南風70周年記念祝賀会 2003.10.5 新阪急ホテル紫の間
第一部は無事に終わり、いよいよ第二部記念祝賀会のはじまりです。司会は横岡たかをさんと
岩津厚子さんです。御来賓のみなさまより、たくさんの温かい御祝辞をいただきました。
■祝舞 楳茂都梅咲彌(うめもとうめさきや) 地唄「松竹梅」のうち「梅」
■鷲谷七菜子主宰挨拶
南風70周年ということで、先ほど大会が終わりまして、その時川崎展宏先生から虚子についての有意義なお話を伺いました。良い会になったと思います。これからは二部の祝賀会ということで、来賓の諸先生方、お忙しいところを本当にわざわざお越しいただきまして、ありがとうございました。南風が70年、人間で言えば古稀なんですね。そういう年数を経てきました。草堂先生は「馬酔木」で、水原秋桜子先生に生涯の師はこの人しかいないと思ってついていかれたわけなんですけれども、会われましたあくる年に、大阪馬酔木会の第一回会報を出しておられるのです。そして南風という名前をいただいて今日の南風があるわけです。
そういう長い年数を 経て来まして、私達はどうして来たのかな、と自省しているところです。第一部で川崎先生が、虚子のことをいろいろお話いただきましたけれども、私ちょっと考えまして、ああ今の南風に欠けているのは、虚子のような茫洋とした心だと思いました。これは草堂先生が非常に厳しい方でありまして、生活というものと俳句を結びつけて、非常に厳しいものを持っておられた、ということもありますけれども、その反面、そういうところが今の南風に欠けているのではないかと思います。川崎先生の今日のお話は、私達にある意味で非常に刺激があったのではないかと思います。
ところで、私にしましたら70周年というのは大きなことで、75周年とか80周年とかですね、私にとっては考えられないことなんですよ。考えられないことなんですけど、少しでもそういう気持ちを持って自分自身やっていきたいと思います。南風の人たちも心掛けていただけたら、南風も変わってくるんじゃないかと思います。これからの祝賀会、楽しくやっていきたいと思います。
■山上樹実雄副主宰挨拶
記念大会でもそうさせていただいて、同じようなことをさせていただこうと思っております。私の声がしわがれ声でして、お聞き苦しいこともありますので、ほんとの事言って昔は歌が上手かったと自分では思っているんですけれども、来世は亀・蚯蚓になって鳴いてみたいなあ、と思うくらい声が潰れておりますので、田中翠さんというメゾソプラノの声で読んでいただきまして、楽しんでいただけたらと思います。非常に無礼なのですが、お許しいただきたいと思います。来賓の先生方、今日はおいでくださいましてありがとうございました。
(田中翠代読)
本日、70周年祝賀の会を迎えまして、ここにご来駕くださいました来賓の方々に、深く御礼を申し上げます。
今日の大会は御講演を頂きました川崎展宏先生、並びに出版者の方々を除き、関西の俳人にお越し頂いたわけでありますが、一人
水原春郎先生は東京からのご光来を仰ぎました。この事は「南風」70年の歴史を考えます時に大事なことでございます。
鷲谷さんと私は「馬酔木」育ちでもありまして、この「馬酔木」とのつながりは、師の草堂が古参同人の一人で、後に色々な事情があったものの、師の草堂にとっては、水原秋桜子という先生は生涯唯一の師と仰いだ人でありました。蛇笏賞受賞で上京されたのを機に水原先生のお宅にご挨拶に伺いたいと洩らされた折には、お伴の私が驚いたものでした。20年ぶりの秋・草両師の再会は感動でした。長い歳月が一瞬に消え去った様な、師弟のきずなを感じました。実はこれを機に千代田、有働の両氏から「馬酔木」復帰の話さえ出た程でしたが、せめてものこと、現代俳句協会から、会長秋桜子の俳人協会に移られた次第でありました。
ほととぎす痛恨つねに頭上より
は師草堂の秋桜子先生を失った弔句であります。
ということで、70周年を迎えるに当り、草堂先生の源点である「馬酔木」、その現在の主宰水原春郎先生のご来駕を頂いたことは、まことにありがたいことであります。その事を申し上げたく、ご挨拶させて頂きました。
どうか皆様、お寛ぎの上、楽しい時間をお過ごし頂ければと思います。
私、予兆のない出血の危惧をもっていまして、平常、艶なるものではなく氷嚢を抱いております。元来がはしゃぎたい性格ですので、自重のため甚だ無礼ではありますが、ここで失礼を致したいと思います。どうかお許し下さい。 10月5日
■桂信子先生御祝辞
