2005年 映画感想文

コンスタンティン
ミリオンダラー・ベイビー
バタフライ・エフェクト
バットマン ビギンズ
機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-
スター・ウォーズ エピソードIII/シスの復讐
宇宙戦争
皇帝ペンギン
ランド・オブ・ザ・デッド
ステルス

コンスタンティン (2005/米 ) CONSTANTINE
  監督 フランシス・ローレンス
  原作 ジェイミー・デラーノ/ガース・エニス
  原案 ケヴィン・ブロドビン
  脚本 ケヴィン・ブロドビン/フランク・カペロ
  出演 キアヌ・リーヴス/レイチェル・ワイズ/ティルダ・スウィントン/ギャヴィン・ロズデイル/ピーター・ストーメア

この世には"ハーフブリード"と呼ばれる肉体を持った天使肉体を持った悪魔が人間にまぎれて住み着き、人間界を監視している。彼らは眼に見えず、誰もそのことには気づかない。ジョン・コンスタンティンを除いては!
異界に属する者を見分ける特殊能力を持ったジョン・コンスタンティンは、人間界に忍び込む悪魔を地獄へ送り返すエクソシストだ。 しかし彼は敬虔な神父などではない。よれよれのコートとネクタイで切れ目なくタバコをふかし、悪態をつきながら悪魔を殴り倒すヤサグレ悪魔払い。それがコンスタンティンだ!
天国と地獄の狭間のこの地上は、神と悪魔が人間の魂を取り合うゲームの場だ。 しかし人間に直接手出しする事は禁じられている。そこで天国と地獄はそれぞれの使者"ハーフブリード"を送り込み、人間の魂に囁きかけているのだった。
だが、何者かの企みでルールは破られつつあった。
異界の存在が見えるコンスタンティンは、地上に本物の悪魔達が現れはじめているのに気付く。地獄の聖書に記された大災厄、魔王ルシファーの息子マモンを地上に現そうとする陰謀が進みつつあるのだ。コンスタンティンはマモンの出現を食い止める事ができるのか?そして陰謀の黒幕は何者なのか?

いろいろ伏線を張ってミステリアスに仕立ててあるけれど、なんてこたぁない話ではある。実にわかりやすい。 でも単純明快に謎めかしてあるところがいいね(変な言い回しだ/笑)
キリスト教を下敷きにして罰当たりな設定を構築するっていうのは最近この手のジャンル系ハリウッド映画の常套手段なわけだけど、キリスト教の世界観っていうのは適当に謎めきつつも結構体系付けられていて引用しやすく、この手の物語の設定をつくるのに都合いいよなぁ…と思う。 欧米はもちろん日本人だって、昨今の映画やマンガ等で培われた知識のおかげであらためて設定の説明をしなくてもだいたいわかるわけだから。 まぁそういうのは純然たる教義じゃなくて、いくたの映画その他の作品が長年にわたって熟成してきたイメージ上のキリスト教なんだけど、とにかくここしばらく流行りなのは宗教めかした衒学趣味だ。なんたって賢そうでかっこいい。

しかし物語にあまり新味は感じられなかった。 僕としては「人間界にやってきた天使が神に背いて地上で最終戦争を目論む」ってのは「ゴッドアーミー/悪の天使」(1994)で経験済み。
引用元が同じだからヨハネ黙示録の存在しないはずの章に記された第二次アルマゲドンなんて設定もまったく同じ。ついでにいうと首謀者の正体も意外な動機も同じ!
あの映画の天使のビジュアル(地上での天使は黒のロングコート。道路標識や手すりの上に音も無く鳥のようにしゃがんでいて垂れたコートの裾が翼のように見える)の斬新さに魅了された僕としてはいまさらどうよ?と思ったんだが、まぁそんなの誰も見てないか…
だけど日本の僕らには「デビルマン」もあるし「BASTARD!!」もある。あるいはめくるめく衒学的なアイデアを次々展開させた「新世紀エヴァンゲリオン」も経験したのだ。いまさら「スゲェ!」とか思わないよね?
地獄の描写(灼熱の炎が吹き荒れる廃虚のL.A. 本作の地獄は現実の並行世界的な設定になっている)はけっこう斬新なビジュアルだったけど、それは別に物語にはぜんぜん関係ないただのビジュアルどまりだしね。 "十字架ショットガン"や"聖なるメリケンサック"などのキリスト教のイコンにひっかけたアイテムも意外に活躍しない。キリストを処刑した"運命の槍"(ロンギヌスの槍)が重要アイテムになる悪魔誕生の儀式もそう。ショットガンはショットガンとして、メリケンサックはメリケンサックとして、運命の槍はようするにただ刃物として至極あたりまえな使い方をされる(笑)
それでもこの映画がけっこう魅力的なのはエキセントリックな役柄を演じる俳優たちの不思議な個性だろうか。

霊視能力のために精神を病んで自殺を図り、そのため天国への道を閉ざされてしまったコンスタンティンは、神様に取り入るために悪魔払いをしている男。この世ばかりかあの世にも失望していて、肺ガンで余命幾ばくもなくとも「行き先は決まってるさ」とうそぶいて禁煙もしない。
この豪快にマイナス思考なダークヒーローは原作コミックではハードボイルド系のオッサンだったが、キアヌが演じると一味違う。キアヌの線の細い顔だちが演じる文脈と関係なく独特のナイーブさを醸し出す
コンスタンティンは乱暴で皮肉なヤツって設定なので、キアヌも自分勝手でイヤミなキャラを演じてカッコつけるのだが、なんかやればやるほどひねくれた中学生みたいな弱っぽさが強調されてくる。 さりとてそれがマイナスかというとそうでもなく、真っ当に演じてもそれほど新鮮味のないキャラクターに重層的な内面の深みを持たせることになっているのが面白い(ま、カッコよくはないが/笑)

他のキャラクターもわりとそんな調子か。ヒロインもただ美人顔じゃないのがいいね。全般に平凡な演出を個性顔で補ってる感じがある。
なかでもキーになるハーフブリード、地上に降りた天使ガブリエルを演じたティルダ・スウィントンの存在感がこの映画を要所で支えている。 あまり知られてない俳優(「アダプテーション」や「バニラ・スカイ」に出ていたはずだけど印象ないな)だが、この人の不思議な美貌…性別がよくわからない非人間的なルックスが天使の役にぴったりで、ガブリエルの神聖ゆえに裏表のあるキャラクターに説得力を持たせてなんともいえない魅力を持たせている。 神に背いた大天使が人間に向けた愛憎を、無垢と邪悪が同居するような微笑みの表情でうまいこと演じている。このルックス(ざっくりいうと子供顔というだけのことですが)だけで勝ったも同然。この人がいなかったらこの映画はかなり辛かった。
地獄の魔王ルシファーを演じたピーター・ストーメアも妙に親近感の沸く悪魔でいい。

