南風同人インタビューvol.1      木本英実さん           
        2002.9/10     *彼女を見ればわかること、英実俳句のリアリティ*


本日のゲストは、生まれも育ちも和歌山という木本英実さんです。同じ和歌山の作家中上健次の大ファンであり、本好き。私が映画監督&写真家のレニ・リーフェンシュタールのことを書いたとき、彼女の写真集「ヌバ」が家にあったから、と貸してくださいました。こんなの持ってる人がいるんだな〜と感心したのを覚えています。女性らしい俳句を作る人ですが、独特の感性を持ち、見えないものを見ようとする真摯な姿勢が伝わってきます。インタビューには「え〜?!嫌やわ〜」と言いながらも結構協力的。新大阪から岐阜羽島までの新幹線車中でお話をうかがいました。ここでは標準語(風)に直していますが、実際は和歌山弁と明石弁の飛び交う楽しいインタビューでした!

 * 「海を濡らして」自選14句
  きさらぎの風まばたくと見れば鳥     女より男寒がる螢狩
  二上へ陽の帰りゆく寒牡丹        靴跡や干潟に何を探すべき
  我を恨む人のゐしかば障子鳴る      ふらここを降りて翼の消えてゐし
  年用意二階に人を眠らせて        深海に沈む重さの黒ぶだう
  鮎いまだ吹かるるほどを放流す      大原の人に文書く居待月
  風呑んでごぼと鳴りたる下り簗      まだ波の形を解かぬ若布干す
  目でありし穴より乾く猪の皮        鯛育つ海を濡らして春の雪


■この度句集「海を濡らして」を上梓されましたが、実際できあがったのを見てどうでした?

木本 私ね、表紙がすごく気に入ってるの。特にこの中のブルー系の色が。出版社には、特に好きな色と嫌いな色、大きい模様が好きか小さいのが好きか、割とアバウトに聞かれたけど、出来たらこんな風になってたの。

■タイトルにぴったりの色使いで、素敵な句集ですね。これは「鯛育つ海を濡らして春の雪」からだけど、
どうしてこの題にしたんですか?

木本 題はずっと決まってなくってね。なんとかの音、とかいろいろ考えてたの。例えば「山の音」とか・・・でもそれって川端康成の小説にあるよね。また「川辺にて」「湖畔にて」なんて、「にて」止めはどう?っていう意見もあったけど、あんまり気がすすまなかった。そのころにこの句が出来て、それだったら「海を濡らして」にします、って。あなたらしいね、って言われたよ。

■ところで、木本さんは南風に入る前から俳句を作ってましたよね。俳句を始めたきっかけって何ですか?

木本 友達がやってたから。私、めちゃくちゃ幼稚やからね、俳句ってどんなこと詠んでもいいの?って聞いたら、いいよ、って。じゃあ飼い犬・飼い猫のことを詠もうと。楽しかったよ。「朝寝する猫に生まれししあはせよ」「白犬の尾がたんぽぽに見えた暮」。幼稚園みたいでしょ(笑)

■かわいい〜、って感じ(笑)。でも、今の木本さんの句って、そうやって楽しいね、で終わる句じゃないですね。

木本 和歌山で教えてくださった先生がね、是正してくれたの。写生句であっても、心象句であっても、自分を抜きにした句はないんだと。例えば桜を一緒に見てても、あなたと私の見る桜は同じ形を写しても絶対違う、だからどんな写生句といえどもね、人間を抜きにした句は無いっていうの。感情を入れなくってもね、おのずから人間の見方が出てくる、ということね。そう教えられたからね、ある部分自由に育ってるわけ。それがいつの間にか、もともといろんなことを考えてしまうタイプの人間だからね、心象も割と自由に出てきたみたい。

■南風に入られたのはそれから?

