菱〜武田三代

   (4)武田信玄・後編


■義元の死
 永禄3年(1560)、「海道一の弓取り」と謳われた今川義元が、3万とも号される大軍を率いて織田信長の治める尾張に侵入した。義元迎撃のため、信長が動員できた兵力は2千程度だったと言われている。3万対2千では、数の上からもまともな合戦にはならない事は明らかである。義元は悠々と尾張の土を踏み、田楽狭間に陣所を張った。そこで、信長が尾張と三河の国境地帯近くに張った防衛線を破った上で、後は一気に尾張の地を蹂躙しようと考えていたのだろうか。しかし、そこが義元最期の地となった。世に言う「桶狭間の戦い」である。この戦いの後、当時最も天下に近いと目されていた義元を倒した信長の有名は天下にとどろき、それとは対照的に今川氏の斜陽化は急速に進んでいった。

 信玄の本国・甲斐は、改めて説明するまでもなく義元の駿河と国境を接していた。その点では、信玄は桶狭間の準当事者とも言い得る立場であった。桶狭間当時、武田と今川は同盟関係にあったが、これは両家が互いに強い信頼関係にあったことを意味するものではない。戦国時代の同盟関係とは、お互いの思想・理念に同調しあうとか言った甘っちょろい論理で成立しているものではない。結局のところ、両者の極めて実際的な利害が一致することによって成立するものである。信玄と義元の利害関係については、前項・前々項で触れたとおりである。

 信玄にとっても、義元は恐るべき潜在敵の一人であった。その義元が横死した。後には広大な領土が残されたが、それを相続した今川氏真は、武将としての器量に欠ける人物であった。かつて信玄が駿河に追った父・信虎は、いち早く氏真の器量を見抜き、氏真を追っての駿河乗っ取りをも画策したほどである。結果的に信虎の企みが露見し、彼が駿河を追われることになったのも既述の通りだが、信玄としても当然、義元亡き後の駿河、および遠江・三河の領土化を目論んでいたはずである。しかし、信玄はすぐに今川領侵略には乗り出さなかった。最大の理由は、北信濃の支配をめぐって上杉謙信と対立していたため、駿河方面に大兵力を割けなかったことだろう。今川との同盟は、単に武田・今川間だけの話ではなく、相模の北条氏も絡む三国同盟の一部だった。これを反故にすれば、その成立の経緯からして今川とは昵懇の仲の北条が黙ってはいまい。そうなると信玄は、越後の龍・上杉謙信と、関東の雄・北条氏康を同時に相手にしなければならなくなる。謙信も氏康も、戦国大名としては一流以上の人物である。さしもの信玄とて、この二面作戦を実行に移すわけには行かなかった。

 永禄4年(1561)、信玄と謙信は川中島で死闘をくりひろげた。この戦いで、事実上の勝利を拾った信玄は、海津城の城将である高坂昌信を北信及び越後への押さえとし、上野国(群馬県)への進出を開始している。この頃の謙信は、関東に覇を唱えんとする北条氏康に領国を追われた関東管領・上杉憲政を自国に向かえた上でその養子となっており、さらには自らが関東管領に就任していた。要するに氏康も、謙信とは抜き差しならない敵対関係になっていたのである。もともと武田と北条の間に同盟関係が成立していたところにかてて加えて、謙信が共通の敵となったこともあり、信玄と氏康はしばしば轡を並べて謙信と戦うことになった。その共闘の際の協定として、西上野は武田領とすることが取り決められていた。そして、永禄9年(1566)には西上野攻略を完了し、内藤昌豊を箕輪城に封じたところで、いよいよ本格的に駿河併呑へ乗り出すことになる。

■義信事件
 この頃の信玄の領土は、甲斐と信濃の大半、そして前述の西上野、及びその近隣地域にまで拡大していた。しかし、これほど広大な版図を築きながら、武田領内には海がなかった。信玄が難敵・義元亡き後の駿河を征服しようと考えたのも当然のことと言える。駿河には、山国甲斐で育った信玄が渇望し続けた海がある。海へ出る手立てを手に入れれば、それまでの武田家にはなかった新たな可能性を切り開くことが出来る。貿易、海産、水運…。また山がちで、行軍にも難儀する甲信と違い、駿河には平地を京へと伸びていく東海道が通っていた。これを利用すれば、他地方への侵攻も容易であるし、通商による経済基盤を確立すると言う政策も打ち出す事が出来る。また、かつて信玄が開いた甲斐国内の金山は、この頃になるとその鉱脈が枯渇し始めていた。武田の雄飛を支えてきた甲州金に陰りが見えはじめていただけに、安倍金山をはじめとして駿河国内に今川氏が持っていた金山を接収できることも、駿河侵攻の大きな魅力の一つであった。

