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虚 空 蔵 堂
★天祐寺住職須田道輝老師におかれましては2008年4月23日御逝去なさいました。★
★★★2008年4月24日通夜、4月25日仮葬儀★★★
Google、yahoo等の ”須田道輝” 検索にて約500以上の著書&対談等のヒットが可能です。
虚空蔵菩薩の信仰に関する須田老師様教えを本ページ下方に掲載させて頂きました。(2003年8月15日)
禅瞑想への誘い『東洋哲学と禅瞑想』
毎月第1土曜日午後1時30分より3時30分開催(諫早天祐寺内道場)
第1回目:2003年3月1日(土曜日) 詳細説明と案内へのリンク
最新勉強会:2006年12月2日(土曜日)開催済
(天祐寺禅瞑想会参加に関する詳細案内は上記をクリックください。)
摩訶不思議般若波羅密多心経(全文) (リンク)
諫早天祐寺(リンク)
住職 須田 道輝(著書へのリンク)
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毎月定例行事
毎月13日午後1:30 虚空蔵堂法話会 | お経を唱え、祈願、法話 |
毎月23日午後1:30 勉強会 | お経、祈願、瞑想、勉強会 |
其の他 福岡県小郡市にても行事あり。 | お経、祈願、瞑想、勉強会 |
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虚空蔵菩薩経意訳 仏陀耶舎 漢訳
釈尊がキャラテイシ山に往していた時、おおくの修行僧、無数の特種な力をもったボサツたちが、おのおの異なった世界から集まっていました。その時世尊は大衆のために、四べん財、三明、梵行さらに罪障を取り除くためのダラニの教えを説こうと心に深く念じておられました。
その頃、西方のはるかかなたの一切香世界には、勝華敷蔵如来(しょうげふぞうにょらい)という仏陀がおられ、そこには虚空蔵というボサツがおられました。このボサツはすでに如来より深妙の正法をさずけられ、もろもろの禅定三昧を体得していました。
虚空蔵ボサツはある日のこと、多くのボサツたちが、東方に向かってすすんでいる姿をみました。そこで天眼の力によって、はるか彼方の東方世界を透視してみると、そこから大いなる光明が放たれているのが見えました。そこでボサツは勝華敷蔵如来のみもとをたずね、『この東方世界の輝きは何でしょうか』とたずねますと、如来は『ここから東方にむかい、無数の世界をすぎたところに、シャバ世界という一世界があり、その中に住んでいる者たちは、五濁(ごじょく)の運命はまぬがれないが、幸いに、その世界には釈迦牟尼という仏陀がおられ、ちょうどいまキャラテイシ山というところで説法をはじめようとしています。そのシャカムニ仏の説法をきこうと、各界のボサツたちが、東方シャバ世界をめざしてすすんでいるのです。そなたもすぐさまそこへ行って、シャカムニ世尊の説法をきき、シャバ世界の業欲にまみれた人々、苦しみ悩む人々に<破悪業障ダラニ(はあくごうしょうダラニ)>を説いて,助けてあげなさい。』とのべました。
如来の使命をうけた虚空蔵ボサツは、八十億という大勢のボサツたちと共に、ただちにシャバ世界をめざしました。
その頃、シャバ世界では、シャカムニ仏(釈尊)の説法を、いまかいまかとまっていました。その時、西方に如意宝珠(にょいほうじゅ)という不思議な宝珠が光りかがやき、日月はもちろんすべての光という光を覆い隠してしまいました。釈尊の説法をきこうと集まっていた人々は、その光輝で、自分の姿形ばかりか、他の人々の姿も見えなくなってしまいました。そこにはただ、珠光のみがひろがって見えているだけです。清浄きわまりない如意宝珠には、さらにその宝珠をかこむ無数の宝珠が輝いているものでした。
