☆ 日露戦争 (H16/08/24)

   「侵略戦争」か「国土防衛」か

 ジョセフ・ナイ ハーバード大学教授が、大学で使う教科書の日露戦争に関する記述は、
 「日本は19世紀半ば、帝国主義侵略の犠牲になるところだったが、世紀末にはれっきとした帝国主義国に変貌し、1904−05年の日露戦争でロシアを破った」
 これは、欧米の代表的な捕らえ方である

 日本の教科書や歴史書の多くは、日露戦争を「植民地獲得のための侵略戦争」「日本帝国主義のアジア侵略戦争」などとする

 国際社会で「侵略戦争」の概念が生まれたのは、第1次世界大戦の後のこと

 さらに、国際法で違法とされたのは、1929年であり、「(違法な)『侵略戦争』はありえない」(中西・京大教授)

 25年前、司馬遼太郎が「日露戦争を祖国防衛戦争と規定した」のは、当時、日本防衛の生命線だった朝鮮半島に大国ロシアが手を伸ばし、弱小日本存亡の脅威となったと、見たからだった

 これに、多くの読者も共感した

 歴史の玄人集団である近現代史の学界では、多くの学者が明治維新以降の日本の対外戦争を「帝国主義侵略戦争」で、一括りにする傾向が強い

 これは「近現代史学界は左翼イデオロギーやいわゆる戦後民主主義思想が強いからだ」と考えられる

 これに対し「新しい歴史教科書を作る会」や自由主義史観を自認するグループが数年前から活動をはじめた

 「作る会」の中学歴史教科書には「日露戦争は日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった」
 「日本の存立をかけた戦いであった」などと書かれている

 歴史学界にも「日露戦争時代はまだ弱肉強食の時代だった。祖国防衛戦争の側面もあった」と認める学者もいる

 「帝国主義」にせよ「侵略戦争」にせよ1930年以降、長らく共産主義陣営が自由主義陣営を非難する際に使ってきた用語である(耐用年数の切れた用語)

 日露戦争

 明治37年(1904年)2月 〜 明治38年(1905年)9月

 19世紀末は列強(英、仏、独、露、米等)による世界分割が激しく、東アジアでは、日清戦争に敗れた清に対して列強が支配地を拡大していった

 極東の大地が、ロシア人の駆け回るところ、ことごとくロシア人の所有になりつつあるという異常な事態は、当然、ヨーロッパの外交界を刺激した

 日本は、英国と同盟したかったが、国力といい、文明の度合いといい、世界に超絶した実力を持つこの国が、世界の片田舎である極東の、それも工業力と名づけるほどのものすらまだ芽生えたばかりの国と対等の同盟を結ぶだろうかという危惧があった

 では、ロシアはどうか、ロシア人は、民族としてはお人よしだが、国家を運営するとなると、普通では考えられないような「うそつき」になるというのは、ヨーロッパの国際政界での常識であった

 ロシアが他国と結んだ外交史を調べたところ、他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、殆ど常習であったと言われている

 「ロシア国家の本能は、略奪である」と、ヨーロッパで言われていたように、その略奪本能を、武力の弱い日本が、外交テーブルの上で懇願して、かれ自身の自制心によって抑制してもらうというのは、不可能であった

 ところが、明治35年(1902年)1月30日、日英同盟は調印された

 このような状況の中で日本政府はロシアに対して「協商案」を提出した

 (明治36年(1903年)小村寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間で朝鮮、満州をめぐる交渉を開始)

 「協商案」の主眼は、

 「清国・朝鮮両帝国の独立および領土保全を尊重すること」

 「ロシアは朝鮮における日本の優勢なる利益を承認すること。そのかわり日本はロシアの満州における鉄道経営の特殊利益を承認すること」

 といったもので、要するに日本は朝鮮に権益をもち、ロシアは満州に権益を持ち、互いに犯しあわない。というものであった

 日露双方とも、近代的な産業国家になろうとし、それにはどうしても植民地が必要であった

 そのため、ロシアは満州をほしがり、植民地のない日本は朝鮮に必死にしがみついていた

 19世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力を持ち、列強の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった

 ロシアは日本の案を黙殺し、「朝鮮の39度線以北を中立地帯にしたい」と言ってきた

 中立とは名ばかりで、要するに、平城−元山から以北をロシアの勢力下に置くというものであり、露骨にいえば朝鮮の北半分は欲しいというものであった

 日本はこの交渉に絶望し、談判は決裂した

 そして、明治37年(1904年)2月10日、ロシアに宣戦布告した

 戦いは、朝鮮・仁川沖でのロシア海軍への奇襲攻撃で始まった

 ロシア軍は、旅順と大連を含めた遼東半島南端部分を丸ごと要塞化し、その根元にあたる、幅4km足らずの金州地峡全体に堅固な要塞を築いていた

 ロシアは、軍港旅順さえ確保していれば、黄海の制海権が日本側に移ることは無く、さらに、たとえ遼東半島に日本軍が進出してきても、旅順と共に商港ダーリニーの確保は可能であり、日本軍の補給が容易になることは無いと考えていた

