梅太郎の雑記帳☆☆☆趣味・山歩きの次はクッキング☆☆☆趣味は?と聞かれると山歩きと答えます。さらに他には?と聞かれると、少々躊躇し「料理」と返答。〈男が!〉と表情に表す人が結構います。 コロナの時代、私にとって一番のストレス発散は料理かな?と今は思っています。 失敗を繰り返し、レパートリーを増やすことに充実感があります。 最近、中華系のレパートリーを増やすための参考に、〈味の素クックドゥきょうの大皿〉シリーズを4種類購入、 早速その中から豚肉と茄子の炒め物を夕食のテーブルに出してみました。 大変不評でした。「家の味ではない」と娘の評価、半分以上残ってしましました。 我が家では麻婆豆腐より肉豆腐が人気、野菜炒めも中華系調味料を使ったものより、醤油などの和食系の味付けを好みます。 私の料理は百歳近くまで台所に立っていた母親の田舎料理がベースです。 晩年、危険な包丁仕事や揚物類は私が代わって調理していたので、いつしか身に付いていました。 以前は鰹節・昆布・みりん・料理酒などで出汁を作ったり、刺身包丁を購入したり、本格派を目指していましたが、今は時短料理に挑戦しています。 同じ食材でも味付けを変えると飽きないので、調味料は豊富に用意しています。 現在、味噌類は液体を含め三種類ですが、醤油系は出汁入りをメインに薄口・濃口・白だし・溜まり・麺つゆ・タレ類など数多く使っています。 中華系の調味料も揃っていますが、魚醤やエスニック系調味料は馴染めずに賞味期限廃棄することが多かったです。 冷蔵庫には何種類位の調味料があるのか数えていませんが和食系がかなりの割合を占めています。 スーパーマーケットで自分があつかったことのない食材を購入し、ウエブでレシピを探して料理する、失敗もするけど、美味しく出来た時の満足感は格別、料理は楽しい! (本物の料理人は鰹節・昆布・みりん・酒など本物の材料を使い、味付けを変えません。私のような素人はダシの素を多用、 味に飽きがくるので常に味付けに変化を心がけています) ☆☆☆東京大学に合格した二人☆☆☆ 私の友人知人で東京大学に合格した人が二人いました。
その一人は小学生の時に遊んだヒデオちゃんです。
小学二年生の頃、私たち家族の住むアパートの隣部屋にヒデオちゃん一家が引っ越してきました。
ヒデオちゃんは私と同じ二年生ですが、病気で小学校の入学が遅れたとかで、歳は一つ上です。
外で子ども同士、大勢で遊んでいると、お母さんが迎えに来て勉強させられるのです。
「アイツはバカだ」というお兄ちゃんもいましたが、病気で勉強が追い付かないと聞きました。
ヒデオちゃんとは、我が家族が引っ越すまで同じアパートで暮らしました。
その後、そのアパートは火災で全焼、住人皆大変だったようです。
焼け出されたヒデオちゃん一家は隣町に引っ越し、ヒデオちゃんは中学・高校は公立に進学、
現役で東大合格、卒業後一流企業に就職したと聞きました。(小川のおばちゃん情報) 新留君のこと ☆☆☆親友に裏切られたこと☆☆☆長野から出てきて即小学校に入学、最初の友人は関川君(仮名)でした。 同じクラスで席が近く、帰る方向も同じだったので何時も一緒に下校していました。 一番の親友だと思っていましたが、あっさりと裏切られました。 彼の母親は今で言う教育ママ、遊ぶことが許されず、母親が居るときは常に勉強、問題ができないと怒られるとか、 学校でも勉強が解からないと常にイライラ!机に落書きをしたり、消しゴムを机ですり減らしたり、徐々にイライラがエスカレートしていました。 ある日、授業中ボンナイフ(鉛筆削り)を使って消しゴムを切り刻んでいるのを目撃しました。 彼は家に帰り母親にとがめられると、私が消しゴムを切り刻んだと言い、私の住むアパートに母親と二人で怒鳴り込んできました。 私はやってないと言っても、私の母親は謝り弁償しました。大人の対応でしょうが、私は不満でした。 親友に裏切られたことは、小学一年の私には大ショック、その後関川君とは絶交状態、クラス替えの後は顔を見ることもありませんでした。 引っ越した後も何度か田中町に行っていまいした。 「私立中学に入学する」と言っていた関川君ですが、小学5・6年生頃の成績は酷く私立中学受験レベルではなかったと聞きました。 両親は小学校入学前から不仲、父親は家に帰らなかったことが多く、母親は夫婦間のストレスを関川君にぶつけていたようです。 小学校卒業前に両親が離婚、欠席が多く卒業式も来ていなかったようだと、聞きました。(関川君は辛い思いをしていたのだ!) ☆☆☆平山荘とテッちゃん☆☆☆ 私が小学一年から六年まで住んでいたのは浅草田中町にあった平山荘というアパートでした。
“いろは通り“という賑やかな商店街から少々横に入ったところにありました。木造二階建て賃貸用四畳半12部屋と大家の部屋、
玄関と台所・トイレは共同、当時としては平均的アパートだったようです。
大家の“平山のテッちゃん”の本職は皮ベルトの製造業、誰もが知る町の出世頭だと聞きました。
二十歳代で牛革(皮ベルトの材料)相場で大儲けをし、その資金でローラースケート場跡地を買い、そこに建てたアパートが平山荘です。
毎月末になるテッちゃんが家賃を集めに来ていましたが、ある時からテッちゃんと一緒に見知らぬ年配者が家賃集めに来るようになりました。
“小川のおばちゃん”から、この間の事情を知りました。(四畳半一間、大人の話は全部耳に入ります)
小川のおばちゃんはテッちゃんの叔母さん、このアパートの火災保険(家財)を一手に引き受ける保険屋さんです。
話によると、小川のおばちゃんの制止を無視、多くの知人から借金をし皮相場に再び手を出し失敗、借金まみれに、その借金は遠い親戚の不動産屋さんに肩代わりしてもらったそうです。
我家(部屋)に、ほぼ毎日お茶を飲みに来るテッちゃんは「借金はアパートの家賃で返済しているので、そのうちアパートが戻る」と話していましたが、
何年たってもテッちゃんはアパートの管理人、鉄ちゃんと一緒に皮ベルトを作っていた弟のタケシさんは、当時、子供がいなかったその不動産屋の養子に収まりました。
タケシさんは商才があったようで、手広く商売を広げ大きな不動産屋に、景気が良かったので私の父に背広を数多く注文してくれました。
私たちが家を買う時も、いろいろと相談にのってもらったり、物件を紹介していただいたり、大変お世話になりました。
順調だったタケシさん、養父と本妻でない人との間に子供誕生、裁判を経て養子縁組が解消!
