宇宙戦争
    宇宙戦争(2005/米)
    WAR OF THE WORLDS

監督 スティーヴン・スピルバーグ
製作 キャスリーン・ケネディ/コリン・ウィルソン
脚本 デヴィッド・コープ/ジョシュ・フリードマン
撮影 ヤヌス・カミンスキー
出演 トム・クルーズ/ダコタ・ファニング/ティム・ロビンス/ジャスティン・チャットウィン/ミランダ・オットー
原作はおよそ百年前のH.G.ウェルズの古典的SF小説。
まず原作小説「宇宙戦争」(1898)が「テクノロジーの発達がもたらす大量破壊の恐怖」という、21世紀までずっとつながる普遍的なテーマを扱った作品であることを認識しなければならない。それは産業革命を経て圧倒的な力を持ったヨーロッパ列強に蹂躙される植民地を目の当たりにし、やがて来る機械化兵器による大規模戦争=第一次世界大戦を予感する時代の空気から導かれた。
テクノロジーの発達がこれまでにない強力な軍事力を存在可能にし、かつてない大規模な破壊と殺戮をもたらした。ではもしもさらにテクノロジーが発達したら?当時のイギリスは世界最大の強国だったが、もしさらに高度なテクノロジーを持つ文明があったらどうなるのだ?
純粋に論理の積み重ねで結果を予見するという態度こそがサイエンス・フィクションの始まりだったわけだが、この可能性の考察を「我々の世界以外の科学文明(当時世間を騒がせていた火星文明)を仮定することで充分有り得そうな物語として展開して見せたのが「宇宙戦争」なのだ(原題「The War of the Worlds」は世界と世界のあいだの戦争を意味している) であれば「宇宙人の地球侵略」という100年も前の手垢のついた題材に、スピルバーグが何を託したのかは言わずもがなである。

舞台は現代アメリカに変わったが物語のシチュエーションはおおむね原作に忠実(さすがに宇宙人は火星由来ではない)
SF映画といえば主人公は軍人や科学者、記者といった大状況を把握可能な立場の人物というのが定番だ。主人公の視点を通じて大規模に進行する状況を俯瞰的に描けるからだ。しかし本作は何の変哲もない一般市民である主人公レイ・フェリアーの視点から大状況をまったく見せないまま、突然の攻撃にさらされたアメリカ社会のパニックを描いていく。普通の映画なら逃げ惑う「その他大勢」の群衆の視点だ。

離婚して妻と暮らす子供たちと週末を過ごすはずだった主人公レイ・フェリアーは、突然現れた宇宙人の戦闘マシーンの襲撃を間近で目撃する。戦闘マシーンは破壊光線で人間を焼き、建物を粉砕して一瞬で街を廃虚に変えた。かろうじて難を逃れたフェリアーは子供達をつれて妻の暮らすボストンへ避難しようとする。だが行く先々にも戦闘マシーン"トライポッド"は次々と現れる。宇宙人の侵略は全地球規模で進んでおり、人間の軍隊・兵器はまったく歯が立たないのだった…

とにかく全編にものすごいスリルと緊張感がみなぎっている。 物語の現場に居合わせたかのような臨場感あふれる演出、休む間もなく畳みかけるエピソード、そしてこちらの予想をはるかに超えていくアイデア満載の展開と、ひさびさにパニックスリラー系ジャンルに戻ってきたスピルバーグが持てるテクニックを総動員してつくりあげた大作。早撮りで有名なスピルバーグだが、これほど凄まじい作品を「ミュンヘン」の準備中に思いがけず空いたスケジュールの合間に撮り上げたのだというから驚きを通り越して呆れるしかない。これは「激突!」「ジョーズ」「未知との遭遇」等のスピルバーグ恐怖演出の集大成であり、また最大限に極まったデジタルパワーを駆使して何でも映像化してしまうハリウッドの特撮怪獣映画だ。

