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闘病記・手記


30代女性の場合
原因不明の痛みはありませんか?

子供の頃から痛みがあった。原因の判らない痛みがあった。
ちょうど小学校の高学年になる頃からその痛みは徐々に始まった。
小学校のクラブ活動は体操クラブだった、倒立やマット運動をして手首を痛めた。私には体操は無理だと思い、次の年からはテニスクラブに変更したが、ボールを受ける度に手首や肘に鈍い痛みが走った。
中学頃から、膝や肩等、体の様々な関節に痛みが出るようになった。その事を知人に話すと、「成長期には関節に痛みが出る事があるよ。」と言われ、少し安心した。
しかし私の身長は1年に1センチ程度しか伸びていない。本当に成長期の関節の痛みなのか?疑問にも感じた。

そんなある日、体育の授業の後、何とも言えない今までに感じた事の無い痛みが私の足首からふくらはぎにかけて広がっていった。その痛みは時間を追う毎に増しているようだった。放課後痛む足を引きずりながら保健室に向かった。保健室の先生は私の足を見て、「腫れてもいないし、何でもないよ。」と言った。
確かに折れた様子も捻挫した様子も無く、見た目にはいつも通りの足だった。でも確かに私は強い痛みを感じていた。
保健体育の教師だった私のクラスの担任がちょうど保健室に居合わせ、その様子を見て、「最近の子は大した事も無いのに保健室に来る」と言った。私は深く傷付いた。『これくらいの痛みでは病院に行ってはいけないのか…?』その言葉で病院に行く勇気も失った。
学校から出てバス停まで向かう途中、ますます痛みは強くなり足を引きずりながら歩くのがやっとだった。たとえ様のない痛みだった。
何日か経ち、その痛みは徐々に消えていったが、時々同じ様な事を繰り返した。依然として全身の関節の痛みは続いていた。『きっと神経痛に違いない』私はそう思い、中学の三年の間はサポーターで膝を温めて過ごした。
体育の時間、バレーボールでトスをすると指に激しい痛みが走りうまく出来ない。「ちゃんとやれよ!」クラスの女子の罵声をあびて『指が痛くて…。』と言う私に「みんな痛いのを我慢してやってんだよ!」の言葉。『そうか…みんな痛いけど我慢しているんだ…私も我慢しなければ…。』そう思い、我慢を続けた。

体育の授業の後は決まって極度の疲労のせいか手が震え、次の授業ではノートをとる事も出来なかった。
関節の痛みの他に全身の疲労を感じていた。学校に通うのが精一杯で、放課後皆と遊ぶ気力と体力は無かった。

高校に上がり依然として関節の不安定な状態は続いた。
痛みは無くても、ちょっとした負荷がかかればズキンとした痛みが走るのが分かるというか、いつも爆弾を抱えている様な感じだった。全身に疲労がたまり、友達とのお付き合いもまともに出来ない状態。きっと付き合いの悪い人だと思われていたに違いない。眠れない日も度々あった。
短大に上がると同時に実家の仕事を手伝うようなる。仕事は夕方から始まるので、大学の授業を終えてからバイトをするという生活。私は体調に不安を抱えていたので、家業を手伝う事は、私にとって都合がいいように思えた・・・その時は・・・。


ちょうど景気のいい次期だったので人手は足りない。他の子が休んだ時は私が駆り出された。
他に用事があっても、体調が悪くても仕事が優先。休んだり遅刻し様ものなら「経営者の娘だからって甘えている。」と両親や従業員、お客さんまでが私を責めて追い詰めた。
朝から大学に行き、夕方からバイト、バイトが終わると家の家事をして、それからやっと宿題や勉強が出来た。睡眠時間は3〜4時間。徹夜する事もしばしばだった。こんな生活が2年間続いた。就職活動の時期が近付き、私と同じ学年のアルバイトの子が辞めて行った。「バイトしながらでも就職活動出来るのに!!」という親の言葉を聞いて私はバイトを辞めたいとは言い出せなかった。