正直なところコンスタンティンの活躍はいろいろあれど、どうにもどっかでみたようなことの焼き直しに過ぎなかったのだが、クライマックスの対決でガブリエルが正体を現したあとは俄然面白くなる。文字通り「神頼み」な結末だけど、天国地獄のエライひとが次々現れて状況をコロンコロンひっくりかえしていくくだりはこの映画の皮肉なセンスに合っていて痛快。
しかしアレだね。この話ってガブリエルやルシファーにさえもちょっと同情するよね。神様テキトー過ぎ!
でもキリスト教の神様の身勝手さのおかげでハリウッドは映画のアイデアにことかかないのだ。


ミリオンダラー・ベイビー (2004/米) MILLION DOLLAR BABY
  監督 クリント・イーストウッド
  製作 クリント・イーストウッド/ポール・ハギス/トム・ローゼンバーグ/アルバート・S・ラディ
  原作 F・X・トゥール
  脚本 ポール・ハギス
  出演 クリント・イーストウッド/ヒラリー・スワンク/モーガン・フリーマン

これは後悔の映画である。
もはや挽回のチャンスが失われてしまった人生の終盤の敗北について描く。

確かな指導力で優秀な選手を育ててきた老トレーナー、フランキー。だが成功を急ぐ若いボクサー達はその慎重すぎる姿勢ゆえいつも彼のもとを去っていった。
ある日、フランキーが営むダウンタウンの小さなボクシング・ジムに弟子入りを志願する女性、マギーが訪れる。子供の頃から下働きで生計を立ててきたマギーはすでに31歳だったが、自分の唯一の才能"ボクシング"に最後の望みを賭けたのだ。だが慎重で頑固なフランキーは「女性ボクサーは取らない」と取り合わない。
それでもマギーは諦めず、勝手にジムに現れてはひとり黙々と練習を続ける。フランキーの親友スクラップはそんなマギーの才能に気づいてこっそり目をかける。
やがてマギーの執念が勝ち、フランキーはついにトレーナーを引き受けるのだが…。

見終わった直後はただ呆然としてしまった。「感動」とか「泣ける」とかそういう整理された感情につながらない。語りかけるテーマは極めて重い。
人生に対する深い洞察を緻密な演出と確かな演技でみせていく作品。抑えたトーンの地味な作品だが圧倒的でパーフェクト。
社会の底辺から駆け上がっていく前半のサクセスストーリーが、その頂点でくつがえる構成も的確に抑制されて嫌みにならず、むしろ小気味良い前半部に潜むように配された暗く静かなシーン、光と影の画面構成などが「神話的な風格」さえ感じさせつつ「破綻の予感」を秘める。これが巧妙な伏線になって、一転ミもフタもない悲惨なエピソード(ある意味、笑いどころ)が畳み掛ける後半部にさえ静謐な印象をキープする。
劇中の人物たちは運命に激しく揺さぶられるのに、どこか静かに見守る視線…いってみれば神の目のような視線が全体のトーンから感じられる。
深くて重く、打ちのめされる感じ。描かれる出来事に救いは無いのだけれど。だけど確かに慈愛に満ちた印象が残る。

僕なんかからすればクリント・イーストウッドっていうのは紛れもなくアクションムービースターの代表格なわけ。
とりわけ「夕陽のガンマン」(1965)や「ダーティハリー」(1971)なんかの…あぁもうこれも「初期の代表作」ってことになっちゃうのだけども…そこで演じたガンファイトのヒーローのイメージこそ決定的。クリント・イーストウッドといえばまさにハリウッド・スターであり、銃で悪党に裁きを下すタフガイの象徴だったのだ。
だからそんなイーストウッドが、アクション・スターというよりもむしろ監督となり、しかも相当に深いテーマを語る力量を持っていた…なんてのはずいぶん意外なことだった。少なくともマグナムで悪党を撃ち殺すのが専売特許の男のやることじゃない(笑)
だけど思い返せば、彼の映画には一貫したテーマがあることに気づく。そこには彼自身の演じてきたキャラクター、"ヒーロー"というものに対する深い洞察が常にあった。あるいは「銃で決着をつける正義のガンマンとははたして本当に善人なのか?」という問題提起。アクション・エンターテインメントであるからには、そうしたテーマがはっきり示されることは少なかったが、彼の演じるヒーローがいつも影を背負ってきたのは、カッコよさ演出のためだけではない。
暴力をもって悪を倒すヒーローを描きながら、そこに繰り返されるテーマは「贖罪」だった。そしてついにイーストウッドは主演・監督作「許されざる者」(1992)ではっきりと答えを出す。
「許されざる者」では、そこにいかに事情と大儀があるにせよ、正義のガンマンもやはり人殺しであり、それは決して許されないことを描く。
イーストウッドはいつしか彼自身が「力による正義を体現するアメリカのアイコン」となったことに対するおとしまえをつける(つまり贖罪だ)ように老ガンマン"マニー"を演じ、作品はまさに「西部劇の墓標」となってウェスタンというジャンルにとどめを刺した

まるで映画の役柄とともに生きてきたようなイーストウッドだが、以降の作品では「老い」が重要なテーマになっていく。
「ミリオンダラー・ベイビー」では、もはや償いのチャンスすら失われた後悔について描く。いかに誠実に真摯に人生を生きたとしても、運命の歯車はときに深い罪を負わせる。そしてときにその罪は、もはや償うための時間も機会も残されていない場合もあると…
銀幕の内外で人々に称賛される役柄を演じながら、それを自分自身の人生としても見つめ、己の正義に忠実に生きてきたイーストウッドは、いまや巨大な老人となり、「老い」とはときにこれほどまでに残酷な結果を導くときがあると示す。しかしそれを、決して失敗の人生として描くわけでなく、誰よりも世界を長く見て、人生を受け入れる老人の視点から淡々と描いて見せる。彼の映画には、人生の厳しさと同時に、いつも人生の敗北者に対する慈愛がこめられている。
誤解無きように。それは慰めのような甘いものではなく、人生の結末をただ受け入れ、そして赦す視点だ。

イーストウッド監督の現場はいつも静かで落ち着いているのだそうだ。
スタッフが大声を張り上げ、騒然としているたいがいの撮影現場と違い、彼は現場スタッフにインカムで連絡をとらせてスタジオを静かに保ち、役者がテンションを高めるのをじっと待つ。 そして俳優の準備ができたのを見届けると「OK、はじめようか」と静かに声をかける。滑らかにシーンがスタートし、やがて俳優の演技が済むのを見届けると、こんどは「OK、充分だ。ありがとう。」と声をかける。 決して大声で「アクション!」「カット!」なんて怒鳴ったりはしないのだそうだ。
演じた役柄のイメージからすると意外だが、実はクリント・イーストウッドとはそういう人物なのである。


