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闘病記・手記


30代男性の場合:幼少期に発病した例

私の主治医は私自身:30代男性の場合:幼少期に発症大阪府 英 仁

私は一見すると健康である。膠原病との併発による線維筋痛症ではないから、傍から見れば健康そのものなのである。故に誰からも病人として扱ってもらえなかった。そしてあらゆる検査にも異常は認められないからと、医師からも同じ扱いを受けてきたのである。

痛みとの付き合いは30年近くになる。初めて「痛み」を理由に病院のご厄介になったのは、幼稚園に通っていた頃だった。微熱が続き手足の指先にしびれに似た、それでいて鋭い痛みを感じるようになったのだ。両親はすぐに私を病院に連れて行ってくれた。とりわけ母親はひどく心配していたそうだ。母はリウマチは患者であり、そして母自身子供の頃、同じような「痛み」を体験していたから。我が子もリウマチなのではないかと案じていたのだろう。

「どんな風に痛いの?」と医師に訊かれ、私は返答に窮した。痛みを言葉で表現できなかったのである。ただただ泣きながら「ずーっとイタイ」と答えるのが精一杯であった。ズキズキと疼くわけでもなく、チクチクと刺すような痛みでもない。多少の強弱はあるにせよ、間断泣く指先が痛む状態を訴えたかったのだが、どうにも医師には伝わらなかったようだった。
診察中に医師に痛む足を触られると、高電圧流を体に流されたごとく全身が鋭い痛みに反応し、無意識に体が横たわるベッドの上で跳ねた。号泣しながら、触ってくれるなと大騒ぎをしたように記憶している。
このとき医師がどのような診断を下したのかを、私は知らない。両親に話している内容を聞いたとしても理解できなかったであろうから、記憶に無いのも当然なのかもしれない。ただ、なんの治療もされなかったことだけは、はっきり覚えている。

その後も度々複数の開業医で受診したのだが、発熱と指先の痛み、必ずこの2つの症状が同時に認められたため、病院での診断は悉く「風邪」であった。
「風邪をひくと、同時に関節痛や筋肉痛を伴うものです」。
症状が顕れる頻度が2ヶ月に1度くらいであったこと、そして普段は健康そのものであったことから、私も両親も疑念を残しつつもそう納得するしかなかった。あらゆる検査で異常が発見されなかったことも、その結論を受け入れるのに充分な理由であった。

11歳のとき、母が入院することになった。リウマチの悪化で両の股関節を人工関節にする手術を受けるためである。その間、私は近くに住んでいた母方の祖父母の世話になっていたのだが、度々例の症状に教われた。この頃、症状は幼少の頃とは少し変化をきたしていた。
痛みがおきる頻度が増し、学校の登下校時にも痛みを感じるようになっていて、泣きながら家に帰ってくるということも少なくなかった。
祖母は母の面倒を看るため毎日のように病院へ通っていたので都合もいいからと、痛みに泣き叫ぶ私を母が入院する病院へと連れて行ってくれた。大病院で診察を受けるのは、このときが初めてのことだった。
「熱が出ると、足の指が痛むらしいのです」祖母が医師に告げると、「嘘でしょ?お母ちゃんがいなくて寂しいからそんなこと言ってるんじゃないの?」開口一番、医師はこう言ったのだ。

子供ながらも「アホな医師がいるものだ」と呆れてしまった。目から溢れる涙とともに苦痛に顔を歪めていたであろう子供に対し、うそだと決めてかかる医師が存在するなんてと、信じられない思いで一杯だった。
いえいえ、と幼い頃からの経緯を祖母が説明すると、「そんな話(症例)は聞いたことがない。とにかく検査をしてみましょう」と、やっと医者らしいことを言ったのだった。
血液検査や手足のレントゲン撮影など一般的な検査を一通り終え、出された結果はまたもや異常なし。意思が原因不明だと結論づけた。このとき初めて「風邪」という病名が消え去ったのである。
 当初バカにしていたこの医師の診断が切っ掛けとなり、原因不明である私の病気の病因かつ病名を探す、長い長い生活がスタートしたのであった。

