今日も風が気持ちいい。 幸せな人々が集う庭園には、明るくさわやかな風が吹き抜け、人々の心に活力を運んで くる。悩みのある人のところへは、それを解決しようとする意志を、悲しみに沈む人へは 涙を乾かす励ましを。風がもたらす勇気──生きる勇気とは、そういうことだ。 ホントに……あのコそのものだよね。 長い髪をなびかせて歩きながら、夢の守護聖オリヴィエは口元にやわらかな笑みを浮か べた。 と、たった今思い浮かべた人物の名前が聞こえた気がして立ち止まる。辺りを見回すと、 茂みの奥、木陰に入ったところに、一人の少女と当の人物──風の守護聖ランディが、向 かい合って立っていた。 あらら。──う〜ん、どうしよう、困ったねぇ……。 今オリヴィエの立つ位置は、ちょうどランディの斜め後ろ、死角になっているらしく、 少女も周りを気にしている余裕はないのだろう、こちらには気づいていないようである。 だがこのまま進めばランディの視界に入ってしまうのは確実だ。さて、ここはおとなしく 引き返すべきか、それとも気づかない振りで通り過ぎるべきか。 「ランディ様っ……あの、わたし、ランディ様が好きなんですっ!」 引き返そうと決めた身体が一歩を踏み出したとき、必死の声が聞こえた。その声に引き 止められた形で、オリヴィエの足が止まる。図らずも二人の方をちょうど見る形になって しまった。 あの少女には見覚えがある。ランディがよく遊んでいる子供たちの一人に彼女の妹がい るのだ。姉妹そっくりの綺麗な緑色の瞳と、そばかすのある頬が愛らしい。明るく元気で、 ランディと合いそうなタイプの娘だ。 「え……っ」 小さく呟いて、ランディの耳の後ろから首すじにかけてがさっと赤くなった。前から見 ても、きっと顔中真っ赤になっているのだろう。 「ランディ様、好きです。あの、良かったらわたしと……付き合っていただけませんか」 震える声で告げると、少女はきゅっと目をつぶって俯いた。 ランディの返事はわかっている。それをどういう風に告げるのかも、だいたいの想像は つく。しかしオリヴィエはそこを動くことができなかった。 「──ごめん、」 さほどの時を待たずして、ランディが口を開いた。ぴくり、少女の肩が揺れる。 「君の気持ちは嬉しいけど、……ごめん、俺、好きな人がいるんだ。誰よりも大切な人な んだ。だから君の気持ちには応えられないよ。ごめん」 真剣な声。それに見合う真剣な表情を、きっとしている。かすかに眉を寄せて、まっす ぐ相手の目を見て。 真剣な想いだから、真剣な想いを返す。傷つけてしまうけど、ごまかせないから。 「そう、ですか……。──はい、ありがと……ござ……っ、」 声を詰まらせた少女の碧玉の瞳から、涙がこぼれ落ちた。ランディが慌てて一歩近づく。 「ごめっ、なさ……っ、わたし……っ」 ここで泣いたらランディを困らせるだけだとわかっているのだろう、必死に歯を食いし ばる少女を、オリヴィエは優しい娘だと思った。 一瞬ためらってから、ランディの手が少女の肩に触れる。少女の身体を抱き寄せるわけ ではなく、ただそっと肩に手を乗せただけ。少女の方も、ランディの胸にすがるのではな く、ただその場で涙を飲み込んでいる。 オリヴィエは、振り返りかけて止まっていた身体の動きを再開し、もと来た道を戻って いった。 その日の夕刻、オリヴィエが半ば予想していたとおりにランディはやってきた。 「オリヴィエ様。今日、あなたの家に行ってもいいですか」 「うん、いいよ。──このまま家来る? 一緒に夕飯食べようか」 「はい」 頷いて、歩み寄る。わずかな逡巡の後、ランディの腕が伸びてオリヴィエの身体を包み 込んだ。濃青の瞳が瞬く。真剣な顔でその瞳を見つめて、ランディはしかし、ついと視線 を逸らした。その様子を見守っていたオリヴィエが口元にかすかな笑みを浮かべて唇を触 れ合わせると、ランディがぎょっと目を瞠り、開いた口からうろたえた声が漏れた。 「なっ……なに……っ?」 「ふふっ、珍しいじゃない。どうしたの」 執務室だというのに抱きしめてきたり、あまつさえキスまでしようとしたり。尋ねると、 ランディは赤くなった顔に困惑の表情を浮かべて眉を寄せた。 「別に……何も……」 呟くように告げ、すっと腕をはずして後ずさる。 「いい子だったね。──昼間の」 「えっ……!? ──見て、たんですか?」 「うん、偶然ね。ごめん」 努めてさっぱりした口調で言うと、あなたが謝ることじゃない、と真面目な返事が返っ た。 「でも……、あの、もしかして、──俺の後ろの方にいました?」 「うん」 「えっと、じゃああの、誤解があるといけないんで……。──俺、何にもしてませんから。 