南風70周年の祝宴にお招きいただきまして、ありがとうございました。実は私ここに長いこと住んでおりまして、自分の家から下に降りてきたら祝賀会場だという、まことに便利な場所をお選びいただきまして、ありがとうございました。
草堂先生は非常にドイツ語がお好きなんですねえ。何かと言えば、しまいにドイツ語でぐちゃぐちゃっと言われるんですが、それが何のことか分からんの。お笑いになるのもドイツ風にお笑いになる。苦みばしった、そんな感じの方でしたがとても厳しかったですね。私が飯田龍太論を書きましたら、「桂さん、あんた龍太さんを弟扱いしたな」と言われましてね。飯田龍太読本に書いたことがいかんかったのかな、と思ったらそうでもなかったですね。そういう温かいところがあって、厳しいところがあったという感じでした。
思い出をたくさん申し上げたいところなんですが、3分間ということでございますので、あまり一人でしゃべるわけにはいきませんが、とにかく70年の間続けて来られた鷲谷七菜子さんやら山上樹実雄さんの御努力に対して、本当にお偉い方だなあといつも感心しております。
私はあまり目立つような気張り方をしないほうが良いと思いますね。気張ってその時は良かったけれど、しばらくしたら萎んでいくという、そういうことをしないで、何ともなしに飄々として続けていく、というのが一番。皆さんのためにも良いし、私達のためにも良いし、それは長生きの秘訣でもあります。あまり気張らないで、ゆるやかな気持ちで過ごされたら、この次ぎは80年、その次は90年、それから100年の記念会を開かれるようになると思います。
■辻田克巳先生御祝辞
もともとチンピラですから、ちょっと油断してたら桂先生の次ぎに当たってしまって、今どきどきしています。南風70周年記念大会誠におめでとうございます。自分の俳歴は36年で、山口誓子先生の「天狼」に所属しておりました。36年間と言いますと、自分にとっては長かったんですけど、70周年というのはその倍なのか!という感じがします。「天狼」が創刊されたのは昭和23年です。私が関わりましたのが昭和32年でして、36年間関わってきたという形であります。同時に秋元不死男先生の「氷海」にも所属しておりました。同じ「天狼」の先生方ですから、おおいに安心して俳句活動に励んでおったわけです。「天狼」にはキラキラした先生がたくさんいらっしゃいます。その全部が個性を持っておられて活動されていました。その中にいて、自分の責任で、自分の足で俳句活動を続けるということが、いかに大変か、いかに大切かということを随分後になるまで自覚できませんでした。
その36年間は非常に大切でしたけれども、先生のおっしゃった言葉で、ひとつ忘れもしませんが、前にも同じ席で同じことを申したかもしれませんが、「ああ、考えが変わってないんだな」とお許しいただけたらと思います。それは「格に入りて、格より出づ」ということなんですね。これは誓子先生によりますと、弘法大師がおっしゃったことらしいのですが、何でも優れた事柄は全て弘法大師ということになっていまして、どこまで正しいのかわかりませんが。「天狼」という結社に所属した以上、先生の教えを守る、その格に入るというのはその第一条件なんです。嫌だったら入らないわけで、格に入りなさいよ、ということは非常に大事な教えだと思います。ところが、それで終わっていないで、格より出づというのが続く。
え、入って出るの?というわけです。「入りて」の「て」なんて言いますから時間を感じるわけですね。入って先生から「まあよろしかろう」と言われたら、次ぎに出る算段をする、と考えてしまいがちですが、僕はそれは違うと考えます。自分で言葉を変えてみました。「格に入りつつ、格を出づ」と。これを僕はモットーにしているわけです。エンジンをかけながらブレーキかけろ、ということですね。鷲谷先生がおっしゃった川崎先生のお話で、「虚子の茫洋性」ということ、それに関わって俳句がちまちましているというのは問題ではないかとおっしゃいました。結社に所属して、先生の教えを受けるのは大切で、エンジンをかけながらブレーキをかける、全く反対のことを同時に行う、先生の教えを受けながら、茫洋性に目を向けなければいけないのではないかなと思います。
教えられたことを、こう取り込んでこう出します、という俳句活動をしなければならないのではと思います。自分に出来ないことですから、人様には偉そうに言うのですが。
■水原春郎先生乾杯の辞
