菱〜武田三代 |
||
(3)武田信玄・中編 ■越後の龍 前段最後では、晴信が北信濃から小笠原や村上と言った主だった敵を追って信濃の支配体制をより確実なものとし、甲相駿の三国同盟を成立させてから、出家するまでを駆け足で記述した。中編冒頭は、前段の最後から少し時をさかのぼる。 世に川中島の戦いと呼ばれる合戦は、実に五度、行われている。川中島は、越後から南下してきた上杉の大軍と、同じくこれを迎え撃つ武田の大軍が展開できる広い平地であると同時に、両軍勢力の境界線近くの土地でもあった。ゆえに、五回も同じ場所で合戦が行われているのである。 第一回の合戦は、天文22年(1553)のことである。時期的には、三国同盟成立の前年のことであった。第一回合戦は、5ヶ月にわたる対陣の間にごく小規模な衝突があっただけだが、「英雄は英雄を知る」とでも言うのだろうか、晴信も、そして長尾景虎(当時。後の上杉謙信)も、お互いが一筋縄で行かない相手であることを悟ったか、以降数度にわたって川中島に対陣することになるも、軽々しく決戦に及ぼうとはしなかった。前述の通り、大合戦となったのは永禄4年(1561)の第四回合戦であるが、それまでに2度、弘治元年(1555)と弘治3年(1557)に、それぞれ3ヶ月、8ヶ月の対陣があった。いずれも、規模の小さな小競り合い程度の戦いがあっただけだった。 第四回合戦は、それまでの流れからすれば極めて特異な戦いであった。この頃にはすでに、川中島のほど近くに高坂昌信を城将とする海津城(長野市)が完成していた。支配期間が長引くにつれ、信玄による信濃支配は強固さの度合いを増していた。信玄にしてみれば、越後から謙信が遠征してきても、信濃支配体制に動揺が走らない程度にのらりくらりと相手をし、その鋭鋒をかわしていれば良かったのである。その意味で、「長期対陣の挙句に決戦は無し」と言うそれまでの流れは、信玄の目論見どおりのものだった。信玄側のこうした「売られた喧嘩を買っただけ」式な事情に比べると、上杉謙信という武将の特殊性も際立ってくるように思える。北信濃が信玄のものになれば、自らの居城・春日山城(新潟県上越市)が危険にさらされるようになるとは言え、謙信にとってこれほどまでに対武田戦略に力を入れる必要があったかどうかはやはり疑問である。これだけ戦いが長期化すれば、信玄の側にも「謙信は必要以上に刺激しないほうが良い」という思いが芽生えるだろうし、そうなれば一応は自国の安寧もはかられるはずである。にもかかわらず謙信が「川中島」に固執したのは、どうも本当に領国を追われて自分を頼ってきたかつての北信領主たちに対する義侠心があったようだ。確かに、これだけ彼らの面倒を見て、晴れて旧領に復帰させることができれば、謙信を中心とする越後上杉連合は磐石の態勢を確立できたのかもしれないが、やはり、実利ばかりを考えて動いていたのではあるまい。謙信の戦いには、かなり後期になるまで、「信義のための戦」としか表現しようのないものが多い。この浮世離れした感覚と、戦場における無双の強さが、謙信が「軍神」と称される所以でもある。信玄にとっては、このような敵を受けなければならなかったのは不運だったのだろうが、それでも北信の地を謙信から守り通せたのは、信玄だったからこそとも言える。 ■知恵比べ 話が脱線した。結果的には大激戦になった第四回合戦も、信玄が決戦回避策を選択肢の一つに入れていた可能性を否定はできない。ただ、この時はいささか事情が異なっていたようである。最初、「上杉謙信進軍す」の報に遭った信玄は、謙信率いる一万六千の上杉軍が、海津城と川中島近辺を見下ろす妻女山に陣取ったのを知り、敵が越後へ撤退するための退路をふさぐ位置に布陣をしている。積極策である。