抱きしめたり、キスしたりとかっ……してませんからっ……」 彼女の肩に手をかけた時点で、角度によってはそう取られかねないことをわかっていた のだ。オリヴィエが内心瞠目する。 「俺がそういうことしたいと思うのは、オリヴィエ様だけですから」 そんな眼差しでそんな言葉を口にされたらたまらない。触れた手が熱い、目が逸らせな い。 「そんなの…………、私が、あんたを疑うとでも思ってた……?」 握られた手を片方だけはずして髪を掻き上げる。その手で今度はランディの前髪を梳い て、額をこつんと触れ合わせた。 「わかってるよ、そんなことは。あんたがどーしよーもなく真っ直ぐで、自分にも他人に も嘘なんかつけないって」 ついばむキスをして顔を離す。 「でもさ、今日の子は言わなかったけど、『思い出に一度だけキスしてください』とか言 われたらどうする?」 「何で……、そういうこと言うんですか? 俺のこと困らせて、そんなに楽しいですか」 「うーん、ま、あんたの困った顔はかわいいけどね、今はそうじゃなくて、真面目な話。 一度でいいから、って泣かれたらどうする?」 ランディは眉根を寄せて、髪を掻き上げるように掴んだ。 「それでもしません、できませんよ。俺はその子にキスしたいと思ってないのに、そんな のその子にもオリヴィエ様にも失礼です」 「ふふっ、そう、あんたらしいね。──でも私は、そういうとき、その子の望みを叶える よ。それでその子の気が済むなら、次の恋に向かえるなら。キスでもデートでも、たとえ 抱いてくれって言われても、その子がホントに望んでるならきっと応える」 「──はい。……それは、オリヴィエ様なりの、応え方だから」 硬い表情でランディは答えた。オリヴィエの答えはある程度予想されていたものだった のだろう。ランディが、自分はしないと言った理由に照らし合わせれば、オリヴィエの答 えはランディに対して失礼だと言うことになるのだが、それについてオリヴィエを責める つもりはないようである。というより、そもそもそうは思っていないあたりが、微笑まし いと言うか何と言うか、──ランディらしい、とオリヴィエは密かに笑みを漏らした。 「馬鹿だねぇ、そんなカオしないの。──もしもの話だよ」 「はい……」 「ラーンディ! ねぇ、これはちゃんと覚えといてよ。もし私が他の子にキスをしてるの を見ても。私がキスをしたいと思うのも、抱き合いたいと思うのも、……ランディ、あん たしかいないんだからね」 ね?と顔を覗き込むと、いきなり背中を抱かれ、引き寄せられた。予想外の反応に、オ リヴィエが目を瞠る。 「オリヴィエ様……、好きです」 短く告げて、オリヴィエを抱く腕に力がこもった。小さく息をついて両腕を持ち上げ、 耳を隠す髪と逞しくなった肩にそれぞれ触れる。 顔を上げたランディと目を合わせて、どちらからともなく口づけを交わした。唇を開き、 舌を舐め合い、互いの吐息を絡め合う。 唇を離してキスの余韻に浸っていると、突然身体を突き放された。 「! だっ、だめですよこんな……、まだ執務中なのに……っ」 顔を真っ赤にして告げるランディに、オリヴィエは一瞬呆気にとられ、そして吹き出し た。 「やだランディ、あんたそれ今さらだよ……」 「だ、だって、オリヴィエ様があんなこと言うから……っ」 「はいはい、じゃあそういうことにしておいてあげましょ? ──でさ、どうせあと少し で執務時間も終わるし、もう帰ろうよ。家で、続きしよ?」 熱の引きかけていた頬が、また赤みを増した。 「オリヴィエ様……っ」 「もっとたくさん、あんたとキスしたいよ。キスだけじゃなくて、他のことももっと」 「っ……もう、それ以上言わないでください……」 「ふふっ、相変わらず我に返るとダメだねぇ……」 「だって恥ずかしいじゃないですか……」 赤い顔で睨むランディの頭をぽんと叩いて、オリヴィエは机の引き出しから何かを取り 出した。 「ほら、これあげるから落ち着きな。そんな赤い顔じゃ帰れないでしょ」 ぽいっと投げられたものを受け止める。手を開くと、そこには小さなキャンディがあっ た。 「……キャンディ?」 「そ。あんた好きでしょ。疲れたトキにもいいしね」 自分もぽいと一粒口に入れ、窓辺に近づく。 「う〜ん、キレイな夕焼け♪ 明日も良い天気になりそうだね」 「ええ。明日もみんな幸せに過ごせるといいですね」 「誰かさんが元気に走り回ってくれれば大丈夫だよ」 隣にやってきたランディの頬に音を立ててキスをする。 「な……っ!? ──もう、オリヴィエ様!」 「風に乗せて、あんたが幸せを運んでくれるからね」 ウインクを投げて、オリヴィエは軽やかな音とともにカーテンを引いた。 「さ、帰ろ☆」 fin. |