 線維筋痛症に冒されている人に限ったことではないのかも知れないが、自分の体だから分かるという、けして理屈ではなく感覚的なもので医師の言葉に違和感を覚える人も少なくないのではないだろうか。
長く「痛み」と付き合っていればいるほど、特別根拠などないのだが「違う!」と感覚的に分かってしまう。そのため別の医師に診断を仰ごうと病院のハシゴをする人もいれば、あるいは日本の医療に不信を抱き、診断してもらえないものと諦めて家に閉じこもるものの、苦痛に堪えかねて「とにかく痛みを止めてくれ」と病院に駆け込むといったこと繰り返す人も多いのではないだろうか・・・なんの治療もしてくれないのを知りながら・・・
 当時の私も、開業医が頻繁に言った「風邪に伴う痛み」という言葉を鵜呑みにすることができず、絶対に違うと感じていた。感覚的にだけではなく、実際に、微熱もなくただ少し体がだるいと感じる程度の体調のときに入浴するだけで、必ずと言っていいほど手足が痛んだし、また激しい運動をしても痛み出す、あるいは真夏の炎天下をただ歩いているだけでも痛み出すといったことを何度も経験していたことからも、私の痛みは風邪からくるものではないと確信できたのである。

 線維筋痛症の発症の原因にストレスが関係していると言われている。ここで私が抱えていたストレス・・・らしきもの・・・についてふれてみようと思う。それは「家族」について、であるのだが・・・
 両親に姉が一人の4人家族。前述の通りは母リウマチ患者であり、発症は私を出産した直後だったという。故に物心つく頃には痛みを我慢し我が子に接する母親がおり、けして積極的に甘えることなど出来ないという現実があった。母が昔を思い出し、こんなことを言ったことがある。
「(私が病気になる前までは)お前は本当に手がかからなくて助かった。お姉ちゃんのほうは幼稚園のお迎えが1分でも遅れると、もう目に涙を浮かべているような質で、雨の日など体が痛む日のお迎えはとても辛かったけれど、お前は迎えに行くのが遅れ、たとえ最後の一人になっていたとしても陽気に園内で遊びながら待っていてくれたのですごく助かったよ」と。
 実際、母の迎えが遅かろうが、また母の依頼で近所のおばちゃんが自分の子供を迎えに来たついでに私も一緒に連れ帰ってくれるといったときでも、私は黙って従っていた。

平気だったと言えば嘘になるが、既にそれが「当たり前」のことなのだと幼心に感じていたことは確かだと思う。保育士に家まで送ってもらうことも何度かあった。保育士は、そのときはいつも私を家に着くまで背負ってくれた。それがすごく嬉しくて、今でも保育士の背中の暖かさを覚えている。
 このころ、私はよく幼稚園で粗相をしていた。頻繁に下痢をしていたのだ。園内で走り回り転んで擦り傷をつくろうが、友達と喧嘩をしようがけして泣かなかった私が、保育士に粗相の始末をしてもらっているときだけは、声をあげて泣いた。「怒られるよー」と。粗相の回数や「怒られる」と言う言葉から、保育士が家にやってきたこともあった。家庭に問題があるのではないか、と。
 母には粗相に対して激しい叱責などされたことはなかった。失敗する前にトイレに行きなさいと、注意されるくらいだ。「怒られる」といって泣いたのは、もしかすると父に怒られるのではないか、と不安だったのかも知れない。
 父は厳格な完全主義者で、仕事人間であった。私はいつも父の顔色をうかがいながら生活していた。機嫌の悪いときなど、ちょっとしたことで怒られるからだ。怒声は大きくかつ冷淡であった。怒られるときは暴力を伴うことも多かったので、常に恐怖を感じていた。
 父は遊ぶときでも真剣だった。キャッチボールやサッカーなどをしたこともあったが、簡単なミスをすると「真面目にやれ!」と、よく怒鳴られたものだ。小学校から算数のテストを持ち帰った日のこと、父は間違えている問題を指し「どうしてこんな簡単なものを間違えるのか」ともう一度その問題を解いてみろ、と言う。間違えた問題なのだから解けるはずもなくまごついていると、横に座っていた父に後頭部を平手打ちされた。恐怖で萎縮してしまい、簡単な計算ミスまでしてしまう始末。その後何度も叩かれながら解き方を教えてもらいようやく正答できて「スパルタ教育」から開放されたのだった。
 私は父と何かをするのが、それがたとえ遊びだったとしても、嫌だった。怖かったのだ。父は私にとっては恐怖の存在でしかなく、父に甘えようなどという気持ちは微塵も湧かなかった。母には甘えたいと思っていたけれど・・・
 このような家庭環境が私のストレスになっていたと言ったのは、後にかかった神経科の医師であるのだが、私自身はストレスというものをよく理解できていない。

嫌であるとか辛くて堪らないといったことがストレスであるのなら、人間誰しも人生において抱える問題でもあるのだから、私の周りにもっと私と同じような病気になっている人がいると思うのだが。例えば私の姉である。姉も多少の環境の違いはあるにせよ、同じ両親に育てられたのだから・・・