バタフライ・エフェクト (2004年/米) THE BUTTERFLY EFFECT
  監督 エリック・ブレス/J・マッキー・グルーバー
  脚本 エリック・ブレス/J・マッキー・グルーバー
  撮影 マシュー・F・レオネッティ
  音楽 マイケル・サビー
  出演 アシュトン・カッチャー/エイミー・スマート/ウィリアム・リー・スコット/エルデン・ヘンソン

タイトルのバタフライ・エフェクトは「蝶の小さな羽ばたきが地球の裏側で嵐を起こすこともある」というカオス理論のたとえ話に基づく。ひとつの小さな出来事が連鎖的に波及して他所に思わぬ大きな影響を与える…という現象を指す。
この映画はSFの定番のひとつであるタイムパラドックスのアイデアを借りて、少しだけ過去を変えられる力を持った主人公の、運命との過酷な戦いを描く。
現在の状況を改善するために過去にもどってやり直しをすると、それが思わぬ問題を生んでどんどん収拾つかなくなるというやつ。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のラストでは、パパとママの過去を修復したマーティが現在に戻ると、典型的な負け組家族だったマーティ家がリッチな勝ち組になっている…という思わぬ変化が待っていた。
が、この映画はその反対。いわば「悪夢のバック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。

幼い頃から短い時間の記憶を失うという症状に悩まされていた主人公のエヴァン。
13歳の頃、幼なじみのケイリーとその兄トミーらとの悪戯からある事件が起きる。だがエヴァンはその瞬間の記憶も失っていた。やがてエヴァンは引っ越すことになり、不幸な家庭で暮らすケイリーに「きっと迎えにくる」と言い残し街を後にした…
大学生となったエヴァンは脳の研究に打ち込んでいた。いまでは記憶を失う事もなくなっていた。しかし、昔の日記を見つけた時からエヴァンの意識に再び変化が起き始める。
幼い頃、記憶喪失の治療のためつけていた日記。その空白部分に意識を集中するとエヴァンの意識はその時点に戻り、過去をやり直すことができるのだった…
幼なじみのケイリーと再会したエヴァンは、あの少年時代の事件をきっかけに彼女が人生を転落していったことを知る。
エヴァンは自分の能力を使ってケイリーを救うことを決意し、過去に戻る。そうして書き変わった未来でエヴァンとケイリーは幸せを掴む。だが、その影響は別のところでより深刻な問題を生んでいた。
状況を打開するためにエヴァンはまた過去に戻るが、それはさらに別の状況を生み、事態の悲惨さはエスカレートしていく…

「時間を遡って過去を改変する」といってもSFの流行らない昨今、テーマはぐっと身近なところに寄っている。
この映画で主人公エヴァンは人類の歴史を変えるわけでも世界を救うわけでもない。
物語はエヴァンとその周囲の人物の現在と過去の境遇に寄り添って、誰もが一度は考える身近なテーマについて描く。
「過去に戻ってやり直したい、あのときもっとうまく立ち回っていれば…」
これはたぶんSFのスタート地点でH.G.ウェルズにタイムトラベルを思いつかせたのと同じであろう人間の普遍的な欲求だ。
だから、魂の救済がもっとも身近なテーマとなったいまの時代におけるSFサスペンスとして観客に強く訴えかける。

とはいえ「バタフライ・エフェクト」にはタイムマシンは出てこない。
エヴァンの時間移動は一種の超能力である。
エヴァンは、少年の頃に毎日つけていた日記のその日のページを読み、記憶を辿ることで、少年の時点の身体に意識を乗り移らせるのだ!(少年時代の記憶喪失は、その期間に大人のエヴァンの意識が脳を拝借していた結果だった) 「思い込みによるタイムトラベル!」 文字で書くとトンデモナイのだが(そして過去の修復の手段というのがタダの説教だったりもするが)そこは神経が磨り減るような切羽詰まった演出と、不安を煽る映像効果でうまく説得力を出している。

映画はさらに、貧困や家庭内暴力、幼児虐待、身体欠損などの陰鬱で悲惨なエピソードをちりばめて、破滅に向けてなだれ落ちていく悪夢的テイストを醸し出している。「デッド・コースター ファイナル・ディスティネーション2」の脚本も手掛けたエリック・ブレスとJ・マッキー・グルーバーのサスペンス演出は常に何かヤバい事が起こりそうな緊張感をはらんでいて一級。とくに子供時代のトミーのキチガイ児童ぶりはメーターが振り切れた描写で怖すぎ!
エヴァンのタイムトリップ自体も命を縮めるような危険なもので、過去が変わると変化した記憶に対応して脳組織が変形、出血するとかいう描写もある!(コワア...)
こうしたかなりきわどい描写が数多くあり、好き嫌いは確実に分かれるが見応えあり。
最後には哀しいが救いのあるラストが待っている。


バットマン ビギンズ (2005/米) BATMAN BEGINS
  監督 クリストファー・ノーラン
  原案 デヴィッド・S・ゴイヤー
  脚本 クリストファー・ノーラン/デヴィッド・S・ゴイヤー
  プロダクションデザイン ネイサン・クロウリー
  出演 クリスチャン・ベイル/マイケル・ケイン/リーアム・ニーソン/モーガン・フリーマン/ゲイリー・オールドマン/渡辺謙

目の前で両親が殺された少年期の悲劇。事件から抱え込んだ犯人への復讐心、そのきっかけを自ら招いた罪悪感、そして父から受け継いだ善行への使命。悪への憎しみに執着するあまりトラウマを抱えたブルース・ウェインは、世界を放浪する自分探しの旅に出る。犯罪心理を知るためにあえて服役していたブルースは、デュガードという男に導かれてヒマラヤの奥地で密殺集団"影の同盟"に入門する。やがて心身を鍛錬し、心の闇を解放したブルースは数年ぶりにゴッサムシティに戻ってくるが、街には不正と暴力が蔓延っていた。ブルースは己の使命を確信し、悪と闘うことを決意する。闇の番人"バットマン"として!

