封印された伝説


 黄色い救急車
2004.09.17

 
 随分前の話になりますが、防災の日のイベントに参加した時のこと。会場にいた消防署員の方にこんな質問をしたことがあります。「救急車の車体カラーには、法律か何かの規定があるのですか?」。はじめに質問を投げかけた人ではわからなかったため、あちこちへ話を回され、予想外の大事になりそうな展開に不用意な質問を軽く後悔した事は覚えていますが、最終的に得られた答えそのものは非常に単純明快で、「法律により、消防車は赤、救急車は白と決められています。」とのことでした。「道路運送車両法」という法律のようです。運輸省令第49条第2項の、「緊急自動車の車体の塗色は、消防自動車にあっては朱色とし、その他の緊急自動車にあっては白色とする」が、これに該当します。救急車そのものに関する規定ではないのですが、救急車は「その他の緊急自動車」に含まれます。「じゃあ、白くない救急車は救急車ではないんですか?」と聞いてみると、「そういうことになると思います」との答え。客観的にはかなり妙な質問をしたものだと思いますが、答えてくださった方は特にそれを訝しがる風でもなく、快く答えてくださいました。もしかすると、「こいつは黄色い救急車のことについて聞いてるのかな」と、こちらの意図を読まれていたのかもしれません。

 「黄色い救急車」という都市伝説は、かなり有名なものであると断言してしまっても良いでしょう。このコラムも、前回の名古屋ブス伝説で書きも書いたりの50編になるようですが、有名どころから順繰りに題材としていったのであれば、重箱の隅をつつくような瑣末なネタよりも、まずはこの伝説を取り上げることになっていたはずです。話としては極めて単純なものです。

 普通、救急車と言うと白いものだが、ごくまれに黄色い救急車がある。この黄色い救急車は精神病院の救急車で、精神を病んだ人たちを半ば強制的に収容するのだと言う。

 ただしこの話は、「精神病院の救急車は黄色いんだって」というように単体で語られるだけではなく、例えばあなたが何かとんちんかんな行動なり発言なりをした時に、「そんなことをしていると黄色い救急車が迎えに来るよ」というような形で茶々を入れるのに使われる事も珍しくありません。精神障害者を低く見る発想から生まれ、相手をその位まで貶めるために使われる伝説であることは明らかです。この伝説の中での精神病院(及び、その救急車)はゲシュタポ的イメージで語られていますし、救急車がまるで「いつでもどこにでも」現れる物であるかのような言い回しは、一昔前に言う事を聞かない子供をしつけるための方便として使われた「サーカスの人買い」をも連想させます。

 場合によっては黄色ではなく「緑の救急車」とされることもありますし、黄色い救急車の話が持っている侮蔑的ニュアンスをさらに増大させたような、「イエローピーポー」という名称で呼ばれることもあります。このような背景を持った都市伝説ですから、マスメディアへの露出は極端に少なくなっています。都市伝説の本はたくさんありますが、私の記憶では、この話を紹介していたのは「日本の現代伝説」以外ではちょっと思い浮かびません。これも収集した噂話を冷徹に分析・研究して紹介するスタンスの本だったからこそ、出版が可能だったのでしょう。面白半分で書籍化すると、あとあとそれが問題になりかねません。

 この伝説に関しては、いつぞやのカシマレイコの時のように偉大な先達がいらっしゃいますので、まずはそちらをご紹介しておきます。新・サイコドクターあばれ旅様の黄色い救急車研究所は、殊にこの伝説に関するデータ量に関しては他の追随を許さないコンテンツですので、客観的な事実関係に関する話について、今回の参考にさせていただきます。

 その真偽に関しては、冒頭の話でほぼ結論が出てしまったと考えてもよいでしょう。「黄色い救急車」は、理屈の上では救急車たりえないのです。それに類するものがあるとすれば、精神病院の事務用車両と言ったところでしょう。もちろんこれには緊急車両としての超越的な権限が与えられてはいません。普通の救急車のように、進路をふさぐ車に道を譲らせ、制限速度も無視し、赤信号でも直進するなどと言う芸当はできませんから、もし通報を受けて出動する事があったとしても、渋滞が発生すれば延々それに巻き込まれるでしょうし、けたたましくサイレンを鳴らしパトランプを点灯させながら、華々しく現場に登場する事もありません。黄色い救急車の正体が病院の事務車両だったとすると、より正確を期すのなら、伝説を次のような感じに改めなければなりません。「精神病院の中には黄色い事務車両を保有しているところもあるらしい。時にはこれで患者を搬送する事もあるようだ」。どうにもパンチに欠ける話ですし、都市伝説としては死に体です。