就職活動をする事も無く大学を卒業し、そのまま家業を手伝っていた。変わった事と言えば一人暮らしを始めた事だ。2年間みっちり働いたので私の仕事も板に付いて来た。他の従業員達が辞めて行った後も新しい人を入れる事は無かった。私の肩に更に重荷がのしかかった。「
辞めたい。」と言えば、「あんたみたいのは他で通用するはずかない。」と言われ、相手にされない。膝が痛い、手首が痛い。手首だけでなく腕全体に痛みは広がっていた。とても無理をして限界を超えていた。腕に激痛が走り、朝目覚めて掛け布団をどけるのも、顔を洗う事も歯を磨く事さえ大変な程だった。きっと腱鞘炎になったんだろうと思って鍼灸治療に通ったりもした。

でも、遂にその時は来てしまった。とても忙しい日だった。仕事を終えて家に帰り、余りの疲労に膝を抱えうずくまっていた。ほんの30分か1時間位の出来事のように思う。足が痺れてそれがだんだん強くなり、遂に痛みに変化した。
その痛みはみるみる強さを増して今まで体験した事の無いような痛みが私の足を襲った。それを例えて言うならば、足の皮を全部剥がされて肉をボロボロに切り裂かれた様な感覚。痛みで気絶しそうだった。
いっそ気絶してしまえば楽なのにそれも出来ず、一睡も出来ないまま朝を迎えた。
運良くその日は日曜日で仕事は休みだった。しかし月曜になってもその痛みは治まらない。仕事は休めない。
「甘えている」「そんな事では他所では通用しない」と言われるのが目に見えている。

歯を食い縛って気力で立ち上がった。私はどちらかと言えば我慢強い方なので、他の人ならきっと立ち上がる事すら出来ないだろうと思った。職場で足が痛いと説明しても全く相手にされない。甘えて悪態を付いているとでも思われたのだろうか?壁伝いに足を引きずりながら歩く。
痛みで気が遠くなる・・・。仕事中は私用の話は出来ない。仕事が終わってから電話で足が痛い事を説明したが、「働いている人はみんな腱鞘炎だ」「スポーツ選手だって怪我をしても試合にでる」等と言われ、「あんたはあまちゃんだ」とも言われた。
何度も電話をして、何時間も説明したが「病院に行け」と言われるだけだった。病院に行けと簡単に言うが、仕事は夕方からなので時間的には病院に通う事は可能なものの、足が痛くて病院に辿り着くのもままならない。病院に行くのに体力を使ってしまえば仕事に差し支えもする。
しかし親から「病院にも行かないで『痛い痛い』と言ったってダメでしょう?」と言われ仕方なしに駅からさほど離れていない整形外科を捜し行ってみた。レントゲンを何枚も撮られた。結果は「何でもない」との事で、鎮痛剤と消炎剤とシップと塗り薬をもらった。レントゲンを何枚も撮ったので診察料は結構高い。
一人暮らしの私には痛い出費だった。薬を飲んでシップを貼っても一向に痛みは治まらない。痛みが強すぎるから鎮痛剤で痛みを和らげても分からない位なのだろうか?
何でも無いと言われた以上は両親も理解してくれる筈も無く、更に痛みを主張すれば病院を変える事を薦められるだけだった。また別の整形外科に行くが結果は同じ。

多額の診察代を払うだけだった。人から良い整形外科があると聞き行ってみたが、医師は私が家業の手伝いをしているという事で、いつでも休めると思ったらしく、体調のいい時だけ働くようにしなさいと言った。でも、そんなわがままは許される筈が無い。私は毎日仕事に行く前に鎮痛剤の血管注射を打つ為に病院に通った。鎮痛剤を打っても痛みが和らぐ事はなかった。
医師は「あなたは若いからステロイドは使わないようにしている」と言った。ステロイドを使うと髪が抜けたりムーンフェイスになるらしい。でも、私にとってそんな事はどうでも良かった。そんな見た目にかまっている余裕などはなかったのだ。
痛みは深刻なものだった。毎日が生地獄だった。立てば痛い。歩くのは勿論痛い。座るとお尻や太腿に自分の体重が掛かるので圧力で痛む、寝ても同じく自分の体重で床に接している部分が痛む・・・。

一番楽な事と言えばお風呂に浸かっている時だろうか。この時ばかりは重力から開放されて痛みがやわらぐようだ。しかしお風呂から出たとたんに更に一層体が痛む。お湯に浸かる事で体が疲労するのだろう。

