菱〜武田三代

   (5)武田勝頼


■諏訪四郎勝頼
 諏訪四郎勝頼。後に武田勝頼の名で呼ばれる事になる人物が最初に名乗っていた名である。これは、彼の生まれついての境遇を端的に表す名前であるような気がする。母の実家の姓である「諏訪」。武田家に生まれた男子でありながら、代々の通字である「信」の字をその名に持たず、代わりに諏訪氏の通字である「頼」を背負う。信玄には7人の男子があったが、「信」の字を持たないのは勝頼だけである。四郎は読んで字の如し、上に三人の兄がいる事を示す。戦国には嫡男でありながら「五郎」という人物もいるにはいるのだが。

 勝頼は当初の予定通りであれば、諏訪の名跡を継ぐはずの男子であった。諏訪氏について少し説明しておこう。名前からもわかるとおり、諏訪氏は諏訪大社の大祝(おおほふり)の一族であった。平たく言えば、氏子からの収入によって神官が力を持ち、そのまま豪族、戦国大名とスライドしていったような勢力である。勝頼の父である信玄は、天文11年(1542)に策謀によって諏訪氏を滅ぼし、当主頼重の娘(諏訪御料人)を側室とした。この時の諏訪御料人は十を少し出たばかりの少女だったが、彼女は後に信玄の子を身ごもる。それが勝頼だった。彼は、天文15年(1546)の生まれである。仮にも神職である諏訪氏を騙し討ちのようにして滅ぼしたためか、諏訪の領民の信玄に対する憎悪の念は強かったと伝えられる。そのため信玄は武田と諏訪の血を引く男子に諏訪の地を任せ、領民を馴致しようとしたなどと言われる。確かにそれもあったのだろうが、諏訪御料人が絶世の美女だった事も大きいと言われる。

 いずれにせよ、諏訪御料人が信玄の寵愛を受け、勝頼が兄であり嫡男である義信以上に父から愛されていただろうことは間違いなさそうだ。やがて成長した勝頼は、諏訪ではなく伊那の高遠城主となり郡代の任に就いている。永禄5年(1562)のことだ。同時に諏訪家をも継承するのだがこれは形式ばかりのものだったのか、当の諏訪家側に残る代々当主を示す系統図の中に、勝頼の名は無い。そして勝頼が高遠城主になった事が父と兄の軋轢を招く一つの要因となった。それでなくても駿河侵攻などの件を巡って信玄と義信の折り合いは悪くなっていた。度重なる衝突の果てに義信は信玄の追放(あるいは暗殺)を企てるようになっていく。しかしこの謀反計画は事前に露見し、義信は信玄によって幽閉されてしまった。そして永禄10年(1567)、その蟄居生活の中、義信は30歳でこの世を去っている。義信以外の二人の兄、龍宝(信親)は盲目であり、信之は早くに亡くなっていたため、勝頼が信玄の跡目を継ぐことになった。一説に義信事件は、勝頼に家督を継がせたいがために信玄が仕組んだ出来レースだったなどとも言われている。仮に信玄にそのような意志があったとしても、龍宝と信之の二人が健勝であったならば、義信事件の顛末は変わっていたような気がする。

 なお義信の死に先立つこと2年の永禄8年(1565)に、勝頼は信長の養女(血縁上は信長の姪に当る)を正室として迎えている。同盟の証、政略結婚だった。義信の正室が今川義元の娘であった事を考えると、今川を見限り織田との協力体制を構築しようとしていた信玄の思惑・政治的背景が透けて見え、義信・勝頼の境遇と運命を暗示するような縁組と言える。彼女は2年後に子供を産んでいる。この子が信勝である。幼名は武王であったと伝えられる一方で、生まれるや否や信玄によって信勝の名づけをされたなどとも言われる。なお、彼女はそれから間もなく死亡している。時期的に産後の肥立ちが悪かった可能性が考えられるが、詳しい事は良くわかっていない。若干余談になるが、同盟の証である彼女が死亡して慌てたのは信長だった。間もなく信玄の娘・松と自分の嫡男・奇妙丸(後の信忠)の婚約を願い出ている。が、この婚約は後の両家の関係悪化により、破談となった。

