ターニングポイントとんとん、と軽いノックの音に、オリヴィエは顔を上げて返事をした。 「おはようございます、オリヴィエ様」 朝の空気に似つかわしい、さわやかな微笑みを浮かべて入ってきたのは風の守護聖ラン ディである。腕にはいくつかの書類を抱えていた。おそらく、これをオリヴィエに届ける ために来たのだろう。 「おはよう、ランディ。──何、今日は郵便屋さんなの? そんなのあんたがやるような ことじゃないでしょう」 聖地に来たばかりの頃は、ジュリアスやオスカーに頼まれて、あちこちに書類を届ける ランディの姿が見られた。だが、あれからいったいどれだけの月日が流れたというのか。 今のランディは、書類運びを頼む立場にはなっても頼まれる立場にはそうそうならないは ずなのだが。 「え、別に頼まれたってわけじゃなくて……。ちょうどオスカー様にお会いしたから、オ リヴィエ様に届けるものがあったらお預かりしますって言って、もらってきたんです」 「あんた……、オスカーに、そう言ったの?」 「え? ──はい、そうですけど?」 きょとんと首を傾げたランディに、オリヴィエは脱力する気もなくして肩をすくめた。 オスカーが何も言わなかったのは、オリヴィエと同様、あまりにてらいのない台詞に毒気 を抜かれたせいであろう。 「──オリヴィエ様? どうかしたんですか?」 はっと我に返ると、怪訝な顔をしたランディがすぐ目の前にいて、大きな手のひらが今 まさにオリヴィエの頬に触れようとしていたところだった。紫のマスカラで整えた睫毛に 飾られた濃青の瞳がきらりと光り、ルージュを引いた唇が三日月の形に反る。手首をぱっ と掴むと同時に、オリヴィエは引き寄せた腕に音を立ててキスをした。 「な……っ!?」 「ふふん。今日もいい男だね、ランディ」 にっこりと唇の端を引き上げると、目の前の顔が途端に真っ赤になった。慌てて腕を引 いて後ずさるだろうことは予想済みだ、腕を掴む手に力を込める。 「ちょ……っ、オリヴィエッ……。誰か来たら……っ」 「いーじゃない別に」 「よくありませんよっっ……」 小声で言い合い、腕を奪い合っているところに、再びノックの音が響いた。オリヴィエ の力が緩み、その隙にランディが自分の腕を奪回する。 「おはようございます。──あ、ランディ様、こちらにいらしたんですか?」 「ぐっも〜にん、エディ☆ どうしたの、朝から私のトコ来るなんて珍しいじゃない」 「エディ、おはよう! 君もオリヴィエ様に何かご用なのかい?」 入ってきたのは、光の守護聖エドワードだった。少し茶色がかった金髪に、瑠璃のよう な青い瞳を持つ、利発そうな少年である。尊敬していた先代の光の守護聖ジュリアスに後 見を任されたこともあり、ランディはこの少年をことのほかかわいがっていた。二人が仲 良く談笑する様は、まるで本物の兄弟のようである。 「あ、はい。──さっきそこで、これを拾ったんですけど、オリヴィエ様のじゃありませ んか?」 そう言ってエドワードが差し出したのは、角度を変えるときらきらと輝く、薄手の布地 だった。肩に羽織るショールくらいの大きさである。 「あれ、ホントだ。──ありがと。今度お礼にキレイにしてあげるよ☆」 「え゛、それはちょっと……。──あ、そうだ、ランディ様。お願いがあるんですけど、 いいですか?」 「え、俺? ──なんだい?」 話を振られ目を見開いたランディに、エドワードはこくりと頷いた。 「はい。──あの、今度の剣の稽古、明日の土の曜日にしていただいてもいいですか? 日の曜日に、ルヴァ様が時間を割いて勉強会を開いてくださるんです。僕も楽しみなんで すけど、……その、疲れて眠くなってしまったら、と思って……」 エドワードは、ランディに剣を習っていた。昔ランディがオスカーにそうしてもらって いたように。もちろん、ランディの稽古も、前ほどの頻度ではないが今でも行われている。 