その光景をみた各界のボサツたちは、高い悟りを体得し、首りょう厳三昧(しゅりょうごんざんまい)という力をそなえたボサツでしたから、この異常な<光の世界>をみても驚くことはありませんでしたが、そのほかのボサツや釈尊の弟子など、集まっていた人々は、このはじめての光景に驚き、心おののくのを覚えました。これら大衆の心を察した梵頂ボサツは、釈尊の前にすすみでて、合掌し『世尊よ、この法界のフシギな働きというものを、大衆は悟っておりません。ですから虚空蔵ボサツの頂上に、常に如意宝珠が光り輝くという奇端をしりません。ぜひその深い因縁を説かれて、大衆の心をなっとくさせてください』と申し上げると、釈尊は『よく質問してくれました。この虚空宝蔵ボサツは、その行くところ、身を現ずるところでは、禅定、三昧の力をしめし、断常(だんじょう)のニ見にとらわれ苦悩している人々に解決をあたえるボサツです。』とこたえ、さらに断常の二見をはなれれば、恐れの心はきえ、心にとらわれがなくなるものであると説明すると、世尊は右手をのばし、西方をゆびさし、『このような端光は、虚空蔵ボサツがこの法座に到来するためのきざしです。このボサツは多くの三昧力を体現し、その心は大海のごとく広く、その智慧(英知)は虚空のように深い方です。その広大な福徳と智慧とは如来につぐもので、多くのボサツのなかでもっともすぐれたボサツです。ですから虚空蔵ボサツがこの座に来たならば、敬いの心をもって迎えねばなりません。そしてボサツの偉大な功徳を受けるようにしないさい』とのべましたので、一座の大衆は喜びいさんで、虚空蔵ボサツをお迎えすることにしました。そのとき虚空蔵ボサツは、神力をもってシャバ世界を一変させていました。
人々の心の悪を除き、丘・山・瓦礫・いばら・穴・荒野・危険な道などを変え、風や塵、雲などもすべてふきとばし、七宝を大地にひきつめ、手のひらのように平らにしてしまいました。限りない宝をもって樹林となし、美しい花はかぐわしき香気をはなち、その香気によって、シャバ世界の人々は自然に心安らかになり、苦しい病から解放され、怨みを持つものにもやさしい思いやりの心が生まれ、地獄におちた人々の悲痛な叫び声もすべて消えてしまいました。人々の顔つきにも気品がそなわり、その動作には威厳がただよい、心には一点のくもりもなく、寂かにすきとおり、常に悦びにみちていました。
清らかな信仰心によって、仏法僧の三宝に帰依し、安らかな心の世界に満足がうまれました。法座に集まっている大衆の両手には、フシギな力を秘めているかの如意宝珠が自然に出現し、その宝珠からは大光明が放出され、宇宙のすみずみまで照らしました。同時に妙なる音楽が天上よりかなでられ、かずかずの品々が出現し、このシャバ世界をみごとに荘厳しました。大地にひろがる草木花実は、すべてがすべて妙音を発し、その声は仏法、六ハラミツの行法を宣べたたえており、その音声をきくものは、自然に無上の道心がうまれ、ひとりとして脱落するものはいません。そのなかには無生法忍というすばらしい境界を体得するものもでてきました。
大衆は虚空蔵ボサツのフシギな神変力をまのあたりにして、心は歓喜にみたされ、いままでこのような経験をしたことがないとほめたたえました。そして虚空蔵ボサツは異世界から、このシャバへまもなくこられるであろうから、ボサツの法座を設けておこうと考えました。そのとき、釈尊の前面に法蓮華が地より湧き出しました。この蓮華の茎は白銀、波は金、台は金剛石、果実はルリ、髭はメノウ、蘂はハリでできていました。その蓮華の大きさは百由旬もあり、その周囲には八十億の宝蓮華にとりかもまれていました。その宝蓮華の中央に、忽然として虚空蔵ボサツが現れ、結かふ座<坐禅>していました。ボサツの頂には如意宝珠があり、宝蓮華の周囲にも、それぞれ八十億のボサツたちが坐っていました。
