☆ 大東亜戦争 (H16/12/21)

 

   一、大東亜戦争原因と経過

 なぜ強大なアメリカを相手に「真珠湾攻撃」をしなければならなかったかを検証するためには、19世紀の世界まで遡らなければ、理解できない

 

 (一)世界通念と白人世界

 18世紀がスペイン、ポルトガルの時代ならば、19世紀はイギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカの世界となる。

 イギリスに起こった産業革命で鉱工業は飛躍的に進歩し、各国はその資源の入手と製品の捌け口を獲得する為、右手に剣を翳し左手に聖書を掲げて、世界制覇に乗り出した。

 即ち海外発展である。殊にイギリスは「我が領土に太陽の沈む所なし」と豪語しており、重要資源の殆んどが白人の手に握られていた。

 そして徳川幕末の頃には、アジアで彼等の植民地か支配権に入っていない国は日本しか残っていなかったのである。

 幕末に渡来したペリーは、日本と仲良く貿易しようなどと、生易しい目的で来たのではない。

 英、仏、露も皆同じく、日本を属国に、あわよくば植民地にして自国の勢力圏に収めようという野望を持って、日本を屈伏させる目的で、遠く海を越えてやって来たのである。

 阿片戦争で屈辱的条約を結ばされた清国の悲劇を目の辺りにした日本の恐怖は、とても今の感覚では想像できないものがあったろう。

 当時欧米諸国は武力を以て他国を征服し、支配権を拡張することに依って自国を発展させる最良の手段と為し、それが世界通念として認められていた時代であった。

 現代では、帝国主義による拡張政策は侵略と呼ばれ、国家悪の元凶と考えられるようになったが、それは大東亜戦争という試練を経て会得した人類の思考の進歩であり、多大の犠牲を払ったあげくに達し得た理念である。

 換言すれば、大東亜戦争という一大転機がなかったならば、依然として帝国主義の世界が続いており、各国は領土拡張に鎬を削っていたであろう。

 ここに於いて考えるべきことは、大東亜戦争に於いて日本は中国大陸をはじめマレー半島諸域及南洋諸島を悉く制圧はしたが、全てを独立させたことである。弱小民族の解放であり、彼等には迷惑をかけたがこれ以上の贈物はない。

 追放された白人達が、自分達のかつての侵略を棚に上げて限りなく日本を恨んで、戦勝国の名のもとに侵略国の汚名を着せたのである。

 

 (二)歴史とその背景

 古来、敗戦国の国民が戦勝国に対して復讐の念を燃やし、いつの日にかその恨みを晴らそうとしていたことは、欧州興亡の歴史や、日本及中国の戦国史でも明らかである。

 これを恐れたアメリカは、極東裁判に於いて、戦争をはじめたのは日本軍閥であり、連合国も日本国民も、等しくその被害者であるという理論を宣伝した。

 無智且つ正直な日本国民がまともに其の嘘言を信じたのはそもそも禍のもとであった。

 又、アメリカが進駐して来たら、男子は去勢され女子は犯されて、日本国民族は絶滅させられるという流言すら囁かれていた。

 そんな時「国民は悪くない、悪いのは軍閥だ」という連合軍の巧妙なトリック宣伝は、内心其の流言を恐れていた国民に安堵感を与え、いとも簡単にその謀略に引っ掛かってしまったのである。

 事変や戦争中、米英討つべしと、過激な論理で国民を鼓舞し、大東亜戦争を支持していた新聞も、一転して軍閥攻撃の急先鋒と化した。

 占領下にあっては、これも已むを得ないこととは言いながら、戦後半世紀を経た現在、尚この論調を変えていない。

 歴史は百年を経なければ正鵠を期し難いと言われるが、近年に至り、識者の間では、漸く真実が語られはじめているのは喜ばしい現象である。

 歴史を見る上で大切なことは、それぞれの時代背景を踏まえて考察すべきである。

 例えば、赤穂浪士の討ち入りは、現代では殺人集団の暴行になるが、今に至るも人々の心を打っているのは、主君の仇を打つということが、その時代の道徳であり、四十七義士が身を以てその道徳を実践したからに外ならない。

 現在、封建制度がよいと言う人はおそらく一人も居まい、しかし戦乱に明け暮れた戦国時代に終止符を打ち、戦争のない平和な世にするには、立憲君主制や議会政治などを全く知らなかった時代に、家康には封建政治以外に選択の道はなかった。

 一旦国を挙げての戦争に突入した以上、それに賛成であると否とにかかわらず、戦勝に向かって邁進するのは、国民として当然の務めであり、それが当時に於ける道徳である。

 特攻隊が一身を顧みず戦艦に突入したのは、当時日本人の最高道徳であり、末代までも語り伝えなくてはならない日本精神の精華である。

 戦後、戦争に協力したのが間違いであるとか、或は自分が戦争に協力しなかったことを得々として自慢する輩も居るが、それこそ、その時代の国民道徳を実践しなかった卑怯者であるのを自ら白状し、吹聴している様なものである。

 国民としての義務と責任を放棄した恥ずべき非国民である。

 その時代の道徳を践むことが出来なかった者が、どうして今の時代の道徳を守ることが出来ようか。

 上述の如く義務と責任とは、先人達がその時代時代に於ける情勢、思想、理念、道徳などの背景に基づき、最善を尽くして祖国を守り、育てて発展させてきたものである。

 今日のように自由で平和で豊かな日本が、戦後忽然として生まれたものではない。

 先人の築いた基盤の上に立ち、その延長線上に出来上ったものである。

 

 (三)明治維新と日本の生きる道

 日本は明治維新になって、富国強兵策を取って先進国に追求する道を選んだ。薩英戦争や馬関戦争で欧米の強大な軍事力を目のあたりにした日本は、復讐を採らずに、友誼と学習を選んだ。

 このように帝国主義の鋭い矛先を突き付けられながら,懸命の努力で辛うじて独立を維持し、明治維新を成し遂げた先人達の功績は、実に偉大なものがある。

 この帝国主義思想が、日本のみならず、世界の先進国の通念として大東亜戦争の終焉まで続いた。

 朝鮮半島の静謐が日本の安全に直結していることは今も変わりなく、日清、日露戦役は、半島を支配せんとする清、露両国の圧力を排除して,国防の安泰を図る為の自衛戦争であって,若し日本がそのどれに敗れても,今日の日本がなかったであろう。

 この両戦役は両国とも国の総力を挙げて戦った偉大な遺業であることは、今後時世がどう変わろうとも変わることはなく、十把ひとからげの侵略戦争として片付けられるものではない。