 勝頼の家督相続には家中からの反発が強かった。そのため、形の上で信玄の正統後継者は勝頼の子・信勝となり、勝頼は信勝成人までの陣代(後見人)という事になった。このため実務的な権限の上ではともかく、家臣団にしてみれば勝頼を信玄とまったくの同格に見る事はできなかったようである。このことが後々、家中の不協和音を呼ぶ一つの要因となっていく。

 こうして信玄の後継者となった勝頼は、元亀4年(1573)に信玄が亡くなるまでは武田家の部将として働く事になる。野戦指揮官としての彼の能力は、決して低くない。むしろ、優れた武将だったと言えよう。彼の初陣に関する話は残されていないが、血気盛んな若武者・勝頼の武勇を伝える話はいくつか残されているし、信玄の西上戦(語弊のある表現ではあるが便宜上こう呼ぶ)においては、機知をもって要害・二俣城を落とす武功を残している。これは後年の話になるが、上杉謙信は勝頼のことを父の教えを守って武田家の舵取りを行う名将であると評しているし、不倶戴天の敵となる織田信長と徳川家康もまた、勝頼を油断ならない相手と見ていた点で共通している。どこかに信玄の威光がちらつく感もあるが、それを差っ引いても同時代を生きた武将たちは、勝頼を信玄より与しやすい相手だなどとは見ていなかったようだ。勝頼嫌いの史料として知られる『甲陽軍鑑』ですら、「利根過ぎたる大将」として勝頼の才能を一応は認めている。もっともそれが、「その才能に溺れてしまう弱みがある」という批判につながるのだが。

 元服後しばらくの間は高遠城主を務めていた勝頼だが、元亀2年(1571)に府中(甲府)に戻っている。勝頼が去った後の高遠城には、信玄の弟・信廉が入った。

■勝頼の快進撃
 信玄は「自分の死を三年は隠し通し、その間に国力を養え」と遺言したと言われている。しかし信玄逝去の翌年、天正二年(1574)には、勝頼は早くも軍事行動を開始している。このことから、信玄遺言の実在を信憑性を疑う見方もある。信勝元服までの暫定的な代理当主である勝頼に、偉大な先代の遺言を覆して家中を動かす力はなかったと言う見地からの推理だ。確かにそれも一つの見方である。しかし、武田家周辺の情勢は信玄の死の頃から急速に、しかし確実に変化していた。国力で劣る信玄をして信長を追い詰めさせた包囲網は、信玄の存命中には既に破綻の兆しを見せていた。そして、反信長同盟の支柱であった信玄が死ぬと、同じ年のうちに浅井・朝倉両家は信長によって滅ぼされ、将軍足利義昭の追放によって室町幕府も滅亡した。もはや、待ったなしの状況だった。信長の急速な勢力拡大を阻むものはなくなり、手をこまねいていれば彼我の実力差が開く一方になるであろうことは、勝頼以下武田家中の誰もが痛切に感じていたに違いない。

 勝頼の進撃には目覚ましいものがあった。東美濃に進撃すれば織田方の支城を一度に18も攻め落とす勢いを見せ、家康の遠江では、信玄でさえも落とせなかった要害・高天神城を攻め落とした。「高天神を制すものは遠江を制す」と言われた戦略上の重要拠点だった。前述の信長による勝頼評はこの頃の物で、謙信に当てた書状の中に見られる。「四郎は若輩に候といえども、信玄掟を守り、表裏たるべくの条、油断の儀なく候」というものだ。

 その翌年のことになるが、徳川家の家臣である大賀弥四郎に主家の簒奪を働きかけたとも言われている。計画そのものは事前に白日の下にさらされ、弥四郎は極刑に処せられたようだが、一般に言われているような猪武者ではなく、勝頼の謀略家としての一面を伝えるエピソードである。