 中学生になった頃には、更に症状が悪化していた。それまでは手足の指先だけが痛かったのだが、加えて膝関節が同時に痛むようになっていた。症状が顕れる回数も格段に増え、ほぼ毎日と言っていいほど軽い痛みがあり、月に一度は寝込んでいた。しかし激痛で眠ることができない。痛みがある程度治まってくるまではけして眠ることはできなかった。痛みが三日間つづけばその間ずっと起きていることになり、体力的にもとても辛いことであった。横になっても痛い、座っていても痛いとどんな体勢であろうと痛みが和らぐことはなく、なんとか楽になる体勢はないかと探るつもりで始終体を動かすも、更に痛みが増すだけであった。
 恥ずかしい話だが、中学生になっても、私は痛みに耐えられず泣きわめいていた。

そしてこんな体に産みやがってと母を恨み、罵ったりもした。そして最後は神頼み。「神様、どうか痛みを止めてください。病気を治してください」と。
 父は私が声を上げて泣くことを許さなかった。「痛くて辛いのは分かる。泣くなら黙って泣け!」と、よく叱られたものだ。ある時などティッシュペーパーの箱で頭を殴られたこともあった。我が息子に惰弱な男になって欲しくなかったのか、単に気に障り、欝陶しかっただけなのかは分からないが。父の前では思い切り泣けない・・・痛みが治まるまで父が帰ってこないことを願っていた。日曜日などの休日、父はゴルフに行くことが多かったのだが、もちろん家にいるときもあった。そういうときは自室にこもり、蒲団を頭からかぶり、タオルなどを口に入れ強く噛みしめながら声が漏れないようにして、さめざめと泣いた。泣くこと以外、気を紛らわす術を知らなかったから。

 当時もいろんな医師に診てもらっていたのだが、やはり結果は「原因不明」でどの医師も診断できず、他の医師を紹介しますと、紹介状をもらっては次から次へとたらい回し宜しく新たな医師の元へと診察を受けに行っていた。そこで出会ったのが、血管外科が専門の医師であった、やはりこの医師も診断はできなかったのだが、この医師は原因を突き止めようと大変努力してくれたのだった。
 中学一年の夏休み、その意志のすすめで検査入院をした。医師は、私が入浴しても痛みがおき、汗をかかないので真夏などは屋外を歩いているだけでも痛みがおきることがある、との言葉を元に、体温の変化に注目した。体全体の体温、痛む足部分の温度などを何度も測り、実際に痛みをおこしてみようと病院付属の屋外テニスコートで医師と共にテニスをしたこともある。痛み出す前に足の温度を測り、痛み出したらまた測りと、何度もそれを繰り返した。また、少し熱いと感じるくらいの湯に一定時間足を浸け、次に氷水に足を漬ける、というようなこともしたが、このときは痛みはおきなかった。

その他にも足の血管に造影剤を流したり、血管の収縮の様子を調べたりと、いろんな検査をした。血管造影の検査をした晩、私は発熱した。そして都合よくというべきか、激痛に襲われた。
医師は観察を続けていたが、あまりに私が痛がり涙まで流すので、鎮痛剤と催眠導入剤を出してくれたのだが、一向に利かなかった。鎮痛剤はそれまでにもいろいろ服用していたが、効いたためしはなかった。
一晩泣きわめき、同質の患者さんに散々迷惑をかけた末、翌日の朝に痛みは治まったのだった。
 親身になって原因を突き止めようとしてくれた医師も、やはり結論は出せなかった。同じ病院の神経科に診てもらうようすすめられ、私は同意した。痛みさえ治してくれるのなら、何科であろうと構わなかった。二つ返事で同意した理由がもう一つあった。この医師は、私に頭を下げたのだ。助けてあげられなくてごめん、と。こんな医師は初めてだった。医師としての誇りと誠実さを感じたからこそ、この医師の言う通りにしてみようと思ったのだ。
 後にも先にも、頭を下げた医師はこの人一人きりだった。