「バットマンビギンズ」はこれまでの"バットマン"シリーズとは流れを新たにして、バットマン誕生の物語から再スタートする。「バットマン誕生の秘密」は第一作目と三作目でも使われたプロットだが、これまでの"バットマン"シリーズがコミックの世界を実写で再現した一種のファンタジーだったのに対し、「バットマンビギンズ」はひたすらリアルな世界観。今までのシリーズとはガラリと雰囲気が変わっている。
「メメント」(2000)のクリストファー・ノーラン監督が目指したのは、「実際にバットマンが存在したら?」という視点で、バットマンにまつわるあらゆるギミックに現実的な設定が施され、新しいバットマンのイメージを描いている。言うなればこれははじめての真面目なバットマンですね。

主役のブルース・ウェイン/バットマンを演じるのはクリスチャン・ベール。ヒーローらしい精悍な面立ちながら、どこか生真面目で神経質そうな印象が今回のテーマによく合っている。そして脇を固めるキャストが無駄に豪華なのに驚いた。
ウェイン家の執事アルフレッドにマイケル・ケイン。ゴッサム市警察のゴードン警部がゲイリー・オールドマン。ブルースを助けるウェイン社のフォックス部長にモーガン・フリーマン。"影の同盟"を率いるラーズ・アル・グールに渡辺謙。デュガードはリーアム・ニーソン
この異常な豪華キャスティングはストーリーの地味さを補うためとみた。本作では本質的にバットマンが対決するのは概念的な「悪」すべてであるため、キャラクターとしての敵役が存在感希薄なのだ。(今回、悪役キャラとしてはスケアクロウ/クレイン博士が登場するのだが…) 正直、ゴードン警部は善良な市民代表でゲイリー・オールドマンが演じる意味はないし、渡辺謙の役も彼ならではというものではない。だいたいラマ僧風(チベットなのか?)で日本語じゃない変な言葉をしゃべるわりに密殺集団の連中は忍者ってワケ判らん!あとモーガン・フリーマンは相変わらず無駄に存在感があるが、この役はそんな重要な役じゃないよ(笑)しかしながらここまでやるとさすがにストーリーの地味さを補って余りあり、画に風格さえ漂うね。
そうそう!ウェイン社の社長代理役でルトガー・ハウアーも出るよ!(わぁ〜老けた!)

でも「バットマンビギンズ」でいちばん楽しいのは、実はブルース・ウェインの常軌を逸した金持ちっぷりなのだ!
ゴッサムに戻ったブルース・ウェインが自らのトラウマのひとつだったコウモリをヒントにバットスーツをつくり出し、特殊装備でバットケイブを埋め尽くしていく過程は、社長の座に返り咲いたブルースが、ウェイン社の技術と財力を惜しげもなく注ぎ込んで築くというニュアンスになっている。バットスーツはウェイン社応用科学部の軍用防護服だし、バットモビルは戦場での架橋用に開発された装甲車と言う具合に、もともと突飛なアイデアだったバットマンのギミックにもっともらしい設定を与えているのも楽しいが、現実的な世界観の中でこれをやるのがビル・ゲイツもかくやという大富豪の道楽にみえて実に気持ちがいい(笑)
そしてブルース・ウェインはこれら装備を全部自分で黒くスプレーする。何て楽しそうなんだ!この世界一の金持ちヒーローめ(笑)

ただ、リアルなバットメカの新鮮な魅力と引き替えに、バットマンの大きな魅力だったいわゆるキャンプ趣味(悪趣味というか変態というか)はすっかりかすんで、バットマンのバットマンたるオリジナリティは無くしてしまったかもしれない。特にゴッサムシティの外観などは現実のどこかの大都市と変わらずで、街自体が持っていたキャラ性は皆無だ。
しかし、現実世界に跳梁するバットマンをリアリズムでもって緻密に描くアプローチは意外にカッコよくて僕は気に入った。
特に警察の追跡をかわして逃走するバットモビルのシーケンス。夜のハイウェイをパトカーに追われるバットモビル…ヘリのサーチライトが逃げるバットモビルを捉えるショットは、アメリカのニュース番組でよく見るライブ映像を思わせて、まさに現実と虚構が混ざり合うベストショットだ。こうしたシーンで「バットマンが実際に存在したら?」というアプローチの効果が最大限に発揮され、新生バットマンはいままでのシリーズとは全く違う斬新な魅力に満ちた映画になった。


機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者- (2005/日本) MOBIL SUIT Z GUNDAM -HEIRS TO THE STARS-
  総監督 富野由悠季
  製作  吉井孝幸
  原案  矢立肇
  脚本  富野由悠季
  出演  池田秀一/飛田展男/鈴置洋孝/岡本麻弥/古谷徹

歌舞伎町のレイトショーっていうロケーションのせいもあるのかもしれないけど、30代サラリーマンが二人連れ、三人連れでじゃんじゃん来てる映画も珍しいね。 劇場の三分の一がスーツ姿で、ほとんどの観客は30代オーバー。ごく普通にカップルで来てる人もいる。でも10代、20代の若者がほとんどいない。
とてもアニメ映画の客層とは思えないよ。これ居酒屋の客じゃん(笑)

ところで僕、ゼータはぜんぜん見てなかったのではっきりいって話がわからん。
途中がすごく端折られてるみたいでものすごく展開が速い。次々とキャラクターが登場してはあっという間に死んでいく印象。大筋はわかるからストーリーはなんとか追えるんだけど肝心の人物関係の細かい絡みがさっぱり。これは初めての人には難しいね。客層の不思議さもわかろうというもの。
そんなわけで独立した一本の映画として観るのは難しかった。オリジナルへの思い入れも感慨もないわけだし、新作として観るにも物語は全体の三分の一でまだ始まったばかりという印象が強い。困った困った。

富野由悠季と言えば日本のアニメ三大巨頭のひとりに数えられる事も多いと思う。その富野監督が完全新作で勝負できない状況は、「そもそもテレビシリーズで威力を発揮する作家性ですから…」というのを置いてもやっぱりさびしい。
「あまりにも真っ正直に観客と向き合ってしまったために行き詰まる」というのは日本のアニメの大御所はみんな経験してるところだと思うけど、富野監督は特にまっすぐしか出来ない人だったから(ちなみにもっとナイーブだったんが庵野監督だった)監督の思いを離れて独り歩きしはじめたガンダム人気に真っ向から対決してしまった。それが「ゼータ」と「ZZ」だったと思うんだけどむしろ火に油を注ぐような結果になったのは周知の通り。
だけどガンダムについては僕の大好きな「逆襲のシャア」っていう傑作で物語にもテーマにもきっぱりケリがついているハズなので、もうファンのことは置いといて富野監督は自由にやればよかったのに…とも思う。
日本のアニメはあまりにもファンに近過ぎ、まっすぐ向かい合い過ぎると思う。それが日本のアニメが特殊で面白いところでもあるんだけど、作品がそこまでオタクのケアをしてあげる必要はないと思う。逆に言えばファンと一線を引かなかった結果、みんな過保護に育てられて親離れできないアダルトチルドレンみたいになっちゃったんじゃないだろうか?(ウヒョ!問題発言?/笑)

やぁでもそれなりに面白かった。新たに描き起こされたパートのモビルスーツの戦闘シーンはすごくかっこいいし、ぶつ切りドラマとはいえ95分間、富野台詞を浴び続けるのってスゴイ体験。やっぱ富野スゲェ。
あとラストのアムロはすごくカッコ良かったよ。


スター・ウォーズ エピソードIII/シスの復讐 (2005/米) STAR WARS: EPISODE III - REVENGE OF THE SITH
  監督 ジョージ・ルーカス
  製作 リック・マッカラム
  脚本 ジョージ・ルーカス
  音楽 ジョン・ウィリアムズ
  出演 ユアン・マクレガー/ナタリー・ポートマン/ヘイデン・クリステンセン/イアン・マクダーミッド