この様子をみて、集会のなかのミロクボサツは、薬王ボサツにたずねました。『むかしからボサツたちが法座にこられるときは、まず世尊のみ足を礼拝しのち、しりぞいて蓮華座に坐るのが慣例でした。しかしこのボサツはなぜこのような大神変を現し、世尊のみ足を拝礼もせずに、蓮華座に坐っておられるのですか』 すると薬王ボサツは答えました。『この大智あるボサツは、すでに深い仏法の真理に達せられておるので、ボサツの礼儀という分別の心なく世尊に会いにこられたのです』 ミロク『もしこのボサツが衆生や現象に心をゆり動かされることなく、心はつねに真実に安住しておられるなら、なぜこの様な神変力を示したのでしょうか。わたくしのこの疑問に答えてください』 薬王『いまこのお方は勇猛心(ゆうみょうしん)をもって、方便行を現じているのです。衆生の心を向上させるために、このような神変を示されたのです。真実の法に安住することなく、愚かなことにまどう人々にたいして、まず世俗諦の神変力を現し、しかるのち真実諦に入らしめるためにほかなりません。』
この両ボサツの問答をきいておられた釈尊は薬王ボサツに向かって『そなたの答弁はすばらしかった。そなたのいうように、一般の人々にいきなり真実を説いても求道心をおこさせることはむずかしいことです。また修行したとしても解脱に達することは、なお難しいことです。まして縁覚者、ボサツ、仏如来と境界を高めることはさらに困難なことです。たとえ一切の衆生が無生法忍のさとりをえたとしても、虚空蔵ボサツの足をあげ、足をさげる方便の行為、そして衆生を成熟せしめる第一義の深奥を伺いしることすらできないであろう。またこのボサツの方便の行動を理解し、第一義諦(だいいちぎたい)による教化法を知ったとして、般若波羅蜜に住し、究極の首りょう厳三昧の境界を完成させたのこのボサツの足をあげ、足をさげるの方便の大いなる働きを伺い知ることは、むずかしいとおもいます。この虚空蔵ボサツは、すでにはるかなる過去世において、無生法忍を体得し、説法にすぐれ、究極の首りょう厳定を完成し、ボサツの位においても最上の境界に登っています。その境界欲の心境にたって、よく人々の心の動きを察し、その心の動きに沿って、さまざまな神変力を行使し、その人をしてまず離欲の境地にいたらしめるのです。ボサツは自由自在の境界に出入りすることができるので<入無辺虚空処三昧>を示すことが可能です。つまり西方に実を没して、ふたたびここに身を現ずることができます。はじめてこの神変をみた人々はおどろき、心に恐怖心さえおこします。この神変はみずから俗諦に入って、しかも無生法忍の荘厳をあらわし、おおくの人々を成熟せしめんと願っているからです。
このボサツは巧みな方便の智慧がそなわっていて、深く仏法の大海に入り、ことごとく仏法を学びつくしていますから、その智慧方便の優れていることは、数多くのボサツたちの中でも最上です。また虚空蔵ボサツは、一切の人々の為にこの世、かの世の解脱と生天(しょうてん)の道を示し、人々の惑いと苦悩とを除き去り、さらに四大の病、苦毒の病をいやす力をもっています。』ですから、衆生が邪見の砂漠のなかで難儀し迷い、そこから脱する方法(方便)をしらないならば、そしてまた死後天に生まれ、安らぎの世界を求めたいと願うならば、虚空蔵ボサツのみ名を唱え、至心に香をたいて礼拝しなさい。そのとき虚空蔵ボサツはただちにこの人々の心を観じ、過去の善根の種子を見出し、彼等の求めに応じて、その夢のなかに種々の姿をとって出現し、方便をもってわかるように法を説いてくれます。あるいはねむりから覚めかかったとき、種々の姿をあらわし、正直道をひらき、衆生の業苦や考えの誤りを指摘し、悪処からすみやかに解放せしめるでしょう。また病気に苦しむ者には、病いに応じて薬を指示してくれます。虚空蔵ボサツは大慈悲をそなえておりますので、人々が貧窮し、困苦しているものにたいして、念願すればすみやかに解決の道を示したり指導してくれます。