だが他人に教えるのも訓練のひとつと言うことで、エドワードの指導はランディに任され ることになったのだ。 確かに、剣の稽古をして食事をとって、その後にルヴァの胎教音楽のような講義を聞い たのでは睡魔に襲われても無理はない。我が身を振り返り、ランディはくすりと笑みをこ ぼしてエドワードの頭を撫でた。 「いいよ。じゃあ明日の朝にしよう」 「はい、ありがとうございます。──それじゃあ、失礼します」 礼儀正しく頭を下げて出ていくエドワードを見送って、ランディは背後のオリヴィエを 振り返った。 「オリヴィエ様、──あの、そういうことなんで、今日……」 「ん、オッケイ。でも夕飯は食べていくでしょ? みんな、あんたが来るって張り切って 支度してると思うからさ」 金の曜日には、どちらかの邸で食事をしてそのまま朝まで過ごすのが、いつからか習慣 になっていた。今回はランディがオリヴィエを訪ねる約束をしていたのだ。ランディの食 べっぷりは夢の館でも有名で、彼が来ると知ると調理場は途端に盛り上がりを見せる。何 でも喜んで食べるランディだが(ただしトマトは厳禁である)、好みにあった食事を口に したときの彼の笑顔はもう絶品で、まさしく料理人冥利に尽きるのだ。 「はい、食事して、一休みしたら……帰りますね」 申し訳なさそうに眉をひそめる様子が、名残を惜しむようにも見える。ここで謝らなく なったのは、ある意味進歩だと、オリヴィエは妙なところで感心をしていた。以前だった ら、まるで自分が約束を反故にされてしまったかのようにしゅんとして、ごめんなさい、 と謝っていたことだろう。 「そ〜んなカオしなくても、私は逃げたりしないよ」 苦笑して髪を撫でると、別にそういうんじゃなくて……と困惑の表情が濃くなった。 「じゃあ、なに?」 優しく先を促すように、オリヴィエの指が髪を梳く。答えをわかっていて尋ねるのはず るい、意地悪だ、と、何度か言われたことがある。そこで困る表情がかわいくてついやっ てしまうのだが、何度見ても見飽きないものというのは確かに存在するのだった。 「……っ、わかってるのに、訊かないでください……」 ぷいと顔を背けたランディの頬が薄く染まる。満足げな笑みを浮かべて、精悍な頬に唇 を滑らせた。 ぎょっとして後ずさったランディの背中が壁にぶつかる。思わず吹き出してから、オリ ヴィエは綺麗に塗られた爪の先でランディの鼻の頭をツンとつついた。 「楽しみを奪われちゃったからね。その慰謝料だよ☆」 「──え?」 「ほら、お仕事だよ、行った行った!」 背中を押してランディを執務室から追い出すと、オリヴィエは小さくため息をついた。 苦笑交じりに扉の向こうに語りかける。 「残念なのは、あんただけじゃないんだよ、ランディ」 守護聖交代があったからと言って、他の守護聖たちの生活が大きくがらりと変わるわけ ではない。少なくともオリヴィエにとっては、緑の守護聖カティスがいなくなるときに飲 み友達が減ると思ったくらいで、日常生活において、劇的な変化があったことは今までに なかった。──いや、風の守護聖の交代は、ある意味で劇的なものをもたらしたのだが。 光の守護聖ジュリアスが聖地を去り、炎の守護聖オスカーが9人を束ねる立場になって も、オリヴィエ自身にはさほど影響はない。オスカーとプライベートでつるむ時間が減っ たのはその前からだったし、もともと仕事に関しては真面目な男である。たまに鬱憤晴ら しも兼ねて酒に付き合うのも、変わらない。 だがランディの方は、ジュリアスがいなくなったことで身の回りに大きな変化が起きて いた。自分の執務以外にも、オスカーの補佐や新しい光の守護聖エドワードのこともある。 エドワードに関してはゼフェルやマルセルと一緒になってお兄さんぶりを発揮していて、 立場は違えどランディが聖地にやってきた頃のオスカー、リュミエール、オリヴィエの様 子をどこか彷彿とさせた。 