1 法律家に必要なもの
法律家に必要なのは健全な常識だ,と思っている。しっかりした常識と,ある程度の法律知識があれば法律家としては立派につとまるものだ。また,どんな仕事にしろ職業倫理は一つ。フランス語でいうボン・サンス(良識),これが必要だと思う。
(元最高裁判所長官藤林益三著作集(3)「法律家の知恵」裏表紙)
(以上 2004.3.31)
2 結論が先で論理は後
要するに,裁判というものは,人間というフィルターを通過するのです。濾過したり,漉したりするフィルターというとわかりましょう。人間というフィルターで濾過せられるのです。裁判をする裁判官を通過し,濾過されていって結論がでるのです。ですから,私が判断するのと,もう一人の人が判断するのとでは,物事の考え方が少し違って来るかもしれません。(略)
迷路という遊びがあります。入口から入って出口を探し求めるパズルの一種です。鉛筆でたどって行ってどっちへ出るか,何分間でやれというような遊戯ですが,だいぶうまく行ったと思うと行き止まりになりますから,なかなか抜けて行く道を探し出すのはむつかしいものです。逆に出口から探していくといいかもしれません。裁判はそんなにくねくね曲がった論理を追って結論を出すものではないのです。こういう事実があって,それに法律を適用して,筋道をたどって行った結果がこうなった,というようなものではありません。そのことを申しあげておきたいと思います。
裁判官は北から入ったが,南へ出たいというわけです。ところが道がないのです。北から進んで南出口の近くまで来ているのだけれども,どうしてもそれ以上南に進む道がない。論理をたどっていくと,東の方へ行ってしまうのです。ところが,裁判官の勘からいうと,つまり全人格的判断からいうと,東へ出ては困る。どうしても南に出たいのです。理屈だけを延長させていくと東へ出そうになる。けれども,南が正しいという結論になると,そこに山があっても道を造るのです。のこぎりを持ってきて竹藪を切り,シャベルで地下茎を掘りおこして,ここに道を造る作業をするわけです。そういうことをして南へ行く結論を出す。裁判官には,そういう作業があるのです。
そんなことを言うと,とんでもない,裁判官が勝手に法律を解釈して結論を出すのではないかというように考えられるかもしれません。しかし,裁判官自身は決して矛盾を感じていないのです。はっきり意識はしないけれども,そういうふうに法律を解釈しているのです。だから,コンピューターだけでは裁判はできない,ということがおわかりいただけると思います。(以下略)
(第7代最高裁判所長官藤林益三著作集(3)「法律家の知恵」琉球大学教養部学生を対象に行った講義内容から)
(以上 2004.3.31)
3 公正な裁判を保証するための原則
原則1 裁判官は独立でなければならない。
もっも重要な原則は,裁判官が政府から完全に独立すべきことである。裁判官は,個人と国家の間に立って,法によって是認されない自由の侵害から個人を保護するものと,われわれは考える。
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原則2 何人も自分の関係する事件の裁判官たりえない。
裁判官は自分の裁判しなければならないどんな事件にも,自ら利害関係をもってはならないということである。裁判官は,公平でなければならない。
正義は行われているように見えなければならない。いかなる事件においても,もしなんらかの不注意によって,彼が裁判をし,その後,単なる可能性にすぎないにしろ,彼が一方に偏見をもつかもしれないことを発見される場合,その判決は,判決としては完全に正しいものであっても,覆されるであろう。その理由は,すべての人が,自分の事件が正しく公平な裁判官によって裁判されたと感ずることができるということが,きわめて重要なことである点に存する。正義は単に実際に行われなければならないのみではなく,行われているように明瞭にそして疑いなくみえなければならないことは,われわれの法の確立された原則である。
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原則3 裁判官は両当事者の言分を聴取しなければならない。
裁判官は,ある当事者に不利な判決をする前に,その当事者ののべようとすることを,すべて聴取し斟酌しなければならないということである。何びとも,聴問されないまま有罪とされることがあってはならない。
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原則4 裁判官は証拠に基づいて判決しなければならない。
裁判官は,適正に提出された証拠と弁論のみに基づいて判決しなければならず,訴訟の外でえた情報に基づいて判決してはならないことである。
