奈良・大和路 夢幻紀行

 
【 3日め 6月20日(日) その2 】
 
 川原寺は「かわはらでら」と読み、正確には川原寺「跡」で、中金堂跡に現在建っているのは弘福寺(ぐふくじ)である。塀に囲まれた小さな寺の前には文字通り川原を思わせる草はらが広がっており、そこに点在する礎石や基壇が、創建時の威容を物語っていた。
「ここはね、もともとは宮殿だったんですよ。」
 じりじりと照りつける日差しに手廂をかざして八重垣は言った。
「中大兄皇子のお母さんである皇極(こうぎょく)天皇は重祚(ちょうそ)して斉明(さいめい)天皇になりますが、当時の宮殿であった板蓋宮(いたぶきのみや)は火災にあってしまうんです。そこで仕方なくこの場所に川原宮を作ったんですね。で、斉明天皇の死後、位についた天智天皇…元の中大兄皇子が、母親の霊をなぐさめるために宮殿の跡地に寺を建てたんです。」
「なぁるほど。それが川原寺って訳ね。」
「ええ。死者の霊をとむらうのは、今よりはるかに大事なことだったでしょうからね。」
「祟りとか、本気で信じてたんだもんな。…しかしそれにしても、暑くねぇ?」
「暑い。これさぁ、30度くらいいってんじゃないぃ?」
「ああ、体感温度としてはあるでしょうね。越えてるかも知れないな。」
「それにしちゃ汗かかないね八重垣くんて。」
「いや、かいてますよ。プールにでも入りたい気分です。」
「そおぉ? そうは見えないねぇ…。」
「ッきしょおぉ! あっちぃぃぃ――ー!」
 弘福寺自体には、こう言っては何だが特別な宝物(ほうもつ)はない。平安時代の作とされる持国天(じこくてん)と多聞天(たもんてん)の像は、ここではなく奈良国立博物館に展示されているのだ。門のところから建物の外部を眺めて、5人は引き返した。
「さて! この先は亀石と天武持統合葬墳を経て、いよいよ高松塚古墳ですよ。ここは少しじっくり見たいですからね。吉備姫王墓(きびつひめおおきみのはか)は時間があったら足を伸ばすとして、メインは高松塚です。行きましょう。」
「おいおい、何か妙にハリキッてねぇ? 八重垣…。」
「いや、実はこの高松塚はさ、俺としては一番行きたいとこだから。ちょっとウキウキしてるかも知れない。」
 八重垣はペダルに足をかけ、踏みこんだ。暑くても風を切れば自転車は爽快である。田んぼと畑の中に白く光る遊歩道を、5人は快調に飛ばしていた―――はずが、先頭車両がまたもストップした。
「あれ…? 何か、道が違う…。」
「おい〜…。お前いったい何回それやったら気がすむんだよぉ!」
「いや、この地図通りに来たつもりなんだけど…。あれぇぇ? おかしいな…。」
 キョロキョロする八重垣に、他の4人も地図を取り出した。が、どこをどう通ってきたのか把握していなければ、いきなり地図だけ見ても判るものではない。
「これを、こっちかな…。いや違うな、どう考えてもそれは違う。」
「なー。大丈夫かよヤエガキー! どっかで聞いてきてやろうかぁぁ?」
「いや、大丈夫。何とか行ける。多分こっちです、皆さん。」
「多分じゃ困んだよっ! おい! ホントこっちでいいんだろな!」
「うん。もうこのさい、いちかばちかで。」
「あぶねぇじゃねぇかよぉ―――っ!」
 だが八重垣の賭けは成功だった。田畑と民家だけの、何のへんてつもない道端に人が集まっているのは『亀石』であった。こんなところにあっていいのだろうかとこちらが心配になるほど、まるでポンと投げ捨ててあるかのように、人家の庭先に巨石が置いてある。呑気で愛らしい昼寝顔の亀だ。
「あは。なんか可愛いねこれ。」
「そうですね。でもこの亀が西を向くと飛鳥一帯は泥の海になるんだそうですよ。」
「んじゃ試しにやってみっか。八重垣お前、そっち持って。」
「そんな、やめとこうよ。泥海になったら大変だろ? ノストラダムスだけで手一杯だよ。それとシステムの2000年対応でね。」
「くわ―――っ、ユーウツなコト思い出さすよなあっ! おい同業者っ! いきなり現実に返んないでよぉっ!」
「あ、失礼しました。さて、じゃあ行きますか? これでもう迷いませんから。」