これにより、勝負をあせった謙信が闇雲に攻撃をしかけてくるところを、万全の体制でもって迎撃し、手痛い打撃を与えようと考えていたのかもしれない。信玄率いる武田軍は一万八千。海津城には、高坂昌信以下二千の兵も控えていた。しかし、相手は戦いの呼吸を完全に知り尽くした「軍神」・上杉謙信である。謙信は慌てて攻勢に転じるようなことはせず、山上で小鼓を打ち、琵琶をかきならし、いよいよ妻女山に腰を落ち着ける気配を見せたという。今回も長期戦になるであろうことを予想した信玄は、完成後間もない海津城に軍を入城させ、しばらくの間いつものように対陣を続けた。 対陣が長引きはじめた頃、次なる一手を打ったのも信玄のほうだった。飯富虎昌や馬場信春など、武田軍の屋台骨を支える重臣らが、10年近く続いた対上杉氏戦争にはっきりした形での決着を望み、決戦を主張したせいもあったのかもしれない。そして、このような流れの中で、山本勘助の献策と伝えられる、いわゆる「啄木鳥戦法」が実行に移されたのである。この山本勘助については長い間、実在した武将か架空の人物かで議論が戦わされてきたが、最近では「実在はしたが、言い伝えられるほどに信玄に重用された人物でもない」という説が有力になりつつある。いずれにせよこの時、武田軍の別働隊が山上にある上杉軍の背後を付き、山から追い落とされて混乱の極みにある敵を主力部隊で殲滅しようという作戦が実行に移されたことには間違いがなさそうである。 しかし、ここにも謙信が流石の人物であると言わざるを得ないエピソードが残されている。謙信は、信玄の作戦を看破していた。その全てを見通していたわけではないだろうが、少なくとも武田軍が大掛かりな攻勢を仕掛けてくることは見破っていたようだ。このとき謙信は、海津城から上がる炊煙がいつもより多いことに気付き、これが武田軍大規模攻勢の準備行動であると悟ったと伝えられている。上杉軍は、武田軍別働隊が山を大きく迂回した後でさらに山上を目指している頃、密かに山を下りていた。 ■信玄対謙信 永禄4年9月10日、払暁。川中島には霧が出ていたと伝えられている。信玄率いる武田軍本体は、深い霧の中で隊伍を乱して山上から追い落とされて来るであろう上杉軍を待ち構えていた。しかし、霧の中から姿を現したのは、完璧に陣容を整えた一万六千の上杉軍だった。一万二千の武田軍別働隊が妻女山の頂に到着したとき、そこには煌々とたかれる篝火と紙でつくられた旗、そして無人の陣所が残されていただけだった。別働隊が、謙信の仕掛けた空城の計に気付いたときには、山麓の八幡原では決戦が始まっていた。別働隊に多くの兵員を割き、残りの八千人で八幡原に陣取っていた信玄の本隊は、二倍の兵力を擁する敵を相手にする苦境に陥っていた。 上杉軍の陣立ては、「車懸りの陣」だったと伝えられている。これは、円形に陣取った各部隊が、車輪の回転するように進軍する陣形であると言う。先行した部隊が敵と戦っているうちに、後続の新手部隊が先行部隊との戦いで疲弊している敵を攻撃し、後続部隊が敵を引き受けているその隙に、先行部隊は後衛に回って臨戦態勢を解き、休息を取るというものである。理屈で言うとそのようになるが、現実にそれほど都合よく動けたかどうかは疑わしい。形態としては方円の陣が車懸りに近く、このあたりが現実的な線かも知れない。信玄はこれを鶴翼の陣で迎え撃った。軍を薄く広く横に展開させ、敵を包み込むようにして殲滅する陣形だった。狭い範囲に兵力が密集する車懸り乃至は方円陣を相手にするには有効な陣形だったが、いずれにしても武田軍不利の状況に違いはなかった。戦端を開いたのは、上杉方の柿崎景家隊だった。飯富昌景、内藤昌豊らの隊(一説には武田信繁隊)に攻撃を仕掛けてきた。 大混戦だった。