このようにあらゆる心願にこたえ、成就せしめる力をもっています。そのためには、どこにあっても香をたき、合掌礼拝し、五体を地に投じ、至心にダラニをとなえ、感応する事が肝要です。邪心がなく、正しい考え方を学び、他の人々を犯す事無く、名利を求める心のない浄心者があれば、方便と智慧と努力によって、いかなる危難もこえて、菩提心をおこし、究極の無上道を成ずることができるでしょう』とのべました。すると、その説法を真剣んじきいていたミロクボサツが、ひとり座よりたって、仏足を礼拝して釈尊に申しました。『なぜ、虚空蔵ボサツだけが、その頂上に妙なる如意宝珠をおもちなのですか』とたずねました。釈尊は答えました。『このボサツは大いなる慈悲の徳力をそなえ、よく衆生の危厄険難を救い、たとえその者が根本罪をおかし、まさに一切の善根を消尽してしまった者であっても、救いの光を放ち、ただちに根本罪を消滅してくれるでしょう。またもし重罪をおかし、地獄におちようとする者でも、ことごとくよく救済し、真実の路を開示してくれます。』 ミロク『世尊よ、根本罪をおかすというのはどのような行為でしょうか。もしこのような重罪をおかした者は、いかなる善根も消え、永遠に安穏なところに住むことはできないでしょう。しかし虚空蔵ボサツは、よくこれらの極悪の者を救いたまい、かえって人天の福楽に住することができるようにすると申しますが、これは一体どういうことでしょうか』とたずねたとき、釈尊はミロクに向かって 『巨大な力をもった国王、大臣が5つの根本罪を犯したとしたなら、悪趣に陥ることはまちがいありません。その5つの根本罪とは
(一) 国王大臣がその力をもって、仏陀の者や僧物、招堤僧物をとることは根本罪です。
(ニ) 国王、大臣がその力をもって、正法を批難し、修行勉強を捨てさせることは根本罪です。
(三) 国王大臣がその力をもって、修行僧のケサを脱がせ、還俗をせまり、これに服従しないものには、手足を切り命をうばうこと根本罪
(四) 国王大臣がその力をもって、母を殺し父を殺し、アラカン僧を殺し、僧団を破り、仏陀の体を傷つけるという五逆罪を犯す事は根本罪です。
(五) 国王大臣がその力をもって、思想的に因果はないと否定し、死後の存在を否定し、悪行をほしいままにする事は、根本罪です。
以上の根本罪をひとつでも犯すものは、永遠に救われることはありません。しかし虚空蔵ボサツは、これらの罪を罪と自覚しないもののために、ボサツは大慈悲心をおこし、種々のすがたをとって<一切種智甚深大乗有法のダラニ>を説いて、この人をみちびき、さきに犯すところの罪を発露サンゲせしめ、ふたたび五つの根本罪を犯すことのないように誓わせ、大いなる救済力を発揮するのです。
またつぎに、悪世のなかに出家した初発心の菩薩は、八種の根本重罪に注意しなければなりません。
(一) なんじらは因縁によって五濁世界に生をうけ、善根の力あって善知識<正師>に近づき、すぐれた大乗の法に接して、求道心をおこすことができたのです。しかしまだ仏法において浅いのにもかかわらず、他からきいた甚深の空法を、おろかなる者の前でとくいになって説法します。そればかりではなく、高い境界や<空>や<無>という真法を説くことによって、人々に不安をあたえ<とてもそのような高い仏法をさとることができないと思いこませてしまいます。これを第一根本重罪といいます。
(ニ) 初発心のボサツが人に向かって<なんじの力では仏道を修習しても、無上道を成就することはできないことである。だからまず声聞縁額の境地を学び、生死をつくすことが大切である>と説く。これを第二根本重罪といいます。
(三) 他の人に向かって<なんじらは、戒律を学んでどうする、それよりも大乗経典を受持し読通するがいい、そうすればさきに造作した不善行はただちに清められ、未来に悪い果報をうけることはない>と説くことは第三根本重罪です。
(四) 他の人々に向かって<なんじの声聞乗(しょうもんじょう)をすてなさい。声聞乗では大果をうることができないからである>と説くのは、第四根本重罪です。
(五) 妄言を言って名聞利養を求め、人々に向かって<私は大乗を悟った者である。余人のおよぶところではない>と他の大乗の行者を攻撃批判し、自分ひとりを称賛するのは、第五根本重罪です。
(六) 他の人々に向かって<私は自然に大乗の奥義、空相の法門を悟ったのである。大明智を成就できたのは、私ひとりのみである。だから今、なんじらのために慈悲をもって法を説いているのである。>と一切の人々をまどわす罪は大きい。これを第六根本重罪といいます。
