日本書紀 卷第廿四
天豐財重日足姫天皇 皇極天皇
天豐財重日(あめとよたからいかしひ)【重日、此を伊(い)柯(か)之(し)比(ひ)と云う】足姫天皇(たらしひめのすめらみこと)は、渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと=敏達天皇)が曾孫、押阪彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)が孫、茅渟王(ちぬのおおきみ)の女(むすめ)也。
母を吉備姫王(きびつひめのおおきみ)と曰う。
天皇、古(いにしえ)の道に順(したが)い考えて、政(まつりごと)を爲したまう。
息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと=舒明天皇)の二年、立ちて皇后と爲りたまう。
○ 十三年十月、息長足日廣額天皇崩(かむざ)りましき。
元年の春正月(むつき)丁巳(ひのとみ)の朔(ついたち)の辛未(かのとひつじのひ/十五日)。
皇后、天皇の位に即(つ)きたまう。
蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)を以って大臣(おおおみ)と爲すこと故(もと)の如し。
大臣が兒の入鹿(いるか)【更(また)の名は鞍作(くらつくり)】、自ら國の政を執(と)り、威は父に勝(まさ)る。
是(これ)に由(よ)りて、盜賊、恐懾(おそ)れ、路に遺(おちもの)を拾(と)らず。
(〜略〜)
○ (皇極天皇二年)十一月(しもつき)丙子(ひのえね)の朔(ついたち)。
蘇我臣入鹿、小コ(しょうとく)巨勢コ太臣(こせのとこだのおみ)・大仁(だいにん)土師娑婆連(はじのさばのむらじ)を遣わして山背大兄王(やましろのおおえのみこ)等を斑鳩(いかるが)に掩(おそ)わしむ【或る本に、巨勢コ太臣・倭馬飼首(やまとのうまかいのおびと)を以って將軍と爲すと云う】。
是(ここ)に、奴(やっこ)三成(みなり)、數十の舍人(とねり)と出でて拒(ふせ)ぎ戰う。
土師娑婆連、箭(や)に中(あた)りて死す。
軍衆、恐れ退(しりぞ)く。
軍中の人、相い謂いて曰く、「一人當千とは三成を謂うか」と。
山背大兄、仍(よ)りて馬の骨を取り内寢(よどの)に投げ置く。
遂に其の妃(きさき)并びに子弟等を率い、間を得て逃げ出でて膽駒山(いこまやま)に隱れたまう。
三輪文屋君(みわのふみやのきみ)・舍人(とねり)田目連(ためのむらじ)及び其の女(むすめ)・菟田諸石(うだのもろし)・伊勢阿部堅經(いせのあべのかたぶ)從う。
巨勢コ太臣等、斑鳩宮(いかるがのみや)を燒く。
灰の中の骨を見誤りて王死すと謂いて、圍(かこみ)を解きて退去す。
是(これ)に由(よ)りて、山背大兄王等、四五日の間、山に淹留(とどま)り飯喫するを得ず。
三輪文屋君、進みて勸めて曰く、「請う、深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移り向(ゆ)き、茲(ここ)より馬に乘り東國に詣(いたり)、乳部(みぶ)を以って本と爲し、師を興して還り戰わば、其の勝たんこと必じ」と。
山背大兄王等對(こた)えて曰く、「卿が(い)う如くならば、其の勝つこと必ず然(しか)らん。
但(ただ)し吾が情(こころ)に冀(ねが)わくは、十年百姓を役せず。
一身の故を以って、豈(あに)萬民を煩はしめ勞せしめんや。
又、後の世に、民、吾の故に由(よ)りて己が父母を喪すと言うを欲せず。
豈(あに)其の戰勝ちて後、方(まさ)に丈夫と言わんや。
夫(それ)身を損い國を固むるは、亦(また)丈夫にあらずや」と。
有る人、遙かに上宮王等を山中に見て、還りて蘇我臣入鹿に(い)う。