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原則5 裁判官は理由を示さねばならない。
裁判官は判決の理由を示さねばならないということである。そうすることによって,裁判官は,当事者双方の側から彼の前に提出された証拠と弁論とを聴取し斟酌したことを証明し,同時に訴訟外のことがらを考慮に入れていなかったことを証明することになるからである。判決の理由が示されなくても,あるいは示された理由が間違ったものであっても,その判決自体は正しいものでありうることは,もちろん否定しえないであろう。しかし,裁判を公正ならしめるためには,正しい判決に到達せらるべきことのみならず,判決が道理に基づいたように見えるということが必要である。
そして,それは,裁判官が判決の理由を述べる場合に,はじめてそう見えることができる。
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原則6 裁判官は非難をうけないようにすべきである。
裁判官はその品性において非難をうけないようにしなければならないこと,または,すくなくとも彼自ら法の違反者とならないように自らを律していなければならないことである。
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(ロード・アルフレッド・デニング/伊藤正己・児島武雄訳「裁判と正義」(紀伊国屋書店・1957年)中の「第2章 正しい裁判官」からの抜粋)
なお,「第3章 誠実な弁護士」の項では,誠実な弁護士の徳目として,「公正」,「誠実」,「勇気」,「礼儀」の4つを挙げている。
(以上 2004.5.31)
4 「良い」法律家の条件
紛争及び紛争に関わる問題を「議論」によって解決するのが,法律家の任務である,と観念されます。そして,「議論による問題解決」という観念は,法律家に対して次のような資質・能力あるいは倫理的態度を要請することになります。
(a) 「議論」によって問題を解決する以上,その前提として,言論の自由すなわち主張・反論する自由,特に反論又は批判の自由が何よりも守るべき価値とならなくてはなりません。すなわち,法律家の活動はその徹底的な擁護者となるべきであります。
(b) 「議論」による問題解決は,@「主張あるいは反論に対しては,暴力や沈黙によってではなく,常に根拠を示した言明によって答えねばならない」,A「ある根拠に基づく主張又は反論は,同一の根拠が用いられる限り,常に同一でなければならない」,B「「議論」を行う場・機会・能力が等しく与えられている者の間の議論のみが問題解決として許されなければならない」という三つの基本的ルールが守られるべきであることを法律家に要請します。
これらが,「議論」の構造そのもの及びそれを支える社会学的状況から帰結されることは,あらためて説明するまでもないでしょう。(略)
(e) 以上述べてきたように,「良い」法律家とは,批判の自由を至上の価値として共有しつつ,反論可能性の大きな言明を提出しようと努め,そのことによりできるだけ「議論」によって問題解決を図ろうという倫理に裏打ちされた共同体の一員でなければなりません。そして,法律家は右のような共同体の伝統を守りつつ「議論」という共同作業によって蓄積されてきた言明を尊重し,その上に立って新たな問題を解決するための反論可能性の大きな,大胆な言明を提起するべく努めなければなりません。皆さんは,これまで主として判例・通説を学んできたことでしょう。しかし,判例・通説のすべてが後に述べるような「反論可能性テーゼ」の掲げる要件を満たすものであったか否かは疑問としなければなりません。むしろ最高裁が繰り返し判示したものがあるが故に,あるいは有力な学者の説であるが故に,尊重されてきた−これは例えば「解答権」を持った学者の説が権威を認められてきたローマ法以来の伝統ですが−嫌いがないわけではありません。しかし,誰が言ったか,を基準としてある言明に従うのは,一種の権威主義にほからなず,批判の自由を至上価値とする法律家共同体の伝統に反すると考えるべきであります。むしろ,言明はそれがそれが何を言ったかを基準として,すなわち反論可能性の大小を基準として判断されるべきであり,そして法律共同体の批判,つまりありとあらゆる反論に耐え抜いて「生き残った」言明こそ,法律家が尊重すべきものにほかなりません。
(平井宜雄東大教授 司法研修所論集(92号)1994−U)
参考:山畑 哲世 平井宜雄教授の「反論可能性テーゼ」について
はこのサイト編集者
(以上 2004.6.18)
5 法の解釈と法律家
以上のような法律家の考え方は,法の根本問題に対しては次のようなって表れる。
(イ) 法律家はいつとはなしに法律と正義とを混同し,法律に対する批判精神に乏しい傾きがある。
