信長を騙る
いきなり細かい話で恐縮ですが、「信長の野望・烈風伝」で、(一応)主役の織田信長の能力値は、総合で第四位だそうです。いえ、今ハマってるものですから。上位三名は武田信玄、徳川家康、伊達政宗で、信長はそれに続くわけです。とはいえ、この上位三名の中でも信玄公はい家康に大差をつけてのぶっちぎりの一位です。何しろことあるごとに信長の最大の宿敵として引き合いに出される信玄公で、初代信長の野望ではプレイヤー大名として選択できるのは信長以外では信玄公だけだったわけですから、この能力値(というか特別待遇)は妥当でしょう。 信玄公に限らず、私個人としてはこの順位付けに関してはかなり合点が行ってます。『烈風伝』では、政治、智謀、戦闘、采配という基本パラメータが各武将に設定されていますが、このカテゴライズに準じて史実に照らし合わせてみると、この四人のトータルバランスの良さは納得です。個々の能力の微妙な数値の設定や特技なんかには不満がありますが(信玄堤を築いた信玄公に建築特技が無いのはいかがなものか、等。もっともゲームバランス的には信玄公に建築があったら、戦闘時は本当に手に負えません。) では、信長がこの順位についている理由はなぜか。それはズバリ『戦闘の低さ』でしょう。それ以外の能力値は軒並み90オーバーでも、戦闘に関しては70台前半に設定されています。もし戦国マニアでこの文章を読んでいる方で、この順位付けに異議がある人がおられたとしても、この面子の中では信長の戦闘が低いというのは納得していただけるのではないかと思います。『烈風伝』での『戦闘』という能力値の設定基準は、武将単騎の戦闘能力。指揮官乃至は軍団長としてのが『采配』とのこと。ゲーム的には『戦闘』は主に武将指揮部隊の攻撃力に、『采配』は守備力に影響するそうです。具体的には、いわゆる猪武者的な『猛将』タイプの武将(武田勝頼、柿崎景家など)や、個人としては相当腕が立っても、指揮官としての能力には疑問符がつく剣豪(柳生宗厳、宮本武蔵など)は『戦闘』が高く(前田慶次など)、「剛く」はないけれど、戦でそれなりの実績を残している戦上手タイプ(羽柴秀吉、毛利元就など)は『采配』が高く設定されてます。 それはさておき、最終的に天下統一の目前まで行った信長の戦闘が低いというのは、不自然に感じる方も多いと思います。そこで信長が行った戦について検証してみます。
我ながら結構恣意的な感じはしますがそれなりに大きくて有名な戦いを選んでみました。なお、下二つに関しては信長自身は指揮をとっていません。 実は、信長は負け戦が決して少なくなかったし、上洛戦以降は自ら戦の指揮をとることはあまりしませんでした。自分で指揮を取るのが主だったのはそれ以前の尾張統一戦、統一直後の桶狭間、美濃攻略戦くらいまでです。 尾張統一戦に関しては、尾張一国をさらに小分けにした小勢力同士の小競り合いのようなものですから、戦国の合戦といって一般に思い浮かべられるような大規模な兵力のぶつかりあいではありませんでした。戦法もおのずと大規模な合戦とは違ったものとなります。実際に、この時期の信長の戦いは、小勢のフットワークを生かして、相手が臨戦態勢を整えるより先に決着をつけてしまったり、謀略によって相手を下したりといったものでした。この時期の戦に関しては、戦果等から上々のできだったと言って間違いないでしょう。 桶狭間も事前の情報戦などは別にして、直接軍事行動に出ていた時間はごく短時間の電撃戦でした。 斎藤道三が斎藤義龍に討たれてからは、美濃侵攻が始まるわけです。信長としては道三に比べて小物と見ていたようですが、侵攻作戦は再三にわたり失敗、結局義龍存命中には美濃を手中に収めることは出来ませんでした。義龍の子龍興の代になってようやく美濃を併呑することが出来たわけです。余談ですが、道三も義龍をさほどには評価しておらず、いずれは自分の子供達が信長の軍門に下ると予言していたという逸話が残っています。能ある鷹は・・・ではありませんが、義龍も凡庸の武将ではなかったようです。 上洛戦に関しては大規模な戦闘も無く、さほどの苦労はなかったようです。