[2.罪と罰]

 

 殺人は、人間が持つ「根源的衝動」の一つであり、それを行なうのは

「気持ちのいい」ものである。何らかの歯止めがなければ、人は些細なきっかけ

で、あるいは理由もなく殺し合いを始めるに違いない。

 では、なぜ我々は現在のところ殺人を行なおうとしないのだろうか。

 それは、我々が属している集団がたまたまそのような趣旨を「要求」あるいは

「教育」「洗脳」しているからであり、我々がそれにあえて逆らおうとしないから

である。

 

 ここまで書いたことは、私にとっては「自明」のことだが、一般の人たちには

承服しがたいことかもしれない。なぜなら彼らは「人は人を殺さない」ことを

「当然」と考えており、それに真っ向から反対する上記のような意見を聞く耳を

持ち合わせていないだろうからだ。

 もし「人は人を殺さない」ことが「当たり前」であれば、そもそもなぜ「殺人」

が厳しく罰せられるのだろうか。そのようなことはめったに起こらないはずなのだから。

「殺人」の罰が厳しいのは、そうしなければちょっとしたきっかけで、あるいは

きっかけなどなくても「殺人」が頻発するからで、彼らの考え方とは逆に「人は

人を殺して当たり前」であることを示している。「人を殺さなくなる」のは、あくま

でも心を人為的に操作した結果なのだ。

 

 属している集団によって微妙に「要求」「教育」「洗脳」の内容は違う。

 我が国では、最近「少年犯罪が凶悪化しているから」とか言う理由で、操作を行なう

側は「洗脳」の度合いを一層強化しようとしている。いわく「命はかけがえのないもの

であるから」とか。

しかし、ちょっと待ってほしい。そもそも大人の側が少しも信じていないことを、

子どもに信じさせようとしても不可能である。

(たとえばT死刑囚の命が「かけがえのないものだから」といって死刑に反対した者が

いただろうか?他の理由で反対した者はいたようだが。)

 さらに、操作を行なう側は「少年犯罪の凶悪化」の原因を「洗脳が効きにくくなった

から」と考えているようだが、実はこれ自体が錯覚に過ぎない。少年は「凶悪化」して

いるのではなく「了解不能化」しているのであり、その原因は「洗脳が効きすぎている」

ためなのだ。だから「洗脳の度合いを強化」するのは、ますます望まぬ傾向を強くする

結果に終わるだろう。

 

 どのように「洗脳の度合いを強化」しているか?

 昔は人を殺したいときには「殺したい」といえたし、言わないまでも心の中で思うのは

自由だった。しかし、今は思うこと自体が「悪いこと」だと呼ばれて排除されかねない。

抵抗してくれたらまだ救いがあるが、今の子どもはあっさり受け入れてしまう。しかし、

排除されたところで「根源的衝動」はなくならない。意識されなくなるだけである。意識

されなくなった衝動はコントロールできなくなってグロテスクに拡大し、やがて(自我が

破綻したとき)とってかわることになる。

まさか、と思うだろうが、最近この種の事件が起きたばかりだ。

「やること」を罰するのはともかくとして「思うこと」に罪も罰も不要だと思うのだが。

 

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