菱〜武田三代

   (2)武田信玄・前編


■親子の相克
 武田晴信(後、入道して徳栄軒信玄と号す)は、大永元年(1521)の11月3日に、甲斐守護であった武田信虎の長子として生まれた。母は大井氏。幼名は太郎。勝千代とも言う。

 晴信の生まれた日、父信虎は甲斐国内の飯田河原で領内に侵入してきた今川の大軍を相手にしていた。数の上では圧倒的不利にあった武田軍だったが、晴信誕生と前後して今川軍を撃退することに成功する。以後、甲斐の国内情勢は急速に安定していった。

 母大井氏は、晴信のために当時最高レベルの知識人を招聘し、彼の教育係とした。戦国大名として着実に力をつけつつあった武田氏だったからこその英才教育と言えるだろう。父信虎は、若年で家督を継いだこともあったのだろうが、幼少期から少年期にかけて教育らしい教育を受けた確かな証拠がなさそうである。戦においては一定の実績を残している信虎は、実践たたき上げ型の人物だったのだろう。その点で、晴信は武将としてのスタート段階において、すでに父より恵まれていたと言って良い。また、生まれついての資質にも恵まれていたのか、師の教えを吸収した晴信は、端倪すべからざる成長を見せていった。後世の創作も多分に含まれているだろうが、晴信の少年時代は、その俊英ぶりを物語るエピソードに事欠かない。

 その反面で、父である信虎は次第に晴信を疎んじるようになっていた。次男信繁を溺愛していたらしいことは、つとに有名である。信虎は、信繁の聡明で素直なところを気に入っていたらしい。後に武田の副将格として晴信を支えた信繁のことだから、素養に関しても人格に関してもこの人物評は間違ってはいないだろう。ただし、聡明と言うだけならば、晴信にしてもその例には漏れまい。してみると、晴信は信虎にとっての素直な息子ではなかったと言うことか。「たたき上げ」の信虎にとって、「高学歴」を誇る晴信は小賢しい若造だったのかもしれない。晴信の方でも、信虎の思いと気性は十分承知だったのだろう。次第に「うつけ」のふりをして信虎との衝突を避けるようになっていったと言う。

 晴信は、13歳のときに扇谷上杉朝興の娘を妻として迎えている。これは完全な政略結婚で、朝興と協力して相模の北条氏綱と戦うための同盟の証であった。しかし、彼女は輿入れの翌年に懐胎死している。

 晴信の元服は天文5年(1536)のこと。16歳のときだった。武田氏の通字である「信」の上に、室町幕府十三代将軍足利義晴から偏諱を受けた「晴」の字を押し頂いたのが、「晴信」と言う名である。同時に、従四位下大膳太夫に任官されている。同じ年、今川義元の仲介で左大臣三条公頼の娘を正室に迎えている。三条氏の姉は管領細川勝元に嫁し、妹は本願寺光佐(顕如)の裏方だった。

 『甲陽軍艦』によると初陣は(少なからず伝説視されている話だが)、天文6年の佐久海ノ口城(城主・平賀源心)攻めだったと伝えられている。元服・初陣の時期は諸説あるが、概ね天文6年前後のことであったとされる。海ノ口城攻めは、信虎の佐久侵攻作戦の一戦に位置付けられる戦いだった。しかし信虎は、この城を落とすことが出来ず、結局は撤兵せざるを得なくなった。このとき晴信は、志願して殿軍(しんがり)を務めている。そして、撤兵するように見せかけて、本隊を見送ると海ノ口城に取って返し、武田軍を撃退したと思って臨戦態勢を解いていた城を、たちまちのうちに攻め落としたと言う。しかし、信虎は晴信の殊勲を賞賛しなかったばかりか、かえって忌々しげに毒づいたとさえ伝えられている。父と子の仲は、そこまで冷え切っていた。