「ほんとー? なぁんか怪しいなー。」
「そんな、信用して下さいよ。道しるべもあるし、その通りに進むだけです、大丈夫。」
 などと言っていた八重垣であったが、次に彼が自転車を停めたのは大内陵(天武持統合葬墳)を右手に見やる道端であった。4人はてっきり、この陵にお参りでもするつもりなのだと思ったが、彼は片足を地面についた状態でガイドブックを凝視していた。
「なに、また間違えたのかよ八重垣! ッたく、これでもう迷わねぇとか言ってたのはどこのどいつだよっ!」
「いや、間違ったっていうんじゃなくて、この先どう行けばいいのか、ちょっと不安で…。」
「んな、まっすぐ行きゃいいだろまっすぐ。余計なこと考えねぇで。」
「いやそうは言うけどさ、地図によるとほら、ここで道が2つに分かれてて。」
「どれ見してみ。…ああ、こっちこっち! こっち行きゃいいんだよ。目指すは高松塚なんだろ?」
「うん…。」
「じゃあこっち! な! はい決定! さっ、みんな行くわよっ!」
 突如おネエ言葉になって拓は言ったが、八重垣はガイドブックを閉じると、スッと腕を伸ばし大内陵を指した。
「あれが、天武持統合葬墳。被葬者がはっきり判明している数少ない天皇陵です。なぜ判るかというと、墓泥棒の残した盗掘記がどういう訳かこんにちに伝わっていて―――」
「…行こうぜ先に。」
 拓はペダルをこぎだした。3人も後に続いた。
「あれっ、ね、ちょっ…。」
 あわてて八重垣も地面を蹴った。先頭を走りつつ拓は振り向いて、
「せいぜい頑張って俺についてこい! 目指せ高松塚! おーっ!」
 右腕を突き上げたのちモンキースタイルで疾走し始めた。
「ひゃっほー! 気持ちい――っ!」
「ちょっとぉっ! 拓っ! スピード出し過ぎーっ!」
「かまうこっちゃねぇっ! みんなっ! Follow after meだ、ついてこい―――っ!」
 陽光きらめく舗装道路を、5台は駆けのぼり駆けおりた。途中に公園のような施設があったが、拓は目もくれずに通り過ぎた。気分よさそうに髪をなびかせ、いぇいいぇい言っていた彼は、だが数分後に路肩でブレーキをかけた。
「や、べ……。」
 前カゴから地図を取り出しガサガサ広げていると、4台が追いついて停まった。
「なに、拓、どうしたのぉ?」
「いや、その…。なんかコレ、道、違くね…?」
「うそぉ! 今度は拓が間違えた訳!?」
「やだあ信じらんなぁい。アレだけのコト言っときながらぁ!」
 彼を止めさせたのは目の前の、『↑飛鳥駅』という道しるべであった。飛鳥駅はゴールであって、ここで現れるのは早すぎる。
「おかしいな、飛鳥駅に着いちゃ駄目じゃねぇかよ。高松塚って…まてよ、こう来たんだからこれ、こっちか? いや、こっちだよな…。」
 ブツブツ言っている彼の側に、やってきたのは八重垣だった。
「ん? どうしたの?拓。『せいぜい頑張って俺について来い』っていうから頑張ってついて来たけど…まさか道が違うなんて言うはずないよね? あんなに自信満々だったんだし。何て言ってたっけさっき。『Follow after meだ、ついてこい』?」
 拓はチロッと彼を見たが、さすがに返す言葉はなかった。八重垣は自分のガイドブックをめくり、
「これさ。さっき通った公園みたいなとこがそうじゃないかな。上に標識出てて、『高松塚』って書いてあったもん。」
「もん、て…。てめ! なんですぐ言わねんだよっ!」
「いや、拓を信じた方がいいかなって思ったからね? どうせほら、俺はヘボ幹事だから…。道には迷うし説明は長いし?」
 拓は溜息とともにバサッと地図を閉じた。
「ごめんなさい。俺が間違いました。どうもすいませんでした。八重垣様のご苦労にも気づかずに、大変ご無礼を申し上げましたっ!」
「いや、いいよそんな。君と俺の仲なんだし。そんなに改まって他人行儀なこと言わなくていいよ。今夜にでもゆっくり、話しよう。」
「おま、また話をそっちに持ってく―――」
「さてと。じゃあ行きましょうか皆さん。高松塚はこっちですよ。僕のアマンが標識を見落として、ものすごく余計な無駄足をしましたけど。」