木本 その先生に勧められてね。南風の鷲谷七菜子さんがいいよ、って。私も、まあ結社に入ってもいいんじゃないかと思って、梅田での南風例会にも行けそうな距離やな〜と。で、はいそうします、って。だから自分の意思は介在しないの。

■偶然というか、何というか、合ってたんですね。

木本 合ってなかったよ、最初。合ってる、合ってないも平気よ。全然。いろんな句出してもね、分かってもらえない。普通だと、同人の句会に行って結社の智恵がついて、また次の段階へ行くんだろうけど、突然行ったからね、平気よ。採ってもらえなくても、何があってもね。2・3年はそんな状態が続いたな。

■でもね、初期の句は、鷲谷先生の「黄炎」に似てるような気がする。そう、木本さんの句って、女っぽいですよね。私に比べたらすごく女っぽい(笑)。

木本 そうね〜やっぱりそういう生き方をしてきたのかな?でも、女であることに負けてないと思うけど。「黄炎」の方が激しいでしょう。ただ、当時の先生の年齢と、今の私の年齢が一致してるからね。当時の先生は自分をそのまま詠もうとしてるでしょ、私もそういうところがあるし。でも、先生の方が激しい、私のほうが沈んでるんじゃない?まあ、やっぱり時代的なものもあるよね。戦中・戦後の生活の苦しさと病身と、大変だったでしょうね。それに、当時の女性の置かれている立場もあっただろうし。私の母なんかね、人前で歯を見せて笑ったら叱られたらしいもの。私だって、中学時代にノースリーブの服着たら父から叱られたし・・・

■今とは違った厳しさですね〜

木本 そういう風に育ってしまってるからね、だから今の男の人が料理するとか、スーパーに買い物に行くとか聞くと、なんか違和感があるのよね。

■そ〜お〜??しんどくないですか?そう思うの。

木本 それが私には普通だもん。

■でも、私と木本さんって15歳しか違わないんですよ。

木本 15歳ってすごく違うと思うよ。今の10年は、明治時代の30年に匹敵するんじゃない?変化が急激だからね。そういう意味では、私はきっと古いんだと思う。考え方、というよりこの暮らしが古いんだと思う。

■それにしては、はっきり主張されますよね。まあ、俳句してる女の人って、相対的にはっきり物を言うというか・・・

木本 主張はするようになったよ、もともとはしないんだけど。言う努力はしてるよ。もしも、自分を通して生きてきてたら、今ごろ俳句はしてなかったもしれないな(笑)。もし俳句を作ってなかったら、手先の事が好きだから、刺繍とか編み物なんかしてたかも。ごくごく当たり前の女だもん。

■当たり前と自分で思ってるところを俳句にすると、当たり前じゃないね。人間は誰でも当たり前じゃないと思いますよ。当たり前の人間はいないと思うんですよ。他人とは違う、当たり前じゃないところをそのまま俳句にできるというのは才能ですよね。

木本 ちょっと素直なだけじゃない?私、意外と素直やない?素直だけが取り柄といえば、取り柄かな。それと根気のいいことと。それに、俳句は学習したらあかんね。つまり学習するように俳句を作ったらいけない。はい、ここは切れ字ですから・・・とか、そんなのは二の次と私は思う。やっぱり総合的なもの。読んでて面白いのは、少々傷があっても勢いがある句よね。う〜ん、なんかな〜っていうのは、整ってるし、ツボもあるけど、なんかつまらんという。洋裁で入ったらパターンみたいな。面白いのは、こんなの着て歩かれへんわ、っていうような独創性のあるもの。なんでもありだと思う。ただ、やり損なってたらだめだけどね。

■句集中、見覚えのある句で懐かしいと思ったのは「生めば母生まねばをんな鰯雲」。これ、どろっとしてますね(笑)。もし季語が鰯雲ではなかったら、まだ将来のことかもしれない。でも、鰯雲というちょっと寂しげな、かつ遥かなイメージをもつ季語を持ってくると、それはすでに過去のこととなっているんだと思います。そして「別れたる日の鞦韆もかく揺れし」・・・変なこと聞くようですけど、恋愛すると俳句が出来るような気がしませんか?