 このような経緯もあり、勝頼は信長と家康の心胆を寒からしめることには成功している。しかし、現実は決して勝頼に優しくなかった。父信玄が築き上げた包囲網は既に無く、そればかりかかつてそこに参加していた大名たちの遺領は信長の支配下に組み込まれていた。信玄最期の戦いの頃から、勝頼が新たに獲得した領土は10万〜20万石ほど。武田氏の総石高は130万石ほどであると考えられる。対する信長の勢力は、わずかの間に2倍近くに膨れ上がり、総石高は400万石ほどになっていた。

 冷徹に事実関係を判断すれば、勝頼の快進撃も焼け石に水程度のものでしかなかった。信玄に取り立てられ、ついには武田四名臣の一人に数えられるまでになった高坂昌信は、高天神落城の宴の時に「これは主家滅亡の盃である」ともらしたと言う。

■長篠の戦い
 信玄が元亀4年にこの世を去った事は既に再三述べてきたが、その年は改元の年であった。元亀4年が天正元年に改められたわけである。家康はいち早く「信玄死す」の情報を掴み、武田方の支城を攻めると言う威力偵察まがいの行動を起こしている。そこで確かな手ごたえを掴んだのか、東三河の山岳部に割拠していた武田方の土豪・山家三方衆に調略の手を伸ばし、作手の奥平貞能を寝返らせる事に成功した。そして天正元年9月、長篠城を守っていた菅沼氏の撃退を成し遂げている。後には奥平氏を入れた。三河路を巡って武田との戦いの火蓋が切って落とされれば、この城は最前線になる。武田が裏切り者の奥平を再び受け入れる事はない。つまり奥平氏は、生きのびるために徳川の武将として死に物狂いで敵と戦わなければならなくなったのだ。

 高天神城を攻め落として勢いに乗る勝頼にしてみれば、これは到底看過できる状況ではなかった。長篠城は三河攻防戦の際の重要拠点となる。そしてその城には裏切り者の奥平が入っている。貞能の行為はつまり、勝頼の顔に泥を塗るようなものだった。ただでさえ老臣たちから軽んじられる傾向があったと言われる勝頼にとって、父信玄から代替わりのタイミングを見計らうようにしての裏切りは許せるものではなかったはずである。いつまでも放置しておけば、家中の士気にも障りが出る。思惑はいろいろあったのだろうが、天正3年(1575)5月に、勝頼の長篠城攻略に向けた戦いが起こされた。

 一万五千の武田軍は、三河に侵入すると示威のために仁連木・吉田の両城(ともに豊橋市)を攻め、その守りが堅い事を知ると、長篠城を取り囲んだ。家康には単独でこれを退ける力は無く、岐阜の信長の出馬を待つよりなかった。武田軍に取り囲まれた長篠城の中には、守将・奥平定昌以下五百の兵が立てこもっていた。攻者三倍の話は既に別項で触れているが、それにしても長篠城の兵たちは自軍の30倍近い数の敵を引き受けざるを得なかったのである。小さいながらも堅城の条件を備えていた長篠城は予想外の粘りを見せたが、武田軍は少しずつ城に対する圧迫を強めていき、ついには兵糧庫までも奪う事に成功した。こうなるといかに堅い城でも陥落は時間の問題である。ところが兵糧攻めの完成よりも早く、信長と家康の連合軍三万五千、あるいは三万八千が、城からさほど遠くない設楽原に到着した。勝頼にしてみれば城攻めどころではなくなった。

