民話・伝説語り

この項には、都市伝説以外のコンテンツで紹介した伝説・民話をまとめてあります。
主に旅行記の味付け的なエピソードとして紹介したもをほぼ原文ママで掲載してありますので、骨太なソースではなくあくまで読み物とご理解ください。


八百比丘尼と人魚の肉(福井県)
 福井県小浜市は県の南部、京都府と隣接しそうな位置にある。小浜と言えば人魚の肉を食べて何百年も生き長らえた八百比丘尼の伝説で有名であろう。
 伝承によると、ある時小浜あたりで珍しい魚が取れたのだという。そこで、それを食べてみようと言うことになり、近郷の主だったものがその魚を食べる宴会に招かれたのだが、やはり得体の知れない魚など薄気味悪く、誰一人口にはしなかった。皆、その場は食べるふりをして懐に隠したり、帰路で道にその魚の肉を捨てるなどしていた。
 しかし、1人の男が肉を捨てないまま家に帰った。すると、父親の帰りを待ちわびていた娘が何か土産はないのかとせがむ。酒が入っていた男は、ついうっかり酒席で出され、そのまま懐にしのばせたままにしてあったあの魚の肉を、娘に食べさせてしまった。あとになって青くなったものの、後の祭り。しかし、幸いなことに娘の体にはその後も変調はなく健やかに育っていき、無事に嫁にやることが出来た。
 だが、娘の悲劇はそれから始まった。数十年が過ぎ、夫が死んでも、娘は若いままで一向に年をとる気配がない。やがて、わが身の不幸を嘆いた娘は出家し、その後数百年を行きたのち、故郷の小浜で亡くなったのだという。これが八百比丘尼の伝説で、彼女が食べた肉が人魚の肉と言われるものだ。もっとも、人魚とは言ってもアンデルセンの童話に出てくる人魚姫のようなイメージではなく、むしろ人面魚の態に近いものらしい。

姫路城の怪異(兵庫県)
 姫路城のミステリースポットと言えば、宮本武蔵の妖怪退治伝説がある天守閣最上階の長壁神社のようである。この神社はもともと、天守の建っている丘に祀られていたのだが、築城の時に城の外へ移されたのだそうな。ところが、そうしたところ変事が相次いだので、城内、しかも天守閣の最上階と言う城郭建築のもっとも象徴的な部分に移されたものである。確か、宮本武蔵が退治したと言う妖怪は、長壁神社の祭神が零落したものだったと思うがそのへんの記憶は定かではない。
 また、姫路城内には腹切丸と言うなにやら穏やかではない名前の一角がある。もっとも、ここは名前こそ物騒だが実際にここで切腹したり斬首刑に処せられたりした者はいないらしい。この場所の構造が処刑場のように見えるため、そう呼ばれているだけのようである。
 そして、極めつけはお菊井戸である。これは、井戸から出てきて一枚二枚と皿を数える幽霊、お菊の伝説で有名な井戸である。番町皿屋敷といえば江戸時代の怪談だと思っていたのだが、元になった事件は戦国時代、1500年ごろのことのようだ。有名な怪談は、うろ覚えの記憶だが、お菊が主人が大切にしていた十枚一そろいの皿をついうっかりなくしてしまい、その責めを負って井戸に投げ込まれ、殺された話であった。実際には微妙に違うらしい。お菊は家中に謀反人がいることを許婚に告げ、許婚はそのことを主に伝えたのだが、最終的にはこの謀反が成就してしまい、お菊たちが粛清にあったという物のようだ。いずれにしても、殺されてしまったお菊さんは気の毒である。

埋蔵金伝説(岐阜県)
 白川村近辺は、その地形の故か大小さまざまのダムがある。従って道も湖の湖畔を走る機会がちょくちょくある。合掌集落のあたりを抜け、湖畔の道が白川街道と呼ばれるようになり、しばらく行くと保木脇と言う地区がある。注意していないと見落としてしまいそうだが、このあたりに『帰雲城埋没地』という看板がある。こう書くとただの城の遺構のようだが、この帰雲(かえりぐも)城跡は、そんじょそこらの城跡とはちょっと違う。ここには埋蔵金伝説が存在しているのである。伝承では本能寺の変後、金森長近の飛騨統一戦が行われていた時期、この城を拠点にしていた内ヶ山氏は、領内にある金山からの収入で、城内に莫大な軍資金を用意していたのだという。結局内ヶ山氏は、長近に恭順の意を示したのだが、会談を終えて居城に帰ったその晩、地震による山津波が起こって城と城下町を飲み込んでしまった。帰雲城は、城内に大量の軍資金を抱え込んだまま地中に没していると言うわけだ。一説には、帰雲城の瓦は金色に輝いていたとか。そこまで行くと少し胡散臭くなってくるが、ロマンあふれる場所には違いない。ただ、残念ながら一応埋没地ということになっている場所が、本当に帰雲城跡なのかどうかは怪しいし、城そのものの存在も史実と伝説の境界付近で危うくさまよっている。
 なお、帰雲城伝説に関連して、城下に住んでいた名医が、城の滅亡を予知して城下から逃げ出したと言う昔話もある。この名医は、人の脈を取ることで病人の状態を的確に見抜くことができたと言うが、ふとしたことから帰雲城下の人々は、見るからに健康体であるのに誰一人として脈を取れないことに気付き、この城が滅びの運命にあることを悟ったのだと言う。他にもいろいろな伝承・伝説は存在しているようである。帰雲城の存在、そして埋蔵金伝説も、強ち事実無根の話とは言えないのではあるまいか。