 しかし、父信虎の頃から友好関係を続けてきた相手であるだけに、武田家中には、いざ駿河侵攻という話になると二の足を踏む者がいた。中にははっきりと「親今川閥」と言える者も存在していた。その代表者が、信玄の嫡男・義信である。義信の妻は、義元の娘だった。妻の実家を攻めることになる義信は、信玄の制駿論に真っ向から反発した。そして、義信に同調したのが、彼の傅役だった飯富虎昌であった。二人は、密かに信玄を国外へと追うクーデター、乃至は信玄暗殺すら目論んでいたとされる。どうやら信玄と義信の対立は、対駿河戦略の食い違いに始まるものではなかったらしい。例えば大激戦となった先の川中島合戦において、義信が独断専行めいた戦いをして窮地に立たされたとき、信玄は義信を見捨てようとしたなどと言われている。戦場での身勝手な行動はいつの世にも厳しく罰せられるものであり、その点では義信が受けた仕打ちは身から出た錆と言えなくもない。しかし、それ以前から信玄には、側室の子である四郎勝頼を溺愛する傾向があったようで、勝頼に伊那の高遠城を任せる方針をめぐっても、親子は対立していた。そこへ来て、川中島での対応である。義信に、「自分が廃嫡されるのではないか」という懸念が生まれたのかもしれない。父信玄も同じような境遇に立たされ、祖父信虎を追った過去を持っているのだから、皮肉なものである。いや、そのような経緯があったからこそ、義信周辺に不穏当な空気が漂っていたとしてもおかしくはない。

 しかし、義信のクーデターは、信玄が信虎を追ったときとは違い、事前に明るみに出た。計画を密告したのは、虎昌の弟、三郎兵衛昌景だった。その結果、虎昌は処刑され、義信も古府中(甲府)の東光寺に幽閉された。永禄8(1565)年のことである。そして永禄10年になって、義信は死亡している。死因は、病死であるとか自害であるとか言われて、はっきりしない。義信事件では、弟が兄の不忠を密告し、親が子を断罪すると言う悲劇が生まれたのである。ただ、信玄が自分好みの勝頼を後継者に据えるため、半ばごり押し的に策動したのが事件の実際であったとする見方も強い。そして、信玄の狙いが真実、勝頼への家督相続だったとしても、これはついに果たされることがなかった。信玄のカリスマを持ってしても、勝頼を武田家当主に据えることに対する家臣団の反発は抑えきれず、結果的に勝頼は、信玄の孫(そして自身にとっては息子)である信勝が成人するまでの後見人にしかなれなかったのである。もしも義信事件が、むしろ信玄の側の企みに端を発するものだったとしたら、いい面の皮だったのは飯富兄弟だろう。昌景は、兄を「売った」事に対する自責の念が非常に強かったため、信玄の勧めで、心機一転する目的もあり、甲斐の名跡・山県家を継ぐことになった。余談だが、信玄は昌景の例に限らず、途絶えた名門の家を功のあった家臣に継がせることをよくしている。教来石信春に馬場家を継がせたり、春日源助に高坂家を継がせたり、といった具合である。権威主義というか、名を重んじる体質があったのだろう。自身が甲斐源氏の総領であることも影響していたのだろうか。

 義信事件の顛末は、駿河にあった今川氏真にも伝わった。氏真は、遠からず信玄が駿河に侵攻してくることを察知し、両家の関係は急速に冷え切っていった。このような中で氏真が行ったのが、「塩止め」である。彼は、相模の北条氏康と謀って、武田領内に入る塩の流れを停止した。これにより、甲斐国内は塩不足に喘ぐようになったが、それが致命傷に至らなかったのは、越後方面からは以前と変わらず塩が運ばれてきたためである。この事実が、「敵に塩を送る」上杉謙信の逸話につながったのだと言われている。実際には、謙信の信義だとか信念に基づくものではなく、ごく政治的というか経済的な理由によるものだった可能性が高いのだが。