 武田の陣営では連合軍との一戦にのぞむか、それとも相手が攻撃を仕掛けてくるよりも早く撤兵してしまうかの議論が戦わされていた。連合軍は設楽原に柵を築き、その奥になりを潜めて様子をうかがっているという。歴戦の老臣たちはそれを聞き、撤退を主張した。数に勝る連合軍だが、その戦術が積極的攻撃策ではないと踏み、また防御態勢を整えた大軍の懐に攻めかかるのを下策であると考えたのだ。対する勝頼以下主戦派は、柵を信長・家康が臆病風を吹かせている証拠だと判断し、あくまで強気に決戦に臨もうとした。

 この議論の紛糾に信玄亡き後の武田家中の亀裂が集約されていた。長坂光堅や跡部勝資らは勝頼つきの武将だったが、信玄子飼いの老臣たちは彼らを軽んじており、勝頼におもねる「寧臣」と見ていたようだ。勝頼側の言い分が伝えられていないので信玄世代の武将たちの実態までは明言しかねるが、「勝頼対老臣」と言う図式の対立ではなく、文字通り家中を二分する軋轢だったのである。なお、「老臣」、「勝頼つき」などと表現したことが誤解を招くかもしれないので付記しておくが、光堅・勝資らと信房ら信玄子飼い達との間に年齢差はほとんど無い。そのため「この頃の武田家中の軋轢は、武功派と吏僚派の対立が勝頼を巻き込んでいたものである」とする見方も可能である。

 勝頼は軍議が平行線の袋小路に迷い込んだ時、決戦にのぞむ決断を下した。そして「御旗楯無、ご照覧あれ」の言葉を口にしたという逸話がある。御旗は平安の頃から伝えられる源氏の白旗で武田家の家宝である。楯無の鎧もまた、重代の家宝だった。この二つの前で誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の不文律であった。ニュアンスで言えば「天地神明に誓って」というのに近いのだろう。もともと豪族連合的な体質が強かった武田家において、当主を議長以上のものたらしめるために認められた優越権のようなものだろう。長篠の場合に関していえば要するに、「連合軍との対決はすでに決定してしまったから、どんな意見も聞き入れない」と言うのである。この軍議の後、武田四名臣と謳われた老臣の三人、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊と、若年ながら信玄に見出され勇将の誉れも高かった土屋昌次は、今生の別れを告げる盃を酌み交わしたと伝えられる。四名臣最後の一人、高坂昌信は北信濃の押さえのためにこの戦いには参加していなかったが、信房らは信玄逝去の時に追い腹を切ろうとして、昌信から「死ぬ覚悟があるなら武田家のために戦って死ぬべきである」と諌められている。四人は、この設楽原を自らの死地と定めたのだった。

 5月21日未明、徳川軍の酒井忠次は鳶ヶ巣砦に陣を張っていた武田軍の別働隊に奇襲攻撃を仕掛けた。数で劣る武田勢は必死に交戦したが、多くの死者を出して敗北。武田信実(信玄弟)、三枝守友などの将が討ち死にしている。少し遅れて、設楽原で武田軍主力による一斉攻撃が開始された。各地を転戦した剽悍な甲州兵たちが、波頭のように連合軍の陣営に襲い掛かる。しかし、馬防柵の奥に控えた鉄砲隊による斉射を受け、将兵達は次々と倒れた。武田軍の突撃はなおも続いたが、時を追うごとに傷つき倒れる者の数が増えていった。ついには昌景や昌豊、昌次ら歴戦の勇者の討ち死にも相次ぐようになった。それとは対照的に、この戦いに参加した御親類(一門)の多くが無傷のまま戦いを終えるという、奇妙な現象も起こっている。

 いずれにせよ武田軍は壊滅的な打撃を受けていた。さしもの勝頼もついには撤退を開始したが、彼に付き従う者もわずかばかりとなっていた。最後まで生き残っていた信房は、しんがりとして決戦場付近に留まり、勝頼を安全圏まで逃がした事を見届けると、決然として自分の首を敵兵に差し出したと言う。一方、まさに命からがらで退却した勝頼は、途中の伊那駒場で高坂昌信の出迎えを受け、彼の計らいで武具・着物を取り替えて本国甲斐に帰着した。敗残の見苦しさを感じさせぬようにという、昌信の配慮であった。