 そして、天文10年(1541)。親子の断絶はついに晴信による信虎の国外追放と言う形で決定的になった。駿河の今川義元に嫁いでいた娘(晴信の姉)を訪ねた信虎は、甲駿国境を超えたところで今来た道を封鎖され、そのまま二度と甲斐には帰れなかった。どうやらこの事件は単純な親子の不和だけに帰せられる性格のものではなかったらしく、武士から民百姓に至るまで、甲斐中の人が信虎の追放を喜んだと言う。信虎に買われていたはずの信繁までが兄に従ったと言うのだから、信虎はよほど周囲の反感を買っていたのだろう。とはいえ、晴信のこの行いは一般にはひどく不興をかったようであり、この出来事が原因となり、彼は終生「親を追った不孝者」という枷を負うことになったようである。国主の座についてからしばらくの間は、信虎時代の連戦で疲弊しきった国内を慮ってか、晴信は軍事行動を起こしていない。

■諏訪侵攻
 1年後の天文11年(1542)。晴信は再び対外侵攻を開始した。標的とされたのは諏訪盆地にあった諏訪頼重だった。友好関係にある今川氏との関係継続は勿論、北条との対決も避ける信虎時代からの方針を踏襲する北進政策だったが、父と違っていたのは、佐久方面への進出を見直した点である。佐久地方はあまり平地が広くなく、甲府盆地とも八ヶ岳によって隔てられていた。対する諏訪地方は、諏訪湖を中心に盆地が広がっていてまとまった広さの平地が存在し、甲斐からの道も平坦であった。諏訪頼重には晴信の妹が嫁いでいたが、それでも晴信はあえて実入りの大きいと思われる諏訪を攻めた。諏訪一族の内訌に乗じ、頼重の一門衆高遠頼継と謀って頼重にある程度の攻撃を加えたところで講和に持ち込む。なんと言っても婚姻関係にあったために頼重側もこれに応じ、古府中(甲府)にまで出頭している。が、晴信はここで頼重を斬り、旧諏訪氏勢力を武田家の支配下に組み込んだ。諏訪郡代には板垣信方を置いた。信方は、晴信の傅役であるとともに、家中の重鎮だった。

 諏訪侵攻は、後の武田家の運命を大きく左右する出来事であったとも言える。と言うのも、晴信はこの時、頼重の娘と出会っているのである。後の諏訪御料人、四郎勝頼の生母である。新田次郎氏原作の大河ドラマの影響から、「湖衣姫」の名で広く知られる女性だが、この名は氏の創作。程なく晴信は、彼女を側室に迎えている。諏訪領民の武田に対する反感が強かったため、ゆくゆくは武田と諏訪の血を引く男子に諏訪の地を任せ、領民を馴致しようとしたのではないかと言われている。事実、勝頼はある時期までまさにその役割を果たしている。しかし、家臣たちは晴信の考えに反対していた。諏訪御料人の子は、やがて武田を滅ぼす鬼子になると…。

 天文14(1545)年には、高遠頼継らが治めていた上伊那地方も手中に収め、勢いに乗る晴信は翌15年に佐久へと侵攻し、内山城と前山城を落とした。

 内政面においてはこの頃、甲斐の国内法(分国法)である「甲州法度之次第」を定めている。

■小笠原と村上
 父の追放と言う変事にスタートしつつも、ここまで順調に進んでいた晴信の戦略だったが、ここで最初の強敵を迎えることになった。信濃守護・小笠原長時である。そしてその背後には、北信に台頭していた村上義清の存在もあった。晴信が諏訪盆地から伊那谷にかけての南信地方を手中に治め、佐久方面をも併呑していったことで、境界を接する松本平の小笠原、小県の村上と衝突するのは必然だった。

 天文16年(1547)、晴信は北佐久の志賀城を攻撃している。この時、上野国に本拠を構えていた関東管領・山内上杉憲政から三万と号する援軍が送られてきている。武田軍は総勢一万。晴信はこの時、全軍の約半数を板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らに任せ、増援と戦わせている。武田家中でも名うての勇将達だった。結果、上杉軍を撃退することに成功し、この時に挙げた三千あまりの首を志賀城の外にさらし、城中の士気をそぐことで城を陥落させた。晴信は、志賀城攻めで下った女子供を古府中に連れ帰り、その身柄を売り飛ばしたと伝えられる。戦国時代においてはそれほど珍しいことではなかったが、このことは信虎追放と並ぶ非道として世間の不評を買ったという。

