名古屋・珍名地散歩


 
    つるまい
鶴 舞 -昭和区鶴舞1〜5丁目-

 どこの街にも難読地名というのはあって、これが読めるかどうかで生粋の地元っ子かヨソ者かを区別することがあるようだ。まあそこまで露骨ではないにしても、ヨソ者に「これなんて読むの?」と質問し、相手が予想通りの誤答をかました時にはニヤニヤしたり…程度は間々あるだろう。別にそのことの良い悪いを言うつもりはない。
 昭和区の「鶴舞」と言う地名は格別の珍名というわけではないが、そういった「地元同化度テスト」に用いられがちだ。市内には地下鉄「つるまい」線が走り、「つるまい」駅がある。その地上部分にあるJR中央本線の駅も「つるまい」駅だ。しかし、ここに落とし穴がある。


 駅近くには、名古屋で最も歴史が古く、しかも広大な「鶴舞公園」がある。この公園の名前は、「つるまい公園」ではない。「つるま公園」なのである。どうやら最初に「ツルマ」(「水流間」と表記されていたとも)という音があったらしく、公園造成時に吉字である「鶴舞」を当てたと言うのが有力な起源説のようである。やがて、字面にひきずられる形で「つるまい」という音が定着してしまった。異説としては、「昔はこのあたりも海が近かったために鶴の飛来地となっていた」などと言うものもある。
 現在の地勢で見ると、位置的には都心とその周辺地区の境界付近にあり、花見をはじめ名古屋市民の憩いの場となっている。名古屋市公会堂、鶴舞中央図書館など大掛かりなランドマークの他に、明治期に建造された噴水等や奏楽堂、茶店「山之茶屋」など、かなりイイ感じのスポットも存在している。奏楽堂では宵闇の中での演奏会が開かれたり、心憎いイベントも多い。
 私などは閑な時には図書館で時間を潰した後、公園内のベンチでボーっとしていたりする。これを読んだ名古屋市在住者は、もし風采の上がらない怪しげな男が公園のベンチに座っているのを見つけても、決して石を投げつけたりしないで欲しい。せめてこっそり後ろ指を差す程度にとどめておいて頂ければ幸いである。
 さて、私は未だに「図書館は『つるま図書館』だったかしら」などと言っている体たらくだが、とりあえず「つるまいの図書館」とか「つるまいの公園」とか言っておけば間違いない。公園がある場所の町名は、「つるまい」である。


 
    せいめいやま
清明山 -千種区清明山1・2丁目-

 日本各地には弘法大師空海にゆかりの史跡がたくさんある。多くは「大師はこの地でこんな奇跡を起こされたのです」式の逸話が残る場所なのだが、優れた宗教家と言うか呪い師は、この種のエピソードには事欠かない。安倍晴明(921?-1005)も、同じように超人的エピソードを今に伝えるシャーマンだ。
 平安時代、そして日本史上でも最も有名で優れた陰陽師の一人であった晴明は、寛和3年(987)の政変で尾張配流の憂き目にあったのだという。そして、その先でも蝮や蛇の害に悩まされる住人たちのために加持祈祷でこれを取り除くと言う伝説を残した。晴明は、その後に都への復帰を果たしている。
 清明山は、このような伝説に由来する地名である。