昌景隊はどうにか柿崎隊を押し返したと伝えられているが、数に勝る上杉軍が優位を保ったまま、戦況は推移して行った。特に信玄の弟にして武田の副昇格である信繁の部隊には、複数の敵部隊が殺到し、多くの将兵が死んでいった。このとき信繁は、別働隊が戻ってくるまでの時間稼ぎのため、討ち死に覚悟の戦いを繰り広げたと言われる。信繁は自ら敵陣に踊り込んで、そのまま討ち死にを遂げた。このときの信繁の壮絶な戦いに感じ入った真田昌幸は息子に信繁の名を与えることを望んだと言う。真田信繁とはすなわち、真田幸村の本名である。 副昇格の信繁は討ち死に、信玄の本陣にまで敵が殺到し、信玄自身も刀傷を負ったほどの混戦だった。謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたという一騎打ちの伝説が生まれたのも、この大激戦の最中のことだった。後には江戸幕府を影から牛耳った「黒衣の宰相」南光坊天海は、ちょうどこの時期、川中島近くの寺院にいたと伝えられており、天海自身が、戦の最中に馬上で切り結ぶ二人の法師武者を目撃したも言われる。謙信はしばしば、万の軍を率いる大将でありながら自ら戦陣の先頭に立って敵陣に切り込んでいくような、異常ともいえる戦い方をした。その謙信と信玄が切り結んだなどと言う伝説が生まれたのは、雪崩をうって進軍する上杉軍の攻撃が武田軍の最奥部にまで到達していたと言うことのあらわれである。武田軍はすでに壊走寸前のところまで追い詰められていた。どうにか隊伍を保っていたのは、穴山信君隊、飯富昌景隊、信玄本隊の三隊のみという絶体絶命の状態だった。 ■決着 しかし、戦闘開始から三時間ほど経った頃、ようやく妻女山に向かっていた別働隊が主戦場に帰還し、信玄本陣に襲いかかろうとしていた上杉軍の側背を衝いた。ここに至って戦況は逆転し、もともと数的不利にあった上杉軍はついに退却を開始した。武田軍の戦死者は4600人あまり、上杉軍戦死者は3500人弱。負傷者は両軍合わせて17000人に及ぶと言う大激戦だった。具体的数字については資料によってまちまちのようであるが、これほどの死傷者を出した戦国合戦と言うのは、それほど多くはない。 豊臣秀吉はこの戦いを、「前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ち、全体を通してみれば引き分け」という判定を下したというが、これはどうだろうか。少々画竜点睛を欠くものであるような気もする。「城攻めの秀吉」はあくまで「城攻めの秀吉」、「野戦の秀吉」ではないといってしまえばそれまでであるが。局地戦での戦術的勝利はともかく、大局的戦略に関しては、明らかに信玄の勝ちであった。後の永禄7年(1564)にも、両雄は川中島であい見えているが、このときは3ヶ月にわたって対陣したのみで、武力衝突は発生していない。要するに、両軍死力を尽くして激突した第四回合戦において武田軍が上杉軍を撃退したことにより、信玄の北信濃支配はほぼ確定していたのであり、謙信の心中からも川中島にこだわる気持ちが薄れていたのだろう。 12年にも及ぶ長い戦いであったが、終わってみれば信玄にとっても謙信にとっても、さほど得るもののない戦いだったと言える。北信濃に軍事的緊張状態が生じていたことで、両者は他地区への積極的展開に踏み切ることができなかった。そして二人が北信濃の支配をめぐって争っている間に、西の地ではこの国の歴史を大きく動かす大事件が発生していた。信玄にとっても、こうした中央寄りの動きは無関係のものではなかった。川中島以後、信玄は上野(群馬県)方面へと勢力を伸張していくと共に、駿河支配にも乗り出し、ようやくにして西上作戦に向け動き出すことになる。 |