 戦後、富国強兵策が国家悪のように言われているが、明治維新の時代背景に於いて、日本が欧米先進国に追い着く為の唯一の方策であり、若しその時,欧米屈従の属国方策を取っていたならば,完全なる白人支配の世界となり、勿論大東亜戦争はなかったし、今日の日本の発展もなく、諸民族自決の世界も出現しなかった筈だ。

 また、元来大和民族は無為無策で屈伏するような無気力な民族ではなかったのである。

 貧乏国日本は資源が乏しく目立った産業がない。生糸絹織物、陶器、漆器などの家内工業的産品しか輸出するものはなく、しかもそれは最低賃金で牛馬並みの酷使による産物であって、製品の輸出というより、労働力の安売りと言った方がよい。

 昭和初期に起こった世界大恐慌の荒波は、経済基盤の貧弱な日本にも押し寄せて、財政は益々悪化し、国民生活の窮乏はその極限に達し、国際情勢は日本にとって不利の度を加えるばかりである。

 東北地方の娘身売りや、野麦峠の女工哀史もこの頃のことで、日本は経済的に完全に死に体になってしまったわけである。

 貧乏人の子沢山で、狭い領土で増えるのは人口ばかり、すぐ隣に横たわる広い大陸に溢出していったのは、追い詰められた日本の取り得た唯一の国策であり、帝国主義世界に於ける当然の帰趨であって、この他に選択の余地は全くなかったことを知らなければならない。

 今の国民は金を持って世界に進出しておるが、その頃貧乏国民は、身体を張って進出する外なかったのである。

 満州事変はこのような時代背景の中に勃発したものである。当時の中国は、戦国時代のように軍閥が跋扈して麻の如く乱れ、殊に満州は匪賊が横行して治安が極度に悪化していた。

 もともと満州は清民族が住むところで、自らを中華と誇っていた漢民族から見れば、彼等の言うところの「東夷(日本)、西戎、北狄、南蛮」の「北狄」に当たり、化外地とされていた。

 当時の日本人は満州を単なる外国とは見ず、日清、日露の両戦役で父祖の血を流した土地であり、海を隔てた庭のように特別の親近感覚を持っていた。

 昭和10年頃の流行歌「満州思えば」や「満州娘」を見ても、当時の日本国民が如何程にあこがれていたかゞ窺われる。

 世界赤化を目指すソ連の脅威に対する防波堤として、また、重要資源の供給地として、「日本の生命線、満蒙」という言葉は、当時では幼児も知る国家的スローガンであったのである。

 満州事変の発端となった柳條溝の満鉄線路の爆破は、確かに日本の謀略であり、今の感覚からすれば許容すべからざる暴挙ではあるが、ここに満・漢・日・蒙・鮮の「五族協和」の王道楽土を築こうとい石原莞爾氏の計画は、決して場当たりの思いつきや空想ではなかった。

 その後「一旗組」の心ない日本人の為に、必ずしも彼の理想通りには運ばなかった点もあるが、以前と打って変わって治安のよい満州国が育ち、窒息しそうになっていた国民の前途に、光明の窓が開けられたのも事実である。

 是非善悪は飯の食える人の戯言であって、白人万能の帝国主義の世界に於いて、これが経済的に行き詰まった貧乏国日本の唯一の生きる道であり、国民は喜び勇んで新天地満州に進出して行った。

 この時代背景を抜きにして、現在の豊かな日本の感覚で満州進出を論ずるから、歴史が歪んで見えてくるのである。

 今でこそ侵略と言われていることも、当時に於いては海外発展であり、雄飛であり、青少年の血湧き肉躍る壮挙であり、また、その頃の日本国民は、国の為一身を犠牲にすることを厭わぬという気概を持った国民だったのである。

 鎖国→明治維新→富国強兵策→日清・日露戦役→列強国の仲間入り→第一次世界大戦後の世界大不況→日本経済の行き詰まり。

 支那事変も大東亜戦争もこの延長線上に起こったものである。

 遠大な理想と目標を持って船出したものの、世界情勢の荒波の中、とりわけ白人支配の世界での舵取りは容易ではなく、恰も大河の流れに翻弄される笹舟のように行き着く先を選ぶことは出来なかった。

 それが抑々日本を大海に押し込んだ原因と言えよう。

 

 (四)泥沼の支那事変

 蒋介石の抗日救国政策による排日侮日の高まりや、北支に第二の満州を築こうという日本の策動で、日支両国は何時衝突してもおかしくない素地はあったが、全面戦争を避けたいという気持ちは、双方とも抱いていたのは確かである。

 その発端となった盧溝橋に於ける小部隊の衝突は、日支とも予期しなかったことで、中国共産党の劉少奇が、北京の精華大学生と青年党員を使い、日支両軍の間に潜入して発砲したことが、戦後明らかになった。

 日本と国民政府を戦わせて共倒れを図ったもので、中共としては巧みな謀略であり、双方ともまんまとこれに載せられてしまった。

 その後に惹起した支那保安隊による通州の日本居留民の虐殺は、残虐非道の暴挙であった。

 これに続いて上海の大山大尉や、日蓮僧侶殺害など、日本国民の感情を逆撫でする事件が次々と起こり、その上、少壮過激な現地軍参謀連の独走が加わって、政府の不拡大方針もこれに引き摺られて、拡大の一途を辿った。

 これらの事件の中には、日本の支那浪人の引き起こしたものもあるが、その裏側で画策する、目に見えない黒幕が存在し、日支を戦わせよう戦わせようとする謀略が働いていたのであった。

 日・支(国民政府)が戦って、人的物的国力を消耗して損するのはこの両者だけだ。

 とりわけ日本の国力が疲弊することは、大陸に多くの権益を持ち日本と競合している米英の思う壺であり、世界赤化を目指すソ連・中共にとっても望むところである。

 東亜の強国日本の疲弊が願ってもない利益に通じる米英には、ここぞとばかりに援蒋物資を送りこみ、蒋介石を激勵援助した。

 そこには、米英の張り巡らされた情報網によって察知した日本の経済力の限界についての緻密な計算があった。

 多くの兵士の血を流した日本が、今更何の名目もなく大陸から撤退することは、当時の国民世論が許すだろうか?。

 若し無名目の撤兵をすれば、国民が激昂して内乱になったろう。

 事変の解決を阻む元凶は米英だということで、両国に対する敵愾心が国民の間に芽生えたのも当然の成行である。

 しかし、それは日本の言い分であって、自国民の血を流さないで敵を破ることは最も勝れた戦法で、米英から見れば国益に繋がる賢明な作戦であったわけで、敵ながら天晴れな戦略である。