その後の浦島太郎(長野県)
 次なる経由地は寝覚の床。竜宮城から帰った浦島太郎は、どうやらその場ですぐに玉手箱を開けたわけではないらしい。日本各地を旅した後、最後にたどりついたこの地で、ついに玉手箱の蓋を開き、老人となったそうだ。つまり、竜宮城で過ごした夢のような日々から目覚めたのが、ここ寝覚の床というわけである。確か浦島太郎は、丹後半島あたりの昔話だったように記憶している。徒歩の場合、直線距離でも木曽の山奥までは結構な距離だ。もちろん、そこに日本各地を渡り歩いた道のりも上乗せされる訳だから、太郎の旅と言うのも随分遠い道のりだったことだろう。そんな太郎の偉業を記念して(?)彼の地には、浦島堂が建立されている。
 浦島堂そのものはたいして大きくはない。祠と言うのがちょうど良いくらいのサイズだ。中州と言う表現は正しくないと思うが、木曽川の流れに大きくせり出した巨大な岩の上、さほど背の高くない木立の中に建てられている。

柴田勝家の首なし武者(福井県)
 柴田勝家の命日と伝えられる旧暦4月24日になると、足羽川にかかる九十九橋あたりから、福井市近くの街道沿いに首のない武者行列が現れるのだそうだ。それだけでも不気味だが、それを見たことを人に告げると祟り殺されるのだと言う。また、江戸時代にその様子を絵に書いた人がいたのだが、その後その絵の持ち主には不幸が相次ぎ、最後の持ち主は火事で家もろともその絵を失ったということだ。

モーゼの墓(石川県)
 押水町は日本国内にありながらモーゼの墓があるという、青森県戸来村(現・新郷村)と並ぶ不思議の町である。モーゼは大魔神よろしく紅海を叩き割った、あのモーゼである。どういうわけか終戦後、米軍がやって来てこの墓のあたりを調査していったとか。調査結果は一切不明。そういう不思議な噂もある。なぜモーゼと日本の片田舎が結びつくかについてだが、これは竹内文書という古文書にそう書いてあったらしい。戸来村にキリストがやって来たという説の根拠になっていた古文書も確か同じような名前であった。

注:竹内文書に書かれた古代日本史は「正史」とあまりにかけ離れているため、一般に史料としての信憑性は認められていない。同じく、本当に「古文書」と言ってよいものであるかどうかも疑問視されており、伝説と呼ぶには少々歴史の浅い言い伝え。。

九尾の狐と殺生石(京都府)
 平安神宮の少し手前、岡崎あたりに殺生石の一部で造られたという鎌倉地蔵があるらしい。殺生石とは鳥羽天皇の時代に玉藻前を名乗って現れた九尾の狐が変化したものだと伝えられている。九尾の狐はインド摩羯陀国の華陽婦人や中国殷の紂王妃・姐妃などになって国王を悪政に走らせて国を滅ぼしてきたという妖怪である。それが日本にやってきて退治され、怨念が石となったのが殺生石とされる。殺生石は那須のものが有名だが福島、栃木、長野、新潟、愛知、岡山、山口、大分にもあるらしい。京都にあるのもそのうちのひとつというわけだ。

一条戻橋(京都府)
 一条戻橋は晴明が、妻から気味悪がられた式神(十二神将)を隠したと言う伝説の伝わる場所である。もっとも、戻橋は晴明以前から現世と異界の接点と考えられていて、式神云々の話以外にもいろいろな怪異談が伝わっている。晴明が殺害された父親の蘇生に成功したのも、渡辺綱の鬼退治の話も舞台は戻橋だ。戻橋という名前にちなんで地元の人は、出征兵士などにはこの橋を渡らせ、花嫁には渡らせないようにしたのだという。あとはこれから刑死する罪人もこの橋を渡り、真人間になって再びこの世に戻ってくるようにと願ったという話も聞いたことがあるような気がする。この話は記憶が不確かなので間違っているかもしれない。現在では川も橋もコンクリート作りになっており、言われなければそういう因縁のある場所という感じではない。