 清明山近辺を歩いてみる。出来町通(県道名古屋田籾線)が表通りということになるだろう。この道には基幹バスが走っていて、まん中の1斜線は事実上のバス専用線になっている。路面電車の走る故郷の風景を思い出し、少し懐かしい。道は広い。いろいろと店も多いが、ビルらしきものは無い。
 清明山交差点でこの道から北に折れ、住宅地に入ったあたりが清明山である。山とは言うが、それらしいものは見当たらない。どちらかというと、東山公園だとか平和公園のある東山丘陵の北のはずれという感じである。ちょっとした坂道程度はある。
 平安時代の安倍晴明伝説には続きがある。江戸時代になると再び近傍の村人たちが蝮の害に悩まされるようになった。そこで伝説を思い出し、晴明を祀る清明神社を建立したところ、またしても蛇の類はなりを潜めた。
 この晴明神社は今も残っている。小さいが、きれいな神社だ。もっとも、神社の周りはすっかり宅地化され、県営住宅や三菱の建物に見下ろされるようになっている。それ以外の建物も一戸建ての民家ばかりだ。この景観では、今さら蛇や蝮もあったものではないだろう。罰当たりながら、むしろ神社の境内の方こそ蛇にとっては暮らしやすそうに見える。
 この神社の200〜300メートル北にはナゴヤドームがある。龍と蝮の形状がかなり似通っているのが気になるところではある。


 
    いまいけ
今 池 -千種区今池1〜5丁目-

 名古屋で一番の盛り場といえば錦3丁目である。次いで、錦・栄エリアを出し抜こうと鼻息も荒い名古屋駅周辺地区であろう。では3番手はと聞かれると、かなり微妙な問題だ。金山駅周辺か今池かと言ったところか。若干今池の旗色が悪いような気がするが、大型店舗に雑居ビル、飲食店から風俗店まであり、表通りは賑やかだ。路地裏に入れば住宅地という、雑駁な街並みになっている。終戦直後には闇市があったとも言うから、その流れか。
 今池という地名は、馬の水浴び利用された「馬池」の転訛であると考えられている。一応ネタ本を当たり、そうしてしたり顔で「馬池の転訛だ」などと言っているのだが、実はこのネタ、現地ですでにバラされている。


 千種郵便局などがある今池交差点の東南角には、馬の銅像が立っている。「出合い ふれあい 親子馬」というタイトルらしい。「なぜこんなところに馬が?」と、この交差点を通りかかるたび怪訝に思っていたのだが、「馬池」の話を知っていると、設置者の意図も透けて見えてくる。果たして、親子馬の足元にあるプレートには「馬を水浴びさせた“馬池”から“今池”の地名ができました」と書いてあった。種明かしで先を越されるのは、悔しいものだ。
 もっとも、「今池」という地名にはもう一つ解くべき謎(大袈裟ながら)がある。「馬池」の所在だ。
 これは、現在の今池中学校の辺りにあった。「馬池」とは言うものの、本来は農業用のため池だった。そして、ここで水浴びをしたのは伝馬用の馬だということだ。なるほど、言われてみると今池中学は飯田街道(国道153号線)からわずか数百mほどの場所に立っている。街道筋を行き交う馬たちが、この池の恩恵に浴したのだろう。
 この馬池は、大正10年に耕地整理事業で埋め立てられたが、その少し前の明治末年には、ここで遊んでいた子供8人が溺れた。この子らの霊を慰めるため、池のそばに今池地蔵が建立されている。現在も今池中学の体育館近くに立っていて、意外に大きなお地蔵様だ。台座も立派でかなり目立つのだが、縁起由来はいっさい語られていない。知らない人が見れば、かなり意味深に見えるであろうことは間違いない。


 
  ねこがほらどおり
猫 洞 通 -千種区猫洞通1〜5丁目-

 猫洞通とは、大カマキリと並んでいわく因縁のありそうな地名である。この近くには山猫なり化け猫なりが住むと言われる洞穴でもあったのだろうか。
 地名の起源をたどっていく限りでは、そのような話には行き当たらなかった。もちろん、「あら、こんなところに猫が…ホラ」とか言うようなしょーもない駄洒落でもない。こういう発言は書いている人間のイタさを露呈するだけのものなので、さっさと話を先に進めよう。
 このあたりを含め名古屋市東部には丘陵地帯が広がっている。猫洞通近辺はその地形から、古名を「兼子山」と言ったらしい。そのため、「カネコ」のネコに始まる地名なのではないかとする説がある。あるいは、中国の猫堂にちなむ、金子硲の字に由来するという説も。