私は絶望していた。『これ位体調が悪ければ普通入院だろう?』それが車椅子はおろか、松葉杖すら使わせて貰えない。もっとも私の場合は手も痛むので松葉杖は無理だけど・・・電動車椅子に乗りたい。車椅子に乗る身体障害者がすごく羨ましかった。彼らは見ただけで身障者と分かる。私は見た目には全然普通なので電車などで優先席に座ると嫌がらせのつもりなのか、足の上に荷物を置かれたりした。私の痛む足の上に。何の役にも立たないただ痛むだけの足だった。『この足を切断すれば身障者として生きる事が出来るのではないか?』とも考えた。

私は生まれてこのかた1度も自分が幸せだと思った事は無かった。きっと誰もが不幸なんだろうと思っていた。あるテレビ番組を見ていて、インタビューで高校生に「今幸せですか?」と質問していた。高校生は「幸せで〜す」と答えていた。私は凄く驚いた。『この人は幸せなのか?幸せな人っていたんだ。』初めて知った衝撃の事実だった。テレビで「○○さんが癌の為亡くなりました…」等の放送を見ると、とても羨ましく思えた。死ねる病気の人はどんなに幸せな事か・・・。
私は悲しみのあまり友人にも体調が悪い事を言えずにいた。話せば涙で声が出なくなるだろうし、告白された友人の方も言葉を失う事は分かっている。どうする事も出来ない状態だった。何しろ医師でさえ解からない病気なのだから。
私は何時死のうか・・・明日死のうか・・・今日こそ死のうか・・・という状況だった。追い詰められていた。病院に行けば「何でもない」と言われる。両親は分かってくれない。仕事は辞められない。働かなければ生活が出来ない・・・でも、これ以上働けない・・・
遂に痛む足を引きずり自殺する為のロープを買いに行った。この苦しみとは今日でお別れ。
友達の泣いている姿が次々と私の頭をよぎった。涙が止まらなかった。私は地獄に落ちるのだろうと思った。神は「殺してはいけない」と言った。神から貰った命を捨てる事は殺人と同じ。

きっと私は地獄行きだ。『死んではいけない。しぶとく生きれるところまで生きよう』私は生きる事を選択した。
体を使う仕事はもう無理なので事務の仕事を始めた。痛む手足の事が心配だった。まだ、文字もまともに書けない状態だったから。一般事務の仕事は色々な事をしなくてはいけないので、その事がかえって良かったのかも知れない。

同じ作業を繰り返す仕事より都合がいい。私は体調が悪い事を誰にも言わず、元気な振りをした。体調が悪い事がバレたら仕事は続けられない。だましだまし痛む体をかばいながら働いた。7時間半の仕事で限界だった。勤務時間が終われば廃人の様にボーッとした。きっと付き合いの悪い人だと思われていたと思う。事務の仕事は座った作業が多いのでそれは好都合だった。事務仕事を始めてから2年程で足の痛みが和らいできた。だけど時々「足痛いの?」と聞かれる事もあった。自分では普通歩いているつもりなのに・・・。
そんな私が結婚する事になった。29歳の時だった。私は体調が悪い事を彼に言ったが、「そんな事は全然問題ない」と言ってくれた。

初めての幸せな生活だった。仕事を辞め専業主婦になり、家庭菜園等をしながら気楽に過ごしていた。だけど、幸せだと思っていたのは私だけだった。彼は早起き出来ない私に不満を抱いていた。疲れやすい私の事を怠け者だと言い、彼の両親が家に来る時等、ここぞという時に体調を崩しやすい私の事を自分の両親を嫌って悪態付いているのだと誤解されたりもした。彼は私の病気の事を全く理解していなかったのだ。
私は離婚してまた働くようになった。久し振りの仕事・・・パソコンのキーを打つ指に激痛が走るようになり、文字も書けなくなった。程なく仕事は解雇され、生活に困る様になった。貯金が底を付く前に生活保護の申請をしようと思った。

体が悪いという事を分かってもらわなければ、どんな仕事にでも就ける訳では無いという事を理解出来ないだろう。残った僅かなお金を持って私は評判のいい整形外科を訪ねた。
昔整形外科で「何でもない」という診断を貰ってから10年経っている。医療は進歩しているはずだ。もしかしたら私の病気が分かるかも知れない。僅かな期待を胸に抱いて病院の扉を開いた。
体の痛む場所は全身にわたっている。手足の指、手首、肩、首、背中、腰、股関節、膝…数え切れない程のレントゲンを撮った。
結果は10年前と変わらないものだった。一応リウマチの検査もしたが陰性だった。絶望感で一杯だった。これから私はどうしたらいいのか・・・
そんな不満を以前から腎盂腎炎で通院していた近所の内科で漏らすと、医師から意外な言葉を聞いた。

