住む人ですら現実には聞いた事が無いような状態らしいですがそれでも、「古い」京都ならばあるいは、と思わせる程度の力はあるようです。それはさておき、いくぶんステレオタイプのきらいがある県民性・地域性に関する話題を扱った本などでは、この「ぶぶ漬け伝説」に限らず、京都人は自分の思いをストレートには表出せず、婉曲表現によって伝えようとし、それを読み取れない者は白眼視されると言うようなエピソードには事欠かないようです。この法則に従えば、鳥居という含みのある表現で前進駐車を促した、と言ったところになるのでしょうか。件の駐車場は三条大橋の東山側たもとにあり、祇園も近く、その点では古い京都と言えなくもなさそうです。もっとも、若者で賑わい、京都の中でも現代的なイメージが強い河原町あたりも祇園には近いので、祇園に近いから云々というのもあまりあてにならない根拠なのですが。

 ところで、私が「この鳥居は駐車禁止の意味ではないか」と、一応は設置者の真意らしきところを読み取れたのは、この駐車場の場合と同じような感じで、鳥居が「立小便禁止」という記号的な意味合い使われている(使われていた?)のを知っていた事が下地になっていたように思います。本来は神聖なものであるはずの鳥居に排気ガスを吐きかけるのは、立小便をかけるのと同じく、ご不浄にあたるのではないか、と。ついでに言えば、この駐車場は関係者以外の一般通行人がふらっと入り込む事はなさそうな場所で、わざわざここで小用を足そうとする人もいなさそうだということもありました。もっとも鳥居=立小便(ご不浄)禁止という発想も、これまた比較的最近にこの鳥居に関する話題が掲示板で出た事があったせいですんなり出てきたものだったのかもしれません。その時のやり取りの中で出てきた、噂の範疇に属する情報をまとめたものがあるのでここで紹介しておくと…。

 街を歩いていると、奇妙な位置に描かれた鳥居の絵を目にする事がある。何が奇妙なのかといえば、それらは大抵の場合、足下に近い低い位置に描かれている。
 ともすれば見落としてしまいそうな場所に描かれているのは、そもそもこの絵が人間に見せるためのものではないからだ。この鳥居は、お稲荷様や霊に通り道を教えるためのものなのである。新しく建物が建ったために本来霊が通っていた道筋を変えてしまったときに、その事を知らせる目的で鳥居の絵を描いているのだ。


 「若い人」と言うとその対象が不明確になるのかもしれませんが、それでも、「『若い人』の一部にはこういう噂がある」、という書き方をしておきます。知っている人に言わせれば「立小便禁止の意味でしょ」と一蹴されるような話でしょうし、都市伝説化するには少々パワー不足のネタかな、とも思います。大体、こういった鳥居の絶対数も少ないはずで、「若い人」の中には話以前に、街中で見かける鳥居というのがすでに何をさしているのか分からない人も多いでしょう。

 この鳥居がいつから存在していたかを特定するのは骨が折れそうなので、今後気長に調べていく事にします。可能性としては、日本で最も古い宗教であろう神道の神殿である神社が、鳥居も含めてほぼ今の形式を備え、一般の人々がそこを神域であると認識するような時期であればいつであれ、頓知の利いた人が日本人の道徳心あるいは信仰心に働きかける心理的なバリアーの発生装置としてこの鳥居を考案していてもおかしくは無いのでしょうが、さすがにそこまで起源の古いものではないと思います。感覚的には戦前から戦後にかけて発生したもののような気がしますが。

 鳥居の威力は未だに残っているらしく、同じく掲示板から得た情報によると2002年には、とあるベンチャー企業が、「立小便禁止」の鳥居と同じ原理を用いた(?)「ごみよけトリー」なる商品を開発したとの事。大きさは1mほど、朱塗りで、実際の鳥居と区別するために一部形が変えてあるようですが、一見すると鳥居のよう。国土交通省が利根川の河川敷に設置したところ、かなり顕著な効果が現れたようです。ただし、その後も効果が持続したかどうかは不明です。2003年8月の段階でもこの「ごみよけトリー」の導入を検討していた自治体があったので、少なくともそのぐらいの時期までは実効性があったのでしょう。