「──そろそろ、かな」 ちらりと時計に目をやり呟いたその声を待っていたかのように、階段を駆け下りてくる 足音が聞こえてくる。1階に降り立った(音数から察するに、途中で飛び降りたようだ) 足音は瞬く間に近くなり、オリヴィエの執務室の前で、ぴたりと止まった。笑いを堪えて ノックに返事をすると、開かれた扉の向こうからランディが姿を現した。 「オリヴィエ様、お待たせしました」 栗色の髪が、全力疾走の余韻か、ふわふわと舞っているように見える。堪えきれず吹き 出したオリヴィエに、ランディが眉を寄せて首を傾げた。 「オリヴィエ様?」 「ランディ、あんたまた廊下走ったね?」 「──あ、」 しまった、と言うようにランディが手を上げ前髪を掻きあげる。 「ま、私はとやかく言わないけど、でも今のはきっとオスカーにも聞こえてたんじゃない のかな〜?」 追い打ちをかけてやるとランディがぐっと息を詰める。何か反論をしようと口を開きか け、唇を噛んで、素直に謝罪の言葉が洩れた。 「まーったく、いつになったら直るのかねぇ……。あんたらしくてイイと思うけどね」 木登り崖登りと並んで、ジュリアスに何度怒られても直らなかったものが、今更直ると も思えない。くすくす笑いながらランディの肩に手をかけて帰宅を促す。 「オリヴィエ様、……楽しんでます?」 拗ねた口調にもちろんと返して、オリヴィエは先に立って歩き出した。 * * * 「あれっ? これ、もしかしてこないだの写真ですか?」 夕食を終えオリヴィエの私室に戻るなり、ランディは目ざとくチェストの上の写真を発 見した。先日オスカーの邸で飲み会をしたときに、ゼフェルがマルセルの代わりに(?) 連れてきたカメラ内蔵ロボットが撮った写真たちだ。自由に動き回って勝手にシャッター を切るため、思わぬ表情が撮れて面白いのだ。もちろん、リモコンを使えば普通のカメラ と同じように、望むタイミングで撮影することも可能である。 「うん、そう。今日ゼフェルが持ってきてくれたんだよ」 「へぇ……。でも、どうして俺じゃなくてオリヴィエのところに?」 一日のうちに、ランディとゼフェルとが顔を合わせる機会は幾度となくあるが、ゼフェ ルとオリヴィエが顔を合わせる機会というのは、必ずしもあるわけではない。今日もラン ディはゼフェルの執務室を訪れていたが、そのときゼフェルはそんな素振りを一度も見せ ていなかった。 「あんたに渡すと自分に都合の悪い写真を隠しそうだからってさ、ふふっ」 「ええっ、そんなことしませんよ! ──って、それって、そういう写真があるってこと ですか……?」 心当たりがあるのか眉をひそめるランディに、肩をすくめてオリヴィエが笑った。 「さあ、どうだろうねぇ……。まだ私も見てないからわからないけど、楽しみだよ☆」 二人並んでソファに腰を下ろし、テーブルの上に写真を広げていく。 「あ、これオスカー様の足だ。──ゼフェル、こんな飲み方してたのか?」 「ん〜? きゃははっ、これじゃあつぶれても無理ないわぁ……。あ、ランディ、あんた もこれカオ赤いじゃない」 「え、──うわ、こんなの撮られてたのか? なんか……知らないうちに撮られてるのっ てイヤだな……」 「そ〜お? 面白いじゃない」 口々に感想を述べながら写真を繰る手が進んでいく。 「──あ、」 やがて辿り着いたある写真を目にして二人は同時に声を上げていた。 「オリヴィエ…………」 ランディがため息交じりに名前を呼ぶ。オリヴィエは乾いたごまかし笑いを浮かべて視 線を逸らした。 それは、オリヴィエがリュミエールにキスを迫っている図…………に見えた。確かにオ リヴィエはもともとスキンシップ過多な上に、酒が入るとより抱きつき魔になる傾向があ る。