「はいはいはいはい、俺が悪ぅございましたっ!」
 再び先頭になって八重垣は自転車を走らせた。先ほど通り過ぎてしまった公園…代々木公園と八柱霊園を足したような、整然たる緑地と森林がまさに、『飛鳥歴史公園・高松塚周辺地区』であった。
 
 苑内自転車禁止の立て札が見えたので、5人は道を隔てた反対側の駐輪場に自転車を停めた。地下道で道路を渡り高松塚へ向かう。
「なんだかなぁ…。あっちもこっちも片っ端からミュージアム化されてるって感じで、ちょっと寂しいなぁ…。」
 見回しながら智子は言った。甘橿丘といい石舞台といい、観光資源の目玉なのは判るが、こうも仰々しく飾り立てられると、果たしてその必要があるのだろうかという疑問が沸く。
「以前はこのへん、畑の中の竹やぶでねー。いい雰囲気だったのになぁ。こういう風に作っちゃうとさぁ、日本中どこもかしこも同じになっちゃうじゃない。つまんないのぉ。」
「まぁまぁそう言わずに。せっかく来たんですから。」
「そりゃそうだけどね…。」
 進むうちに5人は気づいた。この公園はまだ未完成らしい。かろうじて芝生を植え歩道は作ったものの、全体の3割は作りかけであろう。中でも肝心かなめの高松塚へ向かう道が、何と工事中でドロドロであった。引き返すつもりはないので前進したが、真冬の霜解け道にそっくりで、歩きにくいといったらない。
「この道ってばさぁ、ゴールデンウィーク中とか、どうしてたんだろうね。」
「さぁ…。応急処置の間に合わせでビニールか何か敷いてたんじゃないのぉ?」
「いっそなら山の辺の道みたく、モロに土の坂の方がいいよぉ。中途半端に舗装しかけだからさぁ、石がゴロゴロしててかえって歩きにくい!」
 ぶーぶー言っていると向こうから、自転車に乗った小父さんが走ってきた。すれちがい通り過ぎる彼を、5人は驚いて見送った。
「うっそ! 入口んとこに自転車禁止って書いてあったじゃねぇかよ! あーらら、いけねんだぁ、あのおっさん…。」
「でもそれにしちゃあ、やけに堂々としてなかった?」
「してましたね。なんででしょう。地元の人かな。」
「さぁ…。地元の人が1人で、自転車乗って高松塚に来るかね。」
「そんなん判んねぇって。すげぇ物好きかも知んねぇしよ。」
「ま、それもそうだね。」
 転ばないよう、ハネを上げないよう注意して、5人は坂を上り小高い丘の上に出た。すぐに下り階段があらわれる。
「何だよ、今度は下りんのかよ。まるっきし昨日の石上神宮だなこれ。」
「いや、着いたみたいだよ。ほらそこに看板がある。」
 八重垣の指差す方を見ると、
「ほんとだぁ。『高松塚壁画館』だって。ここを見学する訳ぇ?」
「ええ。本物の古墳の内部は、壁画を永久保存するために完全密閉状態ですから、中には誰も入れないですよ。その代わり精密に再現した資料館を作って、こうして一般公開してるんです。」
「ふーん。永久保存かぁ。気圧とか湿度とか、コンピュータで管理してるんだろうね。」
 緩やかで広い石段を5人は下りた。その右側に見える、フェンスで厳重に囲われた小山が高松塚古墳だ。その“コピー”である壁画館は、がぜん都会風に、ギャラリー風に建てられており、中の照明は石郭の雰囲気を出すためか、かなり絞られて薄暗かった。
「へー…。こんなんなってんのか…。」
 自然と小声になって拓は言った。予想外に狭い室内には、何通りかの壁画の模写と副葬品のレプリカが展示されている他に、南側にあいていた盗掘口から覗いた石郭内部の様子が再現されている。拓と真澄は早速その前に立ち、
「うっわ、せめー! こんなとこにどうやって絵なんか書いたんだよ。これ書いた奴、ぜってー肩こったぜ。」
「ほんとだぁ…。座ってたって頭つかえるよね。」
「だろぉ。これ楽々座れんのつったら西園寺君くらいなもんだろ。」
「はっはっはっ! ナ〜イス拓!」
 眺めているとあとの3人もやってきた。手すりを握って八重垣は話し出した。
「実はこの狭さにもね、意味があるんじゃないかっていうのがさっきの、梅原猛さんの説なんですよ。この古墳は被葬者を、中に閉じ込めておきたい意志があるんじゃないかって。」