木本 出来ない(笑)。渦中にいるとね。私に恋愛の句は・・・そうね・・・恋愛ね・・・あんまりないかな〜、でもあるのよ、載ってないだけで。俳句をはじめたのは、父が亡くなってその喪失感からだったの。その時期に友達が勧めてくれてね。だから恋はその前だわ。

■これホームページに載せることになるんですけど、書いてもいい?(笑)

木本 なんにも言ってないもん(笑)ホームページに載せるって、こんなの読んで南風で俳句作ろうっていう気になるかしら?もっと楽しい事言えたらいいけど。俳句ってどんなイメージが持たれてるのかしらね。俳句してますって言うと、人が急にへ〜っていう目で見る、とある人が言ってたけど。俳句みたいな高尚なものを、とかね。その感情は複雑。

■実は、私も言いにくい。趣味は?って聞かれると、とりあえず「映画鑑賞」とかね、言ってしまうんです(でもこれも事実だけど)。あまり親しくない人にはね。俳句です、って言ったらどう思われるのかな、と。一般的には俳句は古くさいものというイメージがあるんじゃないですか?

木本 つきあいにくい相手と思われるのが嫌?私は言うけどね、正直言って「いいよ〜」とは勧められない。今は手軽に楽しい事がたくさんあるもの。

■それでも俳句をしてるのは、なぜなんですか?

木本 感情の露出が出来る、感情を託すことが出来る。喜怒哀楽の、怒・哀を表すことが出来るから。私ね、「俳句とはあなたにとって何ですか」と尋ねられて、「私の悲しみを盛る器だったような気がします」って答えたの。こんなこと日記に書いたらべた〜っとするでしょ。あとで捨ててしまうでしょ?

■日記、捨てられますか?

木本 あんなものは捨てなきゃ(笑)。日記は生の声、生の感情でしょ。俳句は生のものであっても、俳句として成り立たせようと思ったら、増幅させたり軽減させたりという創作が入ってるわけよ。日記ほど醜いことはないわけよ。読んでもまだ耐えられる。同じ感情を表出するのでも、俳句としてちゃんと鍛えられたものになってたら、目をそらすこともない。

■私の場合は、喜・楽が多くなります。だけど、喜と楽だけで生きてるんじゃないから、端々でてると思うんですけどね。怒と哀からはできるだけ目をそらしたいというか。出さない(出せない)ですね。木本さんはそれを作品に昇華されているんですね。

木本 あのね、喜も楽もあるんだけどね(笑)。「無口なる梨と笑ってゐる柿と」「茹であげし豆の真青に祭笛」とか、私なりにあるんだけども。

■ところで、「春の鹿己に倦みて立ち上がる」。これは鬱々とした春の鹿のイメージに合ってますね。私は「春の鹿」というと弾けそうなエネルギーを感じるんですけど。実際そういう鹿を見たりすると。それでそんな句を作ったら、読み手にピンと来ないのか分かってもらえなかった。(ただし、木本さんの句集には「春鹿の何を見るとも眼の黒し」があり、イメージの転換に成功している)

木本 春の鹿って、孕み鹿の言い換えのような季語やね。でも雄でも、春になって発散するものがあるからね。全ての鹿が鬱々しているとは限らない。春の鹿が溌剌としてるのは意外性があるから、そこまでわかってもらえるような句にしないと。そういうものを見たという感情は消せないからね。そういう意味でね、、季題趣味ってあるでしょ。この季語はこう、っていう確定してるようなところが俳句にもあるでしょ。初心の頃は勉強のうちだけど、ある程度進んできて、百年一日のように作ってたら、俳句は永遠に古いと思うよ。そうそうこの前、高校生の俳句読んでたら、17音の青春、だったかな、すごく新鮮だったの。

■あれは朝日新聞の折々のうたにも何句か載ってたので、読んだら面白かったですね。これはこの人の実感やな、っていうのは分かりますね。

木本 今の高校生の現実が出てるから。うまくなろうと思って自分の感情とか、物の見方が摩耗していくよりも、下手でもいいから、その人でないと出来ないっていう句がいい。そう思ったら、まだまだ作りたくなるわ。

■私も木本さんの句集を読んで、俳句をまた作りたくなりました。
今日はありがとうございました。

(2002.8/19.・20 聞き手:津川絵理子)