──マルセルが飲み会への参加を断ったのが、こうなる可能性を見越してのことだっ たのなら、彼の危険回避能力はかなり評価されるべきである。 「どうせ、『んん〜リュミちゃん、あんたいつ見てもキレイだね〜〜』とか言ってお化粧 でもしようとしてたんでしょう……?」 「あら、あんた私のマネ上手いじゃない。──って、ん〜、そんなヤキモチ焼かないの。 ほらほら、あんたにもキスしてあげるからさ☆」 そう言ってオリヴィエはランディの頬を両手で挟み込んで唇を近づけた。 「そ、そんなんじゃないですよ……っ。ちょっ……と、オリヴィエ……ッッ」 上体を反らして逃げるランディの頬は、わずかに赤くなっている。 「ほっぺのキスなんか挨拶でしょう。拗ねないの」 「拗ねてなんかいませんてば……っ」 強引に、何度か頬に目尻に口づけて、オリヴィエはソファに膝をついてランディの上に 乗り上げた。そのまま今度は唇を塞いで抗議の言葉を奪う。 「ん……っ、オリ、ヴィエ……っ、俺、今日は、帰らないと……」 「知ってるよ」 言いながら舌先が唇の合わせを辿る。深くなっていく口づけにかすかに身を震わせて、 ふいにランディの手がオリヴィエの両腕を掴んだ。動きを止めたオリヴィエが両の目を瞠 る。 「ラン……」 名前を呼び終える前に、オリヴィエの身体はソファの背に押しつけられていた。両腕の 自由を奪ったまま、体重をかけずにランディが見下ろしてくる。掴まれた腕は寄せられた 眉の下の目の光と同じ強さでオリヴィエを押さえつけていた。 「オリヴィエ……。──帰りたく、なくなっちゃいますよ……」 離した手でやわらかい髪を掻き上げる。そのまま頭の上で手を止めて、ランディは小さ くため息をついた。 「帰りたくないなんて言ったって、あんたはちゃんと帰るんでしょ。──でも、まだ早い よ、ね、もう少し一緒にいよう……」 微苦笑を浮かべながらオリヴィエが腕を伸ばす。ついばむキスが、少しずつ、触れ合う 時間が長くなっていく。やがて舌が絡まる頃には、オリヴィエの身体はランディの両腕の 中にしっかりと抱え込まれていた。 「オリヴィエ……、あの、……────」 顔を離すと、熱っぽく輝く瞳でオリヴィエを見下ろして、ランディはふと眉を寄せた。 小声で囁かれたその提案に、オリヴィエは思わず笑いを洩らす。 「ふふっ、──いいよ、ここで……」 やわらかな髪の感触を楽しむように撫でながら頭を引き寄せる。首すじに触れた唇を求 めて顎を反らしながら、オリヴィエはそっと目を閉じた。 「──それじゃあ、……」 おやすみ、と言いかけて、ランディはふと口をつぐんだ。名残惜しいのだと、彼の気持 ちが全身から伝わってくる。 本来なら客人の見送りに誰も出てこないなどということはあり得ないのだが(しかもそ の客人も守護聖である)、束の間の別れを惜しむ恋人たちの邪魔をするような無粋な人間 は、ここ夢の館には一人もいない。 オリヴィエは、ほぼ同じ高さにある空色の瞳を見つめて微笑んだ。 「また明日も会えるでしょ」 「はい、……そうですよね」 すっと伸びた腕がオリヴィエを包み、耳元で小さく息をつく音が聞こえる。一瞬だけ腕 の力が強くなり、しかしすぐに離された。 「はい、──じゃあ俺、もう帰ります。おやすみなさい」 「ん。おやすみ、ランディ」 ついでにおやすみのキスでもしてやろうかと思ったところで、オリヴィエ、と名前を呼 ばれた。 再びランディの顔が近づいて、頬にやわらかいものが触れる。 「オリヴィエ、おやすみ」 少し恥ずかしそうに微笑んで、ランディはそのまま踵を返した。重いドアがかすかな音 を立てて閉まり、その合図を待っていたかのようにオリヴィエが息をつく。 長い髪を掻き上げて、オリヴィエは一人苦笑を洩らした。 「ランディ、おやすみ。──良い夢を」 身を翻して寝室に戻る廊下を歩き始める。 明日は少し早起きをして、剣の稽古の様子を見に行ってやろう、などと思いながら。fin. |