入鹿、聞きて大きに懼(おそ)れ、速(すみやか)に軍旅を發して、王の在りしを高向臣國押に述べて曰く、「速に山に向きて彼の王を求め捉(と)らうべし」と。
國押、報(こた)えて曰く、「僕は天皇の宮を守り、敢(あ)えて外に出でず」と。
入鹿、即ち自ら往(ゆ)かんとす。
時に、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)息喘(あえ)ぎ來て問う、「何處にか向(ゆ)く」と。
入鹿、具(つぶさ)に所由(よし)を説く。
古人皇子、曰く、「鼠は穴に伏して生き、穴を失いて死す」と。
入鹿、是に由りて行くを止む。
軍將等を遣わし膽駒に求むるも、竟(つい)に覓る能わず。
是に、山背大兄王等、山より還り斑鳩寺に入る。
軍將等即ち兵を以って寺を圍む。
是に山背大兄王、三輪文屋君をして軍將等に謂いて曰く、「吾、兵を起こして入鹿を伐たば、其の勝たんこと定かなり。
然るに一身の故に由りて、百姓を殘害するを欲せじ。
是を以って吾が一身を入鹿に賜わん」と。
終に子弟・妃妾と一時に自ら經(わな)きて倶(とも)に死す。
時に五色の幡蓋、種種の伎樂、空に照り灼(ひか)り、寺に臨み垂れたり。
衆人仰ぎ觀(み)て稱嘆し、遂に入鹿に指し示すも、其の幡蓋等變じてK雲と爲る。
是に由りて、入鹿、見得ること能わず。
蘇我大臣蝦夷(そがのおおおみえみし)、山背大兄王等、總(すべ)て入鹿に亡ぼさると聞きて、嗔(いか)り罵(ののし)りて曰く、「噫(ああ)、入鹿が愚痴甚しき極みなり。
專ら暴惡を行う。
(い)が身命、亦(また)殆(あやう)からずや」と。
(〜略〜)
三年春正月、乙亥(きのとい)の朔(ついたち)。
中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)を以って神祇伯(かむつかさのかみ)に拜す。
再三固辭して就(つ)かず。
疾(やまい)を稱して三島に退居す。
時に輕皇子(かるのみこ)脚を患いて朝せず。
中臣鎌子連、曾(もと)より輕皇子に善(うるわ)し。
故、彼の宮に詣りて宿(とのい)に侍(はべ)らんとす。
輕皇子、深く中臣鎌子連の意氣高逸にして容止犯し難きを識る。
乃(すなわ)ち寵妃阿倍氏をして別殿を淨(きよ)め掃(はら)い、新しき蓐を高く鋪(し)き、具(つぶさ)に給わざることを靡(な)からしむ。
重く敬(うやま)うこと特に異る。
中臣鎌子連、便(すなわ)ち所遇に感じて舍人に語りて曰く、「殊に恩澤を奉(うけたまわ)ること、前の所望に過ぎたり。
誰か能く天下(あめのした)に王(きみ)たらしめざらんや」と。
【舍人を充(あ)てて驅使(はせづかい)と爲すと謂う】
舍人、便ち語る所を以って皇子に陳(の)ぶ。
皇子、大いにス(よろこ)ぶ。
中臣鎌子連の人となり忠正にして匡濟の心有り。
乃ち蘇我臣入鹿の君臣・長幼の序を失い社稷の權を(うかが)うを挾(さしはさ)むに憤り、(つぶさ)に王宗の中を試み接(まじわ)りて功名を立てるべき哲主を求む。
便ち心を中大兄(なかのおおえ)に附すも疏然(さか)りて未だ其の幽抱を展ぶるを獲ず。
偶(たまたま)中大兄の法興寺の槻(つき)の樹の下に(まり)打つ侶(ともがら)に預り、皮鞋のに隨い脱げ落つるを候(まも)りて、掌の中に取り置きて、前に跪(ひざまづ)き恭(つつし)みて奉(たてまつ)る。
中大兄、對(こた)えて跪き敬いて執る。
茲(ここ)より相い善(うるわし)く倶に懷(おもう)を述ぶ。
既に匿(かく)るる所無し。
後に他(ひと)の頻りに接(まじわ)るを嫌うを恐れ、倶(とも)に黄卷を手に把りて、自ら周孔子の教えを南淵先生(みなみぶちのせんじょう)の所に學ぶ。