 明けて天文17年(1548)2月、晴信は北信濃の雄・村上義清と雌雄を決するべく、雪の大門峠を越えて小県に入った。対する義清も武田軍を迎撃するために軍を展開し、2月14日、ついに上田原(長野県上田市)で激突した。戦いは大混戦となったが、戦況は次第に武田方不利に傾いていく。先の志賀城攻めで晴信が行った行為が、信濃勢に「武田憎し」の感情を植付け、決死の抗戦を招いたのだと言われている。また、敵の大将である村上義清が老獪な猛将だったことも大きい。武田軍の損害は時を追うごとに拡大していき、副将格の板垣信方、甘利虎泰らといった重臣たちの討ち死にも相次いだ。この時の衝突では完全な形の決着は着かなかったが、武田軍の負った痛手は相当のものだった。にも拘らず、晴信はこの時、兵を退こうとはしなかった。この事実上の敗報を受け、諏訪にあった老臣・駒井高白斎らが退却を進言するも、晴信はこれを聞き入れていない。ついには母大井氏までが退却を勧め、事ここに至ってようやく晴信は兵を退いた。この敗戦は、武田家による信濃支配体制に大きな動揺を与え、同年夏ごろには、義清は小笠原長時と謀って諏訪地方に侵入している。

 晴信にとって最初の試練のときだった。義清、そして長時の様子を慎重にうかがう時期が続く。上田原では痛恨の大打撃を受けたとはいえ、村上は明らかに武田よりも格下の相手である。目下最大の敵は小笠原と言えた。そして、小笠原と村上が結んだ場合、事態はさらに厄介なことになる。そうした中、長時が諏訪の上原城陥落を狙って塩尻峠に布陣しているとの報が届いた。晴信は急ぎ兵を召集し、小笠原軍の迎撃に向かった。隠密裏に上原城まで兵を進め、7月19日の夜明けとともに、峠の上に布陣していた小笠原軍に奇襲を仕掛けている。小笠原の将兵は、甲冑具足を満足に身につけていなかったと伝えられている。この戦いで小笠原軍は壊滅的な打撃を受け、壊走した。この大勝利によって、武田氏による南信経営は以前よりも磐石のものとなった。そしてこれに伴って、晴信は再び佐久方面に兵を割くことが出来るようになり、上田原の戦いに伴う失地を回復している。対小笠原戦略が完結したのは天文19年(1550)のことだった。塩尻峠の戦い以後、完全に勢いを失っていた小笠原方諸城は、「晴信、松本平に侵攻す」の報に接しただけで、戦わずして次々と武田に下っていった。ついには当主である長時も、晴信と干戈を交えることなく義清を頼って落ち延びていった。松本平から敵対勢力を追った晴信は、小笠原氏の属城であった深志城に馬場信春を置いている。

 小笠原を倒した後、信濃国内に残った晴信の事実上の敵は村上義清だけになった。義清のさらに後方にはいくつかの小土豪が割拠していたが、いずれも晴信と武田家にとって脅威となるような存在ではなかった。長時を倒してから1ヶ月ほど経った8月の終わり、晴信は軍勢一万をもって村上の支城・戸石城を攻めている。この城は、義清の本拠葛尾城にも近い一大山岳城砦で、ここを落とせば義清の喉元に刃を突きつけているのも同然と言うことになる。晴信が戸石城攻めに向かっていたそのとき、当の義清は奥信濃の高梨政頼との対陣中で、葛尾城を留守にしていた。その隙に小県地方の村上氏勢力を削っておこうというのが晴信の作戦だった。2ヶ月ほどの間、戸石城に対して攻撃を続け、また周辺の親村上勢力に対する圧迫を強めていたが、やがて義清は政頼との和睦を成立させ、自城に引き上げてきた。そうなれば、戸石城を囲む武田軍に対して攻撃を仕掛けてくるのは明白だった。しかし、晴信はここで義清との決戦に及ぼうとはしなかった。10月1日になると、退却を開始している。果たして、村上軍は追撃戦を仕掛けてきた。退きながら戦わなければならない不利もあり、この戦いで武田軍の損害はかなり拡大した。横田高松ら侍大将格の武将も多く討ち死にしている。これが、世に言う「戸石崩れ」である。なお、余談になるが、同じ年には嫡男である太郎義信が元服している。