辻田先生が、御自分のことをチンピラと言われましたが、36年俳句をしたとおっしゃる。私は16年ですから、チンピラの半分「ピラピラ」というやつです。というようなことで年だけは取っている。髪の白さにおいては桂先生並みであるが、僕の方が薄い、残念ながら。男ってのは髪が薄くなるもんで、女はふさふさしているんですが。
まず最初に70周年おめでとうございます。
私、正直に申し上げます。 私生まれてから俳句をする予定がなかったんです。小学校6年の時に、おやじ(秋桜子先生)に呼ばれまして。「お前は将来何をするのか」と。おやじが医者をしてたからということではございませんけれど、「医者になる」と言ったらば、「本当にやる気か」と。「医者ったらば、そんな簡単なもんじゃないよ」と、それで僕は「大好きです」と知らないくせに言ったんです。そしたら「よろしい、それなら俳句はするな」とはっきり言われたんです。それで私は大学を出るまでしなかったし、大学を退官するまで俳句をしてないんです。ま、側に居ましたからね、知らないって言うと嘘になりますけれど、私はおやじから俳句の薫陶を受けたってことが無いんですよ。ですから今、死後私が俳句をしてるということを知らないと思うんです。だから今度死ににくくて困ってるんです。なんて言っておやじに会いに行ったらいいのかと。そんなようなことで、こんなとこで偉そうに言って乾杯してるっておいうのはおはずかしい次第なんですけれども、鷲谷主宰からお電話で「ぜひとも」と言われ、私は俳人としては日が浅い、それこそチンピラの「チ」くらいですけれども、私に免じてお許しいただきたいと思います。それでは、このように長い間、永々として続けてこられたのは、やはり鷲谷主宰と山上副主宰のコンビにあると思います。これからもそのコンビが続いて、会員の皆さんも応援をしていただいて、ますます隆盛であることをお祈りしたいと思います。また、ここにいらっしゃる全員の方の健康を祝して、乾杯したいと思います。乾杯!
■フルート演奏 瀬山登紀子 曲目「赤とんぼ」「川の流れのように」
桐朋音楽大学フルート科を卒業、在学中ウイーンでベルナー・トリップ氏のレッスンを
受けられました。フルートオーケストラ「ベルソナ」の会員で、演奏活動の他、
音楽教室の主宰をされています。南風同人瀬山一英さんのお嬢様です。
■茨木和生先生御祝辞
南風70周年記念おめでとうございます。もう少し酔いが回ったところで当たると思って、ちょっと飲み足りないのですが。先ほど
桂先生が、80年・90年・100年とおっしゃいました。100年の南風記念大会を思いながら飲んでおりますと、何やら僕はあの世の方へ行って来て、どのような会になっているか、なんていう思いになりました。100年南風大会というと僕は94才だな、ここに来れるかなあ、と。すると海の彼方からドイツ語で「Nicht(ニヒト)!」(英語のnot)という声が聞こえてきそうな気がしますけど。
僕が南風で注目しているのは若手作家たち。南風(みなみかぜ)の中に生まれてくる熱帯性低気圧、あるいは台風の卵たちに非常に期待しているわけです。俳人協会の仕事の中では、「紀の国吟行案内」の校正やら執筆やら御協力いただいているのが、いわゆる980ヘクトパスカルくらいの台風、南風の若手作家、木本英実さんです。南風の中に新しい、若い風が吹いてきているのをしみじみと感じます。今司会をされている岩津厚子さんが俳人協会幹事会の中で、和歌山の「紀の国吟行案内」の木本英実さんが、今年の俳人協会新人賞選考委員会の中で。木本さんの「海を濡らして」という句集ですが、そのエネルギッシュな作品に僕は非常に憧れました。良い作家が南風の中におられるなあと思った。もうひとつは、これは僕には到底できないんですが、南風のホームページってありますね。津川絵理子さん、ここにおられるでしょうか。こういった南風の中の新しい風たちに期待しながら来たんですが、これからやはり新しい風を生んでいかなければ、結社というものは100年まで発展していかない。ぜひそういう作家たち、またその子供たち、熱帯性低気圧がどんどん発生することを期待しております。
最後に私のお願いをしたいのですが、この10月20日から奈良県東吉野村のたかすみ文庫において、蛇笏賞受賞作家特集という受賞句集とその第一句集を集めた展示をします。阿部みどり女の「月下美人」という句集だけが無い。昭和53年ごろに200部限定で身内程度にしか配られていない。どなたかお持ちの方があればお貸し願えればと思います。山口草堂先生の色紙などの展示しております。ぜひ秋桜子先生の句碑を見がてらお越しいただけたらと思います。本当におめでとうございました。熱帯性低気圧ガンバレ!