当時の畿内一円は、どんぐりの背比べの如く突出した勢力も無いまま戦況が膠着していたため、そのパワーバランスを崩す外部からの異質な圧力があると、下手に抵抗してやぶへびになるよりは、あっさりとなびいてしまうような判断が働いたせいだという話もあります。六角氏の末路も畿内諸勢力のそう言った判断に影響したのかもしれません。 上洛以降に自ら戦場に出張った戦の中でいちばん有名なのは長篠の合戦でしょう。知っての通り、鉄砲三段撃ちで武田軍を破った戦です。この三段撃ち歴史教科書などを見ると画期的な戦法であるかのような印象を与えそうな記述がしてありますが、理論的にこれと同じ戦法は長篠以前にすでに存在していたのです。画期的だったのは一般に「3千丁」といわれている大量の鉄砲を使って時間差射撃を行ったことです。驚異すべきは戦法そのものよりもごり押しともいえる物量作戦です。用兵の妙とは別次元の勝利だったと言えます。 負け戦(上では手取川、木津川)についてですが、いずれも小細工はなしです。言ってみれば正面衝突です。手取川合戦は、軍神と恐れられた天才的戦上手、上杉謙信公が隙を見逃さず織田軍の側背をついた電撃戦で惨敗しています。有態に言えば相手が悪かったという感じですが、木津川の方はそれなりに準備していたにも拘らずの敗北です。もっとも、毛利の水軍の方も、「焙烙玉」と呼ばれる武器(陶器の器の中に火薬を詰めたもの、焼夷弾かナパーム弾のように火炎で舟を焼く)に代表されるように、海戦に関しては工夫に工夫を重ねた海の王者だったわけで、これも相手が悪いといえなくも無いですが。 上にあげた以外の他の負け戦は、浅井の裏切りを知っての越前からの退却戦、直接対決ではないものの少数ながら援軍(しかも戦わずして逃げた)を送って敗北した三方ヶ原の合戦、とにかく決め手を欠くまま泥沼の抗争に陥って肉親を失った対一向一揆戦など、いろいろあります。信玄存命中に関しては、決戦回避の代償としてほぼ一方的に自国領を侵蝕されています。 要するに織田軍は連戦連勝だったわけではないのです。実はかなり負けてます。最初の話に戻りますが、信長の「戦闘」が低いのは、大規模かつ正攻法的に正面衝突した合戦で、巧みな采配によって勝利した華々しい実績がほとんどないせいです。資料などから信長が聡明な人であったことは窺い知れるので、決して戦が弱かったわけでは無かったでしょう。100点満点中の80点くらいは取れますが、信玄公や謙信公のように100点に手が届き、あまつさえそれ以上も望めそうな人たちや、野戦上手で知られた家康、乾坤一擲の摺上原での劇的な勝利をはじめ、破竹の勢いで奥州の覇者の地位に駆け上り、まず戦に関しても上々の評価を与えられそうな伊達政宗に比べるとちょっと、といったところでしょうか。 ただし、これは信長ばかりの責任ではなく、戦場で彼の手足となって働く尾張の兵が当時の日本で一、二を争うほど弱い兵だったためだという考え方もあります。信長はそのことを理解していたからこそ、真正面から事を構えることを避け、電撃作戦を敢行したり、数で相手を圧倒しようという物量作戦を推し進めたのだといえます。 だからといって、信長を軽んじる事なかれ。電撃作戦、物量作戦と口では簡単に言っても、実行に移すのは並大抵のことではないのです。電撃戦は機を見るに敏でなければ、逆に致命的な失敗につながりかねません。 物量作戦に関しても、同様です。多数派が勝つ、というのはおそらく有史以来一貫して全ての闘争に関してあてはまる絶対的ともいえる真理ですが、数をそろえるのも簡単なことではありません。だからこそ、信玄公も謙信公も、優れた戦術を用いて数の足りない部分を補おうとしたのです。信長は、局地戦での戦術の代わりに、卓抜した政治力に基づいた大局的戦略によって磐石の経済基盤を確立して物量作戦を実現し、天下を掌握していったのです。感情的な部分を配して冷徹に見れば、戦争も政治手段の究極と評価できるそうです。政治力によって戦争に勝つというのは、至極当然の帰結なのかもしれません。 例え戦術家・兵法家として80点ぐらいだとしても、それとは別次元からのアプローチによって天下人になったあたりが「戦国覇王」の面目躍如といったところでしょうか。伊達にシリーズ中に『覇王伝』なんてサブタイトルがついてる作品があるわけではないのです。 |