珍皇寺と小野篁(京都府)
 珍皇寺の井戸は小野篁が地獄へ行くのに使った通路だという伝説が残っている。篁は百人一首で参議篁となっているあの人である。昼は人間界の宮中で働き、夜は閻魔大王の下で働いていたそうである。なお、珍皇寺の六道とか、あるいは六波羅というのはかつての地名髑髏原から来ているらしい。何でもこの一帯ではかつておびただしい数の人骨が出土したのだそうな。

武田信玄の最期(愛知県)
 信玄はその途中信濃(長野県)の駒場で卒したとされているのだが、野田城には信玄の死にまつわる一つの伝説がある。病気療養のために野田城に滞在していた信玄が、ある晩美しい笛の音に誘われて城外の様子を見たとき、火縄銃を構えた狙撃兵に暗殺されたと言う話である。

 野田落城に関しては、信玄の死にまつわる一つの伝説が残されています。野田城に篭城する将兵の中には村松芳休という笛の名手がいて、彼が夜毎吹き鳴らす笛の根は敵軍の総大将である信玄でさえも楽しみにしていたと言います。ある夜、笛の音に誘われた信玄が姿を現したとき、城内から一発の弾丸が放たれました。この弾丸は、武田軍が鉄砲に対する防御のために設置していた竹束を貫通し、背後に控えて笛の音に聞き入っていた信玄に命中し、それが致命傷となって信玄が没したというのです。
 信玄暗殺に関する真偽のほどはわかりません。あるいは徳川方のプロパガンダだったのかもしれませんが、新城市内の宗堅寺には、信玄を狙撃したと伝えられる「信玄砲」が伝えられています。

奥三河天狗伝説(愛知県)
 津具村はじめ、奥三河の北設楽郡内には天狗伝説が残っている。面ノ木近辺には天狗棚や碁盤石山といった山がある。天狗棚はそのものズバリ天狗の山だが、碁盤石山も天狗伝説にまつわる山だ。近隣の村にすんでいた碁の名人が山に住む天狗と碁の勝負をしたのだが、その勝負に負けた天狗が悔しくて碁石をしっちゃかめっちゃかにしたという話が残っている。

戸隠と言う地名(長野県)
 タヂカラオはアマテラスが岩戸の隙間から外の様子をうかがっていた時、力任せに岩戸を放り投げた大力の神で、そのとき地上に落下した岩戸が戸隠の山になったという伝説がある。

牛にひかれて善光寺参り(長野県)
 善光寺といえば、「牛にひかれて善光寺参り」の昔話も有名。ごくかいつまんで説明すると、ちょっと性格に問題のあるおばあさんが、図らずも暴走した(?)牛に引かれて善光寺までやってきて、寺にお参りしたことで改心したという話である。

七尾落城伝説(石川県)
 七尾落城については、一つの言い伝えも残されています。城を取り囲み兵糧攻めを続けていた謙信は、織田軍が七尾に向かっているとの報を受け、城に対して大掛かりな攻勢を敢行するか否かの判断材料とするため、城内の様子を探ることがありました。水の手も切り、渇きに苦しんでいるはずの城内の厩では、しかし城兵が豊富な水で馬を洗っている様子を見て取ることが出来ました。城内が疲弊しきっている状態であれば、攻撃を仕掛ける心積もりの謙信でしたが、どうやら兵糧攻めの効果は薄かったのではないかと判断しかかりました。ところがその時、どこからともなくやってきたカラスが、馬を洗っていた水をついばむのが見えました。水に見えていたのが実は米であることを見抜いた謙信は、すぐさま城に攻撃を仕掛け、七尾城はついにその攻撃に耐え切れず、陥落したと伝えられています。
 「馬を米で洗う」というある種の計略は篭城時にわりに良く行われていたもののようで、遠目に見ると流れ落ちる米は本当に水のように見えたそうです。なお、七尾城のエピソードに似た伝説を持つ城も他に存在しているため、話そのものは後世に後付されたものなのかもしれません。

夜泣き石のいわれ(静岡県)
 昔、一人の妊婦が賊に殺された。今際の時、彼女は子供を産み落とした。子供を慕う彼女の霊は傍らにあった石に乗り移り、夜毎泣き続けた。夜泣き石のいわれである。
 夜泣き石の話には後日談がある。赤ん坊は、成人後に刀の研ぎ師となるのだが、あるとき刃こぼれした刀が彼のところへ持ち込まれた。母親が賊に斬殺された時、傍らにあった夜泣き石が刀の刃を止め、それで自分が生き延びたことを知っていた彼は、「もしや」と思って持ち主に刃の欠けた理由を問い詰めると、若い頃遠州で妊婦を殺めた時に近くにあった石を切ったせいだ答えが返って来た……。