■大橋敦子先生御祝辞
鷲谷先生とは、吹田市の本当に近い距離に住んでいますので、そんな関係でこんなに早く祝辞の順番が回ってきたのかしら、とちょっと躊躇しているところです。
鷲谷先生はいつも毅然としていらっしゃいます。ご病気されてもすぐ立ち直られまして、しゃんとしたお姿で、ただいま舞を見せていただきましたが、その舞の立ち姿の美しさを鷲谷先生に重ね合わせて観ておりました。何か富士の高嶺のコノハナサクヤヒメのような・・・いつもそのように拝見しております。私この頃足弱になりまして、車に乗っているんですけれど、ときどき歩いておられる姿にお目にかかります。ああ先生お偉いなあ、何もかも独りでなさっているのかなあ、と思いまして、いつも畏敬しております。
俳句も富士の高嶺を仰いでいるような、澄んだ境地の俳句です。先生の句には俗が全然無いと思います。私の一番好きな句は、
「滝となる前のしづけさ藤映す」ですが、滝の動の姿と滝の上の静かな姿、静と動を組み合わせて、いつも動の思いを胸深く秘めながら、静かな方でいらっしゃる。俳句もそれを実現しておられます。どうぞお元気で、良い作品を見せていただきたいと思います。今日は70周年おめでとうございました。
■大島民郎先生御祝辞
私、若い頃は声自慢でしたが、老化現象でとたんにしわがれ声になりまして、森進一が風邪ひいたっていうか。あまり人前で喋らないことにしているんですが、二つだけ思い出をお話しまして、お祝いの言葉としたいと思います。私は昭和26年に関東から関西へ移ってきまして、まず山口草堂先生にご挨拶しなければいかんということで、高槻でしたか、家内と一緒にご挨拶に伺って、その時に若き日の鷲谷七菜子さんからお茶をごちそうになったことがあるんです。忘れられません。その時の記憶はほとんど無いんですが、家内がひとつだけ覚えておりまして。山口草堂先生が丹前を着ておられて、その丹前のお尻に大きな穴が開いとったと、今でもそのこと申しております。それから、草堂先生から最後にお電話いただいたのは、昭和59年でしたが、我々を励ます電話だったんですけど、先生は一方的にしゃべりまくるばっかりで、こちらの事を全然聞いてくれないんで、とにかくもうお喋りになって、それからパチャッと切っちゃって、何もお答えしなかったんですけれど、大変お気持ちは有り難いと思いました。南風のますますのご発展を祈りまして、ご挨拶とさせていただきます。
■大石悦子先生御祝辞
創刊70周年おめでとうございます。70周年というのがどれだけのボリュームがあるのかということを考えることがありまして、と申しますのも、「鶴」がこの10月号で丁度700号を迎えます。「鶴」が創刊されたのは昭和12年ですから、それから700号ということで、そうしますと「南風」が70周年で719号というのが今月だったのではないかと思います。計算ができませんで、70年というのは昭和何年かなと、傍らにおります家のものに聞きましたら、それは昭和8年だと即座に答えまして、「どうしてわかったの?」と申しましたら「俺の年や」と。家におりますのが丁度創刊・・・じゃなくて、70年ということで、身内のことを申し上げることも無いんですけれど、70年というのは戦争があったり戦後があったり、そういう激動の時代を70年来たということで、草堂先生が創刊なさったその後の70年のボリュームは大したもんだとつくづく今朝は思ったわけです。
私が「南風」という結社を初めて意識しましたのは、上田操さんの句集の序文に、山上先生が操さんのことを「春風のように来て、ふわっとそこに座っている人だ」と書かれていて、「このように温かい序文をお書きになる方のおいでになる結社はどんなだろう」と思ったのです。丁度「鶴」の関西支部は昭和41・42年くらいから、梅田の太融寺で句会をいたしておりました。南風の方は第2日曜に同じ太融寺でなさっていたのではないかと思いますが、会場を取りそこねますと第2日曜にすることがありました。その2階で鷲谷先生や山上先生が今句会をしておいでだと思いますと、大変な威圧感を感じておりました。終わりまして先生がお帰りになる後姿を遠くから拝見したことがありますが、鷲谷先生のうしろから立ち上るオーラのようなものを感じました。今は太融寺には行かなくなりましたけれども、南風も会場が変わられたようで70年の間にはいろいろなことがあるのだということを、思いました。南風の皆さま、鷲谷先生と山上先生を大切に、どうぞますますの御発展をなさいますように、お願い申し上げて終わらせていただきたいと思います。