(ロ) その反面,法律を超越するかに見える問題,例えば戦争か否かの問題については,却って諦観するかに感ぜられる。
(ハ) そればかりではない。法の尊重を標榜しながら,却って法の歪曲を敢てする。その故に法律家は屡々詭弁家乃至三百代言に陥る危険がある。
こう見てくると,何と法律家は威武高なことであろう。常に自分の解釈が客観的に正しい唯一の解釈だとして,客観性の名において主張するなんて。しかし,また,見方によっては,何と法律家は気の弱いことであろう。万事法規に頼り,人間生活が法規によって残りくまなく律せられるように考えなくては心が落ち着かないなんて。そして何とまた法律家は虚偽で無責任なことであろう。何とかして主観を客観のかげにかくそうとするなんて。
来栖三郎「法の解釈と法律家」私法11号(1954年)日本私法学会発行(有斐閣出版)
(以上 2004.12.06)
6 司法に携わる者の祈り
これにつけても,私はイギリスの判事その他司法に携わる人々の祈りの言葉("Aprayer for His Majesty's Judges and others concerned in the administration of justice")を想わざるを得ない。穂積博士は有閑法学で「法律家の祈り」「正義と識別と仁愛」と題してこれにつき有益な説明を加えて居られる。
イギリスの裁判年度は1年を4期に分け,その十月十二日頃よりクリスマスの数日前までの「ミケルマス・ターム」(Michalemas Term)の初日には,裁判所所在の各地の寺院で祈祷式が行われる。ロンドンではウエストミンスター・アベーで大法官を始めとして,若い弁護士に至るまで,朝野法曹一堂に会して,荘厳な儀式を挙げ,その儀式の結びに,会衆一堂声を合せて,"O God, the just and merciful judge of all mankind,"なる言い出しの下に,祈りの言葉を唱えるのである。その祈祷文は穂積博士の翻訳に従えば,
全人類ノ正シクシテ且恵深キ裁判官タル神ヨ。人ト人トノ間ノ正義ヲ司リ,罪無キ者ノ冤ヲ雪ギ罪有ル者ヲ裁断処罰スル為ニ,爾ノ任命ヲ蒙レル爾ノ僕等ヲ天ノ高キヨリ照覧アラセ給ヘ。彼等ニ正義ノ霊,識別ノ霊,仁愛ノ霊ナル爾ノ精霊ヲ授ケ給ヘ。斯クシテ彼等ヲシテ,爾ノ民ノ幸福ト爾ノ御名ノ栄光ノ為ニ,大胆ニ,細心ニ,且慈愛深ク彼等ノ神聖ナル職務ヲ尽サシメ給ヘ,主「イエス・キリスト」ノ御名ニヨリ祈リ奉ル。アーメン。
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である。
裁判官たる神は,全人類の正しくも然も恵深い方である。神はそのしもべを任命して,人と人との間の正義を司り,罪無き者の冤罪を雪ぎ,罪有る者を裁判処罰し給うのである。この裁判官たる神よ,天の高きよりこのしもべ等を照覧あらせ給え。そうして彼等に正義・識別・仁愛の霊を授け給え。彼等をして,爾の民の幸福と,爾の御名の栄光のために,大胆に,細心に,かつ慈悲深く,この神聖な職務を尽くさしめ給え,と祈るのである。
この祈りの心持ちは,「神より任命された僕」であり,「この僕に霊を授け給え」という謙譲なる心持ちと共に,他面「神より任命を受けてその天職を行うものである」何を恐れんや,との自信である。従来裁判は正義なりとの点のみが余りに強調され過ぎている。祈りの言葉にあるように,裁判官たる神は「正しい」(Just)のみならず,「恵深き」(merciful)ものである。罪有る者を処罰すると同時に,罪無き者の冤を雪がねばならぬ。裁判官に与えらるべき霊は「正義」(uprightness)のみならず,同時に「識別」(discerment),「仁愛」(Love)の霊でなければならぬ。正義ならんとするも識別なくば黒白を明にする能わず,正義・識別あるも,仁愛なくば冷かにして情に欠くる憾みがある。裁判を行うにあたっても,「大胆に」(boldly)非ずば逡巡して事ならず,「細心に」(discreetly)非ずば誤り易く,「慈悲深ク」(mercifully)あらねば冷酷に流れる。私はこのイギリスの司法に携わる人々の祈りの心持を常に持ちたい。この祈りは,裁判官のみならず,検察官も,警察官も,弁護士も,司法に携わる総ての人々の共通の祈りであらねばならぬ。
千種達夫著「裁判閑話」(昭和25年第3版277頁,巖松堂出版株式会社出版(昭和23年初版))
(注1) この書の「序文」には,穂積重遠博士が「千種判事は,かの口語体判決文創始者の一人として,裁判所民衆化の先駆者である。その民衆的名裁判官が,忙中に閑を求めて,いともなごやかに民衆に話しかける。それは肩のこらぬ「閑話」であると同時に,民衆と裁判所とを直結せんとする「要説」である。」と記している。