 ロシア軍もダーリニーのロシア人も金州・南山の堅固な要塞を過信していた

 日本軍はロシア軍の強力な重火器に苦戦しながらも海軍艦船による艦砲射撃に助けられ、5月16日の夕刻、南山要塞を陥落させた

 南山要塞陥落がダーリニーのロシア人たちを驚かせ一夜にして旅順に避難した

 大連は無血で日本の手に落ちた

 開戦時、ウラジオストックはすでに結氷期にあるため、ロシアの極東艦隊19万トンという大海上兵力のほとんどが旅順港に入っていた

 しかし敵艦隊が洋上に出てこないかぎり、強力な要塞砲で護られているこの港に日本艦隊は近づくことは出来ない

 旅順の極東艦隊を殲滅することが、日露戦争における日本の勝敗の分け目であった、黄海の制海権を得なければ大陸での戦闘に補給が出来ない

 旅順港の港口は狭く、その幅は273mで、しかもその両側は底が浅いため、巨艦が出入りできるのはまん中の91m幅しかない

 そこへ古い汽船を横にならべて5、6艘沈めてしまえば旅順口を封鎖出来ると考えて作戦が行われた

 3回行ったが要塞砲の威力が強く近ずくことがかなわず閉塞することが出来なかった。黄海の制海権を護るため、日本の連合艦隊は、要塞砲の射程外で旅順口を封鎖し続けなければならなかった

 10月、日本陸軍は、遼陽会戦、沙河開戦と辛うじて勝ってきたが、旅順では苦戦していた

 10月15日ロシア・バルチック艦隊はリバウを出港した

 旅順の極東艦隊は、バルチック艦隊の到着を待っていた

 バルチック艦隊が到着すれば一緒にウラジオストックまで逃げ込み、体制を立て直し日本の連合艦隊を殲滅し黄海の制海権を取り戻せると考えていた

 旅順要塞を陸上から攻撃していたのは、司令官乃木希典率いる第3軍であった。参謀長は伊地知幸助

 連合艦隊が海上から見つけた203高地は、旅順口を見下ろせる格好の場所だった

 そこに観測兵を置いて港内の軍艦を海軍砲で砲撃すれば、旅順の残存艦隊は消える、日本連合艦隊は佐世保に帰港しドック入りし、来るバルチック艦隊に備えることが出来る

 それまで、乃木軍は旅順攻撃で累々たる戦死者の山を築いていた

 特に203高地の攻略に死傷者が多かったのは参謀長伊地知の無能のせいだと言われていた

 海軍は203高地を攻めてくれと様々な方法で乃木司令官に頼んだが、伊地知は「陸軍の作戦に関し、海軍の干渉は受けぬ」と突っぱねていた

 「乃木将軍もその当時は、今日人が崇拝するごとき司令官ではなかった」と後年当時のある少佐の証言もある

 そこで、関東軍総参謀長の児玉源太郎がついに旅順に乗り込み、乃木に変わって指揮を取り、12月5日、203高地を攻略した

 最初、海軍が海上から発見した203高地という大要塞の弱点を乃木司令官が直に認め、東京の陸軍参謀本部が指示したとおりに、海軍案を乃木司令部がやっておれば、旅順攻撃での日本軍死傷者6万という膨大な数字を出さずに済んだであろう

 旅順攻撃での日本軍の死傷者の数

 戦死者:15,400人

 負傷者:44,000人

   計:59,400人

 203高地の陥落は、ロシア軍の防御構成に重大な影響をもたらした

 ロシア軍にとって、この高地と連携した要地だった赤坂山の堡塁などは、かってあれほど日本兵を殺傷した強力陣地でありながら、地勢上その力を失い、次の日の6日に守備兵は戦わずして退却した

 赤坂山以東の堡塁のロシア兵はみな逃走した

 日本軍は203高地に見張りを立て、陸軍砲、海軍の艦砲射撃で、旅順口内の艦艇を砲撃し全て殲滅した

 旅順要塞のロシア軍は1905年1月2日降伏した

 水師営にて、乃木司令官とステッセル将軍の会見が行われたのは、明治37年(1905年)1月5日であった



 日露戦争年表(要約)

 明治37年 2月 8日 仁川沖でロシア艦隊を攻撃、先遣駆逐隊旅順口を奇襲 
       2月10日 対露宣戦布告 
       2月12日 清国、中立を宣言 
       2月24日 第1回旅順口閉塞作戦 
       3月 6日 第1回ウラジオストック威嚇砲撃 
       3月21日 第1軍、鎮南浦上陸 
       3月27日 第2回旅順口閉塞作戦 
       5月 1日 第1軍、鴨緑江会戦、九連城占拠 
       5月 5日 第2軍、遼東半島上陸 
       5月26日 第2軍、金州城を占拠 
       8月 3日 第2軍、海城及び牛荘城を占拠 
       8月10日 黄海海戦、ロシア旅順艦隊、旅順港に遁走 
       8月19日 第3軍、第1回旅順総攻撃 
       9月 4日 遼陽会戦(第1軍、第2軍、第4軍遼陽を占拠) 
       9月19日 第3軍、第2回旅順総攻撃 
      10月 9日 沙河会戦 
      10月15日 バルチック艦隊、リバー港出港 
      10月26日 第3軍、第3回旅順総攻撃 
      11月26日 第3軍、第4回旅順総攻撃 
      12月 5日 第3軍、203高地占領 
      12月 8日 ロシア旅順艦隊壊滅 
 明治38年 1月 2日 旅順開城(水師営の会見) 
       1月25日 黒溝台の会戦 
       2月20日 奉天の会戦 
       3月16日 バルチック艦隊、ノシベ出港 
       5月14日 バルチック艦隊、カムラン湾出港 
       5月27日 日本海海戦 
       9月5日日 日露講和条約締結(ポーツマス条約) 


     日清・日露戦争の比較

             日清戦争         日露戦争
  戦争期間         10ヶ月         19ヶ月
  動員総兵力    240,616人   1,088,996人
  戦地勤務者数   178,292人     945,395人
  戦死者数      13,309人      81,455人
  (戦闘死)      1,415人      60,031人
  (病死)      11,894人      21,424人
  戦傷病者数    115,419人     381,313人
  戦費支出合計  20,047.6万円  198,612.7万円
  公債金     11,680.5万円  131,354.4万円
  内国債     11,680.5万円   43,488.6万円
  外国債          −       68,959.5万円