■駿河を手中に
 こうして武田と今川は、完全にお互いを敵と認識するようになっていった。そして永禄11年(1568)、信玄は、当時同盟関係にあった織田信長の仲介で、信長の同盟者であった徳川家康と示し合わせ、今川領を挟撃する方針を決定した。家康はもともと今川の属国としての立場に忍従してきていたが、桶狭間後はなし崩し的に独立大名となり、ついには旧主筋を完全に見限って、その領土である遠江を切り取ろうとしていた新進気鋭の大名であった。これに対して信玄は、残る今川領の東半分、駿河を取ることにしたわけである。同じ年の12月、ついに信玄は駿河に侵攻した。すでに信玄の調略の手は今川家中深くにまで伸びており、離反者が相次いだため、氏真は戦いらしい戦いをすることもなく、駿河を追われて行った。

 ところが信玄は、駿河から氏真を追っただけでは飽き足らなかったのだろうか。家康が三河側から遠江に進入し、今川方諸城を攻略し、ついに氏真が逃げ込んだ今川家重臣朝比奈氏の掛川城に到達した頃のことである。武田の家臣、秋山信友が駿遠国境近くにまで進出していた徳川軍と、その本拠を遮断するような行動に出たのである。信玄は家康に対してこの信友の行動を、信友の勝手な判断によるものと説明しているが、おそらくそれは真実ではないだろう。信玄にしてみれば、いかに上り調子にあるとは言え、家康などはどのようにでも料理できる青二才程度と捉えていたに違いない。信友に「威嚇」をさせ、今後の対徳川氏関係において優位に立とうとしたのだろうか。ただ、家康の方も、後に掛川城に篭った氏真に城を明渡させるときの講和条件として、「駿河から武田を追ったら氏真を駿河に戻す」などと言うものを提示している。信玄も信玄なら、家康も家康である。どちらも都合の良い時だけ相手を利用しようという腹だったのかもしれない。

 ところで、甲相駿三国同盟の最後の一角・北条氏の動向はと言うと、これははっきりと今川寄りだった。小田原・後北条氏の祖である北条早雲は、今川を助け、今川に助けられて戦国大名に成り上がった人物だし、氏真の妻は氏康の娘だった。その娘が武田軍の侵攻にあって居館を追われる際、駕籠もなく、裸足で夫に付き従わなければならなくなると言う屈辱を味わわされたこともあり、北条はたちまち武田の敵となった。そしてあろう事か、武田・北条両家にとって長年の宿敵であったはずの上杉と同盟し、その上徳川とまで結んで武田との対決姿勢を示したのである。そのため信玄は、ほぼ手中に収めかけていた駿河併呑を一旦は凍結して甲斐に引き揚げざるを得なくなった。

 もちろん信玄は駿河侵攻を諦めたわけではなかった。翌永禄12年(1569)6月には、再び駿河に侵攻し、三島で北条氏規を破っている。そして、返す刀で甲駿をつなぐ経路上に存在する要衝・大宮城を攻略した。そして9月、今度は北信濃の碓氷峠を越えて上野に入ると、そこから南下して北条氏の支配下にある関東諸城を落としながら、氏康の在る小田原城に迫った。追い詰められた氏康は、今は同盟関係にある謙信に、信玄の背後を脅かすよう要請した。もとより難攻不落の小田原城が相手だったため、信玄も城を無理攻めはせずに兵を引き揚げている。帰路、関東各地から集結してきた北条方の武将が、三増峠で武田軍の侵攻を待ち受けていた。山上から雪崩落ちるように攻めてくる北条軍を相手にして、武田軍は開戦当初は劣勢だった。しかし、山県昌景隊が敵の背後を突くことに成功したことで一挙に形勢は逆転し、北条軍は信玄を追撃してくるはずの氏康本隊が到着する前に、総崩れとなった。氏康は自軍の敗報を知ると、早々に小田原に引き揚げている。この年に行われた一連の対北条戦争は、駿河攻めのための陽動的な意味合いが強かったのだろう。三増峠で北条側が受けた打撃は大きかったらしく、この勝利によって信玄はかなり動きやすくなったようである。