 平和を希求し愛好する気持ちはどの国民も同じだが、どこかで戦乱があれば、世界経済を刺激し、当時以外の国が潤うことも確かな事実だ。

 大東亜戦争の宣戦の詔勅に「兄弟尚未タ牆ニ相鬧クヲ悛メス」とあるように、日支戦争は兄弟喧嘩のようなものであったが、俗に言う子供(経済小国)の喧嘩に大人(経済大国)が出て来て一方に加勢し、とうとう片方の子供が大人に噛み付いたのが大東亜戦争である。

 1、支那事変とルーズベルトの思惑

 昭和16年6月22日、フランスを席捲した独軍は、返す刀で、独ソ不可侵条約を破棄してソ連に雪崩込み、また、独軍の鋭鋒の前にイギリスもまた風前の灯火となっていた。

 一方アメリカは、連合軍に武器援助をしているものの、国民の殆んどが欧州の戦乱はよその大陸の出来事として傍観しているだけで、血を流してまで救援に赴くというような気運はさっぱりない。

 祖先を同じくする英国の浮沈は、そのまゝ米国の利害に繋がることは今も昔も変わりなく、ホワイトハウスの危機感は日毎に募るばかりである。

 ドイツのソ連侵攻に衝撃を受けた日本では、平沼内閣が「欧州の情勢は複雑怪奇なり」との迷文句を残して退陣し、再び近衛内閣が登場した。

 その頃、米のルーズベルト、英のチャーチル、独のヒットラー、伊のムッソリーニ、そしてソ連のスターリンが、世界を動かす五人男と言われていた。

 2、ルーズベルトの戦略構想

 (1)危殆に瀕している欧州の連合軍救済の為、米軍の動員は必須になってきたが、その為には国民の参戦気運を醸成しなければならない。国民の目を戦争に向けるのに、何かの切っ掛けが欲しい。

 (2)長期の戦争で疲れている日本を叩く好機である。日本にはアメリカと戦う力は残っていないだろう。仮令戦争になっても、屈伏させるのに大きな犠牲を必要としない。

 為し得れば日本に先に手を出させて、これを米軍参戦の切っ掛けに出来れば望むところである。

 ところが日本を 屈伏させるのに、あれ程大きな犠牲を払わされたことは、彼の大きな誤算であった。

 3、スターリンの戦略構想

 (1)アジア赤化の障害は日本と満州国であり、蒋介石もまた敵の一人である。

 蒋介石と日本という敵同士を戦わせて共倒れにすることが、この障害を排除し、中共を支援する有効な戦略である。

 (2)ドイツの猛攻撃を受けている現在、日本との二正面作戦は避けなければならない。

 この構想が日ソ不可侵条約となった。

 この条約はソ連に有効に作用したが、日本は逆用されて手痛い目に遭わされた。

 日本が蒋介石と戦い国力を消耗することは、米ソ共通の利益であり、両国とも表になり裏になって国民政府を支援した。

 何も蒋介石が勝たなくてもいい、抗戦さえ続けてくれれば、それだけ日本の国力が減耗する。

 血を流すのは有色人種の支那人と日本人ばかりで、米英ソのどの国も痛くも痒くもない。

 支那事変を泥沼に追い込んでいるのは、決して近衛や東條でもなければ蒋介石でもなく、両者が握手しそうになると、列強の間から援蒋の手が伸びたり、原因不明の不思議な事件が突発し、戦線が思わぬ方向に拡大してゆく。

 前者は大陸に多くの権益を持つアメリカとイギリスであり、後者は世界赤化を目指すソ連であることは判っていたがそれがそのまゝ米・英・ソを相手に戦わなければ解決の道がない。

 しかしアメリカの目的は大陸に於ける権益の確保であり、ソ連は赤化であって、その思惑には大きな隔たりがある。

 日本と満州国という防波堤が潰れたら、それこそ赤化の波はまさに怒濤の如く大陸に襲いかかる。  ルーズベルトはそれを考えない程の馬鹿ではなかったが、極東の番犬と思っていた有色の日本がアメリカに逆らうことは、白色文明支配の世界秩序を乱すものであって、白人のプライドが許さず、日本憎しの小乗的正義感が先に立っていた。

 また日本を潰すことがソ連や中共を利する結果になることが判っていても、それを考える余裕のない程欧州の戦局が差し迫っていたからである。

 結果的にスターリンの思い通りになったことは、戦後の歴史が物語っており、アメリカも日本も、そして蒋介石も多大の犠牲を払ってソ連の赤化政策を支援し、毛沢東の尻押しをしていることになった。

 大陸の泥沼に嵌り込んだ日本、とりわけ陸軍は、何としても支那事変を解決して国力の回復を図り、本来の使命であるソ連国境の守りを固め、赤化戦略の浸透を防がなくてはならない。

 戦っている相手は蒋介石だが、もうその頃の蒋軍はアメリカの代理軍に過ぎなくなり、実質的には日米戦争になっていた。

 しかも皮肉なことに日本はアメリカからの屑鉄と石油を頼りに戦を続けているので、生殺与奪の権はアメリカに握られていたのである。

 詰る所シナリオを書いて演出しているのはアメリカ、その筋書きによって生命を懸けて舞台で踊らされているのが日本と蒋介石だ。

 ということで、この事変の鍵を握り且仲裁をしてくれる事の出来るのは、アメリカしかないということになる。

 そこで始まったのが日米交渉である。

 

 (五)日米交渉

 昭和13年、白人支配の鎖を解き放ち、アジア民族のアジアを建設するという日本政府の大東亜新秩序宣言は、米国をはじめ欧州列強を痛く刺激し、対日警戒と反発を強めた。

 明けて14年夏、アメリカからの日米通商航海条約破棄は、其の対日感情を確定的にした。

 そこで日本は、対米経済依存を脱却して自存の方策を模索するに至り、南方の重要資源に目を向けるようになった。

 ホワイトハウスでは、この時対日全面禁輸が検討されたが、米国の軍備が整わず、世論もまだ熟していなかったので、過早に日本を戦争に踏み込ませるのは得策ではないという判断で見送られたことが、戦後明らかになった。