異変の予兆から宇宙人の攻撃が始まるまでを一気に描く前半部は特に凄まじい。
子供達と平凡な週末を過ごすはずだったレイ・フェリアー。テレビのニュースが世界各地で異常な嵐が発生した事件を伝える。その嵐がレイの近所にもやってくる。
このシーンの緊迫感がすごい。突然吹き始めた強風にレイと娘が裏庭にまわって空を見上げると、みるみる雲が渦巻いて強烈な落雷が始まる。立て続けに落ちる雷に思わず室内に逃げ戻り、息を殺して立てこもるシーンは「未知との遭遇」からずっとやってる得意のパターン。だがサスペンス演出に磨きがかかり過ぎてこれだけで思わず手に汗握る。でもそのあとのトライポッド登場のシーケンスがさらに強烈というのがもうスゴ過ぎる。

落雷が止むと電気機器や車のエンジンなどがすべて止まってしまっている。レイが外に出ると何事かと集まった人々が落雷現場に詰めかけている。街の五差路の中央には同じ場所に何度も雷が落ちたという穴ができている。程なくそこを中心に地割れが広がり、付近の建物までバリバリと崩れて道路が大きく陥没する。
理屈も説明もないから何が起こるのか観客にもぜんぜんわかんないまま、どんどん異変がエスカレートして事件に巻き込まれていく感じがすごい。そして地面を割って宇宙人の戦闘マシン=トライポッドが姿を現わす。普通「宇宙人なら空から現れる」と思う。嵐の前フリもある。ところが戦闘マシンは地中から現れる。観客の予想を越えるべく理屈より映画的衝撃を優先するスピルバーグらしいアイデアだ。

画面では最初に三本足が地上に出てくる。観客が「これか!」と思ったら次に足がはるか高くまで持ち上がり、三本足が指だったことがわかる(脚はもっとでかい!)
トライポッドのサイズが予想を超えてデカイというのは「普通、画面に登場するモノはカメラの画角に収まるサイズだ」と無意識に思っている我々観客の裏を読んでぜんぜん画面におさまってない!という演出テクニック。そこではじめて見物人たちが(観客も)「こんな近くにいちゃ駄目だ!」って思うしかけ。
みるみる立ち上がった高さ60メートルのトライポッドは殺人光線で無差別攻撃を開始。心の準備もできず慌てて逃げ出す群衆は次々とビームに捉えられて一瞬で蒸発する。その破壊力は圧倒的でトライポッドが通り過ぎると、普遍的なアメリカの町並みがみるみる戦火に晒されたような廃虚に変わってしまう描写がすごい。

トライポッド襲撃から逃げるシーケンスではカメラはドキュメンタリー映像のように逃げ惑う人々の一員となって動く。象徴的なのは道路にいる人間の目線から建物のむこうにそびえる対象を見上げる構図。これはまさに現代のニュース映像特有のもの、直接には9.11テロ事件の映像を想起させるものだ。
カメラの小型化のおかげでカメラマンが単独で移動しながら対象を捉え続ける現代のニュース映像。人が目で追うように捉えられた映像には、奇しくも画面には映らないカメラマン自身が現場を逃げ惑う様子もが間接的に写しこまれることになる。これはCNNなどでお馴染になったいわゆる突撃ドキュメンタリー映像特有の現象だ。これを巧妙に取り入れることでスピルバーグは観客自身が目撃したかのような臨場感を演出し、フィクションの世界に現実味を持ち込む。
また巧妙に計算された構成のために観ている間はあまり意識に上らないのだが、カメラはあるときには主人公レイを客観的に捉える映画の構図になり、あるときにはレイの背後について主観カットになり、かと思えばトム・クルーズから視線を外してビームに焼かれる人間を拾い上げる。これらが一連の流れのなかに違和感なく組み込まれ、観客を物語に引き込み、映画のテンポを保ち、ストーリーを語る。非常に緻密に計算されたカメラワークだ。