「ああ、『黄泉の王(おおきみ)』ね! 私見・高松塚。あれもなかなか面白い見解だった。」
「へぇ、そんな本があるの。なに、閉じ込めておきたいってどういうこと?」
「この古墳の被葬者は、まぁはっきりとは判らないんですけどね? 死体になった後でどうも頭蓋骨を抜き取られてるらしいんですよ。それにこの石郭は、土をこう盛った上から板でパンパン叩いて固める、古代のコンクリートみたいなやり方で念入りに作られてるんです。だから発掘する時も、なかなか割れなくて大変だったそうです。鍬(くわ)がささらなかったっていいますからね。」
「ふーん…。」
「まさに古代のミステリーですよね。第一、お墓をこれだけの壁画で飾るってことは、被葬者は一介の平民であるはずがないでしょう。」
「うん。それなのに頭蓋骨がないっていうのは、確かに変だよねぇ…。」
「しかも、この古墳の位置なんですけどね、何と藤原京の朱雀大路(すざくおおじ)の延長線上にあるんですよ。岸俊男っていう人が『聖なるライン』と名付けたこの線の上には、菖蒲池古墳と、さっき前を通った天武持統陵と、息子の文武天皇陵と、それに高松塚とが、ほぼ1直線につながって並んでるんです。」
「へぇー! じゃあ皇族とか、けっこう身分の高い人のお墓な可能性もある訳だ。」
「そうですね。でもこの古墳の中にはね、他にも不思議なところが幾つもあって…」
 八重垣は体を屈めて内部を指さした。『一番行きたいところ』と言っていただけに、高松塚にはかなり詳しいらしい。4人もつられて身を低くした。
「ほら、正面の壁の絵がずいぶんボロボロになってるでしょう。あれは玄武(げんぶ)といって北を護る神様なんです。他にも東、西、南それぞれの壁に、その方角を護る神様が描かれてるんですけど、玄武がいわばリーダーなんですよ。その玄武の絵が、ナイフでそぎとられたみたいに滅茶苦茶に傷つけられてる。青竜にも白虎にも、玄武ほどじゃないけど、傷があるんです。まぁ、いくら板で叩いて固めたといっても、長年の間には雨なんかがしみちゃって、そのせいで剥がれたっていうのが一般的な見方なんですけどね。」
「ふーん…。四方を守る神様を傷つけて、しかも頭蓋骨を抜く。そりゃ確かにフツーじゃねぇな。」
「だろ? となるとやっぱり梅原さんが言うように、被葬者に対する何らかの辱めの意志があったって考える方が素直なんじゃないのかな。」
 八重垣は体を起こして左右の壁を見、
「この絵はね、天皇が即位する時の儀式に参列してる貴族たち…つまり朝臣たちの姿を描いたものなんだって。あの女の人たちがつけてる『裳(も)』は、当時の礼装だそうだから。」
「へぇー。要は古代のローブ・デ・コルテ?」
「ああ、そういうことですね。そうやって大勢の家来たちが集まって、今から即位の儀式が行われようとしている。でも四方を護る神様はズタズタで、天井に書いてある星もね? 一番大事なものが欠けてるんですよ。」
「え、天井に星なんてあんの?」
「ありますよ。ほら、金色に光ってる。」
 再び身を屈めて八重垣は指さした。4人はそれを見て、
「お、あったあった。そういやそこの壁に拡大図があったな。あれと同じもんだろ?」
「うん。星宿(せいしゅく)っていうんだけどね、要は昔の星座だよ。天皇をあらわす北斗七星を中心に28個の星座が、正確に描かれてる…と言いたいところなんだけど、実はこの一番肝心な北斗七星がね、ここには書かれてないんだ。」
「え、そいじゃ何も意味ねぇじゃん。」
「そうだよ。だからこの首のない被葬者は、この狭い石郭の中に押し込められて、いわば『即位ごっこ』をされてる訳。死の国で立派に天皇にしてやったんだから、ここで永遠に大人しくしてろとでも言われてるみたいだよね。」
「えー…。なんか可哀相…。残酷だぁそういうのって…。」
「うん。残酷ですよね。でも権力争いっていうのは、今の時代だって残酷なものでしょう。」
「そりゃそうだけどねぇ…。」