 11月には再び駿河に侵攻し、まず蒲原城を攻め落とした。これによって、氏真を助けるために駿河に入っていた北条軍の尖兵と、北条本国を分断することに成功したことになる。今川はすでに死に体だった。頼みの北条軍も、孤立無援の状態になっては状況をいかんともしがたかった。信玄は薩た峠で北条軍を破り、駿府に乱入し、再びこれを占拠した。その翌年、永禄13年(=元亀元年。1570)には駿河東部、そして伊豆方面に進出し、韮山城、興国寺城を攻め落とした。これらの城を失ったことにより、北条氏が駿河に与える影響力は急激に低下した。信玄の駿河支配体制がほぼ固まったとも言える。そして、同年10月3日に北条氏康が死んだ。氏康は、謙信との同盟を破棄する代わりに信玄との同盟を復活させるよう遺言したと言う。武田との敵対関係が北条氏の関東支配に対する重大な脅威となったこと、謙信との同盟が思った以上に「使えない」ものだったためのようだ。

 北条との同盟が復活したことで、信玄が東へと進む理由はほぼなくなったといって良い。いよいよ、信玄の目は西に向けられることになる。三河と遠江を治める徳川家康と、その背後にある同盟者・織田信長との対決が迫って来るのである。

■西上戦
 家康は、遠江侵攻の時には信玄と共闘したものの、このときの信玄の行動に不信を抱き、対決姿勢を強めつつあった。謙信と同盟し、武田領と境界を接する自国の城の改修を進めるなどしている。一方信長は、卑屈なほど慇懃に信玄と接し、徹底して決戦回避に努めている。多くの進物をし、自分の養女を勝頼の妻にしている。さらに、結果的には破談になったが、信玄の娘・松を嫡男信忠の正室に迎えようともしていた。当時、急速に勢力を拡大していた信長は、すでに信玄を超える軍事力・経済力を手にしていたが、あまりにも急な成長だったため、多くの内憂外患を抱えてもいた。信長は、信玄が相手陣営のそうした脆さを、実に巧みに衝いてくる武将であることを知っていたのだろう。そうした意味で、信玄は信長にとって最大の天敵であった。あおりを食らったのは家康である。同盟者信長が信玄との対決に本腰を入れないため、ほとんど自力でこの大敵と戦わなければならなくなったのだが、信玄の影響力は日を追うごと、三河に遠江に大きくなっていった。

 元亀2年(1571)、信玄は遠江に侵入して高天神城を攻めているが、噂にたがわぬ堅城であることを悟ると一旦兵を引いた。そして、次には三河に進入し、足助城を攻め落としている。足助落城により、三河山岳地帯で徳川方に与していた諸豪族に動揺が走り、この地域は軒並み信玄の支配下に組み込まれていった。そうした中、信玄はそのまま兵を進めて三河東部に入っている。野田城を攻め、さらには吉田城にまで迫っている。吉田城を落とせば、家康のいる浜松城と、徳川家の地盤である岡崎城との連絡を完全に絶つことになり、対徳川氏戦略が圧倒的に有利になる。この時、家康は吉田城に入っている。しかし、決戦には及ぼうとはせず、信玄も力攻めはしなかった。すでに家康をどのようにでも料理できる自信があったのだろう。

 そして元亀3年(1572)。ついに家康討滅の時がやってきた。9月29日、まず山県昌景が遠江に入り、遅れて10月3日に信玄の本隊も昌景の後を追った。と同時に秋山信友の軍には、木曽谷から美濃へと進入させている。これらの軍事行動に先立ち、信玄は外交によって万全の準備を整えていた。まず、長らく信玄の背後を脅かしてきた謙信の領内で一向一揆をけしかけた。謙信は加賀・越中の一揆に釘付けの状態になった。そして、もう一人の大敵・信長に対しては、いわゆる信長包囲網を形成して対応した。表面上は信長に傀儡化された十五代将軍・足利義昭を盟主とするこの包囲網には、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、そして信長にとっての怨敵とも言える本願寺顕如を頂点とする各地の一向一揆が参加していたが、これだけの包囲網の形成に信玄が深く関与していたことに疑いの余地はない。これにより信長は、家康の救援どころか自分自身も危機的状況に追い込まれていた。もちろん、家康が絶体絶命の状態だったことは語るに落ちる。