スピルバーグ演出の最大の特徴は「映像によるストーリーテリング」だろう。スピルバーグの映画には、登場人物が台詞で状況を説明するだけの会話シーンというのがほとんど無い。物語は言葉よりビジュアルによって雄弁に語られる。台詞や文脈よりも俳優の表情やしぐさに意味をこめていくスピルバーグのスタイルは、映画のテンポを止めることがない。
フェリアー一家は、唯一残った動く車で間一髪街を脱出する。背後では高架道路がなぎ倒され、並び建つ家屋が粉砕される。レイたちの乗ったバンはエンストした車の間を縫ってハイウェイを走り抜けていく。
このシーケンスでは、カメラは疾走する車の周囲をぐるぐる回りながら車外から室内へと自由自在に移動していく。それとともにここまでほぼ説明なしに突っ走ってきた出来事を、子供たちに話し聞かせるシチュエーションを借りて説明する。しかし直接事件を見ていない息子のロビーは荒唐無稽なレイの話に半信半疑。後部座席では妹のレイチェルが周囲の異常な光景を見てパニックになっている。三人それぞれの反応を描きながらここまでの状況を簡潔にまとめる手際のよさ!しかもこのシーンは2分半近くワンカットで畳みかけるのだ。ここまで観ただけですでにチケット代の元は充分取れてしまっている!

この作品にはストーリーらしいストーリーがない。状況の説明はないし宇宙人の目的も正体もよくわからない。物語が目指すゴールが設定されないまま登場人物はただひたすら逃げるだけだ。普通SF映画なら大局を把握できる人物が登場するもの。いまなにが起こっているのかを観客にも説明してくれる軍人や科学者がつきものだが、この映画にはそうした人物は登場しない。レイたちは一介の市井の人物であり、彼らは自分で見聞きしたこと以外を知る術が無い。
状況がわからないのは観客も同じだ。観客はナレーションや原作の知識から物語の輪郭を掴むことはできるのだが、個別のシーンで何が起こるかは予測できない。観客もまたレイと境遇に投げ込まれる。
劇中の人物が語る理屈はすべて単なる憶測に過ぎない。ここは徹底している。冒頭とラストのナレーション以外に決定的事実として語られる情報は劇中いっさい登場しないのだ。
(デマについてのシーンが印象的だ。スピルバーグは、フェリー乗り場に向かう群衆のシーンで「ヨーロッパはまだ被害を受けてない」と話すグループと「ヨーロッパは壊滅だ」と話すグループを並列に映してみせる)

そんなわけでレイ・フェリアーは、まったく自分で状況をコントロールできないSF大作らしからぬ主人公だ。危機を切り抜くだけの知恵は与えられず、的確な判断はできず、何ら勝算がない。逃げのびる先のボストンが安全だという保障も実はない。行き当たりばったり。せいぜいその場その場を生き延びることしかできない。レイたちが助かるのはただ運が良かっただけということになる。
しかし「ご都合主義の展開だ」という批判は的外れだ。ご都合主義で生き残るんじゃない。逆だ。これは生き残った人物を通して事件を語る再現ドラマの体裁なのだ(逆にみればその他の人々は皆死んだということだ) この物語はたまたま運良く生き延びた一家族の視点から描いた体験談なのだ。この体裁が観客を物語性から引き剥がして事件の現場に放り込み、生々しい体験としてつきつける。ある意味SF的センスに乏しいスピルバーグだからこその作劇であり、それが結果的に社会批判としてのSFの本質に迫ったというのは実におもしろい。

映画は極端に不均衡なパワーの衝突でバランスが崩壊した世界の非情さを描いている。タイトルこそ"宇宙戦争"だが、こんな一方的な状況を「戦争」とは言わない。これは「虐殺」だ。
スピルバーグは対抗不可能な圧倒的な脅威の前で完全に無力化する個人の矮小さを徹底して描き出す。そしてそれは「9.11テロ」によって秩序(国際社会がもちつもたれつであるべきだという暗黙のルール)が互いに破られ、アメリカが掲げた「対テロ戦争」の名の下で、好むと好まざるとに関わらず定められた方向に流され巻き込まれていく一個人の矮小さにダイレクトに結びつく。100年前のSF小説の極めて忠実な映画化であってさえ、これがそういった政治的な映画であることを疑う余地はない。
2006 10/15
BACK