霊犬伝説(長野県・静岡県)
 その昔、花園天皇の治世だったというから今から700年程前の話である。信濃駒ケ岳のふもとにある光善寺で、どこからともなくやってきた一匹の雌の山犬が五匹の子犬を産んだ。寺の和尚も、この山犬の親子の暮らしぶりを見守っていたのだが、子供たちが母犬と区別できないほどに育った頃、母親と四匹の子供は山へと帰っていった。しかしどうしたことなのか、五匹の中でもひときわたくましく利発だった子犬だけが寺に残っていた。何かと親子に目をかけていた和尚は、少し不思議に思ったものの、この一匹が寺に残ったことをたいそう喜び、これを「しっぺい太郎」と名づけて慈しみ育てた。

 同じ頃、遠州の見附宿あたりのこと。村人に人身御供を要求し、これに従わなければ近隣の田畑を荒らして凶作をもたらす神がいた。秋祭りの頃になると、毎年のように村の家の戸口に白羽の矢を立てるのである。矢を立てられた家は娘をこの悪神に差し出さなければならなかった。村人たちは、背に腹はかえられぬと仕方なくこの悪神の要求に従ってはいたが、やはり娘を贄に差し出さなければならなくなった家の者の悲しみは言い様も無いほどだった。
 ある年のこと、この悲劇を見かねた見附天神社の社僧・一実坊弁存は、何か手立ては無いものかと物陰から人身御供の様子を伺っていた。果たして、正体不明の怪物が、白木の箱に入れられた娘を求めて弁存の前に姿を現した。いや、見えたのは怪しげな影だけだったと言った方が正確かも知れない。しかし、その怪物は奇妙な歌を歌っていた。
「今宵今晩この事は 信州信濃の光前寺 しっぺい太郎に知らせるな」
 その直後、人身御供の娘の悲痛な叫び。
 弁存は、怪物の恐れる信濃光前寺のしっぺい太郎を探すため旅に出た。
 旅を続けた弁存は、ついに光善寺のしっぺい太郎の噂を耳にする。が、彼が探し続けた勇士・しっぺい太郎は、あろうことか犬なのだという。これには弁存も落胆したが、太郎を知る人はみな口々に太郎を誉めた。弁存もついに、「せっかく長い道のりをやってきたのだから」と太郎の顔だけでも見ていこうという気分になった。そして、太郎と対面を果たした弁存は、その聡明さと精悍さに感じ入り「これならばあるいは…」と認識を改め、光前寺の和尚にいきさつを話した。和尚も弁存の話に不思議な縁を感じ、怪物退治のために太郎を貸し出してくれた。

 そして、その年の秋祭り。弁存は太郎を白木の箱に入れ、少し離れた場所から様子をうかがっていた。同じく箱を運んできた村人たちも、弁存と同じく何が起こるのか、固唾を飲んで見守っていた。やがて、去年の同じ日に弁存が聞いたあの歌が聞こえてきた。怪物は、ひとしきり箱の周りをうろうろしていたが、やがて箱のふたを取ったようだった。その瞬間、箱の中に潜んでいた太郎は猛然と怪物に体当たりした。がたがたと激しい物音に混じって、二つの声が聞こえてきた。一つは太郎の咆哮だった。もう一つは怪物の叫び声だろう。暗くてはっきりとしたことは何もわからない。弁存と村人たちは、血も凍る思いで暗夜の格闘の成り行きを見守っていたが、やがて二匹の死闘は終わったようだった。しかし、その場に居合わせた者は恐怖のために戦いの結末を見届けに行く事が出来なかった。そして夜が明ける頃、意を決した弁存が昨夜の戦いが行われていたあたりまで行ってみると、血の海に倒れこんだ怪物の躯を見つけた。怪物は、年経た猿の化生だった。しかし、そこに太郎の姿は無かった。

 同じ朝、昨夜が見附の秋祭りの期日であることを知っていた光前寺の和尚は、矢も楯もたまらず寺の山門の前に立っていた。すると、東雲の道を何かが近づいてくるのが見えた。はじめは小さな黒い点だったそれは、寺に近づくにつれて犬の形になっていった。太郎だった。その足取りはよろよろとしておぼつかないようだった。ようやく和尚に抱きすくめられても、太郎には以前と同じく和尚にじゃれ付くだけの力は残されていなかった。全身に深手を負いながら、それでも恩のある和尚のところまで帰って来たのだった。太郎は、和尚に抱かれながら息絶えた。和尚と村人は、光前寺の境内に太郎を手厚く葬った。