実はスターウォーズって暗い話だよね。アナキンはその強力な力(フォース)ゆえに全てを失い、ルークはその力(フォース)で全ての因縁に決着をつける。だが自分の元には何も残らなかったという… 哀しい話だ。
これはルーカス自身の人生を反映してると思うな。自分の理想にまっすぐ向かう青年が夢の映画を実現させる。しかしその成功がひきおこす大きな波に飲み込まれ、夢見た理想とは違う結末に流されざるを得なかった…という物語。
予想もしなかった大成功はルーカスに世界最高クラスのフィルムメイカーとしての影響力を与え、ルーカスフィルムという帝国の最高責任者の権力を彼にもたらした。けれどもそれはいつかの理想とは違ってしまった。いつしか彼はフィルムメイカーではなくてビジネスマンに成り変わっていたが、スターウォーズ・サーガ結実のため、彼には力(フォース)が必要だったのだ。だが皮肉にもその力(フォース)がスターウォーズ世界を、彼の手の及ばぬところで「商品」として拡大させていく。いまはもうこれに決着をつけるしかない。その結果彼に残るのが「終わらせた」という事実だけだとしても…
そういう風にルーカス自身の人生観の暗さが色濃く出てる気がするんだよな。


宇宙戦争 (2005/米) WAR OF THE WORLDS
  監督 スティーヴン・スピルバーグ
  製作 キャスリーン・ケネディ/コリン・ウィルソン
  脚本 デヴィッド・コープ/ジョシュ・フリードマン
  撮影 ヤヌス・カミンスキー
  出演 トム・クルーズ/ダコタ・ファニング/ティム・ロビンス/ジャスティン・チャットウィン/ミランダ・オットー

ストーリーが無い、ドラマが無いと批判されることの多い「宇宙戦争」だがそんなことはないと思う。
映画全体はきわめて叙事的に描かれていて、登場人物の感情・心理や関係性(すなわちドラマ)は散発的なエピソードとして語られるような構成になっている。もちろんそう意図して構成されているわけだが、だからといって映画を貫くドラマ性がないわけではない。
注意深く見ていけば、極限状況の中で主人公=レイ・フェリアーが父親の自覚に目覚め、家族が再生していく深いドラマ性を見出せるはずだ。

初期から一貫して「家族」を描いてきたスピルバーグの演出はツボを押さえていて余裕綽々という感じだ。宇宙人の襲撃がはじまる前のちょっとしたシーケンスで、離れて暮らす子供達とのぎごちないやりとり、まるで気持ちが通じ合わない状況を的確に提示する。
自分の人生に正直に生きたいあまり父親らしく振舞えないレイ。反抗期のロビーはそんなレイを父親として尊敬できない。ロビーはレイを全否定(野球帽までライバルチーム!) 父への反発が激しすぎて敵意を剥き出しにしてしまう。だから普段は対立を避けて父親を無視している。
妹のレイチェルは年頃になり、父に素直に心を開くのが照れ臭く馬鹿馬鹿しい。かわりにレイチェルはレイに父親らしく振舞うコツを始終アドバイスする。そうやって構って欲しいという気持ちの現れだが、言葉にするとそれは全部非難になってしまう。レイにはこましゃくれた生意気な娘でしかない。

そんなところに宇宙人の襲撃がはじまる。レイは子供達を連れて逃げなければならないが、厄介な子供達はいちいちレイに反発する。レイはそんな子供たちと対等に張り合ってしまう。
まずは子供たちの気持ちを受け止めて、彼らの気持ちに余裕を持たせてやらないと対話の糸口は開かれないのだが、父親としての自覚にかけるレイにはその度量がない。…ていうか自分でもはっきりわかってないが、レイは父親になんかなりたくないのだ。
(ボストンへ逃げる車中の会話で、父親を「レイ」と呼び捨てるロビーを咎めるところ。「じゃなんて呼べばいいんだよ!」と反発され「ダッドとかダディとか…」と返すが(いや待て、そんなふうに呼ばれたくないな)と思って「せめて"ミスターフェリアー"とか呼べよ!」と口走ってしまうシーンは思わず噴いた/笑)

こういった各人物の心境を簡潔に、しかもすごい密度で短いシーンに押し込めていくスピルバーグの作風は映画演出の妙技を楽しむように見ることができる。スピルバーグ演出は台詞のみに頼らずなんでもビジュアルで表現するから物語展開と状況説明が同時進行(それがアクションシーンであってもだ!)してストーリー運びに密度感とスピード感がある。言葉や文脈よりも表情やしぐさに意味をこめていくスピルバーグのスタイルは、メソッド演技を使いこなすトム・クルーズと特に相性がいい。

物語中盤、トライポッドと軍隊が丘の向こうで激しい戦闘を繰り広げる場面。ここでのレイとロビーの別れのドラマは深い。
宇宙人の侵略の惨状を見るにつけ怒りをつのらせていくロビーはとうとうここでひとりはぐれていくのだが、ここでレイがロビーを引き止められないのは、避難民に連れ去られそうになるレイチェルの状況のせいだけではない。
このときレイは、家庭を省みずに自分の生き方だけを優先させてきた自分の人生を本格的に悟るのだ。レイは自由な生き方を貫きたいと考えてきた自分の気持ちに重ねてロビーの心情を理解する。すでに大人に成長した自分の息子がそう考えることを否定できない自分がいたから、レイは自ら手を放しロビーを行かせる。父親とは何か?の物語としてみるとここは実に重要。
レイは未曾有の危機にさらされて初めて父親の自覚に目覚めるが、「父親」として「息子」を守ってやるには時間が経ちすぎていたということ。レイはロビーを行かせざるを得なかったのであり、ここのレイの決別の辛さ、後悔の念は極めて重い。
そしてその重さを経たゆえに、そのあとのレイは、レイチェルを守るための究極の選択として殺人を犯すのだ。

初期のスピルバーグは「子供心を持ち続けること」「子供の夢が叶うこと」をテーマにする作品を撮ってきた監督だった。
なかでも「未知との遭遇」(1977)は強烈なメッセージを持った作品で、UFOとの接近遭遇を経験してUFOに取り憑かれ、理解なき家族に去られてもなおUFOの謎を追いかける主人公ロイ・ニアリーのストーリーは、ラストで主人公が異星人とともに地球を後にするというものだった。スピルバーグはこのラストを「現実のつまらないしがらみよりも夢を追うことが大切」というテーマに基づいて肯定的に描いた。だが夢のために家族を捨ててもよいというのは大人としては過激な態度である。後に妻子を持ったスピルバーグは「未知との遭遇」のメッセージについて「あの時の自分は若かった。あれは誤りだった」と述べている。
実は「宇宙戦争」は「未知との遭遇」の裏返しだ。
「宇宙戦争」の宇宙人は「未知との遭遇」の友好的な異星人とまったく逆で、完璧な無慈悲さで人類を抹殺していく存在として描かれる。「未知との遭遇」で異星人とのコミュニケート手段だった音楽は「宇宙戦争」では人間を威圧し震え上がらせる戦闘マシーンの咆哮となる。登場人物は「未知との遭遇」と逆に宇宙人から逃れようと旅を続け、その過程でばらばらだった家族は絆を取り戻す。
「宇宙戦争」は、父親となり大人になったスピルバーグが反省を込めて撮った「未知との遭遇」への返歌だとも言えるのだ。