遂に路上の往還の間に、肩を並べ潛(ひそか)に圖(はか)る。
相い協(かな)わざること無し。
是に中臣鎌子連、議りて曰く、「大事を謀るには輔(たすけ)有るに如(しか)ず。
請う、蘇我倉山田麻呂(そがのくらやまだまろ)が長女(えひめ)を納(い)れて妃と爲して婚姻の眤(むつみ)を成し、然る後に陳べ説きて與(とも)に事を計らんと欲す。
成功の路、茲(ここ)より近きは莫(な)し」と。
中大兄、聞きて大きにスび、曲(つぶさ)に議りし所に從う。
中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒(なかだち)要(かた)め訖(おわ)る。
而して長女(えひめ)期(ちぎ)りし夜に族(うがら)に偸(ぬす)まれぬ。
【族(うがら)は身挾臣(みさのおみ)と謂う】
是に由りて倉山田臣憂え惶(おそ)れ、仰ぎて臥して爲す所を知らず。
少女(おとのひめ)父の憂うる色を怪しみ就(つ)きて問いて曰く、「憂え悔(くや)むは何ぞ」と。
父、其の由を陳(の)ぶ。
少女(おとひめ)曰く、「願わくは憂え爲すこと勿(なか)れ。
我を以って進め奉(たてまつ)らば、亦復(また)晩(おそ)からじ」と。
父、便ち大いにスび、遂に其の女(むすめ)を進む。
赤心を以って奉(たてまつ)るに、更に忌む所無し。
中臣鎌子臣、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)・葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあむた)を擧げ、中大兄に曰く、云云(しかしか)。
(〜略〜)
蘇我大臣蝦夷と兒の入鹿臣、家を甘檮岡(あまかしのおか)に雙(なら)べ起(た)つ。
大臣が家を呼びて上(かみ)の宮門(みかど)と曰い、入鹿が家を谷(はさま)の宮門(みかど)と曰う。
男(おのこご)女(めのこご)を呼びて王子(みこ)と曰う。
家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作り、門毎に水を盛る舟一つ、木鉤數十を置き、以って火災に備う。
恒(つね)に力人をして兵を持して家を守らしむ。
大臣、長直(ながのあたい)をしいて大丹穗山(おおにほのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らしむ。
更に家を畝傍山(うねびのやま)の東に起つ。
池を穿ちて城と爲し、庫を起てて箭(や)を儲(つ)む。
恒に五十の兵士を將(い)て、身に繞(めぐら)して出入す。
健人を名づけて東方從者(あづまのしとべ)と曰う。
氏々の人等、其の門に入り侍る。
名づけて祖子儒者(おやのこわらわ)と曰う。
漢直(あやのあたい)等、全(もは)ら二門に侍(はべ)る。
○ (皇極天皇三年)冬十一月。
【谷、此を波(は)佐(さ)麻(ま)と云う】
(〜略〜)
○ (皇極天皇四年)六月丁酉(ひのととり)の朔(ついたち)甲辰(きのえたつのひ/八日)。
中大兄、密に倉山田麻呂臣に謂いて曰く、「三韓進調の日に、必ず卿をして其の表を讀み唱えしめん」と。
遂に入鹿を斬らんと欲す謀を陳ぶ。
麻呂臣、許し奉る。
○ 戊申(つちのえさるのひ/十二日)。
天皇、大極殿(おおあんどの)に御(おわ)します。 古人大兄、侍り。
中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の人となり疑い多く 晝夜劍を持てるを知る。
而して俳優(わざひと)に方便を教えて解かしむ。
入鹿臣、笑いて劍を解き、入りて座に侍る。
倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を讀み唱う。