「まぁ今の話は、全部『黄泉の王』の受け売りですけどね。学会の定説とかじゃ全然ないですよ。梅原さん自身が『私見』て断ってるくらいですし。」
「でも面白ぇじゃん。アリだよアリ。学者ならともかく普通人はさ、んな論文書く訳じゃなし、色々想像して楽しんでいいんだよ。」
「うん。俺もそう思う。なんだ、拓と俺ってやっぱ気が合うじゃない。」
「……へぇー、こっちは副葬品かぁ。どれどれ。何が出土したんだって?」
 すいっ、と拓は背後のガラスケースに移った。刀の鍔や青銅の鏡、玉などが陳列されている。
「あー。な、な、カマタカマタ! ちっと見てみ。これって正月の古畑でナカイがしてた、あのネックレスに似てねぇ?」
「似てる似てるぅ! やだぁ、あれってば値打ちものだったんだぁ!」
「そういや『ラスト・エンペラー』でさぁ。西大后の黒真珠のネックレスを、新政府の偉い奴だか何だかが愛人に贈った、つーのがあったろ。でもあれって、貰った方も気持ち悪いと思わね? だってよだってよ、ミイラ、じゃねぇけど土葬になった死体の首にかかってたんだろぉ? も、このへんなんか腐っちまってよ、ドロドロ…」
「やだやだやだ、やめてよっ! 想像したくない、キモチ悪いっ!」
「なぁ。ぜってー気持ちわりぃよな。おーやだ。いらねっつのそんなアクセ。」
 拓が言ったところに、石郭復元コーナーを離れてやってきた真澄が、
「でもさぁ、よーく洗って熱湯消毒すれば平気じゃないかなぁ。」
 続いて八重垣も、
「いや、待って下さい? 真珠って熱湯かけたら、変質して駄目になるんじゃないですか?」
「あー、そうかぁ。さっすが八重垣くん、宝石にも詳しいんだ。」
「いや詳しくなんかないですけど。クレオパトラが酢に溶かした真珠を飲んだっていうのは有名な話ですよね。」
「うんうんそれは知ってるぅ。でも本当に溶けるの? 真珠って。」
「溶けませんよ。そんな、硫酸じゃないんですから。」
「でもタバスコとかだったら溶けんじゃねぇかな。あれって10円玉も綺麗になんだろ?」
「あははっ、タバスコに真珠溶かして飲むなんて、なんか『裏切り者』っぽーい。」
 真澄は言い全員が笑ったが、
「…そういやさぁ…。超、腹減らね?」
「「「減った―――!!」」」
 拓の一言に女3人は即座にユニゾンした。八重垣は時計を見た。昼などとっくの昔に回り、すでに2時を過ぎようとしている。
「ああ、もうこんな時間なんですね。お昼にしましょうか。」
「しましょうかって、んな、トーゼンだろ! 早く行こうぜ早く。この公園に食うとこあんの?」
「いや…多分ないね。来た時の感じでも、そういうのはなさそうだったろ?」
「ンだよ、見てくればっか立派で使えねぇ公園。茶店の1軒くらい用意しとけっつの。」
「じゃあ、とにかくも飛鳥駅まで出ちゃいますか。橿原神宮からの京都行き特急が…2時50分でしたよね? 智子さん。」
「まぁそうだけど、次のでもいいよ。帰りの新幹線、遅らせればいいだけだから。別に待ち合わせしてる訳じゃなしね。」
「ああもう、そんなんは後あと! とにかく腹減ったっ! 何か食わせろ幹事!」
「判った判った。じゃあ行きましょう。」
 古代ミステリーロマンもへったくれもあったものではなく、5人は足早に駐輪場へ戻った。
「なー。これ、高松塚側から入ってくっとさ、ひょっとして自転車禁止って、どっこにも書いてねーんじゃねぇか?」
「うっそぉ。片手落ちだぁ、ずるーい。だからさっきの小父さん、あんな堂々としてたんだね。」
「だからかぁ。不親切な公園だねー。」
「つまりはまだ作りかけなんですよ。これから整備するんでしょう。」
 駐輪場でサドルにまたがり、5人は道路に出た。飛鳥駅までの道順は、先ほど拓が間違った通りなので迷うはずはない。ぐうぐういう腹を抱えた彼らは、駅前近辺で食事のできそうな店を探したが、
「ない、ですね…。」
「ないねぇ。うどん屋さんとかありそうな雰囲気なのに。」
「そこに喫茶店はあるけどね。」
「駅の向こう側とか、行ってみますか?」
「いいよいいよ八重垣くん。そこのサテンで手を打とうよ。軽食くらいならあるんじゃないの?」
「え、あそこですか?」