 この戦いでは、連合軍も数千人単位の死者を出している。勝頼の遮二無二攻めかかるような采配のため、武田軍が受けた打撃と相応の損害を与えたとも言えるし、死を覚悟した大将格に率いられた兵卒たちが死兵と化していた関係もあったのかもしれない。しかし、両陣営に相当の痛みを残す結果になったとは言え、その意味合いはまったく違っていた。仮に、ボロボロに傷つきながら勝頼が連合軍を押し返す事に成功していたとしても、特に信長はまだまだ余力を残しているはずである。戦国合戦では、相手に痛撃を与える事もさることながら、自陣営の損耗を最小限に押さえなければ別の敵に漁夫の利をさらわれる恐れがある。その意味で、勝頼の決断が匹夫の勇であったと言われ続けているのも、あながち間違いではない。かと言って、「信玄なら勝てていた」という見解にも同意しかねる。この戦いの指揮をとったのが信玄だったら、「負けはしなかっただろう」と言うのが率直な感想だ。信玄股肱の臣だった山県昌景は「決戦の時ではない、時節を待て」と勝頼を諌めたという話だが、信玄の判断もきっと昌景と同じものだっただろう。
 
■御館の乱
 長篠での大敗により、勝頼は積極策を打ち出すことが出来なくなった。勝利を収めた側の信長は、元亀3年にあった信玄侵攻の際、秋山信友率いる東美濃攻撃軍によって攻め落とされた諸城の奪還を果たしている。その時、岩村城を守っていた信友は信長に捕らえられ、信長の叔母に当る夫人とともに長良川で逆さ磔にされている。身近な脅威を取り除き、武田からちょっかいを出されることがひとまずはなくなったことで、信長の目は中央、そして西に向いていた。家康は東進するしかなかったので盛んに攻撃を仕掛けてきた。しかし、長篠に先立って勝頼が攻め落とした遠江東部の高天神城が家康の侵攻に対する防波堤としての役割を十二分に発揮したため、駿河までには本格的な影響力が及んでくる事は無かった。大賀弥四郎をたきつけ、家康を倒そうとしていたのもこの頃の事である。敵に当るにしても、力攻めではなく、極力謀略によらざるを得なかったと言うことだろう。多くの山々に囲まれた甲信の領土内に逼塞するような日々が続く。

 そんな中の天正5年(1577)、長らく後妻を迎えなかった勝頼は北条氏政の妹を正室に迎えている。甲相同盟の強化のためだった。この期に両家の同盟は、不可侵同盟から攻守同盟に発展したと言ってよい。信長陣営の史料には見られない話だが、『甲陽軍鑑』は同じ年、勝頼が信長の申し出てきた和議を拒否したと伝えている。勝頼側に信長に対する徹底抗戦の意志があり、それが軍鑑の記述に反映されたものなのだろうか。

 翌天正6年(1578)3月13日。勝頼の父・信玄と長らく争い続けた上杉謙信が死んだ。上杉家では謙信の跡目を巡る争いが発生した。上杉の居館の名にちなんで「御館(おたて)の乱」と呼ばれ、これは武力衝突にまで発展した。相争ったのは、謙信が迎えた景勝・景虎という二人の養子である。景勝は謙信の姉の息子、血縁である。対する景虎は、小田原北条氏との同盟に際して迎えられた北条家の一門である。北条氏康七男・氏秀であるとするのが一般的だが、異説もある。ある意味では人質のような景虎だったが、自分の旧名を与えた事からも分かるように、謙信はいかにも義の人らしく、寂しい境遇の景虎を可愛がった。そのため景勝と景虎はおのおの、「謙信の血縁者である事」、「生前の謙信から寵愛を受けた事」を根拠に、自分こそがその後継者たるに相応しいと主張したのだ。景勝は上中越の国人衆を味方につけ、上杉氏の居城である春日山城を掌握した。対する景虎は、謙信を養子とした前関東管領・上杉憲政の支持を取り付け、前述の御館に立てこもった。