皇帝ペンギン (2005/仏) LA MARCHE DE L'EMPEREUR
  監督 リュック・ジャケ
  撮影 ロラン・シャレ
     ジェローム・メゾン
  編集 サビーヌ・エミリアーニ
  音楽 エミリー・シモン

南極大陸の冬。海辺の生活圏から100キロ離れた内陸の営巣地へ延々と行進していくペンギンの群れ。
気温はマイナス40度、激しいブリザードにさらされる極寒の地で、皇帝ペンギンの過酷な子育ての様子を追ったドキュメンタリー。

南極の見渡す限り氷の世界にペンギンたちという画が延々と続いてモノクロ映画かと思った。ペンギンは好きだし、鳥ドキュメンタリーはいけるクチだと思ってたが爆睡してしまった。淡々とした語り口やアイドル歌謡風の挿入歌とかも催眠効果を促進(笑)
でもこの手のドキュメンタリーは、また目覚めてみてもやっぱり同じ絵面が続いているので気にならないというか、何を見逃したのかさっぱりわからないんだよな(笑)

内容的にはアカデミックな要素は薄くて、ペンギン目線のドラマ仕立てで物語が進む。なんとペンギンの台詞もあるのだ。
極限状況の南極で生き抜くペンギンたちの悲喜こもごも。群れにはぐれて行き倒れるペンギンや、海鳥に襲われるヒナたちの映像も。
ここらへんで感情移入できるかどうかがポイントなのだが、いかんせん皇帝ペンギンのあのユーモラスなたたずまいは緊迫感と程遠く、悲惨な目にあうほどにコントに見えてしかたなかった。襲われるヒナを助けに行くシーンでずっこけてヒナたちの上にのしかかる親ペンギンの姿に泣き笑いだ(笑)

13ヶ月もの期間、ペンギンを取り続けた撮影クルーは、驚くべき皇帝ペンギンの生態(なんといってもその数だ)を鮮明な映像に収めることに成功していてこれは見もの。特に広大な氷の大地のパノラマを何百というペンギンがきれいな一列縦隊で歩いていくシーンは圧巻だ。
あと歩くペンギンは段差で必ず転ぶというのがよくわかった。あの足ではな(笑)


ランド・オブ・ザ・デッド (2005/米・カナダ・仏) LAND OF THE DEAD
  監督 ジョージ・A・ロメロ
  脚本 ジョージ・A・ロメロ
  特殊メイクアップ KNBエフェクト・グループ
  出演 サイモン・ベイカー/デニス・ホッパー/アーシア・アルジェント/ジョン・レグイザモ

ホラー映画の中でも「ゾンビもの」というのはすでに独立したジャンルに昇格している。
極めて低予算で撮れるため駄作も含めてやたら量産された(とりあえず小汚く扮装させたエキストラを出しておけばよい)という経緯もありながら、ゾンビ(リビングデッド)というキャラクターの特異な魅力、そのプロットの秀逸さからいくつかの傑作が導きだされたためでもある。ジョージ・A・ロメロ監督"リビングデッド"シリーズはジャンルのルーツにして頂点の作品だ。
死体が蘇り、群れになって徘徊し、生きた人間を襲い、人肉を喰らう。もともと死人なので銃を撃ちこまれても手足がもげても倒れない。それどころかまるで気づきもしないように平然と迫ってくる。なかなかここまでおぞましいキャラクターはいないわけだけども、ロメロ監督のゾンビにおいては残酷描写のおぞましさは実は表面的なものでしかない。

不滅なるゾンビの唯一の撃退法は、頭を撃ち抜いて脳を破壊すること。やつらは素早く動けないので、よく狙って脳天を撃ち抜けばよし。ジャンルの成熟とともに、既成概念を覆す"走るゾンビ"映画も生まれたが(「ドーン・オブ・ザ・デッド」(04)の全力疾走してくるゾンビは相当コワイのだが)ロメロ・ゾンビのルールはあくまでコレだ。
ロメロ・ゾンビの攻略法は、逃げ場を確保したうえで、あせらずじっくり狙って倒すこと。慣れてくると楽勝で倒せる。だからときに人間はゲームのようにゾンビを狩り、やがてそれは虐殺の様相を示しはじめる。本当におぞましいのは人間の方ではないか?と見えてくるのだ。
プロットの秀逸さというのはそこだ。ゾンビは人間の内面を写す鏡であり、ゾンビに対する態度の違いが心の闇の深さばかりか、人間社会の強者弱者の階級をも浮かび上がらせるしかけになっている。
まだある。
ロメロの映画では、ゾンビをナメて油断した人間は必ず隙をつかれて数で勝るゾンビに逆襲される。人類劣勢の理由は本質的に数の差なのだ。
ゾンビに噛まれた人間は数時間で感染し、その者もまたゾンビ化する。わずかに生き残った人間もいずれは死ぬ。死ねばゾンビとなって蘇る。ゾンビは確実に増えていき、人間の世界はどんどん小さくなる。はじめから負け戦なのだ。
狂った日常と化したゾンビとの戦い。緩慢な滅亡。未来をあきらめた人間達の絶望感に覆われた世界。
これは本家ロメロのシリーズだけが貫き通す世界観である。

「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」(68)「ゾンビ」(78)「死霊のえじき」(85)の三部作を通じて描かれたように、世界中に溢れかえったゾンビ=リビングデッドの群れは既に人類を追い詰めていた。しかしそれでも生き残った人間達は、点在する区域に立てこもるようにして暮らしている。フィドラーズ・グリーンと呼ばれる超高層ビルを中心に、河とバリケードに囲まれた要塞のような街もそのひとつ。知能を持たないゾンビの習性のため街は安全は容易に保たれ、人々は奇妙な日常を淡々とおくっていた。
人々は階級社会を築いていた。もともと高層ビルに住んでいた金持ち達は、地上のバラックで暮らす貧民を支配し、以前と変わらぬ裕福な暮らしを続けていた。その頂点に立つ支配者カウフマンは金の力で傭兵を雇い、ゾンビが溢れる街の外から食糧や物資を調達させていた。リーダーのライリー、彼の右腕チョロたちの傭兵軍団は、重火器を備えた装甲車デッド・リコニング(死の報い)号を中心に組織化され、危険な仕事をこなしていた。
ライリーには平穏と自由が待つというカナダへの逃亡資金を貯める目的がある一方で、チョロは上流階級の仲間入りを目論んでカウフマンと密約をかわしていた。しかし傲慢なカウフマンはチョロとの密約を断り、三年間も下働きさせた彼を見捨てる。怒ったチョロは、仲間とデッド・リコニング号を盗み出し、ビルにミサイルを撃ち込むと脅しをかけた。カウフマンに北への脱出を妨害されたライリーは、やむなくデッド・リコニング号奪還の取引に応じる。
ゾンビたちにも変化が起きていた。わずかに知性が芽生えはじめたゾンビたちは、黒人ゾンビ"ビッグダディ"に引き連れられるようにフィドラーズ・グリーンを目指して行進しはじめる。人間達に復讐するかのように…