 神経科では前述した家庭環境のことについて、いろいろ訊ねられた。またロールシャッハ・テストをやり、木の絵などを描き、箱庭を作った。私自身、何でこんなことをやらされるのかその時は分からなかったが、ずいぶん暢気な治療だなぁ、と内心思っていた。
 ちょうどその頃、私にとって衝撃的なことが起こった。いつものように激痛に襲われただ堪え忍んでいたのだが、いつの間にやら意識が無くなってしまったのだ。パニック症状というのだろうか、全く我を忘れてしまっていた。三日間ほどその状態がつづいたらしいが、その間の記憶といえば、誰かに名前を呼ばれながら頬を何度も叩かれ、痛いなぁ、と一瞬感じたことと・・・神経科に運ばれ、主治医が私の頬を叩いていたのだ・・・動悸が激しくなり、息も荒く苦しそうにしている私に祖母が気づき、心臓の辺りを冷やしてくれていたのだが、そのときに、何か冷たいなぁ、と感じていたことくらいである。

 病院で私は、医師に「学校に行かないとお父さんに怒られる」と繰り返し言っていたそうだ。さすがの父も会社を休み私の傍にいたらしく、「この子はもうダメだ(死んでしまうかもしれない)」と思ったらしい。当の私はといえば、痛みも感じず楽園にいる心地だったかも知れず、トイレに行くと言っては冷蔵庫の扉を開け中に入っていこうとしたりと、かなり皆を手古摺らしていたようだ。その後も痛みに襲われると、あの時のようになりはしないかと不安になることが多々あった。
 その後、両親へのカウンセリングらしきものも行われたようだった。普段私に批判的な父が、「お前の好きなようにしなさい。もう何も言わないから」と話したのには驚かされた。しかし、その言葉通り生活できたのはほんの二、三ヶ月。父は父、やはり変ることはできなかったようだ。

 漢方にも頼ったことがある。とても偉そうな漢方医で、症状を説明すると「風邪以外で、なんで熱が出るんだね?」と言う。
「汗をかきませんので真夏など歩いているだけで熱が37度5分近くに上がってしまいます」と返すと、「ふむ」と納得したご様子。舌の写真を撮られ、長々と痛みのメカニズムの薀蓄を賜ってから薬を調合してもらった。それを煎じて飲んでいたのだが、三ヶ月もしないうちにその漢方医は行方知れずになってしまった。どうやら中国に研究に行ったとのことらしいが、患者である私には一言の連絡もなかった。

 高校生になってまた症状が変化し、今とほぼ同じ症状となった。足の指の痛みは消え、かわりに肩から腕、手の指にかけて痛むようになり、ひどくなると肩胛骨のあたり、腰、膝・踵まで痛み出す。鎮痛剤はやはり効かず、痛み出すと催眠導入剤を何錠飲んでも効かない。痛みが治まるまで待つしかないのだ。
 どこの病院へ行っても結果は同じ。ならば行くだけ無駄だと、私は病院に行くことをやめてしまった。痛みは堪えさえすればいい。痛みと付き合っていくしかないのだと、自分に言い聞かせた。
 病院に行くことをやめようと思った理由が他にもある。ある大学病院の高名な医師に診察してもらったときのこと。診断がつかず、痛みを止めることもできないのなら、せめて汗をかくようになりたいと申し出たところ、汗をかかない人などこの世にたくさんいる。どうしてもと言うのなら皮膚の組織検査をしてもいいがね」
 他人のことなど私の知ったことではない。汗をかかない人はたくさんいるのだから大したことはない、我慢しろとでも言うのだろうか?苦しいから苦しいと言っているのに、なぜ他人と比較されなければならないのか?ばからしい。痛みや苦しみを他者と比較すること自体ナンセンスだ。その人が苦しいと訴えれば、その人の苦しみを考えるのが医師の務めなのではないだろうか。

 知人から、中学の頃診てもらっていた、唯一私に頭を下げてくれた医師が独立開業したと聞き、咳がよく出て胸が痛いときがあったので挨拶がてら診てもらいに出かけた。医師は私のことを覚えていてくれて、その後調子はどうかと訊ねてくださった。
「変わりないというか、あの頃よりひどくなっています」と答えると、「まぁ、キミの場合死ぬような病気じゃないからあんまり深刻にならないで」と言う。怒りを通り越して呆れてしまった。頭を下げてくれた唯一の人が言った言葉だからこそ、余計頭にきたのかも知れない。
 命にかかわらなければ深刻な病気ではない?死に直面している人には申し訳ないが、不謹慎であることを承知で言わせてもらえるならば、私のこの苦痛が終わりのあるものであったらどんなによかったことだろうと、何十回、何百回思ったことか。死んだ方がマシだと真剣に考えるくらいに、苦しいのだ。