 然しこの時既にアメリカが対日戦争を決意していたことに就いては、日本の誰も窺い知ることが出来なかった。

 その頃、米のドラウト神父等によって日米諒解案なるものが非公式に持ち込まれた。

 これを要約すると、満州国は承認する。

 日本の必要な物資は平和手段で入手させる。

 その代り大陸本土から撤兵するというもので、今までの交渉経過から見てウソのような穏やかなもので、その上、これについてルーズベルトと近衛首相とのホノルル会談まで打診してきた。

 日本にとっての問題は、既に多くの英霊を靖国神社に送っており、泥沼とはいいながらも戦闘で勝っている支那派遣軍に、どういうような名目で名誉ある撤退をさせるかにあった。

 無名目の撤兵をすれば国民は激昂し、軍の強硬派は反乱を起こし、国内は収拾のつかない大混乱になることは火を見るよりも明らかである。

 実際には、ルーズベルトはホノルル会談など全く考えておらず、アメリカの戦備を整える為の時間稼ぎに過ぎなかったことがあとで分り、日本はえらい苦汁を飲まされたのである。

 ところがここで、欧州の戦況に大きな変化が起きて、日本の国策を迷わせることになった。

 14年9月大戦の火蓋を切ったドイツは、翌15年春になって俄然活発な動きを始め、僅か1ヶ月の電撃作戦で英軍をダンケルクからドーバー海峡に追い落とし、フランスを席捲してパリーを占領し、6月17日にフランスは降伏したのである。

 しかも、その余勢を駆ってイギリス本土に上陸する気配すら見せた。

 実際には、独軍には上陸作戦をする船舶の用意もなく、作戦準備も出来ていなかったのだが、そのような眩惑を起こしても不自然でない程、電撃作戦は見事なものであった。

 日本は朝野を挙げてドイツの戦果に興奮し、新聞も米英何するものぞとの過激な論調を掲げ、親独派が急速に勢いを増して、「バスに乗り遅れるな」ということが、合言葉のように叫ばれるようになった。

 勿論欧州の戦況に迷わされる軽率を戒める達見の人々もいたが、時の勢いに打ち消されてしまった。

 これが大きな誤りであったということは、今なら誰にでも言える結果論であり、これがその時代背景である。

 これは教訓にこそなれ、是非善悪論を以て非難することは出来ない。

 「衆愚」という言葉があるように、大衆は目先のことしか考えない。

 まして、今のように情報が氾濫している時代ではなく、米国の軍備や国力について何一つ知らなかった時代に、対米強硬路線の世論が国内を風靡したことを譏る人があれば、この情報化時代に、国家財政の行く末も考えず消費税に反対したり、多様化した外交や国の安全を度外視した政党に票を投ずる選挙民の低劣な視野に猛省を促すべきである。

 時の勢いは、9月の北部仏印進駐に続く、日独伊三国同盟条約締結にまで進み、更に翌年春、日ソ中立条約が調印された。

 松岡外相の腹は、仏印進駐と三国同盟で威を張り、対米交渉の切り札に利用し、取引の王手にするつもりだったようである。

 また、日ソ中立条約は、日本がニ面作戦を避ける目的と共に、連合軍に対して、ドイツに呼応してソ連の尻を突かないという安心感を与える意図もあった。

 それは後年のレーガン大統領のソ連に対する力の政策に類似したものがある。

 強大な経済力と軍事力を背景にしたレーガンの強硬策は見事に成功して、ゴルバチョフはペレストロイカの道を選ばざるを得なくなり、ソビエト帝国崩壊の端緒となったが、貧乏国日本が幾ら空威張りしてみたところで底は見え透いており、経済大国アメリカに対して何の利目もないどころか、却ってアメリカの世論を反発硬化させるばかりであった。

 今から見れば滑稽とも思える現象だが当時はそれ程アメリカの国力に関する情報が不足していた時代だった。

 しかも、その時点では日本の外交暗号が解読されていて、こちらの手の内がアメリカに筒抜けになっていたのも一つの負面となった。

 対米交渉の前途楽観を許さずと判断した日本は、若しアメリカからの物資が途絶えても自存出来るように、南部仏印に軍を進めて南方資源獲得の基地とし和戦両様の構えを取った。

 この時を待っていたとばかりにアメリカは、ただちに在米日本資産凍結を公布し、九月には航空ガソリン対日全面禁輸に踏み切り、英・蘭・比もこれに倣って、A、B、C、D包囲網を構成して、日本の息の根を止める戦略に出た。

 

 (六)窮地に立つ日本の選択

 日本は座してジリ貧に陥るか、死中に活を求めて立ち上がるか、二者択一の岐路に立たされたわけである。

 そしてその頃の日本国民は、何もなすことなくアメリカに屈伏する程、気の弱い国民ではなかった。

 8月26日には、近衛首相のルーズベルトに対する洋上会議の提案は拒否され、9月6日の御前会議に於いて、「帝国は自存自衛を全うする為、対米英蘭戦争も辞せざるの決意の下に、概ね10月下旬を目途として戦争準備を完整する」。

 という帝国国策遂行要領が決定された。

 陛下は

  四方の海、
    みなはらからと思ふ世に
      など波風の立ち騒ぐらむ

 という、明治天皇の御製を朗読され、

 続いて、

 「私は常にこの御製を拝誦して、平和愛好の精神を紹述することに努めている。戦争は極力避けなければならない。今わが国が戦争か平和かの岐路に立っている時、統帥部は責任ある答えをしていない。」と叱責遊ばされた。

 通常の御前会議では、陛下は御発言遊ばされないことになっており、ここでは異例のことで、それも陛下が仰せになられるのは感想を述べられるまでで、「戦争をしてはならない」というような政治決定は、憲法の建前上できないのである。

 統帥部をお叱りになられたのは、その前に、杉山参謀総長が内奏の際

 「若し戦争になったら、どれ位の期間で片付くか」

 との御下問に対して、

 「約3ヶ月くらいで片づけるつもりであります」

 と奉答したところ、大きな声でお叱りがあった。

 「お前が陸軍大臣の時、事変は1ヶ月ぐらいで片付くと申したのに4年たってもまだ片付かぬではないか。」

 「はい、なにぶんにも支那の奥地は広いものですから。」

 「支那が広いと申すなら、太平洋はもっと広い。いかなる根拠があって3ヶ月と申すか。」

 杉山総長は答えることが出来ず、満面朱をそそいで退出した。また、海軍の永野軍司令部に対し、アメリカと戦って勝算があるかとの御下問があり、

 「勝てるかどうか覚束ない次第でありますが、座して屈伏するわけには参らず、ほかに活きる道はないように思われます。」

 「それでは、俗に言う捨て鉢の戦ではないか」

 と仰せられ、永野部長も返答に詰まって退出した。

 日露開戦のときも日本には確固たる戦勝の自信がなかったが、英国は日本と同盟を結んでおり、米のルーズベルト大統領も日本に好意的なので、日本政府は開戦と同時に、金子堅太郎をアメリカに派遣して、戦費の調達と終戦への道を模索した。