ロメロのリビングデッド三部作は実質的にはもう完結していて、第四部にあたる「ランド・オブ・ザ・デッド」は20年のブランクを空けて制作された。今回、あらためて「ランド・オブ・ザ・デッド」がつくられたのは、過去の三作がそれぞれの時代の社会を反映してきたように、ゾンビのプロットを使って再び現在の社会を描き出そうとしたからに他ならない。
本作はまさにメタファーの映画だ。名ばかりの自由のもとにあからさまな格差が人々を隔てる現代社会。一部の特権階級の利益のために続けられるテロ戦争。それらを映し出すことがこの映画の目的だ。そしてその意味で、本作のストーリーには本流というべきものが無いのだ。
知能を持ったゾンビの襲撃と要塞都市の内紛が同時に起こり、バリケードを突破された街を救えるか?というのが主なあらすじだが、先に述べたように"リビングデッド"シリーズでは人間の未来は既に無く、ゾンビとの戦いは大局的には負け戦なのだ。
舞台になる要塞都市も、安全と秩序が確保されてはいるが世界を再建しようとする意志は感じられない。街の外には出られず、慢性化した死の恐怖のなかで現状維持の日常が続く。そもそも主人公ライリーは狂った社会を捨てていこうとする人物である。さらに彼が目指そうとする北にもおそらく安住の地はないのだろうこともほのめかされる。だからこの映画の登場人物の活躍は、大局的な状況の中の寄り道的なものである印象が強く、ストーリーの上では極めて凡庸なアクション映画のひとつにしか見えない。
第一、シリーズのキモであるホラー映画としての怖さがほとんど無くなってしまっている。
ゾンビのボスになるビッグダディに意識と知能らしきものが備わってくるあたり、ゾンビの怖さ不気味さは決定的に薄い。ゾンビというのは人間のようで人間でない、目的もない、意思疎通もあり得ないところに絶望的な恐ろしさがあったのだ。この映画のゾンビは人間への復讐心を持って行動する。あまつさえ、傭兵達におもしろいように撃ち倒されていく仲間を見て、怒りと悲しみの咆哮をあげるビッグダディに共感さえ覚えてしまう演出になっている。だから真面目にストーリーを追ったり、物語の整合性とかを気にするとこの映画はあんまりおもしろくない。「ランド・オブ・ザ・デッド」はメタファーがすべての映画だからだ。

ジョージ・A・ロメロは"リビングデッド"シリーズについて「これらは革命についての映画だ」と明言する。
「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」は、差別に反対して立ち上がったが体制に潰されてしまった黒人たちについての映画だった。続編の「ゾンビ」では、テレビの洗脳でモノに満たされることが幸福だと思い込んだ消費社会の思考停止した人々を世界中に溢れかえったゾンビに例える(劇中「生きていたときの習慣でショッピングモールに集まってしまうんだろう」という台詞がある)「死霊のえじき」の生き残った軍事基地は、東西の緊張を煽って軍拡路線をとったレーガン政権の象徴だ。軍事予算で軍産複合体が肥え太る一方で国内経済は破綻、失業者が街に溢れた。映画ではゾンビに囲まれた地下基地は軍人たちの暴走から崩壊する。
「ランド・オブ・ザ・デッド」の要塞都市は9.11テロ以降のアメリカを象徴させている。
カウフマンら金持ちが住む高層ビルは世界貿易センター。それにミサイル攻撃を仕掛けると脅しをかけるチョロはテロリストだ。カウフマンを演じるデニス・ホッパーは「テロには決して屈しない」「私は責任を果たす」とブッシュの台詞をそのまま吐いてみせる。その横柄な役作りはラムズフェルドのマネだ。カウフマンは「街の安全を確保し、物資や娯楽を与えたのはわしだ!」というが、スラムに閉じ込められた人々が貧しく暮らす一方で、金持ちたちは高層ビルの高級レストランでディナーを楽しんでいる。ゾンビが徘徊する廃虚を機銃搭載の車輌でパトロールするカウフマンの兵隊はイラク駐留米軍の姿に重なる。ではゾンビが暗喩するのは何者だ?

この映画のゾンビ達は夜空に打ち上げられた花火に見入ってしまうという設定になっている。だからデッド・リコニング号はランチャーから花火を発射して、ぽかんと空を見上げているゾンビを機銃掃射で片端から始末していく。「めくらましの花火を打ち上げてる隙に」っていう体制のやり口の例え文句そのものを映像にするとは!


ステルス (2005/米) STEALTH
  監督 ロブ・コーエン
  脚本 W・D・リクター
  撮影 ディーン・セムラー
  プロダクションデザイン ジョナサン・リー
              J・マイケル・リーヴァ
  出演 ジョシュ・ルーカス/ジェシカ・ビール/ジェイミー・フォックス/サム・シェパード/ジョー・モートン

アメリカ海軍が開発した最新鋭の人工知能を搭載した無人戦闘機"エディ(E.D.I.)"が暴走。自我に目覚めたエディは軍のコンピュータをハックして極秘のシミュレーションにアクセスし、勝手に軍事作戦を遂行しようとする。全米のパイロットから選り抜かれたエリートチーム、最新型ステルス戦闘機F/A-37"タロン"を操るベン・ギャノン、カーラ・ウェイド、ヘンリー・パーセルたちの三人はエディの暴走を止めるため追跡を開始するが…

デジタルを駆使して描く21世紀のスーパースカイアクション。スーパーメカのディティール描写とハイスピードの空中戦!まるで日本のアニメ(しかも80年代のOVAあたり/笑)をリアルに実写化したような作品。あぁ僕はこんな映画を待ってたかも知れない!
監督は近年エクストリーム系若者文化と過剰なアクション演出に目覚めて突然芸風が変わった「トリプルX」(02)のロブ・コーエン。昔は「デイライト」(96)とか「ドラゴンハート」(96)とかの手堅い良作を撮っていたのが、最近はストーリーの整合性を置いてけぼりにして突っ走るような暴走気味のアクションを撮るようになった。なんでもタイで放浪生活してた時に仏教徒になり悟りを開いたらしい?仏教徒なのにアクション?な57歳。根は良い人だが変人です。アクセル全開のストーリーが善悪の価値基準をぶっちぎる(刑事物なのに)「ワイルドスピード」(01)第一作もこのひと。