 勝頼は当初、甲相同盟に則って景虎陣営に加わっていたようだ。対立する両者を調停する意志もあったといわれる。ところが、後には自陣営の不利を悟った景勝派が持ちかけた取引に応じ、最終的には景勝に味方している。その結果、一年に渡ったこの内乱は景勝派の勝利に終わった。これにより、甲越同盟が成立した。勝頼の妹・菊は景勝に輿入れしている。その返礼として景勝からは金が送られたと言う。また、上野(現在の群馬県)を武田の領地とする事も認められた。当時、上野の西半分は事実上武田家によって支配されていたので、この部分に関しては所領安堵すると言ったのと同じである。

 しかし、残りの東半分は北条氏の支配下にあった。北条との共闘態勢はすでに完全に崩壊していた。そればかりか、今度は北条・徳川間に協力関係が出来上がり、勝頼はかえって苦境に追い込まれる事になる。武田と北条の国境線は長大で、この全域に戦線を張る事は、対徳川氏戦略を考える上では大きな負担となって行った。これを挽回するために勝頼は、北条とは犬猿の中であった佐竹氏との同盟にも骨を折っているが、これはあまり目覚しい効果を上げられなかった。

 この間、天正7年(1579)には信勝の元服も済ませている。しかしこれは、信玄が定めた「成人」ではなく、一般的な通過儀礼としての元服だったようである。

■滅亡への道
 長篠で受けた痛手もそろそろ回復しつつあったとは言え、徳川と北条の両方を敵にまわす事になり、勝頼もひしひしと危機感をつのらせるようになっていたのだろう。天正8年(1580)の終わる頃から、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府(韮崎市)へ移すべく、新城の築城計画を開始している。そして翌年の暮れ近くにはこの新府城に入城し、そこで新年を迎えている。新府城は、まだ土壁も乾ききっていない状態だったと言う。

 明けて天正10年(1582)。正月も終わらぬうちの27日、木曽谷の木曽義昌が信長に内通し、勝頼に対して反旗を翻したとの報が届く。義昌は勝頼の義弟にあたる人物だった。直ちに討伐隊が結成され、木曽谷へ向かった。対する義昌は、自領の要所に兵を配置する一方で信長に救援を要請している。信長はこれに応え、嫡男・信忠を総大将とする諸将を義昌救援のために派遣している。信忠以下の主力部隊は岩村口から伊那谷へ侵入した。伊那地方の武田方諸城では、戦わずしての投降、あるいは逃亡が相次いだ。また、援軍を得た義昌は討伐隊を一気に打ち破る事に成功している。そのまま、木曽口から松本平に進入しているが、ここでも武田勢の抵抗らしい抵抗はなかった。逃げた多くの武将の中には、信玄の弟・信廉もいた。

 時を同じくして、家康も駿河への侵攻を開始した。長らく彼を悩ませ続けた高天神の城も前年に攻め落としており、徳川軍の進撃を阻むものは無かった。そればかりか駿河を治めていた穴山信君もまた、本領安堵を条件に家康に降伏した。木曽義昌は勝頼の義弟だったが、信君は義兄である。信君の離反は、息子の勝千代と勝頼娘の婚約を一方的に破棄され、その上勝頼が娘を武田信豊(信玄弟・信繁の息子)に嫁がせた事に不満を募らせたためなどと言われる。この件に関して言えば要するに、御親類衆同士の権力闘争のもつれが信君の離反につながったということになる。しかし、それ以前から信君と勝頼が不仲であったとする見方も強い。

 その信豊であるが、木曽討伐隊に参加していたものの、逆に撃退されて新府城まで撤退していた。織田軍を相手に決死の抗戦を遂げたのは、高遠城にいた勝頼の異母弟・仁科盛信(生母油川氏)だけであった。高遠城では盛信以下の城兵のことごとくが討ち死にするまで戦い続けたと伝えられる。しかし、所詮勝敗の行方は見えていた。高遠城は3月2日に落城した。そしてその報せは、その日のうちに新府城の勝頼のもとに届けられたようである。