 しかし大東亜戦争のときは四面楚歌で、戦勝の自信もなければ、終戦の構図を描く手立てもないままに、戦争に突入させられてしまった。

 これ程自信がないのに戦争を始めたということは、おそらく世界の戦史上にも類例がなく、反面から見れば、それほどまでに追い詰められていたことが察せられる。

 

 (七)アメリカの最後通牒ハルノート

 10月16日、戦争遂行に自信のない近衛首相が退陣し、東條内閣が出現した。

 陛下は先の御前会議の決定を白紙に戻し、戦争準備と外交を並行せしめず、外交を優先させよと仰せになり、再度平和の道を探求するようにお命じになった。これが有名な「白紙還元の御諚」である。

 それまで東條首相は、先に決定した帝国国策遂行要領により、陛下も交渉不調の場合は戦争突入も已むなしと後理解遊ばされていると思っていた。

 謹厳実直な東條首相は、白紙還元の御諚を承り、顔面蒼白になって退出し、「たいへんだ陛下は戦争に反対であらせられる」と早速閣議を開き、前の決定を白紙に戻して真剣に戦争回避の方策を検討し直した。

 アメリカと戦争はしたくない。しかし無為に屈伏は出来ない。崖縁に追いつめられた日本に11月26日、運命のハルノートが叩きつけられた。その内容は、今までの交渉を根底から覆す苛酷なものであった。

 1、満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の全面撤退。

 2、大陸に於ける総ての権益の放棄。

 3、三国同盟の廃棄。

 要するに、既に建国10年を経て栄えている満州国をも放棄し、日清日露戦役以来国際法上認められてきた日本の諸権益も投げ出して大陸から出てゆけということである。

 これは戦わずしてアメリカに屈伏せよというに等しく、到底日本が受け入れられないことを承知で突き付けてきたものである。

 これを受けた野村、栗栖両大使は、茫然として答える術がなく、この電報を受取った東條首相以下政府軍部首脳は、万事休すと天を仰いで慨嘆した。

 後の東京裁判でインドのパール判事が「このような苛酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコと雖も銃を執って立ち上がるだろう」と言ったことは、今ではこれを知らない者はいない。これが事実上の宣戦布告であったのだ。

 

 (八)宣戦と経過

 

 大東亜戦争開戦ノ「詔書」

 天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

 朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス

 朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ抗戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々ソノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

 抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ不顯ナル皇祖考不承ナル皇考ノ作述セル遺献ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシテ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁(戦)端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華国民政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ安定ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇護ヲ恃ミテ兄弟未タ牆ニ相鬧クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ與国ヲ誘イ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ濔リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立モマタ正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然ト起ッテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

 皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

   御名御璽

     昭和十六年十二月八日

         各国務大臣副署

 

 昭和16年12月8日、日本国民の如何に多くの者が心の底から開戦を支持し、熱狂的な賛意を表したかは当時の新聞が克明に物語っており、戦争を支持しなかった者は絶対的少数であった。

 「戦えば敗れるかもしれない。戦わなければ更に惨めで屈辱的な結末を甘受しなければならない。日本が立たなければ、米英は戦わずして、戦争に勝ったと同じ目的を達成できる。反対に日本は戦わずして、戦争に負けたと同じ苦境に立たされる。

 戦争に踏み切れば、大国アメリカやイギリスを屈伏させることは出来なくても、優勢のうちに事態を解決して、ハルノートという苛酷で屈辱的な要求よりも、多少は有利な条件で妥結出来るかも知れない。」。

 これが日本の置かれた立場であって、正に「死中に活を求める」最後の方策であった。繰返すが、当時の日本国民は、戦わずして屈伏する程無気力な民族ではなかったのである。

 また国内的にも、若し陛下が開戦を強く拒否されたならば、あるいは、陛下に御譲位を迫り、秩父宮殿下を天皇に仰ぐという強硬派のクーデターが起こっても不思議ではない程、世論は激昂したであろう。

 かくては国内は収拾のつかない内乱状態になり、戦争をする前に日本は自滅の道を歩むことになっただろう。それ程までに追い詰められ断崖に立たされたのである。極東軍事裁判の時、岡田啓介元首相は「日本には、このとき戦争か内乱か、二者択一の道しか残されていなかった。」と述懐しておる。

 マッカーサー元帥は、昭和25年10月15日、ウエーキ島に於けるトルーマンとの会談で、「東京裁判は誤りであった」と述べ、また翌年5月3日、アメリカ上院外交軍事委員会の公聴会で「日本が開戦の決断をしたのは、その殆んどが安全保障(自衛)の為であった」と言っている。

 これが冷酷な世界の本姿で、日本の戦争回避努力も、そして陛下の平和を願う大御心も、巨獣の世界戦略の前には、一匹の子羊にしか過ぎなかったのである。

 敗戦によって東條大将は、戦争責任を背負って逝かれた。戦争を始めたのは日本国民ではなく日本軍閥であり、その元凶は東條であると言う、連合軍の巧みな宣伝については前にも述べた。

 今でも日本人の多くは、東條さんを大悪人にして居るが、戦争へのレールはアメリカによってとっくに敷かれていたのであって、あの時点で誰が首相になっても、戦争を回避することは出来なかったのであり、東條大将は無慈悲な十字架を背負わされた悲劇の総理大臣であったのである。

 日本の外交交渉は戦争準備完整の為の時間稼ぎであり、その上真珠湾で卑怯な騙し討ちをしたということが世界の定説のようになり、そのように思っている日本人も多いが、歴史の真実は正しく訂正されなくてはならない。

 日本は極力、対米戦争を避けたかったのだが、追い詰められて遂に開戦に踏み切ったことは前にも述べた。山本聯合艦隊司令官は、真珠湾攻撃命令を下達するに当たって、若し攻撃前に交渉が妥結したならば、たとい飛行戦隊が真珠湾の直前に差し掛かっても、直に引き返すことを厳命し、その命令に従えない指揮官は、今すぐ辞表を提出せよと言っている。