(注2) 旧漢字は,常用漢字に改めた。
(以上 2004.12.14)
7 「裁判官は弁解せず」
石川義夫(元東京高等裁判所判事部総括)
*「司法協会だより」のコラム(平成10年5月,第13号掲載から)
今から三十年近く前,私が山形地裁家裁所長のときのことです。ある日ある道路交通法違反事件の裁判報道が地元有力紙上でなされてから,同新聞の投書欄に,いたいけな児童を事故で死なせた被告に対する刑が軽すぎるという意見に加えて,裁判官の見解を問う旨の文章が一度ならず掲載されました。私は座視するに忍びず,一文を同紙に寄せました。
『「裁判官は弁解せず。』という諺があります。裁判官が法と良心以外の何物にも拘束されないということは,周知のことと思いますが,更に裁判官が裁判をするときには,その裁判官の全智全能を傾けてするということが期待されています。そのように全智全能を傾けて考えた末に到達した結論が,裁判という形で発表されるわけですから,裁判というものは,上級の裁判所で変更されることはあっても,その裁判をした裁判官にとっては,二度とやり直しができないことになっています。背水の陣をしくといいますか,二本の矢を持たないといいますか,要するにやり直しはできないとすることによって,そのたった一回がより一層慎重になされ,より一層間違いのないものになるという効果が期待されているのでしょう。従って,裁判官は自分のした裁判に対して世上どのような批判があろうとも,その批判に反論を加えることも,批判を肯定することもなすべきでないと考えられています。何故なら,批判に反論を加えることは,批判者から結局自己弁護にしか見えないでしょうし,批判を受け入れるとしても,やり直しはできないので,むしろ無責任な変節といわれるだけでしょうから。そもそも裁判官は判決文そのものの中でいうべきことを尽くして置くべきであるというのが,裁判官の間では常識とされております。そのような次第で,裁判官に裁判批判に対する意見を求めることは,所詮無理な要求であることを,投書者のみならず,一般の方々にも知って頂きたいと考えて筆を執った次第です。なお,裁判の傍聴は原則として誰でもできることになっているし,また事件が全部決着したあとなら,その事件の記録を保管している検察庁へ行けば,誰でも一件記録を見せて貰えるしくみになっていることを附言いたしておきます。』
新聞社は,いったん右の文章を紙上に掲載することを約束しておきながら,一両日してこの文章は本紙にふさわしくないという理由で断って来ました。烈火のように怒った私は,出入りの記者に社長を寄越せとつめよりましたが,そのうち一両日中に社長の代わりに常務が参りますとの連絡がありました。ところが,翌日の新聞に又もや投書,「被告は先祖伝来の田畑を売って被害弁償をし,二度とハンドルを握らないと約束している。刑が軽かったのは,裁判官がそれを斟酌したからだ。事情を知らない奴が無責任に外野席から野次をとばすのはやめよう。」と。所長室を訪れた新聞社の常務に私は「どうやら,私の文章はいらなくなったようですから,返して戴きましょう。それにしてもお宅の読者には,絶妙のタイミングを心得た人がいるもんですね。」で,ちょんとした次第です。 以上
(以上 2006.12.10)
8 裁判官の気持ち
「裁判の中心は裁判官その人である。裁判は裁判官その人を顕現するものであるから,よき裁判においては,裁判官の精神が法廷の隅々隅々にまで行き渡るべきである。即ち法廷の空気が裁判官の気持ちで充ち満ちていなければならない。もし裁判官の気魄に足らないところがあるか,その気持ちに不純なところがあると,それは直に法廷の空気を混濁にする。裁判は人と人との取引である。あえて裁判官と被告人との間の取引とのみいわない。法廷には検事もあり,弁護人もあり,傍聴人もいる。これらのあらゆる人と人との接触については,空気の清浄にして澄み渡れることが至上の要件である。而(しこう)して,その唯一の責任者は裁判官その人なのであるから,この意味において,裁判官は,人を裁く前にまず自らが裁かれるのである。
(略)
裁判における心の経験をつむに従って,人と人との真の諒解は心と心との交流によるものであることがわかって,こちらの心を虚しくすることが相手の心をむなしくし,こちらの心を清くすることが相手の心を澄ませるの理をおぼろげながら感得してくると,裁判官が自分の心を虚心にすることがすべてを正しくする根源であって,板倉重宗のなした心を動かさない工夫が,いかなる犠牲を払っても第一になさるべき心構えであることをハッキリと知ったのである。
改めて読む三宅正太郎著「裁判の書」(慧文社2006年復刻版)「書の一」中の「裁判官の気持ち」から。
(以上 2007.08.21)
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