 猫洞通はその名の通り、地下鉄の本山駅辺りから、見渡す限り墓地が広がる平和公園の入り口までを結ぶ道沿いにある街だ。入口と出口に高低差があるため、坂道の街になっている。実際問題としてどちらが入口でどちらが出口というものでもないが、平和公園側から猫洞通に入ってみる。こちら側からだと、長い坂道を下るだけで済む。1丁目から5丁目に向かう形になる。
 猫洞通、別名をキャットロードと言うらしい。片側1斜線対面通行に狭くない程度の歩道が確保されてはいるが、とりたてて広い道というわけでもない。
 さすがに墓地が近いだけあり、坂の上のほうには石材店が目立つ。それ以外は、小洒落た店はあるものの、さほどインパクトの強い店もなさそうだ。4、5階建てのマンションが道の両側に建ち並んでいて、時間帯によっては陽の当らない坂道となる。左右に壁を感じる事と相まって、何となくトンネルっぽい。「猫洞」の「猫」はカネコということで片がつきそうなのだが、積み残された「洞」に関する疑問が思い起こされる。もちろん、今となっては周辺に洞穴らしきものは見当たらない。
 個人的には、猫好きなため、この町に住むのも良いかなあと思う。マンション名に「猫」の一字が入るのもいいものだ。
 今の猫洞通に洞穴は無くても、愛らしい猫はうろうろしている。


 
  だいとうろうちょう
大蟷螂町 -中川区大蟷螂町-

 大蟷螂町。字面だけで判断するなら、でかいカマキリの町である。庄内川の河川敷が町内の大部分を占めるようなので人口はさほど多くないと思うが、住んでいるのはもちろん普通の人ばかりである。過去にもカマキリの化け物が現れたと言う伝説は残されていない。
 「大蟷螂」の起源は諸説ある。熱田神宮の宮大工がこのあたりに住んでいて、その親方、すなわち「大棟梁」が「大蟷螂」へと転訛したと言う説。
 もう一つは、海を行く船の目印とするべくこの地に建てられた灯台=「大灯篭」が「大蟷螂」になったと言う説である。
 大蟷螂町の隣は大当郎1・3丁目となっている。このことからも、まず音ありきの地名だったような気がする。

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   ○にょうし
○ 女 子 -中川区二女子、四女子、五女子-

 金山総合駅から尾頭橋を渡って八熊本通りを西に向かうと出くわす意味深地名が、信号交差点にも見られる「五女子」である。「数字+女子」という地名は他に、五女子に隣接する二女子、中川運河を渡って少し行ったあたりの四女子がある。なお、「八熊」という名も少し気になったので調べてみたところ、これは昔、五女子にある八劔神社と二女子にある熊野神社の頭文字をくっつけて「八熊村」としていた事に始まる。
 さて肝心の「○女子」という地名だが、一説にこれは、愛知郡片端の里(現在の古渡あたり)にあった大領主が七人の娘を七箇所へと嫁に出してそれぞれに自分の土地を分配して与え、地名も順番に一女子、二女子…と改めていった事に始まるという。現在、地名として残っているのは二、四、五のみだが、江戸時代にして既に一、三、六、七は欠損していたフシがある。領主と七人の娘は、結構古い昔話らしい。

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    ごくらく
極 楽 -名東区極楽1〜5丁目-

 名東区極楽は、名古屋市の東のはずれに位置する。隣はもう愛知郡長久手町という場所だ。名古屋市東部は基本的に丘陵が発達しており、植田川や天白川の流れによって削られた河岸地区だけが低地になっている感じである。極楽も、高台の上に位置する町だ。
 ありがたいような、どこかありがたくないような微妙な地名「極楽」。その起こりについては例の如く諸説ある。木曽川や庄内川の低湿地で洪水に悩まされていた人たちがはるばるこのあたりまで移住してきて、「ここは水害におびえなくてもすむ極楽だ」と言ったのが始まりだとする説、秀吉と家康が争った長久手の戦いの負傷兵たちが傷を追いながらもたどり着いた安息地だったことから転じて極楽となったという説などがある。ここで挙げた二説は、いずれも極楽の地勢ありきのもので、ある程度の必然性も認められる。