 この頃には日本外交暗号は解読されていた。「マジック情報」と称せられて、日本の手の内はアメリカに筒抜けになっていた。

 後に海軍の暗号も解読されて、山本司令長官は、その為待ち伏せ攻撃に遭って戦死されたのである。

 真珠湾の奇襲は、それ程敵の意表を衝く見事なもので、長く東西の戦史を飾るに相応しいものであったに拘らず、出先大使館の怠慢により、通告前の騙し討ちとなり、末代までも歴史に汚点を遺すことになったのは、極めて遺憾なことであった。

 かくて、日本海軍の血の滲むような猛特訓も、巧みな陽動欺瞞を交えた周到な企図の秘匿も、岩佐中佐以下九軍神の特殊潜水艇による必死攻撃も、不名誉な騙し討ちという汚名の下に葬り去られてしまったのである。

 12月8日早朝の大本営発表を聞いたときの国民の感激と興奮、真珠湾奇襲の成功は、日本国民の志気を鼓舞するに余りあるものがあった。

 しかし皮肉なことに、それが「リメンバーパールハーバー」という合言葉になって、アメリカ国民の敵愾心をも奮起させる結果になってしまった。

 航空機の発達した今と違って、アメリカ国民の目には、アジアも欧州も遠い大陸の出来事としか映らず、盟邦イギリスが累卵の危きに曝されているというのに、アメリカの世論は至って呑気で、非常時意識がさっぱりない。

 ルーズベルトやハルが躍起になって国民に訴えても、火の粉も振り掛かってこない対岸の火事を、血を流してまでわざわざ消しに行こうという者は居ない。

 そこで計画されたのが、日本に先に手を出させる方策であったが、その計画はまんまと図に当り、その上騙し討ちという願ってもない付録がついて、アメリカ人の愛国心を掻き立て、真珠湾奇襲を契機として、アメリカの大軍は陸続として太平洋に欧州大陸に出動して行った。

 今にして思えば、あれ程強靭な精神力を持っていた軍隊はおそらく二度と地球上に存在することがなく、また、あれ程装備や兵站を軽視していた軍隊もなかろう。

 奉天会議は、既に国力戦力の限界点に達していた日本軍の際どい勝利であって、砲兵はズク弾と呼ばれた鋳物の砲弾さえも射っていた有様であった。

 若し露軍が態勢を整えて本格的攻勢に転じてきたならば、あるいは後年のガダルカナルやダンケルクのように、日本軍は東支那海に叩き落とされていたかもしれなかった危ないところであった。

 海軍の日本海々戦は、世界史に遺る殲滅的大勝利であって、東郷元帥の偉大な功績は末代まで語り伝えなければならない。

 しかしこれも、バルチック海から長途航海してきて疲れ果てた艦隊を手薬煉引いて待ち受け殲滅したもので、孫氏の兵法の逸を以て労を討ったものであった。

 日露戦争開戦の時、兒玉源太郎総参謀長は、「この戦いの勝敗は五分五分だが、せめて六分四分に持ってゆきたい」と正直に打ち明けており、大山巌総司令官も「戦は任してもらうが旗振りは頼みましたよ」と、伊藤総理に話して出征した。

 旗振りとは戦争を止める合図である。そして金子堅太郎は開戦するや直ちにアメリカに飛び、戦費の調達と終結工作に乗り出した。

 奉天の大会戦が終ると、兒玉大将は極秘裏に東京に帰り、

 「戦争を始めた者は戦争を止める才覚がなくてはならぬ。この貧乏国がこれ以上戦争を続けて何になるか。陸軍はもうこれ以上戦争は出来ない。一日も早く終戦工作をしてもらいたい」と訴えておる。

 日露戦争当時の政治家も統帥も、ともに明治維新を成し遂げた武士達で、底流には共通するものがあって、両者は緊密に連携しておった。

 大東亜戦争は、政治と統帥が実質的に軍が握っていて一体となっていたようなものであったが、偉大な政治家も将軍も現れず、確固とした終結の目算もなく、ずるずると戦争に足を踏み入れたと言える。

 何とかして対米戦争を避けたいと思いながらも追い詰められて、とうとう矛を取らされる羽目に陥ったものであり、また日露戦争の時のように、我が国に好意を寄せる中立国もなかったのだから、一概に非難することは出来ない。

 後に、唯一の中立国であったソ連に調停を頼みに行き、スターリンに熱湯を浴びせ掛けられたことは皆のよく知るところである。

 シンガポール陥落の時も、停戦交渉の一好機であったかも知れない。天皇は「人類平和の為、惨害が拡大してゆくのは好ましからず」。

 と仰せられ、木戸内大臣を通じて、なるべく早く戦争を終結するようご希望を述べられたが、アメリカが停戦に応じるかどうかは知らないが、シンガポール陥落は一つの山場であったことは間違いない。しかし、緒戦からの予想以上の大戦果に朝野を挙げてのぼせ上がり、停戦交渉どころか、シンガポールを昭南市と名付けて悦に入っている始末で、これでは侵略と言われても弁解が出来ない。

 

 (九)終  戦

 硫黄島に続く沖縄第三十二軍の玉砕により、戦局は破滅的様相を呈して来た。

 8月14日の最後の御前会議でポツダム宣言受諾が決定された。

 一般には「御聖断」と言われておるが、正しくは「御聖断」を仰いで政府が決定したものである。

 陛下はこのとき、先の開戦の御裁可のときの御決意そのまゝに、戦争終結の大責任を、御身を以て担う御決意を遊ばされたのである。

 大東亜戦争終戦ノ「詔書」

 朕深ク世界ノ体制ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。

 朕ハ帝國政府ヲシテ、米英支蘇四国ニ對シ、其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ、万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ、皇祖皇宗ノ遺範ニシテ、朕ノ拳々措カサル所、曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦、実ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ、他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ、固ヨリ朕カ志二アラス。然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ、朕カ陸海將兵ノ勇戰、朕カ百僚有司ノ励精、朕カ一億衆庶ノ奉公、各々最善ヲ尽クセルニ拘ラス、戰局必スシモ好転セス、世界ノ体制亦我ニ利アラス、加之適ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ、惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戰ヲ継続セムカ、終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス、延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ。斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ、皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ。

 朕ハ、帝國ト共ニ終始東亞」ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝國臣民ニシテ、戦陣ニ死シ、職域ニ殉シ、非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ、五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ、災禍ヲ蒙リ、家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至りテハ、朕ノ深ク軫念スル所ナリ。惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ、固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ、時運ノ趨ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。朕ハ茲ニ國体ヲ護持シ得テ、忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ、常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ、或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ、為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ、朕最モ之ヲ戒シム。宜シク挙国一家、子孫相伝ヘ、確ク神州ノ不滅ヲ信シ、任重クシテ道遠キヲ念ヒ、総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ、同義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ、誓テ國体ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ進運ニ遅レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民、其レ克ク我カ意ヲ体セヨ。