■友岡子郷先生御祝辞
南風70周年ということでおめでとうございます。何年も南風誌を送っていただきまして、ときどき南風作品について書かせていただいたという記憶もありまして、私にとっては大変親しい雑誌です。山上先生とか鷲谷先生とかおっしゃっていますが、私は先生というよりは山上さん、と親愛の気持ちを込めて呼びたいと思います。今日は久しぶりに山上さんにお目にかかりまして、そのあと今日会うまでに一番近く会ったのはいつだったのかと考えました。そしたら10年以上前になるんでしょうか、ここにいらっしゃる「運河」の茨木和生さんから電話で、
右城暮石先生と対談をせよという恐ろしい話があったのです。対談ということになるとこちらは何も言えなくなりますから、こちらはもう一人、3人くらいにしてもらえませんか、と言いましたら、茨木さんが「どなたがいいですか」と言われたので、とっさに「山上樹実雄さん」と言ったんです。彼が快くOKしてくださったので、僕と山上さんと右城暮石先生という、鼎談なんてものじゃないですね、二人で先生のお話を伺ったということがありました。
鷲谷先生とは時々、いろいろな会合でお目にかかってはいるんですが、ご挨拶する程度のことなんですけれども、忘れがたい思い出があります。20年くらい前のこと、丹後半島を一周して俳句を作って競詠するという企画がありました。そういうのは苦手ですから行きたくなかったんですがしぶしぶ参加して、その時鷲谷先生と御一緒しました。あちこちバスで移動しながら俳句を作るというようなことでしたから、私のような人間には大変苦しみでしたが、なるべく人のいないところへ行って俳句を考えようと思ったんですね。で、自分が行ってみたいと思う木の陰とか草の陰に行くと、先客がいるんです。そういったところにじっと屈んで俳句を考えておられるようなんです。その方が他ならぬ、鷲谷七菜子先生でした。だいたい女の方は、ここにいらっしゃる方は例外ですがね、いろいろおしゃべりばっかりしてるんですねえ。どうもそういうので苦手なんですが、その時の鷲谷先生のお姿を見て、女性の中にもそういうしんとした気持ちで俳句を作られる、そういう作家がいるんだということを本当に痛感しました。
先ほどご挨拶の中で、南風に足りないものは「茫洋としたものだ」とおっしゃっていましたねえ。これは川崎展宏先生ののお話からお感じになったということなんですが、虚子の持っていた茫洋としたものは、虚子という人の人柄がそうなんでしょうね。あの人が茫洋として俳句を作ったということは、私は無いと思います。これは友人から聞いた話ですが、ある有名なお寺にでかけて行くと、みんな大きな伽藍だとか大きな塔の下に集まって俳句を作っている。ところが寺の隅っこのほうに古ぼけた堂があって、そこに私の友人が行ったら、着流しでじっと立っている老人がいた。それが高浜虚子だったんですね。誰もいないところで、しんと俳句を作っていた。その時の俳句が
「蜘蛛と生れ網をかけねばならぬかな」というんですね。俳句を作る人間は、本当はそのように一人でしんとして俳句をつくるもんだろうと。そういうたくさんの俳人が集まって、年月を過ごすんだろうと思います。70年も雑誌が続いたということは、四捨五入しても100年が近いわけですから、今私が言った、しんとして俳句を作っておられる、そういった姿勢を学んでほしいと思います。生意気なことを言いましたが。失礼いたします。
■三村純也先生御祝辞
本日は70周年おめでとうございます。100周年というと私が80才になりましたら、100周年なんですが、大丈夫かなあと思ったり、こんなに飲み過ぎてたらあかんかなあと思ったりしておるようなわけでございます。吹田市の市民俳句大会というのがございまして、いつも鷲谷先生、大橋敦子先生とご一緒に選をさせていただいておりますので、今日お招きいただいたのかなあと思っております。それだけではご縁はございませんが、鷲谷先生のお父様の楳茂都陸平さんの舞を、私が中学生くらいのときに拝見したという覚えがあります。なぜ拝見しにいったのか覚えておりませんが、たしか「屋島」であったかと。実に切れ味の良い、と私が申しますと失礼かもしれませんが、なぎなたをお使いになったと思いますが、非常に印象深かったです。