 この軍事行動は、信玄による上洛作戦であったとも言われている。しかし、この時に信玄が動員したとされる兵力は2万5千〜3万と言われている。家康を倒し、信長を追って上洛を果たすには少々心もとない数字には違いない。各地で反信長勢力と合流することで兵力の問題を解決することも可能だったのかもしれないが、これもやや理屈先行の感はある。ただ、いずれにしてもこの時期の一連の軍事行動の大前提として、家康との決着があったことは間違いない。

 信玄の本隊は駿河側から遠江に進入し、徳川に属していた武将の一部を自陣営に引き込み、降誘に応じない武将は家康の浜松城から切り離すように軍を展開させた。一方の昌景は、東三河の山間にあった徳川方諸勢力を下しながら西から遠江に侵攻し、吉田城・岡崎城と浜松城の連絡を遮断した。そのニ部隊は二俣城で合流し、これを落とすと、いよいよ裸城同然となった浜松城の方に向かって進軍を開始した。二俣落城により、遠江で家康支配下にあった日和見の武将たちは、次々と信玄に味方するようになった。

 同じ頃、東美濃に侵攻していた秋山信友の軍は織田家の岩村城を攻め落としている。岩村城が武田の手に落ちたことは、信長の本拠地である岐阜城がいつ敵の攻撃にさらされてもおかしくない状態に陥ったことを意味するものだったが、信長には手をこまねいてこれを見ているしかない事情があった。自分自身が、信玄の形成した信長包囲網の一角である浅井・朝倉連合軍と対陣していたのである。しかし信長は、それでも家康に対する救援として佐久間信盛ら3千を送っている。ただ、実はこの援軍が家康をさらなる窮地に追い込んだ面もある。

 ところが、二俣から南下を開始した信玄は、浜松城を攻めようとしなかった。城の横を素通りし、そのまま西進する気配を見せた。前述の通り、武田軍は総勢2万5千。対する徳川軍は、信長の援兵を合わせても1万強だった。数の上では勝負にならないことは明らかであり、信玄が攻撃を仕掛けてこないのなら、そのまま危難が去るのを待つのが最上の策であった。しかし、家康はこの時、信玄に戦いを挑んでいる。これが三方ヶ原の戦いだった。信玄最後の戦いとして、また信玄戦術の集大成として評価される戦いであるが、それは采配の妙が云々と言うようなものではなかった。結果だけ見れば、武田軍は勝つべくして勝ったのである。裏を返せば、家康が戦いを挑んだのはほとんど狂気の沙汰であった。信玄が、家康を巧みに狂気へと誘導したことによって評価される戦いなのである。

 もちろん、家康にしても何らの勝算がないまま攻撃を仕掛けたわけではない。三方ヶ原は台地になっており、武田軍がその西端の坂を下り始めたところで坂の上から一気に追い落とすように、背後から攻撃を仕掛ければ勝ち目はあると読んだのである。もちろん、浜松城に引きこもって敵をやり過ごすのが最上の策だったことは間違いないが、家康をしてこの積極策に踏み切らせたのは、武門の意地と信長からの援兵の存在だった。この援軍は武田の大軍を前にすれば焼け石に水程度のものでしかなかったが、信長の性格を考えれば、兵力を借り出しておきながら信玄との戦いに及ばなかったとなれば、戦後に今度は信長が家康の敵になりかねない状態だったのである。もっともその援軍も、信盛の部隊に関しては敵軍と戦うことすらしなかったのであるが。

 言うまでもなく、浜松城を無視するような信玄の行動は、家康に対する陽動であり、挑発であった。「攻者三倍の原則」と言うものが存在する。城をめぐる戦いは篭城側に圧倒的有利の戦いであり、攻め手は城を攻める場合、守備兵の三倍以上の兵力を必要とすると言う考え方だ。信玄にしてみれば浜松城に籠もった家康を叩くより、これをおびき寄せて野戦で殲滅する方がはるかに楽だったのである。