(七) 国王大臣とあいはかり、他の僧団の所有物をうばったり、税をかけたりして、自ら利益を得、さらに僧団同士を争わせた、競争させてその力を失わせたりする事は、第七根本重罪です。
(八) 未来悪世になると、真面目な修行を軽視し、お互いに利を争い、非法を説き、さかさまな議論がおこなわれ、真実の般若(智慧)を学ぼうとしません。慈悲心を失い、如来の説を正しく守らず、勝手に正法に違反する制度を設け、坐禅止観、正行正念を廃止し、禅定心をうしない、つねに他と競争するkとのみに専念するようになるであろう。これを第八根本重罪といいます。
これらの人々は大乗心を破り、求道心をこわし、未来世には悪趣におもむきかぎりなく生死に輪廻する者です。そして善知識に出合う因縁をも破るものです。
悪行をつくる人々に、虚空蔵ボサツは種々の姿をとって、発露懺悔の道を開いて、まず重罪を取り除いて、菩提心をおこさせます。もし罪あるものが念じて、ボサツがその人の前に現れることがないときには、初発心のボサツたちよ、後夜に至って合掌し、至心に東方に向かい、浄香をたき、明星天子を勧請して念願しなさい。<明星天子よ、あなたは大慈悲にあふれ、この世界を照らしたもう。大悲をもって私を守護したまえ。わがためにとくに虚空蔵ボサツに告げて欲しい。夢のなかでも私に方便を示し、根本罪を懺悔せしめたまえ。大乗の智眼をえせしめ給え>と念願すれば、初発心のボサツは、夢中において、明けの明星が東方に輝きはじめるとき、虚空蔵ボサツはその願いにしたがって、姿を現し、もろもろの方便をもって、かの初発心のボサツの犯したところの罪に、みずから深くおどろき、恐れをいだかしめるのです。その罪の意識によって、かれは発露懺悔し菩提心をおこし、不忘三昧に徹し大乗の心を養うでしょう。その心をもって六ハラミツケを実践すれば、かならず仏陀の智慧(一切種智)を成就することができます。
虚空蔵ボサツは勇気ある決心で、俗を恐れず、多くの衆生に功徳をあたえようという願行をもっています。そのゆえにボサツの頂上に如意宝珠があるのであって、他のボサツの救済功徳力とは格段のちがいがあります。ですから宝珠の光によって、すべてを覆い尽くすという不可思議な方便力を完成させているのです。
もし衆生のだれでも、虚空蔵ボサツのみ名をきいて、その尊蔵を祀り、あるいは供養のところを設けて礼拝するならば、このボサツの威神力によって、この人は現世におけるもろもろの災患の因縁がきえてしまいます。ですから水も漂わすことができません。火もやくことができません。刀杖をもって傷つけられても傷つくことなく、実毒におかされることもありません。また他の人や見えないものなどによって害されることはなく、刑罰、盗賊
怨念、疾病、飢渇などのもろもろの苦しみから解脱します。寿をのばし、不慮の災いを防ぎ守護してくれます。
また人が臨終にのぞんだとき、まず眼がみえなくなります。次に声が聞こえなくなります、臭いがきかなくなり、舌の感触、体の感覚も失われて、手足も動かなくなります。しかし、かすかな意識のみ感じられ、わずかなぬくもりが残っています。そのとき虚空蔵ボサツは、その人のために、ボサツ自身の姿をとって現れます。あるいは生前その人の縁の深い者の人天の姿をとって現れ、死後の不安や恐れを取り除いてくれます。
そして一つの聖詩を示します。
『苦・集・滅・道の道理を深く観ずるならば、だれでもその身そのまま彼岸に至る』
この聖なる詩をきくと、臨終の人はすべて、この詩の力で、生死の苦をはなれ、悪趣におちいることはありません。また生前、仏法に心をよせていた者にたいし、虚空蔵ボサツは、その臨終にさいして、仏陀の姿をとって心の中に現れ、次の様な聖詩をとなえます。
『仏智は真実である。生死の海をわたることができる。すみやかに仏智を求めよ。さすれば苦悩はすべて滅尽する』