それから吹田市民俳句大会のときに、どなたも取られなかった私の句を、草堂先生がお取りになったということがありました。もう一点は、山上先生は眼科のお医者さんでございますけれども、私の叔父が大阪大学の眼科でして、山上先生は「三村先生の弟子や」という風におっしゃっておられました。そんなにお年が離れているわけではございませんのですが。長いお手紙をたびたび頂いたりして、念願かなったというか、初めてご挨拶させていただいたわけです。
今月号に鷲谷先生は、「老木の花」という文章を書いていらっしゃいますが、「老木に花の盛んなごとし」という世阿弥の言葉ですが、とてもそういう風には見えません。若木桜ですね。そういう新鮮さ、南風という雑誌を拝見しますと、非常に爽やかな印象を受けるのですが、どうぞ80周年、90周年、100周年と続いていかれることを祈念しまして、ご挨拶といたします。
■日美清史先生御祝辞
皆さん、今日はおめでとうございます。私がどうしてこんなところにいるのは、きっと父のおかげだと思っております。日美井雪は私の父でして、南風へ一緒に行ってみないかと誘ったのは私です。昭和32・3年頃でしたが、梅田の大阪駅前のビルの地下で新年句会が開かれておりまして、それに一緒に出たわけですけども、その父はその後南風に入り、私は雲母で勉強してきたのですが、私の転勤にともなって東京にで暮らすことになりまして、ここにおられる木村史津子さんたちと一緒に東京支部を多少とも盛り上げて来たということで、90才を過ぎまして名誉同人という立派な称号をいただいたのです。
私もおやじも俳句ということで、家内が一番困ってましたけれど、どちらも酒好きで酒を酌み交わしながら侃々諤々俳論をたたかわしたものでございます。その後、会社の神戸支社にいたころに、浪花会館の句会に出ていたとき、はっきり覚えていませんが「天地朗々鳴りひびく」みたいな句を作りましたら、「これでもかこれでもかという大袈裟なことを言っている」と鷲谷先生に言われましたこと、忘れられませんね。帰りに「G線」という喫茶店に入りまして、そこで「清史さんな、俳句はやっぱり生きてきたことの証しだから、そういう俳句を作らないといけないよ」と草堂先生にいろいろ教わった覚えがございます。私は半分南風に入っていたようなもので、そういう親しさを覚えております。
今日は鎌倉の団藤みよ子さんもお見えになっておりますが、東京支部などのいろいろな方と、その頃あった南風研究会でご一緒させていただいたことがあります。その他、誌面でも「同人作品展望」や、句集の評を書かせていただいたこともありますが、おやじも生きていたら喜ぶことと思います。ありがとうございます。
その他、
角川書店「俳句」編集長 海野謙四郎様
富士見書房「俳句研究」編集長 石井隆司様
本阿弥書店「俳壇」社長 本阿弥秀雄様
東京四季出版「俳句四季」社長 松尾正光様
北溟社社長 小島哲夫様
中村孫四郎画伯夫人 中村喜代子様
の皆さまからも御祝辞をいただきました。全て載せたいのですが、容量の関係により(本だと誌面の関係によりと言うところですが)割愛させていただきます。ご了承くださいませ。
■詩吟 大高松竹
詩吟歴は?年ですが、その評判は関西にまで聞こえています。本日は若山牧水の短歌朗詠です。
■閉会挨拶 三村紘司
和やかな雰囲気の中に祝賀会も終了いたしました。楽しい会の雰囲気を伝えたくて、少々長くなってしまいましたが、先生方の御挨拶・御祝辞もたいへん珍しいお話、勉強になるお話で、また落語でいうところの「まくら」(私は「ツカミ」と呼んでいますが)も面白くできるだけお話になったままを載せさせていただきました。
このホームページを御覧になる方は、南風の会員もそうでない方もいらっしゃいます。外部の方に見ていただけることは、とてもありがたく嬉しいことです。一方、遠方その他諸事情のため会場までお越しになれなかった南風のみなさんに、ぜひ読んでいただきたいとこのページを作りました。「南風」がみなさんにとって、より身近に感じるホームになることを願っています。それから関西在住の先生方のお話は、関西弁のイントネーションで、関東の先生方のは東京弁のイントネーションで読んで楽しんでいただければと思います。そして次の記念大会でお目にかかれることを楽しみにしております。ありがとうございました。