 この立小便禁止鳥居について調べてみると、どうやら数年前にフジテレビ系の「めざましテレビ」で取り上げられた事もあるようです。これは、視聴者が街で見かけた文物の情報をもとに、スタッフがその正体を究明する「迷走地図」に登場したものです。この種の雑学系番組の宿命で、ネタを知っている人から見れば「実は立小便禁止のマークだった!」と言う結論は思わず脱力してしまうものだったのでしょうが、それでもこの企画が放送されたのは、番組サイドに、この話を知らない人が少なからず存在していて、ニュースバリューがあるという判断が働いたのかもしれません。知らない人≒若い人と考えて良いでしょう。

 前述の通り、鳥居→立小便禁止という解釈はすでに頓知の領域のものです。昔は多くの場合に「立小便禁止」などといった添え書きがしてあったので、初めて見る人でも鳥居が何の意味か合点が行きやすかったのでしょうが、最近はどうも、「立小便禁止」を大々的には宣言しなくなりつつあるようです。いや、そもそも洋風建築にはどうにも不釣合いな鳥居ですから、景観面の問題もあって全体数が減少傾向にあるはずです。そして立小便をする人自体の数も減り、露骨に下世話な禁止事項を宣言する必要が無くなり、一部の不届き者に釘をさす程度、暗黙の了解事項を確認する程度の重さで、そっと鳥居を配置しておく程度で事足りるようになったと言う事でしょう。逆に言えば、この方法が考案された当初は言葉だけでも、鳥居だけでも十分な効果を発揮し得なかったのかもしれません。

 霊の通り道の噂ですが、例え設置者の意図したところとは違って若い人たちに理解されているとしても、本来の目的は果たしていそうです。厳格でも分別はありそうな神様に対してよりも、訳のわからない霊に対して立小便する方が、どんな仕返しをされるか分からない分アブナそうです。その点ではむしろ、神罰がどうのというよりは、霊の通り道であるとした方が若い世代に対して訴えかける力が強そうですし、この話はこの話で良いのかも知れません。

 でも、今時の若者の中に、街中で立小便する人もかなり少ないでしょうし(少なくとも私は見た事が無いです)、農村の場合を除けば立小便をするお年寄りでさえも見かけた事は無く、そんな事をするのは酔っ払いか、鳥居の意味自体がわからないような小さな子供くらいのもののよう。壁の鳥居の意味がわかるほど分別のある人ならばそもそも立小便などしなさそうな訳です。未だにこの鳥居に存在意義があるとしたら、犬の立小便(?)を禁止する、飼い主に向けたメッセージといった線でしょうか。片や立小便という行為そのものが少なくなり、他方では「立小便禁止」と言う断り書きもなくなった今となっては、事情を知らない人が本来は神聖なものであるべき壁の鳥居に秘教的なものを感じ取るのも自然な流れでしょう。

 しかし立小便禁止の鳥居が霊の通り道であるという噂は、つまる所この鳥居が長期低落傾向にあることを示すものに他なりません。もしかしたら犬よけとして残ることもあるかもしれませんが、消え行く鳥居が新たに生み出した噂は、どうも鳥居もろとも消えてなくなりそうな雲行きです。しかし、伝説、伝統、儀式、儀礼といった物の成立過程を考えるならあるいは案外、万に一つほどの可能性で、意味不明のまま取り残されて後世の人の畏怖の念を集め、様々な噂を発生させながら存続していったりして…。

 それにしても、「若い人」とか「今時の若者」とか書いていると、自分の老いのようなものを痛切に感じます。気がつけば平成も16年。本当に、昭和は遠くなりにけり、です。