「あそこかぁ? んー…俺テキにはなんか、ねぇっぽい気がすんな…。」
「でもまさかコーヒーだけってことはないよ。ああもう迷ってんのも面倒臭い! 入っちゃうよヤエガキ!」
「ええ、僕はいいですけど…。どうする拓。」
「俺ももう、いいっ! 何でもいいから食いてぇ!」
 このさい質より時間だと、5人は店内に入った。角のテーブルにつきメニューを見ると、
「あー、やっぱそうだ。あるのはパン類だけみたい。」
「パンだけぇ? ピラフとかスパゲティとかはぁ?」
「ないねー。あとはドリンク・オンリー。」
「いいよいいよパンがありゃ。とにかく食おうぜ。ええとね俺はね、チーズトーストっ!」
「えーあたし何にしよ…。どうする? 真澄っち。」
「う〜ん…。どうせだったら5品たのんでさぁ、適当にみんなで食べない?」
「あ、それいいね。そうしよそうしよ。」
「でも支払いどうすんの?」
「支払いは…5で割って、そいでもって100円未満は拓の負担!」
「えっ、俺? 何でだよ幹事コイツだろコイツ!」
「何言ってんの。さっき余計な無駄足させたバツでしょー! おかげで2時50分に間に合わないよっ!」
「…いや、間に合いますよ多分。」
 ガイドブックと腕時計を見比べて八重垣は言った。
「今いるのが飛鳥駅前でしょう? 橿原神宮まではたったの3キロ足らず、しかもこの国道をずっと行くだけですから、10分かかりませんよ多分。自転車も、返すだけですから時間かかりませんし、そんな大きな駅じゃないからホームもすぐです。ロッカーの荷物出して―――あ、でも、おみやげ買ってる時間がないな…。」
「うそ、それって困んじゃん。みやげ買わなきゃ駄目だよ。」
「なんで。」
 けろっと問い返した智子に、
「なんでって…人間、つきあいってモンがあんだろ?」
「そうだけどさ。いいじゃん、楽しいみやげ話が何よりのおみやげだよ。」
「んな、精神論で物事片づかねぇって。」
「片づかねぇって言わないで片づけなさいよ。もしどうしてもっていうなら京都駅で買いな。」
「京都って、京都で買ったんじゃ京都みやげになっちまうだろがよっ! うちらが来たのは奈良だろ奈良!」
「あーあーそんなもん、黙ってりゃ判りゃせん判りゃせん。関東人にしてみれば奈良も京都も似たようなもんよ。」
「どっか間違ってっぞその考え方…。」
「ああもううるさいな。それでいいのよっ! おお来た来た来た。さぁさぁ食べましょお〜。」
 この旅行中は和食続きだったので、パン食もなかなか新鮮であった。空腹ゆえ食べ終えるのも早く、しかも支払いは拓が、
「いいよ、ここは俺が持つよ。今回最後の食事だかんな。」
「えっ、ホント!! やだぁ拓ったら、いい男〜!」
「おめ、食わしてくれる奴はみんないい男なんだろ真澄っち!」
「でも男としてそれは最低限の能力だからねぇ。」
「ンだよ、ちったあありがたがれよっおねえさん!」
「ねぇ、拓。いいのかな俺も持ってもらっちゃって。」
「あ? いいよいいよ、何だかんだ言って、お前一番大変だったろ。」
「サンキュ。さすがは俺の―――」
「だからその先は言うなっ!」
 腹ごしらえの済んだ5人は、国道169号線を走る車の流れの中にオレンジの車体をすべり込ませた。ここを走るレンタサイクラーもおそらくは珍しいに違いない。
「あんまりゆっくり走るとかえって危ないんで、速めに行きますよ!」
 後ろを振り向き八重垣は言った。最後尾の拓が親指を立てる。5人は縦1列になって、歩道を時には車道を走り、橿原神宮前駅に向かった。飛鳥路巡りの最後が国道疾走とは、若干情緒に欠ける気がするけれども、
「ヤエガキ―――! もちょっと速くていいって! 遠慮すんな! 後ろ、つっかえてんぞ!」
「ほんと? 飛ばして、大丈夫だね!?」
「おっけおっけ! 後ろは見てっから安心しろー!」
 ナイスバッテリー、という感じの2人に前後を挟まれて、風を切るのはなかなか素敵な気分であった。
 
「発車まであと10分ないですね。どうします、2時50分に乗りますか?」