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   ○○がおか
○○ヶ丘 -名古屋市東部-

 名古屋市東部の地形は、「極楽」の項で説明した通り。とにかく高台になっている。そのため「○○ヶ丘」という様な地名は非常に多い。有名どころでは地下鉄の駅名にもなっている星ヶ丘(星が丘という町名と両方がある)、藤が丘(駅名は藤ヶ丘)。他には枚挙に暇が無い状態だが、目に付いたものを全て列挙していく。光が丘、千代が丘、桜が丘、霞ヶ丘、南ヶ丘、自由ヶ丘。ここまでが千種区。続いて、つつじが丘、平和が丘、にじが丘、豊が丘、富が丘、明が丘、藤見が丘、望が丘、宝が丘、照が丘、そして「大統領」でもいそうな朝日が丘にて名東区は打ち止め。比較的近年まで守山市として名古屋からは独立していた守山区に本地が丘、弁天が丘。天白区に梅が丘という具合だ。
 非常にニュータウン的な香りの漂うネーミングで、実際に住民からの公募で決まった名前ばかりだ。しかし、個人的には「○○ヶ丘」という地名に欺瞞を感じるところがある。中には「丘じゃなくて山だろ」と突っ込みたくなるような、急峻な斜面に造成された住宅街もあるのだ。

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    ちとせ
千 年 -熱田区千年-

 これも別に難読地名ではない。危険な香りのする言葉でもない。しかし、何となく引っかかるところのある地名だった。
 千年は、熱田神宮から遠くもない。「はて、その関係でついた地名なのだろうか」と思った事もあったが、何となく釈然としない。というわけで、せっかくの機会だから他の地名と同様にいわれを調べてみた。
 昔、このあたりの村の名前をどうするか、住人たちの間で侃侃諤諤の議論になった。近年の市町村合併でも新しい自治体の名前を巡る議論は紛糾しがちであるが、この時も近隣の村の合併で新しい村が発足するから、その名前を考えていたのである。議論は夜通し続いたのだが答えが出ない。ついには夜が明けてしまった。そして、参加者が戸を開けて朝の空気を入れようとすると、ちょうど近傍の田に鶴が舞い降りていた。誰かが叫ぶ。「鶴は千年!」。かくて新しい村の名前は千年と決まった。まさに鶴の一声である。
 「熱田区史」は、それが天保のころの事だったと伝える。ところが、「千年」という名前の初出は明治9年なのである。

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    やごと
八 事 -昭和区・天白区-
 今で言う八事のあたりには、その昔「八琴」という琴の名手の老翁が住んでいたという。それにちなんで八事となった…というのはいかにも昔話チックな起源説だ。
 もちろん異説もある。「やごと」は昔、「弥五刀」と書いた。「や」は岩の事を指し、「ごと」は岩のゴツゴツした感じ、ゴロゴロ転がっている感じを表現する擬態語であるという。今でこそすっかり宅地化してしまったが、八事辺りは基本的には山である。八事山などと言う。明治の頃には明治天皇の行幸があったという場所でもあるので、その頃になると辺鄙なド田舎ではなかったと思うのだが、江戸時代くらいまで時を遡れば、別にその辺りに岩が転がっていたとしても少しもおかしくないような場所だ。



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    あげはちょう
揚羽町 -千種区揚羽町-




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   いしぼとけちょう
石仏町 -昭和区石仏町1・2丁目-




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    ひつじじんじゃ
羊神社 -東区-

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