梅太郎のプロフィール

 

 松戸梅太郎は昭和21年(1946年)北信州・旧平穂村の馬小屋ではなく水車小屋でお産婆さんにとりあれげられたそうです。 (疎開先として農家の水車小屋を借り、終戦後も住んでいました) 現・山之内町は山河のある自然豊かな農村、無料の共同浴場は温泉という恵まれた環境で6歳まで育ちました。 戦後、物資のないとき、紳士服職人で器用だった父は農家の人の要望に応え、衣類をリメイク、重宝がられ少々豊かな生活ができたとか、 湯田中の写真館に長く飾られていたという、私の写真、いいとこ坊ちゃん?自慢です!
一変して、私が通った小学校はとんでもない所でした。 東京都台東区立田中小学校(東京を代表する貧民窟・山谷と江戸時代からの歓楽街・吉原に挟まれた所)幼少期の私には刺激が多すぎた場所でした。 中学校以降は足立区千住緑町(最寄り駅は京成電鉄・千住大橋駅)工務店の二階に間借りしていました。 28歳の時、結婚を機に千葉県松戸市の公団に転居(両親と別居)、3年半後建売住宅を購入し現在の地へ(両親と同居)、28歳から現在ま半世紀近く松戸に住んでいます。 松戸は江戸川を挟んで東京の東北に位置するベッドタウンです。 毎年少しずつ宅地化が進み、緑が失われていますが、所々に田や畑、雑木林、傾斜林、屋敷林などが残されています。 私の住んでいる所は近年大きな変化がありました。数年前、公設市場の跡地にテラスモール松戸という大型商業施設が出来たのです。歩いて5分程度のところです。 170以上の専門店・レストラン・フードコート、それにシネマ・ジム・スーパーなどもあり、駐車場は約2000台、付近は時間により大渋滞します。 生活は便利になりましたが、付近の畑・雑木林は急ピッチで宅地化され、フキノトウ・日本タンポポ・梅林が消え、散歩の楽しみが少なくなりました。
2001年10月、このホームページを立ち上げるにあたり、最初に思いついた表題は《自然が好きです。山が好きです》でした。 しかしウエブには多く存在するタイトルなのでハンドルネームを加えることにしました。 ハンドルネームは松戸在住なので単純に姓は松戸、名は縁起の良い松竹梅など模索、思案の末《松戸 梅太郎》に、 メールアドレスは matudoumetarou@msn.com これはアルファベット(ローマ字)の弱さを暴露!訂正すると複雑なメルアドになるので(当時ドットコムは早いもの勝ち)
 

北穂高岳にて  17歳の時、定時制高校の山登りグループに仲間入り、乾徳山や大菩薩峠など夜行日帰りの山行に参加していました。 2年後の19歳の時には奥多摩御岳山〜日之出山の単独行に、その後高校の三年先輩が主力だった山岳会に同級生や後輩たちと入会し指導を受けました。 日和田山で山岳会の先輩から岩登りの手ほどきを受けたのは21歳の時、その後、鷹取山・鹿沼岩山・古賀志山・妙義山・三つ峠・谷川岳マチガ沢などでトレーニングしました。 この山岳会の実情を知ったのはザイルを担いで谷川岳に行った時です。都岳連に未加入で登山許可が下りなかったのです。 その時気が付きました。20人以上いるはずの先輩方の顔、数名しか知りません。休眠山岳会でした。 その頃、東京雪稜という有名な山岳会に募集がありました。募集要項では経験に関係なく初歩から指導を受けるとあり、5歳も年下の高卒者と同一ランク?それに金銭的にもきつそう!諦めました。
 初めての3000m峰は間ノ岳と西農鳥岳(21歳)、本格的冬山は八ヶ岳赤岳(22歳)でした。 28歳で結婚、32歳で引越し、そして経済的な理由などから山とはほぼ無縁になりましたが、 56歳の夏、登山靴と雨具を購入し再スタート、御岳神社〜大岳山〜奥多摩駅のコースでした。 その後、富士山・乗鞍岳・御嶽山・立山と順調にレベルアップしましたが58歳の時の槍ヶ岳から前穂高岳までの縦走は失敗しました。 大正6年生まれの実母と同居などが理由で60歳代は日帰りがメインでした。 2019年(令和元年)は、おもいっきり山歩きが出来ました。7/28塩見岳、8/9悪沢岳〈東岳〉・荒川中岳、8/10赤石岳、8/11聖岳〈前聖岳〉、 8/26北穂高岳・涸沢岳、8/27奥穂高岳・前穂高岳、10/28北岳、なんと3000m峰10座に登頂できました。(2019年の山歩きは22回、延べ33日間でした) その後のコロナ流行で山行の予定ボロボロ、新しくしたテント・シュラフ、一度も出番がなく泣いています。

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