是に、中大兄、衛門府(ゆげいのつかさ)に戒めて、一時に倶(とも)に十二通門(よもにみかど)を(とざ)し、往來を勿(な)からしむ。
衛門府を一所に召し聚め祿給わんとす。
時に、中大兄、即ち自ら長槍を執り、殿の側(かたわら)に隱れたり。
中臣鎌子連等、弓矢を持ちて助衛と爲す。
海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)をして、箱の中の兩劍を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授けしめて曰く、「努力々々(ゆめゆめ)、急須(あからさま)に斬るべし」と。
子麻呂等、水を以って飯を送るに恐て反吐す。
中臣鎌子連、嘖(せ)めて勵(はげま)しむ。
倉山田麻呂臣、唱えし表文の將に盡きなんとするに、子麻呂等、來たらざるを恐れ、汗流れて身に浹(あまね)し。
聲亂れ手動く。
鞍作臣、怪しみて問いて曰く、「何の故にか掉(ふる)い戰(わなな)く」と。 山田麻呂、對えて曰く、「天皇に近きを恐れ、覺らず汗流る」と。
中大兄、子麻呂等、入鹿の威を畏(おそ)れ、便旋(めぐら)いて進まざるを見て曰く、「咄嗟(やあ)」と。
即ち子麻呂等共に其の不意に出ず。
劍を以って入鹿が頭・肩を傷(やぶ)り割(そこな)う。
入鹿、驚き起つ。
子麻呂、手を運(めぐら)し劍を揮(ふ)きて、其の一脚を傷(やぶ)る。
入鹿、御座に轉(まろ)び就(つ)き、叩頭して曰く、「當(まさ)に位を嗣ぎたまうに居(まします)は天の子(みこ)也。
臣、罪を知らず。
乞う、審察を垂れたまえ」と。
天皇、大きに驚き、中大兄に詔して曰く、「作(な)す所を知らず。 何事の有るや」と。
中大兄、地に伏し奏して曰く、「鞍作、盡く天宗を滅し、將に日の位を傾むけんとす。
豈(あに)天孫を以って鞍作に代えんや」と。
【蘇我臣入鹿、更(また)の名は鞍作】
天皇、即ち起ちて殿中に入りたまう。
佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、入鹿臣を斬る。
是の日、雨下(ふ)り、潦水庭に溢る。
席障子(むしろしとみ)を以って、鞍作が屍を覆う。
古人大兄、見て、私の宮に走り入り人に謂いて曰く、「韓人、鞍作臣を殺す。【韓の政に因りて誅さるるを謂う】
吾が心痛し」と。
即ち臥内(ねやのうち)に入り、門を杜(とざ)して出でず。
中大兄、即ち法興寺に入り、城と爲して備う。
凡(すべ)て諸皇子・諸王・諸卿・大夫・臣・連・伴造・國造、悉く皆隨い侍る。
人をして鞍作臣が屍を大臣蝦夷に賜う。
是に漢直(あやのあたい)等、總て眷屬を聚め、甲を還き兵を持し、將に大臣が處に軍陣を設け助けんとす。
中大兄、將軍巨勢コ陀臣をして天地開闢に君臣始めて有るを以って、賊黨に説かしめ、赴(おもむ)く所を知らしむ。
是に、高向國押(たかむくのおすくに)、漢直等に謂いて曰く、「吾等は君大郎に由りて、當(まさ)に戮(ころ)されぬべし。
大臣もまた於今日・明日に立ちどころに其の誅せられんことを俟(ま)たんこと決(うつむな)し。
然らば則ち誰が爲に空しく戰い、盡く刑せられんや」と。
言い畢(おわ)り劍を解き弓を投げ、此を捨てて去る。
賊徒また隨い散り走る。
○ 己酉(つちのととりのひ/十三日)。
蘇我臣蝦夷等、誅さるるに臨み、悉く天皇記・國記・珍寶を燒く。
船史惠尺(ふねのふひとえさか)即ち疾(と)く燒かるる國記を取りて中大兄に獻じ奉る。
是の日、蘇我臣蝦夷及び鞍作が屍を墓に葬るを許し、また哭泣するを許す。
(〜略〜)
(皇極天皇四年六月)庚戊(かのえいぬのひ/十四日)。
輕皇子に讓位したまう。
中大兄を立てて皇太子と爲す。