失望からか?晩年には女性問題でトラブル、タケシさんの奥さんとも昔からの知り合いの父は、解決策が見つからず、力になれなかったことを悔いていました。
その後、タケシさん一家とは徐々に疎遠になってしまいました。 ☆☆☆普通のサラリーマン☆☆☆小学生の頃、住居のランクは上から持家、借家、アパート、簡易旅館でしたが、中学は足立区千住、簡易旅館がないのでアパートの住人が一番下、中学生になって漸く自分の生活水準を知りました。 小学生の時から父の仕事を少しだけ手伝い、中学からは納品を任されていました。 授業終了後、出来上がった製品を週2〜3回自転車で千住から神田まで運ぶのです。 当然部活は休みがち、最初に入った野球部は直ぐにクビ、人気のない文科系もサボりと認定され長続きしませんでした。 ある日の国語の時間、作文の題材は《将来なりたい職業》、ほとんどの生徒は会社の社長・飛行機のパイロット・宇宙飛行士など様々な夢を書きました。 一人だけ“ヤクザになりたい”と書いた同級生がいました。担任がまともな仕事を選ぶようにと必死で説得、しかし彼は無言のままじっと下を向いて耐えていました。 平山荘では、一時ヤクザの所帯が半数ほど住んでいた時期がありました。この暮らし向きを見ていたので“ヤクザになりたい”なんて無知だなと思いました。 そのことを今考えると“いじめ”に合っていたと考えられます。彼は数週間後に転校しました。 私は、現実的に普通のサラリーマンと、担任の感想は「ツマラナイ子がねえ」と一言。 (父が職人で家が貧乏でした。役付きでなくても平の会社員のほうが高い生活水準だと思っていました) 小学校の運動会、徒競争は1組6人で走ります。足が遅いのでほとんど4位でした。 何年生の時だったか忘れましたが、常にトップ争いの二人は足が交差し転倒、私が2位に、1位との差はわずかだったのでトップを狙い激走するも足がもつれて転倒、6人中6位に終わりました。 駄菓子屋のくじ引きや商店街の福引もほぼハズレ、1等とか1位とかは他のことも全て無縁です。 最下位ではなく、そのチョット上が丁度良い、と子供の時からの習性?で欲のないツマラナイ中学生になっていました。 ☆☆☆チーム名・みどりホークス☆☆☆ 私たち年代の男子は、ほとんどが野球少年でした。私も小学生の頃から野球のまねごとをしていました。
中学生時代の住まいは足立区千住緑町、工務店の二階で一家4人暮らし、二階から窓を開けると、通りの向こうに広い空き地、空き地の右側は同じ中学で同学年の文房具屋のフジイ君の家、
左側が同級生ヨウヘイちゃんの家があり、その空き地は皆の遊び場で、三角ベースという変なルールの野球をしていました。(狭いので1塁・2塁・本塁、三塁のない変則的な野球)
中学2年の頃には皆でバットやグローブをもって通称・緑町グランドという、野球のスペースが2面以上の公共運動場で練習のような、遊びをしていました。
そんなあるとき、工務店の作業場で上級生3人と工務店の居候で1級下のタムラ君達が野球チームを作るとかで何かゴソゴソ!人選をしていたようでした。
チームの名前はみどりホークス、数か月後の町内野球大会のために作った即席チーム、そのために町内の別チームと数多くの練習試合をこなしました。
草野球の主役はピッチャー、私立中学に通うマルヤマ君(同じ町内の別グループからのスカウト)はコントロールが良く変化球を投げるので先発に、
速いボールと変化球を投げる文房具屋のフジイ君はコントロールがイマイチ、二番手ピッチャーに決まりました。
私は下手なので補欠かと思っていましたが、背番号6と打順4番、守備位置はライトに決まったと告げられました。(当時の草野球は上手な人から打順を決めるので4番打者は4番目、
でも5番打者の上級生イサムチャンは私より打率が上、理由が不明です)
上級生3人は野球の勝ち方を知っていたようで、野球大会優勝候補のチームとの練習試合はフジイ君や下級生が投げ、大会までマルヤマ君を隠していました。
大会ではマルヤマ君に抑え込まれた優勝候補チーム「キタネェ〜な!」(汚いとか、ずる賢い、の意味)と、みどりホークスが中学生の部で優勝しました。
私は28歳まで千住緑町に住み、その後は仕事に32歳まで通っていたので、フジイ君のお母さんと話す機会が多くありました。
口癖のように婿養子になり家を出たこと、よく愚痴っていました。 目次に戻る |