 一方、頃合を見計らって全軍に武田軍追撃の指示出し、敵軍に追いついた家康の目に飛び込んで来たのは、背を見せながら坂を下り始めるどころか、完全に陣容を整えた上で手薬煉を引いて獲物を待ち構える、自軍の二倍以上の兵員を擁する大軍の姿であった。家康がしたことは結局、自ら進んで死地に飛び込んだと言う以外の何物でもなかった。開戦直後こそ本多忠勝隊が善戦したと伝えられているが、結局徳川軍は散々に打ち破られた。戦死者はおびただしい数に上り、家康自身が幾度となく討ち死にの危機にさらされた。その度、名のある家臣たちが家康の身代わりとなって討ち取られ、命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、自分を追撃してきた赤備えの山県隊の姿を見て「山県三郎兵衛とは恐ろしい武将だ」と述懐し、恐怖のあまり脱糞していたとも伝えられている。この時家康は、どういうわけか浜松城の城門を開け放したままにしておいた。これを追撃隊が不審に思って深追いを止めたため、奇跡的にも九死に一生を得ている。この戦勝後、信玄は「家康に過ぎたるもの」として本多忠勝の奮戦をたたえているが、これは勝者の余裕であろう。それほど一方的な戦いで、当時の家康に残された選択肢は、武田家への恭順か、さもなくば死だけというほどの状態であった。

■巨星堕つ
 浜松城に逃げ込んだ家康のことは時間が解決すると考えたのだろうか、遠江で越年後、信玄は三河に兵を進めた。そして、信濃と三河を結ぶ伊那路の南端に位置する野田城を攻めている。小さな城なりに必死の抵抗を見せた野田城だったが、衆寡敵せず、結局は武田の軍門に下ることになった。ところが、野田落城後も武田軍の動きは鈍かった。というより、三河のその場所で完全に動きを止めたまま、2ヶ月あまりの時が経過した。そして、4月になるとついに、武田軍は手中に収めたばかりの伊那路を信濃に向かって引き揚げ始めた。総大将である信玄が病を得たためだった。信玄の病名はよくわかっていないが、一般的には肺結核であるとされることが多い。胃がん説もある。いずれにせよ、野田城攻めの頃にはかなり重篤な状態だったらしく、甲斐への帰還は度々の休養を設けながらのものとなったが、ついに元亀4年(1573)の4月12日、信濃駒場(現下伊那郡阿智村)で、五十三年を一期にその生涯を閉じた。死の直前に信玄は、枕もとに山県昌景を呼び寄せ、「明日は瀬田の橋に武田の旗を立てよ」と厳命したと言う。瀬田の橋は、信玄が伏せる信濃の山村からはるかに西、京の入り口にかかる橋だった。混濁した意識の中、それでも信玄は上洛の夢に執念を燃やしていたのだろうか。

 「もしこのとき信玄が死んでいなかったら…」。よく持ち出される命題である。確かに信玄はこのとき、家康、そして信長をかつてないほど追い詰めた。そして史実では、「いよいよ信長との決戦が近い」というところでこの世を去ったイメージが強い。ところが、信玄が西進を続けているその最中において、信長包囲網の一角はすでに破綻していた。越前の朝倉義景が、織田軍との対陣の最中、突如として兵をまとめて自国に引き揚げてしまったのである。理由は不明。ここで信玄のみならず、義景と浅井長政、本願寺や一向一揆が一気呵成に織田家勢力を攻め立てていれば、その後の歴史は変わっていたのかもしれないが、信長の兵力の一部を引き受けるはずだった義景の戦線離脱により、仮に信玄が三河以後も西上作戦を続けていたとしても、信長を相手に苦しい戦いを強いられることになった可能性は高い。とは言え、繰り返しになるが、桶狭間の今川義元を除けば、信長にこれほど肉薄した武将は、後にも先にも存在しなかったのである。今もって「もしも」の話が語られるのも、無理からぬことである。

 信玄がこの世を去った時、馬場信房や山県昌景ら、信玄と共に幾多の戦場を駆け抜けてきた股肱の臣たちは、世を儚んで殉死しようとしたと伝えられる。こうした老臣らの動きは、同じく信玄子飼いの武将だった高坂昌信にいさめられて実行には移されなかったが、信玄の死にはそれほど重い意味があった。まさに「巨星堕つ」である。信玄という戦国の巨星を失った武田家の行く末は、その後次第に混迷の度合いを深めていく。

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