彌介を騙る


 彌介(やすけ)を知らない人のために。彌介とは織田信長側近の一人です。信長の側近などと言えば一体何人いるのかわかりませんし、彼らの多くは歴史上さほど目立った活躍をしたわけでもありません。彌介もそんな側近の一人でした。でも、ただ一つ違っていたのは、彌介は黒人だったのです。

 彌介は天正9年(1581年)にイエズス会総長名代として日本に派遣されてきた東インド巡察師ヴァリャニーニの従者でした。アフリカはモザンビークの出身でであったと伝えられています。年のころなら26、7歳、身の丈は六尺二部(182.4cm)の壮健な黒人青年で、力は十人の人のそれよりも強く、わずかばかりの日本語も話せたといいます。しかし、人々の関心をひいたのはやはり、信長公記において「牛の如く」と評された肌の色でした。堺の町はこの黒人青年をひと目見物しようと蜂の巣をつついたような大騒ぎになったようですし、噂を聞きつけた信長もこの黒人青年との接見を切望し、そしてそれは実現の運びとなりました。最初信長は、彼の肌の色は墨でも塗ったものであると思ったらしく、彼の体を念入りに洗わせました。しかし、その黒い色が落ちるどころか、ますます黒光りするのに驚いたと言います。もとより新奇なものを好んだという信長のこと、一際衆目を惹き、しかも力は十人力の猛者で、少しの日本語も話せるこの青年をすっかり気に入ってしまい、ヴァリャニーニから彼の身元を譲り受け、側近の一人に加えています。彌介の名はそのときに与えられたもののようです。彌介はその後、信長の甲斐平定にもつき従ったと言いますし、信長の息子達もこの風変わりな褐色の肌の侍の事を気に入っていたとか。

 これがこの一風変わった主従の出会いでしたが、別れの時はその後一年ほどでやってきました。天正10年(1582年)6月2日未明、織田家の重臣であった明智光秀は、突如として主君に反旗を翻し、本能寺に信長を攻めています。このとき信長に従って本能寺に滞留していた彌介は、迫り来る明智の軍勢に対して、十人力の名に恥じぬ力戦をしています。やがて信長が炎の中に自刃すると、本能寺を抜け出して、二条城に立てこもっていた信長嫡男・信忠のもとに走っています。彌介はそこでも明智軍の兵と戦い続け、やがて信忠も自刃したころ、光秀家臣の呼びかけに応じて刀を置いています。光秀はこの彌介の処遇を決するに当たって、「黒人は動物と同じで訳もわからぬまま戦ったのだし、日本人でもないのだからインドのバテレンのもとに送れ」と命じたそうです。その後の彌介の消息は不明です。

 数奇な運命のもと故郷を遠く離れた極東の島国で出会った新しい主君のため、自ら死地に赴くような危険な戦いに身を投じた彌介の心中はいかばかりだったのでしょうか。いみじくも光秀が言ったように、当時の黒人奴隷は「動物と同じ」扱いを受けていましたが、もとより彼らは動物などではありません。好きこのんで命のやり取りをする危険な戦場に飛び込む理由などありませんしそればかりか、当時の武士達ですらまだ江戸時代ほど強い忠義の観念は持ち合わせていなかったのに、にもかかわらず主君親子のために命がけで戦った彌介の心情は、非常に興味があるところです。文字通り家畜同然の過酷な境遇の中で倒れていった同胞が多い中、彌介が信長に仕えた一年ばかりの時間は、かりそめにではあっても満ち足りたひと時であったことを願ってやみません。


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