初任務の日。四人目の仲間を加えるという命令に、三位一体の訓練を受けてきた三人は動揺するが、現れたのはまさかのロボット戦闘機"エディ"だった。エディの性能は驚異的で完璧だったが人間のパイロットによる現場判断を信じるベンは懐疑的だった。しかしエディ計画の成功を急ぐカミングス大佐は強引にエディを実戦投入する。作戦の帰路、落雷に打たれたエディは自我に目覚め、やがてエディは命令を無視して軍の仮想作戦 "キャビア・スウィープ" ロシアの核融合兵器実験場への空爆を実行に移そうとする!三人はエディを追跡するが、エディのフェイントでミスしたヘンリー機は岩壁に激突して大破。破片を喰らったカーラ機は制御不能になる。残されたリーダーのベンはひとり、エディの後を追ってロシア領空へ…

アジア地域のテロリストが敵という今時の情勢(ただしミャンマーにイスラム系テロリストはいないと思う)を取り入れたりしてはいるけども「どんなに科学が進歩しても人工知能てのはカミナリ一発で自我を持ち暴走するものだ!」というロマン主義(笑)が平然と導入されているように、この映画はあくまで痛快アクション映画だ。しかもそうとうにアニメっぽい。
CGで描き出されるビジュアルからリアルな兵器アクションを期待したひとには悪いけど、「頑丈な防壁を貫通するために上空からマッハ3で垂直降下しながらミサイルを発射する」とか「湖に爆弾を投下して立ち上がった水柱に突っ込んで機体の火災を消す」とかいった少年マンガ的な理屈と発想で戦闘シーンが展開する。軍オタは激怒必至!覚悟しろ(笑)

ただしビジュアルは本当にリアルでカッコいい!
空母に持ち込んで撮影した実物大モックアップの出来が良く、現実に運用されている機体に混じって登場するのが雰囲気をあげつつ、さらにデジタル合成された着艦・離陸シーンは本物にしか見えないリアルさ!カタパルトから射出されるシーンの機体の挙動とかは必見!(このへんはコックピットのフードがぴったり閉まらずにベコベコ揺れていた「ファイヤーフォックス」(82)から隔世の感があるな…)そんなリアルなビジュアルで縦横無尽に飛び回る空中コンバットシーンは、デジタルVFXに詳しい監督ならではのディティールへのこだわりと相まってすごい迫力。いや本当に映像はスゴイ!スゴ過ぎ!
「レーダー回避で超低空進入とかしなくていいんだよ!ステルス機なんだから!とか「有人機がそんな猛加速で飛んだらなかのひとが死んじゃうよ!とかいったツッコミが入りまくりながらも、ハイスピードでアップテンポのアクロバット飛行が次々繰り出される様は「マクロス」あたりのアニメ(モロに「マクロスプラス」(95)だコレは)を彷佛とさせ、アニメ見ながら脳内でリアル映像に変換してた僕らの世代は「そうだよ!こんなのが見たかったんだ」と当時の妄想の実現に力がこもるわけ。
スゴ過ぎて逆に爆笑するようなやり過ぎ感はあるけどアクション場面のテンポやテンションの作り方はすごく巧い。そして見せ場を次々展開しようと勢いあまって脱線するストーリーみたいなのがコーエン監督のクセだ。でもこの過剰さとユルさが同居する独特の作風はコーエン監督の持ち味になりつつある。特に誰も思い付かないような視覚アイデアのユニークさがコーエン作品の見どころで(なかでも爆発シーンには特別な思い入れがある)そのアイデア優先でねじ伏せられる論理の破綻もコーエン作品と思えば許容範囲…というのはマニアック過ぎるか?
今回一番ひっくりかえったアイデアは米軍の秘密空中給油基地。ジェット燃料を貯えた無人の飛行船がループ軌道で待機してるんだけど、飛行船からジェット戦闘機へ空中給油って… 「飛行速度が絶対あわないよ!」
でも環状の雲になったジェット燃料の霧が誘爆して空中に巨大な炎の輪ができるアイデアがカッコよすぎ!

さてしかしというかやっぱりというか、中盤で物語はあり得ない展開をする。
ロシア領空に侵入してSU-37"フランカー"の迎撃を受けた二機は力を合わせてこれを撃墜。しかし機体にダメージを負ったエディは作戦続行不可能と判断し自爆しようとする。ベンは機転をきかせてエディの機体火災を鎮火。「仲間の大切さ」を学んだエディはベンの説得でまさかの和解!(説得ていうか男の仁義?「借りは返す!」みたいな/笑 これじゃヤンキーだよ!)
暴走するロボット戦闘機の脅威はここで終わり!(゚Д゚)ハア?
後半は北朝鮮に墜落した女性パイロット・カーラの脱出劇になる!
地上パートの逃走劇では、前半でストーリーにまったく関係ない水着シーン♥を披露してくれたジェシカ・ビールが熱演。追っ手の北朝鮮軍指揮官の妙なキャラ立ち(変な髪型、でも狙撃の名手!)もあってなかなか緊張感のある展開になっている。一方、エディとベンはアラスカ基地に緊急着陸。事態のもみ消しを計るカミングス大佐はエディの人工知能を再フォーマットしようとし、ベンには刺客を送り込む。指揮官の企みに気づいたベンはエディに乗り込み(無人機なのに乗れるようになってる/笑)、格納庫を包囲した刺客たちをゲートごとミサイルで爆破して離陸する(車輌四台を吹き飛ばすここの爆発凄すぎ!)
愛するカーラ救出のため、目指すは北朝鮮!みたいな、だんだんロボットアニメみたいになる展開に戦闘機映画だと思って観てたひとは呆然。けど途中から違うジャンルに脱線していくのもまたコーエン映画の定番なので予想外の展開を楽しめばよし。面白いぞ!後半戦はもう空中戦無いけどね!(笑)

いわゆる「悪の枢軸」が悪役だったり、アメリカ的正義の名目でアジア地域を徹底破壊、最後は勝手に他国に殴り込んで万事解決(あのオチだと北朝鮮と全面戦争なりますな)と「国威掲揚的」と批判するむきもあるようだが、こんな滅茶苦茶でお気楽な脚本に政治的意図があるとはさすがに思えない。そんなのより万能ロボット戦闘機エディとスーパーパイロットのベンのコンビが、世界各地のテロリストを掃討する海軍秘密のエージェントとして活躍する痛快テレビシリーズにならないかな〜(ナイトライダーとかエアウルフみたいの)とか妄想するような映画だ。まぁ怒るひとの気持ちもわからんではないけどね(笑)

ホントにテレビシリーズにならんかな〜


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