いまさら?バトルロワイアル
バトル・ロワイアル (2000/日)
製作総指揮 高野育郎 / 深作健太
製作 片岡公生 / 小林千恵 / 鍋島壽夫
監督 深作欣二
脚本 深作健太
原作 高見広春
撮影 柳島克己
音楽 天野正道
出演 藤原竜也 / 前田亜季 / 山本太郎 / ビートたけし / 安藤政信 / 柴咲コウ / 塚本高史
友人から携帯にメールが来て「バトルロワイアル観たぞ」っていまさら言われても、それってどうよ。
でもいろいろ話したいこともあるからココに書くね(私信かよ)
もうすっかり忘れ去られた感じもありますが、おおむね映画自体の話とは別にワイドショー的な話題が巷を騒がせて盛り上がったのは確かに映画の出来が芳しくなかった所為ではあるだろう。
全体にやたら荒削りで、トホホな描写も無理のあるエピソードも多く、なんといっても深作監督がじいさまであるが故のアナクロい感性がどうしようもなく居心地の悪さを増幅するのは事実である。
登場人物の台詞を大画面一杯に文字で出してしまうのは、もしかしたら監督が一番観て欲しかった世代のひとたちに向けての配慮だったのかも知れないけど、トドメに「走れ!」はないよと思ったな。
けどね、それでもこの映画は面白い。
原作の持つ秀逸なアイデアに深作監督のダイナミズムが加わり及第点(灯台での委員長グループ銃撃戦シーンは必見!)
過激でシニカルなエピソードの中に、なぜか中学生っぽい純粋さが垣間見える違和感も、僕みたいに映画ズレしたヤツにはともかく、若い世代には結構すんなり受け入れられるものでもあったのではないかなと今にして思うところもあり。

僕は映画を観てから原作も読んだから、比べると映画は原作を未消化なまま脚色している部分も多く、その意味でのアラも目立つのだが、1クラス40人からの生徒達がほとんど死んでいく、そのそれぞれの死に様にいろいろな想いをこめて描いた原作に対して、決められた尺の中でものがたりを終結させなければならない映画があらかじめハンデを背負っているのは避けられないところだ。
こうした映画化に際しての細かいストーリーの違いは、たぶん原作の完成度の対して圧倒的にショボイ部分として評価を下げる。
しかし実のところ、両者の描く物語に織り込まれたサブテキストはかなりニュアンスの異なるものだ。
それはもちろん原作者高見広春と監督深作欣二の世代の差なのだ。

原作者の高見氏は僕と同じくらいの歳で、世の中の絶対的な価値観が崩れて善悪の境が曖昧になっていく時代を肌で感じてきた世代だ。
時代の変化の目撃者だからこそ、その曖昧なるものの正体にも気づいていて、曖昧であるが故に抗うことも出来ない状況も理解していよう。
だからまさにいま、曖昧なものにあらかじめ取り囲まれた時代に産まれて生きている子供達に対して、絶望的に醒めた視点で、シニカルな笑いで、つまりは自嘲的に「君たちを取り囲んでいる曖昧な敵」の正体を説明してやることしかできない。
対して深作氏は’30年生。世の中がこんなに捕らえどころのないものになる前に自らの生き方を見出してこれた世代だ。
だから映画には、原作にはない、かなり明快で力強いメッセージがあると思った。
自らの生き方を信念として疑いなく、照れることもなく真正直に語れる力強さ。
それはたとえ何があっても、どんな状況でも、もしかして間違っているかもしれなくても、生き延びること、「走り」続けることへの揺るぎない信念のみが持つ力強さだ。
僕の世代には信用できる価値観がなかったと思う。
すべての建前が暴かれていくのを見て、すべての価値観には疑問符が付いた。
でも信念を無くした僕の世代は、信じるものがなくなった世界を受け入れ、その混沌をさらに加速したんだ。
だからほんとうはこの曖昧な世界の共犯者たる僕たちは、そのことを棚に上げて子供達に向けて「走れ!」だの「生きろ!」だの無責任に言い放つことができない。
自分達でこの世界を作り出しといて、あらかじめ出来ないことも判っていて、子供達に「世界を変えろ!」だなんてとても恥ずかしくて言えないんだ。
だけども、僕の世代にはとても信じられない信念、「それはほんとうに正しい答えなのか?」と疑問符の付くメッセージであっても、そもそもなにが正しいのかもわからない曖昧な世界の中で信念の「正しさ」自体に意味があるのだろうか?
なぜ僕たちは手も足も出ず、何もできなかったのか?
正しかろうが間違っていようが、「なにか信じるべきこと」を提示してやることのほうがずっと意味があるんじゃないだろうか?
映画「バトルロワイアル」はその「なにか」を提示していると思う。

たしかに「この映画観るとなんかエエ事あるんですか?」と問われれば僕自身答えに窮するだろう。
でもちょっと待て、映画なんか観てもなにも世の中変わらないと決め込むなんて、あんまり哀しいことじゃない?
2002 01/30
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