              昭和二十年八月十四日

 

   二、大東亜戦争の目的と結果

 大東亜戦争は日本が一方的に仕掛けた侵略戦争であるという風なことを勝者によって捏ち上げられた。日本国民の中にも「日本は無謀な戦争をしたものだ」と言う人が少なくない。

 その言葉は、戦争に参加しなかった国民ならともかく、聖戦に参加した者から聞くことは誠に残念である。

 若し大東亜戦争が無駄な戦争であったならば、靖国の英雄は犬死にしたことになり、生き残りの者は負け犬となる。

 歴史は百年を経なければ、正鵠を期し難いと言われているが、戦後も60余年、ぼつぼつ歴史を見通さなくてはならない頃である。

 戦争は政治の一環であり、戦争目的は政治目的でもある。対外交渉に於いて、外交手段で政治目的が達せられないとき、戦争という非常手段に訴えることになる。

 多くの場合は戦勝によって政治目的が達成できるが、しかし戦争は一つの手段にすぎないから、必ずしも勝ったからと言って目的が思う様になるとは限らず、負けたからと言って目的が達せられないと決まってはいない。

 それでは大東亜戦争の戦争目的(政治目的)は何だったのか?それらの目的は、戦後60余年を経た今日、どのようになっているだろうか、その目的をいろんな角度から検討してみれば

 1、経済の安定

 2、国防の安泰

 3、アジア諸民族の解放、

 と言う様に纏め上げられる。

 (一)経済の安定

 昭和に入ってからの日本経済は全く死に体であり、一部の富裕階層を除く大多数の国民は、貧乏を分かち合うという生活に甘んぜざるを得ない有様で、現在の豊かな感覚では想像できない貧乏国であった。

 日本が大陸に進出していったのも食わんが為であった。

 その日本が、今や経済大国と言われるまでに発展し、個人々々についての格差があるにしても、国民は世界で最も平和で豊穣な生活を享受している。

 経済の安定という政治目的は、今日では立派に達成された。

 それは、勤勉努力を規範とする国民性と、祖先伝来の叡智によるものと雖も、中途半端な敗戦ではなく、何もかも徹底的に破壊し尽くされ、ドン底に落ちたことに依って却って新しい道を模索し追及する意欲を生んだことも見逃すことが出来ない。

 それにもまして大きな素因は、戦後直ちに始まった米ソ冷戦であり、日本経済に起死回生の転機を齎した朝鮮戦争とベトナム戦争であった。

 そして天意とも言う可き此の訴因を造り上げたのは、日本を非武装にし、永遠の四等国として極東の一角に閉じ込めるというアメリカの方針も、米ソの冷戦に直面しては、日本を反共の防波堤として重視せざるを得なくなった為である。

 一方戦勝国の戦後は如何であったろうか?台湾に逼塞させられた中華民国は論外として、ソ連や中共の国民生活は言うに及ばず、米国は日本に勝ったその日から、ソ連という大敵に対抗して軍備増強に迫られ、敗戦国から賠償を取るどころか、せっせと食糧を補給し、軍隊を派遣して守ってやらなくてはならなくなった。

 即ち敵が日本とソ連と入れ替わったに過ぎない。そして米ソ共に莫大な軍事費の支出に耐えかねて、国家経済が破綻して西側陣営に屈伏し、世界一の債権国から債務国に転落したのである。

 イギリス、フランス、オランダも海外に保有していた広大な植民地の総てを失い、二流国に甘んぜざるを得なくなった。

 (二)国防の安泰

 戦前の日本は、北にソ連、西に中国、東に米国、南に英、仏、蘭と四周敵に囲まれており、とりわけ米ソは当面する最大の強敵であって、国家予算のかなりの部分を国防費用に回さなくてはならなかった。

 貧乏国日本にとって、膨大な国防費は国家経済の限界を超えた大きな負担であり、それだけ国民生活が圧迫されていたのである。

 戦後の日本は、アメリカの大きな核の傘にすっぽりと覆われ、日米安保条約によってすっかり守られておった。

 曾つての占領軍は、今や番犬となり、日本はGNP1%程度の予算の二流軍隊でお茶を濁し、せっせと経済発展(金儲け)に専念した。

 四周にいた敵も、ソ連1国となり、それも今や熊から牛に変身してしまった。

 (三)アジア諸民族の解放

 戦前の世界地図を見れば一目瞭然である。世界の大部分が白人の植民地であり、支配地域であった。

 第一次世界大戦の後設けられた国際連盟は、白色人種だけの繁栄と幸福を図ることを目的とした機関であり、有色人種は白色人種に奉仕する為の存在でしかなかった。

 戦後民族自決の気運が急速に高まり、日本が標榜したアジア諸民族の解放はアジアのみに止どまらず、全世界から植民地が一掃されるに至ったのである。

 大正時代、国際連盟で人種差別撤廃を提案した日本が、白人諸国の大反対で否決されたことを思うと、まさに今昔の感がある。

 戦勝国またはこれに準ずる国が戦後失った植民地、保護領自治領などの支配地は、主としてアジア、アフリカ、大洋州などの後進地域に多く、如何に白人が世界を制覇していたかが解る。

 ソ連と中共は広大な領土を簒奪し、武力で他国を押さえ付けていたが、力による征服には必ず末路があり、平成になってソビエト帝国は崩壊し、中共の崩壊も時間の問題となりつつある。

 戦前には、白人種の前に卑屈な程に跪いていた有色人種が、何故、急速に自信と自覚を持つようになったのだろうか。戦後、英国宰相チャーチルが述懐して次のように言った。

 「英帝国が終焉した理由は、英軍がアジア人の目の前で日本軍に惨敗したからである。一度失墜した権威を、もう一度掲げることは出来っこない。英軍は戦後も依然として強力だが、しかし世界の人々は、英軍がアジア人に負けたのを見てしまった」。

 有色の日本がホンコン、シンガポールで英軍に大勝し、フィリッピンの米軍を駆逐したのを目のあたりに見た世界の有色民族から、長年の間に習性とまでになったいた白人隷属の卑屈な気持ちがヴェールを剥がすかのように一掃され、「白人優位、白人不敗」の神話は、これを機に音を立てて崩壊したのであった。