死にゆく病人には苦痛を和らげる治療を施すが、命にかかわらず、かつ診断もつかない症状を訴えるものには何もできない?苦痛に耐えている死にゆく者と行き続ける者・・・両者の間にどのくらいの距離があるというのだろうか。日本の医療においては「死」が苦難の最終段階ということなのか。
ならば差し迫った死に直面せず、ただいつまで続くか分からぬ苦痛に耐えている物の最終段階とはなんなのだろう。そしてそれはいつ来るのか。命には限るがあり、その長さも人それぞれだというのに。
私には理解できない・・・

 私は二度、自殺未遂をやっている。学業を終え、リウマチの母と、少し痴呆気味であった父方の祖母の面倒をどうにかこうにか看て暮らしていたのだが、二人がこの世を去ったときには既に世に言う「いい年」で、この先どうして生きていけばいいのかと道も見つけられずにいた。病気であるのかどうかも分からず。将来自立して生きていけるとも思えない。かといって死んだように生きるのも御免だと綺麗さっぱりこの世とお別れしようと思ったのだが、幸か不幸か二度とも命をとりとめた。意識を取り戻した後、死ぬことすら満足にできないのかと涙が止まらなかった。

 ところが、人生の転機は突然に、そして偶然に訪れた。
 生きて生活していくためには、やはり病気のことを何らかの形で解決しなければならない。そう思い、ネットでいろいろ調べていた。汗をかくようになれば体温調節もうまくいき、体も楽になるのではないかと、汗に関して調べているとき、たまたま検索サイトのカテゴリーの中に「線維筋痛症」という文字を見つけた。胸騒ぎを覚えた。こんな名の病気は知らない。なのに私の病気はこれではないだろうかと直感めいたものを感じた。

 線維筋痛症について詳しく書かれていたそのサイトを見て、間違いないと確信した。踊り出さんばかりに嬉しかった。リウマチ認定医なら診断可能だとそこには書いてあったので、まず家の近所に認定医はいないかとネットで探してみた。偶然にも、母の最後の主治医であった医師の名を見つけ、その医師の開くサイトにアクセスし、詳しい症状を書いたメールを出した。「私は線維筋痛症ではないでしょうか」と。
 返事はすぐに来た。母のことも覚えていてくれていて、私の病気に関しても十分疑われる、と書いてくれていた。救われたと思った。今までの苦しみから解放されるかもしれないと、胸が躍った。すぐに診察を受けに行きますと、返信した。
 私は、はっきりと線維筋痛症だと診断されたわけではない。私の主治医は大変誠実で正直な人で、線維筋痛症についてはあまり詳しくないと、初診時に仰った。故に圧痛点の診断もしていない。症状から見ておそらくそうだろう、といったところだ。私にはそれで十分だった。病気であると認めてもらえ、そして痛みをコントロールする治療を受けられたからだ。

 病院へ通うのはこれが最後だという気持ちで、医師にあらゆる鎮痛剤を飲んでみたいと申し出た。痛みをコントロールできれば道は開けると信じていたから。また、自分で薬を調べて飲んでみたい薬をリストアップし、虱潰しにトライしてみようと考えた。医師は私の申し出に可能な限り応じてくれ、医院にない薬は取り寄せてくれた。そしてようやく、初期の痛みに効く薬を見つけ出すことが出来たのである。
抗うつ剤等も飲んでいて、今では正気を失うのではないだろうかと思うほどの激痛に襲われることもほとんど無く、それどころか仕事までできるまでになった。痛みが全くなくなった訳ではない。

仕事も痛みをこらえながらやっている日がほとんどだ。手のこわばりや疲労感も毎日ある。仕事が休みである土日などは、外出すら困難なくらいに疲れ果て、痛みに苦しむときもある。しかし、ここまできて負けてたまるかという思い・・・自分自身に負けたくないという思いが芽生え、頑張りがきくようになった。
 ネットで「線維筋痛症」という文字を偶然見つけ、そして今の病院に通い出して二年が過ぎた。完全ではないけれど、働ける程度にまで痛みをコントロールでき、病気自体も回復してきている。まだ心の底から「幸せだ」とは言えないけれど、日々充実し、新たな可能性を模索できる現状にとても満足している。

「患者自身が主治医である」
 これは通院している病院の医師が、常日頃から言っている言葉である。だから・・・私の主治医は私であり私の手記を読んでくださっている方々・・・
「あなたの主治医はあなた自身」である!

◆手記
 ・50代女性の場合 痛みとの共存に至るまで
 ・40代女性の場合
 ・20代女性の場合
 ・30代女性の場合 原因不明の痛みはありませんか?
 ・母の思い
 ・線維筋痛症患者に関わって:看護師の手紙
 ・15歳男性の場合
 ・50代女性の場合


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