この聖なる詩を心に念じ至心に観するならば、心は悦びにあふれ、命終ののちも浄らかな世界に生まれることができます。虚空蔵ボサツは、さまざまな人の臨終に際して、化身をあらわし、妙法を説ききかせて、解脱せしめるというフシギな方便力をそなえております。このボサツは、ひとりひとりの心を知って、その願いをかなえ、さらには教授する力をもっており、火の難、水の難、剣の難、病難など、ことごとく除難するのです。ですからつねに虚空蔵ボサツのみ名をとなえ<私にボサツの大慈悲を施したまえ。私にボサツの大慈悲を施したまえ>と念願しなさい。さすればボサツは、浄らかな天耳をもって、心願を満足せしめ、さらに智慧ある説法をほどこされるのです。
このような不可思議な力をもっているのは、虚空蔵ボサツが、気の遠くなるほど長い間多くの仏陀の功徳海に浴してきたからです。この仏縁によって頂上に如意宝珠の光が具わったものです。
と説法されたとき、法座につらなる大衆は、大光明によって虚空大地が、すっかり包まれてしまったフシギな現象のわけが分かり、それを現じた虚空蔵ボサツに向かって礼拝しました。その時、虚空蔵ボサツは、坐よりたって右の肩をあらわにし、長き合掌し、釈尊に向かって申しました。『世尊よ。このシャバ世界の人々は、五濁によって暗愚になってしまいました。この様な人々のなかで、どうすれば仏陀の功徳をいかすことができるのでしょうか』 釈尊『そなたは虚空を見なさい。虚空は貪欲もいかりも愚痴もないでしょう。自称も同じく浄性です。ただ風がはこぶ塵によって、きたなくなっているだけです。自称はもともと執われることなく、縛られることなく清らかなもので、五濁におかされるものではありません。すみやかに方便説法して、智眼を開かしめ、四念処の法、八聖道の法を体現し、菩提心(無上道)を成就せしめるべきです。』 虚空蔵ボサツ『世尊よ。たがいに相よって境界はつくられるものです。しかしまたみずから境界は相犯さず、諸法の境界はあるようでないものです。すべての現象はみな虚仮(こけ)です。すべての現象はみな<如><実際><如如>によるものです。たとえばそれは、虚空のように破壊することも、分けることも、認識することもできません。無動にして無愛、無僧にして無牙なるものです。この道理は、文字によって虚空の性を認識することができないのと同じです。以上のように悟る者は、諸法現象の<性>を知り、無生法忍を体得した者と言えます』とのべ、虚空蔵ボサツは一つのダラニを説きました。釈尊はたいへん喜ばれ、『このダラニは、一切の衆生が臨終のとき、最後の意識のなかで、煩悩障や悪行の罪をすべて焼き尽くし、仏の世界にみちびいてくれるでしょう』といって、一つの聖なる詩を唱えました。
『衆生の貪りと争いは みな心の深いところから起こる。 もし心をよく統一し 調和せしむれば すみやかに解脱を成就する』
釈尊がこの道理経を説いたとき、多くの聴衆は、おのずから究極の<無生法忍>をえて、諸三昧に達し、すぐれたダラニを学びました。そのとき世尊は、アーナンダおよびミロクボサツにつげていいました。『なんじらは、この虚空蔵ボサツの教えをいつまでも奉持し伝えなさい』と。すると二人は定よりたって右肩をだし、長き合掌して釈尊に誓いました。『世尊よ、私たちはこの妙経典をいつまでも授持いたします。この妙経典をいつまでも後世に伝えるために、この妙経を何とよんだらよいのでしょうか』 すると釈尊は『この妙経は<懺悔尽一切罪ダラニ経>または<不可思議方便智一切衆生経>また<能満一切衆生所願如如宝珠経>となずけるがよい。アーナンダよ、この経典を奉持するものは、遠い昔に菩提心をおこし、長い間六ハラミツを修行し、十方世界のなかで、限りない仏縁に出会い、供養することができた功徳よりも、さらにすぐれた功徳を万億分も頂戴することができるのです。この経典の教えも読 しその名号、ダラニを唱える功徳は、算数をもって数えることはできません』と宣べたまいました。アーナンダ、ミロクなどの多くの大衆とともに、この言葉をきき、踊躍歓喜し、深々と世尊に礼拝しました。