 この黄色い救急車の起源説については、色々な議論が戦わされていますが、未だ決定打となるような情報は提示されていません。以前、「黄色い救急車の登場する映画があった」というメールをくださった方がいらっしゃいましたが、どうやら研究所でも言及されている『危(やば)いことなら銭になる』(1962年公開)のことを意図しておられたようです。これに限らず、黄色い救急車の起源をめぐる議論となると、「古いフィルムでは白いはずの救急車が黄色く見えることがあるから、そういったところから始まった誤解なのではないか?」、「劇中に救急車ではないが黄色い車両が精神病患者を収容するシーンがあったりして、そこからさももっともらしく語られるようになったのでは?」等々、ドラマや映画に端を発する伝説であるとする説に人気があるようです。現在では広大な裾野をもつに至った都市伝説ですから、やはりマスメディアの強大な影響力を想定したくなるのは自然な流れと言えるでしょう。

 色相学に基づく色相視覚効果によって黄色い救急車の起源を解釈しようとする試みもまた、メディア起源説と同じように好んで用いられる手法のようです。色相学的解釈の理屈としては、「普通の病気とは事情が異なる精神病患者は、やはり普通の救急車とは違う特殊な車両によって搬送されていくと考える人が多かったのではないか」→「では彼らは、精神病患者専用の救急車に対し、どのような違いを想定したのか」→「差別化のための分かりやすい方法として、塗装色の変更を考えたのではないか」→「ではどのような色への変更を考えたのか」→「黄色はどことなく捉えどころのないイメージがある。素人考えに、これが傍目には理解しにくい部分がある精神病を象徴する色であると思われたとしても、不自然ではないだろう」と言うようなところに収斂していく傾向にあります。ちなみに黄色が人に与えるイメージを調べてみたところ、マイナスイメージとしては、落ち着き・定着性が無い印象を与える事があるらしく、前述の仮説もそれらしく見えるだけのでたらめな理屈を並べたものではなさそうです。また、黄色のプラスイメージを見てみると、温かみや希望を感じさせる色でもあるようで、この事実も「黄色なんてけったいな色を救急車に使うだろうか」というような伝説に対する疑問を封殺するのに一役買っているのでしょうか。

 このあたりまではごくオーソドックスな黄色い救急車伝説の解釈法ですが、以前に知人が面白い着眼点を与えてくれたので、私見として、その話も記しておきます。

 黄色い救急車が「イエローピーポー」の別名で呼ばれることもあるのは前述のとおりですが、その知人は最初、この音を「yellow people」と勘違いしていたらしく、その勘違いのため、二人で黄色い救急車の話をしていた時に会話が微妙に食い違う結果になりました。ややこしい事に、イエローピーポーにしろyellow peopleにしろ、差別的ニュアンスを含む言葉であるという共通点があり、その部分に関してのみ話がかみ合ってしまったために、どこに齟齬の原因があるのかを特定しづらい情況になりました。やがて勘違いの正体に気がつき、ほとんど同じ響きを持つ二つの言葉が、同じく蔑称として用いられているという事実に気づいた時には、ちょっとした感動すら覚えたものです。この着想を生かす方向で黄色い救急車伝説の成り立ちを推定していくと、もともと欧米人が黄色人種に対する蔑称として使用していたyellow peopleが、日本に入ってくる時に言葉本来の差別的なニュアンスとその響きから、世にも奇妙な緊急車両のイメージを生み出し、さらにはよりストレートに「黄色い救急車」と表現されるようになってていった…ということになります。もっともこの説にはこれを支持するだけの客観的な証拠が全くなく、話としては面白いと言う以上のものではありません。進駐軍が日本国内を闊歩していた時期に黄色い救急車の起源があったとしたら、もう少し強気でこの説をプッシュしていたのかもしれませんが、どうもこの話が広く流布しだしたのは1960年代のことと考えるのが妥当らしく、この時期にyellow peopleが日本へと輸入された理由を合理的に説明するのは難しいものがあります。この部分をクリアしない限り、yellow people起源説は取って付けたような珍説でしかありません。

 諸説紛々と表現するに相応しい起源説に関する話はこのあたりで一区切りにするとして、個人的にはどうしてもこの伝説に言葉狩りとの相似を感じます。マスメディアから忌避されがちな点はもちろんの事、「黄色い救急車」という一見した限りでは差別用語に見えない言葉に差別的なニュアンスが含まれている点からは、「気違い」という言葉を公の場から葬った事で生まれた、「基地外」「キティ」などの多分に揶揄の意味を含んだスラングが連想されます。黄色い救急車も、その主な用法を見る限りは、「気違い」の婉曲表現なのです。「『気違い』とか『頭がおかしい』と発言する事が問題になるのなら、別の表現に言い換えておけばたくさんだろう」という発想が透けて見えるようです。言葉狩りは1980年ごろから始まった動きで、時期的には必ずしも「黄色い救急車」の伝説と連動しているわけではありませんが、両者は、根底の部分、表面だけを取り繕い本義を見失ってしまった感があるという点で共通しているように思えます。しかも、このような性格を持つ都市伝説が、結局は屠られて行った言葉たちと同様にマスメディアからは遠ざけられているのですから、差別用語問題は同じようなところを堂堂巡りしているような気がしないでもありません。