 白人優位の帝国主義世界が続く限り、日米戦争が昭和16年に勃発しなくても、何年後かに起こったであろうところの避けて通ることの出来ない宿命であったと思われる。

まさに大東亜戦争は、有色人種の白色人種に対する壮絶なる巻き返しであり、そしてその力と気迫を持っていた国は、その当時は日本しかなかったのである。

 このように此の黄白戦を見ると、日本は戦争に敗れたものの、数十年がかりで大東亜戦争の戦争目的(政治目的)を立派に達成したと言う事が出来る。古今東西永遠に続く戦争はない。しかし政治は永遠に継続し、しかもそれは過去の足跡の上に積み重ねられるものである。

 そして、この黄白の決闘以来、それまで世界の通念となっていた帝国主義が崩れ、国威宣揚の方策であり、美謀でさえあった戦争が罪悪という観念に変わり、世界平和と万邦協和こそ、それぞれの国が繁栄する最良の方法であることを知らされたのである。

 

   三、パール判事の正義感

 極東国際軍事裁判所11名の判事の中只1人インドのラダビノッド・パール博士判事が127頁にわたる厖大な判決書を認めて、堂々と日本の無罪と正当性を主張した。その内容の要点は次のとおりである。

 支那事変以来、米英両国は中立国の国際法上の義務に違反して、公然と蒋介石政権に対し、経済的にも多大の援助を与えた。これは明らかに日本に対する挑発行為である。

 支那事変の末期、米、英、支、蘭等四ヶ国が共同してA、B、C、D包囲網を作り、日本を経済的に封鎖した。特に日本に対する石油の全面禁輸をしたことは、日本に対する挑戦行為である。

 米国は開戦前の11月16日、日本に対し、最後通牒を突きつけた。その第三項に「日本は中国及怫印の全土から陸海軍と警察力を全部撤退するよう」要求した。これは明らかに日清、日露両戦役の結果、日本が正当に得た権益を捨てることを要求するもので、この要求は宣戦布告と同様である。

 米国は11月27日前哨地帯の諸指揮官に対し、戦闘態勢に入るよう秘密指令を出した。事実上米国はこの日に対日戦争を開始したことになる。

 米国議会はこの事実を知って非常に驚き、上下両院合同の査問委員会を結成して軍部の挑発行為を厳しく非難した事実がある。

 パール判事のこの判決書だけでも、大東亜戦争は誰が仕掛けたのか、侵略戦争か防衛戦争であったかが一目瞭然である。

 日本人のことごとくがキーナン検事の論調に便乗して、日本人の死屍を鞭うっていた時、彼はただ一人、不屈の精神を以て日本の無罪を主張した。

 判事パール博士はいまは帰らぬ人となったが、日本人としてその判決書の内容は後世にまで伝えねばならない。

 又この判決書こそは将来、東京裁判を推翻するのに最も役立つ重要な文献である。

 パール博士は「戦勝国は敗戦国に対して憐憫から復讐まで、どんなものでも施し得る。しかし勝者が敗者に与えることができない唯一のものは『正義』である」。更に日本国民に左の金言を贈くられた。

 「欧米諸国は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間の経緯を、罪悪と烙印することが目的であったに違いない。

 私は1928年から45年までの17年間の歴史を2年7ヶ月かかって調べた。この中には恐らく日本人の知らない問題もある。

 それを私は判決文の中に綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかる筈だ。それなのにあなた方は、自分等の子弟に「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」と教えている。

 満州事変から大東亜戦争に至る真実の歴史をどうか私の判決文を通じて充分研究して頂きたい。日本人の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流れて行くのを、私は平然と見過ごすわけにはいかない。

 あやまられた彼等の宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き改めねばならない。」

 パール判事の言う如く、今こそ日本国民は欧米や中国の日本誹謗の戦時宣伝を払拭して、歴史の真実を探求し、歴史の真実に開眼すべきである。

 

   四、東京裁判の再審と汚名の払拭

 以上の如く大東亜戦争は決して日本が一方的に仕掛けた侵略戦争ではなかったことは火を見るより明らかである。

 戦争を起こした者が戦犯ならば、日本に戦犯がある筈がない。

 東京裁判は実定国際法上違法な裁判であり、戦勝国の虎威を借りて復讐を行い、更に日本に侵略の汚名を着せた上、戦犯と称する者をデッチ上げて国の指導者を極刑に処したのである。

 当時裁判の最高責任者マッカーサー元帥が、昭和25年10月15日ウエーキ島におけるトルーマンとの会談で「東京裁判は誤りであった。」、また翌年5月3日アメリカ上院外交軍事委員会の公聴会で「日本が開戦を決断したのはその殆んどが安全保障(自衛)の為であった。」と報告している。これが確固たる証拠である。

 又米人学者ジョーンランボーンウエスト博士も昭和44年来日して東京で講演の時に曰く

 「日本が真珠湾攻撃を行ったのは、アメリカの仕掛けたワナにはめられたからだ」。と述べ、極東裁判の不当性を衝き、米製憲法を強制したことを糾弾した。

 もともと大和民族は赤穂浪士の如く義気に富んでいて、世代が代っても長年の苦渋を忘れず怨念を晴らす民族だった。パール判事の言う如く

 「今こそ日本国民は欧米や中国の日本誹謗の戦時宣伝を払拭して、あやまられた歴史を書き変えねばならない。」

 「侵略」「戦犯」の汚名払拭の唯一の道は「極東国際軍事裁判の再審判」である。(連合国際法廷に再審方を上訴するよう)

 マッカーサー元帥がトルーマンに語ったことと、米上院で報告したことが確固たる証拠である。

 パール判事の判決文に基づいて上訴すること。「侵略」「戦犯」の汚名を払拭しない限り、日本の戦後は終わらない。

 

   五、 結  び

 大東亜戦争は「天意」である。若し大東亜戦争がなかったならば、世界は依然として白人優位の神話が罷り通り、四周敵に囲まれた貧乏国日本は、国家予算の大部分を国防に割き軍備増強に狂奔させられていたであろう。

 その結果、戦後40余年のソ連の恐怖暗黒政治と全体主義的統制経済により、塗炭の苦しみを味わされた東欧諸国民の悲劇は、大東亜戦争がなかった場合、或は日本国民がたどる道であったかも知れない。このように考えると、「大東亜戦争」があってよかったとも言えよう。

 大東亜戦争は白色対有色という図式の世界に於いて、如何なる神仙と雖も阻止出来ない宿命戦争であり、人類が帝国主義から脱却する為にも避けて通ることの出来得なかった関門であったのだ。それ故大東亜戦争は「天意」に外ならない。