膠原病で関節痛や筋肉痛の出るものがあるとの事。早速膠原病の検査をする事にした。
膠原病専門の内科のある医大病院で今までの体調の変化を細かく話した。しかしリウマチの検査をするとの事。『膠原病の検査をして欲しいのですが』と私が言うと「リウマチも膠原病です」との返事が返って来た。リウマチの検査なら数日前にしたばかり。でも、病院が変われば最初から検査し直しになるのはしょうがない事だと思った。リウマチの検査結果を待ってから他の膠原病の検査をしたのでは時間がかかりすぎる。私の貯蓄は底を尽きそうだった。
検査結果を待たずに生活保護の申請をしに出かけた。担当者は不信に満ちた目で私を見た。と言うより殆んど呆れていたようだった。

「あなたの言っている事は客観的に確認出来ない事ばかりだ!」と言う担当者に『そうです!だから困っているんです!』と言い返した。担当者は少しドキッとした様な表情を見せ、保護の申請を受付てくれた。
眠れない日々が続いた。保護の申請は通るのだろうか?病名は付くのだろうか?心配事でいっぱいだった。
何とか保護の申請が通り、以前から鬱状態が続き不眠でもあったので、精神科にも通う事にした。医療費の心配が要らないのが嬉しい。
リウマチの検査は勿論陰性。他の膠原病の検査もしたが、いずれも陰性だった。医師から貰った鎮痛剤を色々と試した。腎盂腎炎で通っている近所の内科の医師に医大で貰っている薬を報告すると「この薬を飲んでいるの?!!」とすごく驚いている様子だった。

いったい何故なんだろう?数日後医大に行くと医大の医師からこんな事を言われた。「あなたが2週間飲み続けたこの薬は、手術でお腹を開いた人が飲む1番強い薬です。この薬が効かないという事は、もうどの鎮痛剤も効かないという事です」なる程、近所の内科の医師が驚いた訳が分かった。医大の内科の医師が精神科の医師に手紙を書いてくださり、後は精神科の先生に委ねられた。

精神科には不眠症と鬱を見てもらいに行ったのだが、色々な質問をされて医師が数枚の資料を見せてくれた。そこで初めて[線維筋痛症]という言葉を知った。
そこに書かれている病状はまさしく私の症状に一致していて驚いた。私に希望の光が射した瞬間だった。

程なくして[線維筋痛症]の病名を貰う事が出来、私は嬉しさのあまり「私は線維筋痛症という病気です」という内容のメールを数人の友人に送った。友人からの返事は意外なもので、病気を心配したり、「何でこんな事に・・・」という内容だった。私は喜びのメールを送ったつもりだったのだが・・・。
でも、これで何とか生きていく事が出来そうだと思った。
病名を貰った事で周囲の反応はガラッと変わった。病名が有ると無いとでは、こうも違うものか。今までだと「関節や筋肉が痛いんだ」と言っても「そうなんだぁ」という程度の反応だったのが、立派な病名を言うだけで深刻に受け止めてくれるようになった。
誰からも理解されなかった私の病気。今は周りの人が私の体調に気を使ってくれている。病状がコロコロ変わる事も理解してくれている。
私は自分の病気が治るとは思っていない。でもだからと言って絶望している訳でもない。

線維筋痛症は、決して不治の病では無いが、治っている人は大抵発症してから数年と言う短い期間で治っている。私はかれこれ20年もこの痛む体と付き合って来た。もう健康だった頃の自分を忘れてしまっている位だ。病名がわかった今、私は毎日がとても幸せだと感じている。病気が治らなくても、調子のいい時は出かけたり好きな事をして、悪い時は寝込むなり休めばいい。
もし病気が治ったら、今までに無い人生が待っているだろう。私はそのどちらでも構わないと思っている。
あなたは原因不明の痛みはありませんか?

◆手記
 ・50代女性の場合 痛みとの共存に至るまで
 ・40代女性の場合
 ・20代女性の場合
 ・母の思い
 ・線維筋痛症患者に関わって:看護師の手紙
 ・30代男性の場合:幼少期に発病した例
 ・15歳男性の場合
 ・50代女性の場合


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