 高遠落城の報せを受け、新府城では今後の動きを協議する軍議が開かれた。実質的に、「どこへ落ち延びるか」の一点についてのみ、議論が交わされたようである。真田昌幸は、彼の城である上田城に落ち延びるよう進言したといわれる。これに対し小山田信茂は、自分の居城・岩殿城へと逃れるように提案した。先々代である信虎の妹が輿入れして以来、小山田氏は御親類衆の中でも筆頭に位置付けられていた。後の歴史から見れば上田城が大軍の攻撃にも耐えうる城である事は自明であるが、岩殿城は当時から天嶮として知られていた。また、信茂が家中でも強い発言力を持っていたこともあり、勝頼は信茂の進言を受け入れ、岩殿城へと撤退する事に決めた。

 この時、木曽攻めから敗走してから勝頼と行動をともにしていた信豊が、勝頼との別行動を選んでいる。表向きは自領に帰って兵をまとめ、勝頼を追撃する敵兵を奇襲するためという事にしての行動だったが、実際には勝頼を見捨てて自領に逃げたと見るべきだろう。しかしその信豊も、逃げ帰った領地で自分が部下に見限られ、自害して果てている。

 一方、岩殿城への逃避行を選んだ勝頼は、結局その先で信茂の謀反に遭っている。「人質」状態にあった自分の母親を手元に戻した直後、信茂は勝頼に向かって鉄砲を撃ちかけた。信茂の場合は、敵と内通しての謀反ではなかった。小山田氏はもともと甲斐の有力国人で、信虎が自分の妹を「差し出す」という懐柔策で従えていた事もあり、武田家中でも特別扱いの独立勢力であるような気風が養われていたといわれる。その結果、自分の領内の安寧をはかるために土壇場で勝頼を裏切るような行動に走ったなどともいわれる。しかし、信君は許した信長も、信茂に対しては厳しい態度で臨んだ。最後の最後で主君を売った不忠者であり、信用するに値しない人物として処刑している。

 信茂の裏切りを知った勝頼は、「もはやこれまで」と悟り、天目山棲雲寺を最期の場所に選び、ここを目指した。新府城を出たときに六百余人いたという従者が、田野(東山梨郡大和村)に着いた時には41人になっていた。ここで勝頼は、最後の一戦に臨んだようである。相手は滝川一益隊の先兵であったとも、落武者狩りのような連中だったとも伝えられる。

 戦いの混乱が一段落した時、勝頼は息子・信勝、夫人・北条氏、そしてここまで付き従ってきた人たちを集めた。自害に先立ち、信勝は正式に武田家の家督を相続したという逸話がある。武田家の伝統では、嫡男は元服の時に家宝である楯無の鎧を身につけ、家臣たちを前に自分が世継ぎである事を宣言する事になっていた。そして、その場には公卿か、同盟関係にある大名が列席するのが慣わしになっていた。信勝は、公卿や大名の代わりに、最後まで付き従った家臣・土屋昌恒を前に、この儀式を行った。このとき信勝16歳。信玄が定めた「成人」の歳だった。信勝は、家督を相続し、そして死んだ。

 400年続いた名門武田家の最後は、見るも無残な自壊であった。勝頼は享年37で鬼籍に入った。

 信忠に遅れて武田征伐にやってきた信長は、3月14日に伊那浪合で前線部隊から送られてきた勝頼らの首実検を行った。この時信長は、勝頼の首を飯田で晒した後で京都に送っておくように指示を下し、自分も甲信の仕置きを済ませた後で「すぐにそちらへ行く」と告げたという逸話が残されている。信長が本能寺の業火に包まれるのは、それからわずかに3ヵ月後の事である。

戻る