 自転車を返却して駅に着き、八重垣は聞いた。これに乗れば新幹線は4時台、日曜日の上りといえどさほど混まないひかり号をつかまえられる。明日は全員仕事であるから、あまり遅くなっての帰宅もできれば避けたかった。智子はきっぱり決意した。
「乗っちゃおう! 何ごとも前倒しが安全! …ヤエガキ! ロッカーの荷物頼むね。…拓っ! あたしらは切符買いに行くよっ!」
「へ? 切符って何の?」
「京都までの特急券! 5人分、買っとくからね!」
「ああお願いします。じゃあ僕らは荷物を…。」
 手分けしててきぱき動き、入線している京都行き特急に駆け込む、前に、
「ねー! 5分でおみやげ買えると思う?」
 言い出したのは智子で、反対したのは拓だった。
「んなの無理無理無理! 京都で買えってさっき自分が言ったんだろ?」
「だって京都で買ったんじゃ京都みやげになっちゃうよっ! 待ってて、そこのお店で見てくるから!」
「うそ、信じらんね…。何なのあのオンナ…。待てよっ俺も見っからっ!」
「あー、じゃああたしも行く。真澄っち! ごめん荷物見てて!」
 カマタと智子と拓の3人は、構内にあった近鉄のみやげもの屋に入っていった。さささーっとウィンドゥを見回して、おお飛鳥ふうだ!という菓子折りを買い込む。
「何よあんた。なんでそんなに買うの。どこ持ってく気?」
「え? そんなんおねえさんに関係ねーじゃんかよ。放っとけっつの。…あ、それにあと、こっちの小さい方も1つ。」
「ほれほれ早くしなっ! 電車出ちゃうよっ! あと2分!」
「だいじょぶだって2分ありゃ。ホームそこなんだから。」
「ああもう呑気なことを。もー待ってらんない、先行くよっ!」
「おい! ちょっと、待てよっ!」
 拓は紙幣とレシートを口にくわえ、2人のあとをホームへ走った。特急は全席指定である。5人はベルがなる寸前の車内へかけこみ、シートを探して腰を下ろした。まとめて買った切符は智子が改札でそれぞれに配ったのだが、
「…何で俺とヤエガキが並びなんだよ。」
「えー? 知らないよそんなの。あたしはランダムにチャチャッと渡しただけなんだから。ほらもう発車するから、座って座って。通路に立ってると邪魔だよっ。」
「ッたく、これアトでぜってー何かネタにすんだぜ…。見え見えなんだよ。」
「いいじゃない。俺は嬉しいよ、このツーショット。」
「ああそうですかっ!」
 ゴトン、と列車は走り出した。車輪はたちまち軽快なリズムを刻む。大和三山も飛鳥の仏たちも、すぐに車窓の彼方に霞んだ。3日間。短すぎるこの思い出も、やがて記憶の中に埋もれていくのだろう。
「いやー、でも楽しかったねー。」
「ちょっと最後が慌ただしかったけどね。」
「けどお天気よかったしさ、色んなとこ行けたし、よかったよ。」
「飛鳥寺で鐘も撞いたしね。」
「橘寺では本堂に上がったし!」
「夜は夜で盛り上がったし? でもちょっと寝不足じゃない? 真澄っちはそんなことない?」
「んー…。ちょっとだけね。でも平気平気。」
「いや、電車に揺られてるときっと眠くなるよ。ねーヤエガ…」
 カマタが言いかけると、彼は、しっ、と人さし指を立てた。隣りで拓がうつらうつらしている。
「やっだぁぁ…。ちょっとちょっと真澄っち、見て見て!」
 拓は両腕を組み背中はシートに凭れているのだが、首が徐々に徐々に傾いて八重垣の肩に触れそうになる。寸前でハッと姿勢を立て直すものの、無駄な抵抗ですぐにまたすぅぅーっと傾く…の繰り返しであった。
「もぉぉ! 遠慮しないで寄りかかっちゃえばいいのにっ!」
「こらこら、かまりんがジタバタしてどうすんのよ。」
「だぁってぇぇ! ああっカメラ持ってくるんだったっ!」
「何ですか、こんなとこ撮りたいんですか?」
「撮りたいーっ! だって黄金のツーショットじゃないよー! ちっきしょー、もったいなぁぁい!」
「しーっ。多分、くたびれたんですよ。お腹も一杯になったから眠いんです。京都まで寝かしといてあげましょう。」
「うわー…八重垣くんて大人ぁ…。てゆーか拓がガキなのかなぁ。」
「うんにゃあ、あたしらがいっちゃんガキなんとちゃう?」
「言えた!」