 翌天文20年(1551)。かつて義清と結んだ信虎によって所領を追われるも、晴信の代になり武田の部将となっていた真田幸隆が、調略によって堅城戸石城を下してしまった。仮にも武田軍の主力部隊の包囲に耐え抜いたこの城を、いとも簡単に奪い取った幸隆の手腕には、さしもの晴信も驚いたようである。論功行賞では、幸隆に戸石城とその周辺の領地を与えている。同時に、この出来事は後の「信玄戦術」の方向を決定付けるものともなったようだ。信玄戦術、すなわち采配の妙にだけ頼った力押しの合戦ではなく、異常なまでの調略によって敵の勢力を徹底的に弱体化させ、合戦は謀略戦の総仕上げとして半ば予定された勝利を拾いに行くためのもの、という戦い方である。それはさておき、戸石城落城の頃から村上氏勢力は急速に弱体化し、天文22年(1553)、本拠葛尾城を追われるに至った。義清は、越後春日山城に本拠を置く長尾景虎を頼っていった。景虎にすがりついたのは義清ばかりではなく、晴信に追われた信濃の諸豪族たちは、軒並み景虎にすがりついている。こうした動向が後の川中島の戦いにつながっていくのだが、それはまた後の話。

 天文23年(1554)には、いわゆる甲相駿三国同盟が成立している。晴信当面の攻略目標は信濃方面、今川義元の目は三河とその先の尾張に向かい、北条氏康は関八州の覇者たらんとしていた。当時、三国が合い争う必要性はどこにもなくなっていた。そのため、各々が掲げる最重点目標達成のために、余計な力の消耗は避けようとする極めて合理的な考え方が、戦国時代においても類をみないかなり特殊な形態の同盟を成立させたのである。今川義元に嫁いでいた晴信の姉は天文19年に亡くなっていたが、同盟関係の消滅を恐れる両家の思惑は一致しており、義元は自分の娘を晴信の嫡男・義信に嫁がせていた。これに加え、義元嫡男・氏真は氏康の娘を妻とし、晴信は自分の娘を氏康の息子である氏政に嫁がせ、三国の同盟関係が締結された。

 同時期、晴信は伊那谷とともに木曽谷の木曽義康を下し、配下に加えている。義康の息子・義昌には三女を嫁がせて木曽氏を一門衆に迎え、木曽方面からやってくる外敵の侵入に備えている。もっとも、晴信は知る由もなかったが、この婚姻政策は最悪のタイミングに最悪の形で破綻することになる。

 ここまでのところ、戦国大名武田晴信は、極めて順調に成長してきたと言って良い。しかし、義清を信濃から追ったあたりの時期から、晴信の勢力伸張はある種の停滞期に入る。その理由は、長尾景虎こと上杉謙信の存在だった。晴信と景虎は、天文22年の川中島における最初の対陣から足掛け11年に渡り、北信の支配体制をめぐって抗争を続けることになる。思えばこれも奇妙な縁で、晴信も景虎も、お互いがお互いと戦わずに済んでいれば、もっと違う形で日本の歴史を作っていたのかも知れないのである。晴信はもっと早くに美濃地方への侵攻が可能になっていただろうし、そうなれば信長の天下はどうなっていたかわからない。景虎は、関東に強大な影響力を有するようになったかもしれないし、あるいは北陸路を西進して中央の政治にも影響力をおよぼしていたかもしれない。しかし、史実はそうならなかった。両者とも戦国日本屈指の巨大勢力を築きながら、結局日本の歴史の流れにはさしたる影響を及ぼさなかったのである。

 一般に川中島の戦いと言えば、「甲斐の虎」と「越後の龍」が対決した文字通り竜虎相打つ一大決戦と認識されているが、5回にわたる川中島の戦いの中で、大合戦となったのは永禄4年(1561)の第4次合戦である。なお、晴信はこれに先立って信濃守護に任ぜられ、永禄2年(1559)には出家して、徳栄軒信玄と号している。

 ちなみに、ここでは晴信の戦いを中心に追ってきたが、領国経営においても優れた手腕を発揮している。「信玄堤」の名に残る治水工事、そして治山、黒川をはじめとする金山の開発、度量衡の統一、分国法である「甲州法度之次第」制定、基本的には軍用道路だが、「棒道」と呼ばれる領国内を結ぶ道の整備である。武田家の強さは、晴信が野戦指揮官として有能だったばかりではなく、内政家として国の足腰を鍛えた成果でもあった。

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