 笑っていた3人も、やがてうとうとし始めた。梅雨のあい間の光は山吹色である。午後の日差しが夕暮れの影を帯び出す頃、列車はターミナル駅・京都に着いた。
 
 近鉄のホームから、5人はJRの乗り場へ向かった。みやげ物はもう買ってしまったので、京都駅でウロウロする必要はない。行きは在来線だった真澄も帰りは新幹線に乗るという。しかし彼女だけが逆方向であった。
「寂しいから発車までお見送りしますぅ。」
「おおそれはいい心がけだ。ふんじゃホームでダベってようぜぃ。」
 新幹線の高いホームからは、千年王城の地の街並みが防護用フェンスごしに眺めやれた。通過するだけというのも本当は残念な、美の宝庫、京都である。
「また今度、機会があったら是非ご一緒させて下さい。」
 やけに改まって真澄が言うと、
「もちろんもちろん。またやろうよ。」
「1年に1回…は無理かも知んないけど、何年かに1度だったらできないことないもんね。あ、でも八重垣くんが、このメンバーの幹事はもうこりごりだとか言うんじゃない?」
「何でですか。そんなことないですよ。また是非このメンバーで、行きましょう。」
「本当にお世話になりました八重垣くん。いろいろ我儘言ってごめんなさい。こんなに楽しかったのって、八重垣くんが全部段取りしてくれたからだよね。」
「いやいやそんな。道にばっかり迷ってたし。」
「ううん、確かにあれが面白いのよ。ほんっと楽しかった。」
「そう? そう言ってもらえると俺…。あ、まずい。なんか涙出てきそうになっちゃった。」
「またまたぁ、大袈裟―!」
 話していると20分などすぐにたってしまう。関東組・関西組の別れを引き連れて、時速200キロの列車が入線してきた。
「じゃ、またメールでね。真澄っち。」
「瀬戸大橋から落っこちんなよ。気をつけて帰れ。」
「うん。みんなも気をつけて。」
「おいおい、なんかマジでうるうるしてねぇか? ンな永の別れじゃあんめぇし、気分出すなよ。」
「だああってぇぇ〜!」
 ドアがあき、4人は中に入った。幸い2人掛け席が連続してあいていた。慌ただしく2時50分に乗った甲斐も、これならある。シートを回し向かい合って腰かけると、発車ベルがもう鳴り出した。ホームで真澄は手を振った。
「元気でな! 幸せになるんだぞ!」
「ウシガエルと仲良くねーっ!」
「ばいばーい!」
 この一瞬は、新幹線の開かない窓がうらめしい。プァン、と短く一声残し、ひかり号は東へと走り出した。
「さて、これであとは東京着を待つばかり、と。ねーねー乾杯しよ乾杯。」
 手回しよく、カマタはビールを買いこんでいた。京都駅オリジナルイラストの缶である。ぷしゅっとあけて乾杯し、押し寿司をつまみに話し始める。
「でもホント、楽しかったねー。来てよかったぁ。」
「そうだねー。大きなトラブルも事故もなかったし、旅は道連れ世は情け。終わっちゃうのが寂しいよね。」
「また今度行きましょうよ。ね。是非。皆さんが嫌でなければ、僕また幹事やりますから。」
「え、ホント? 八重垣くん幹事やってくれるの?」
「そのつもりですよ。『お前にはもう任せらんない!』って言われなければ。」
「言わないよぉそんなこと! ねー、拓!」
「うん。お前、幹事適任。お前以外考えらんねぇよ。」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとほんと。下調べから始まって色々と、お疲れ様でした。」
 拓は手に持った缶を、カツンと八重垣の缶にぶつけた。これ以上の饒舌は不要、男同士のコミュニケーションである。
「でもさ、行くなら今度はどこにするぅ? 四国もいいよね。考えてみれば宿泊さえ安く上がればさぁ、国内の交通費って、そんなにも違わないでしょう。」
「ああ確かにな。四国かぁ。行きてぇな。泊まりはもちろん『ホテル真澄っち』だろ?」
「そうそう! だって寝られればいいんだもん。」
「だよねー! あとは真澄っちにクルマ出さしてさ。あ、コレいいじゃんいいじゃん! 安上がり! 決定―!」
「そんな、本人がいないところで、僕たちが勝手に決めちゃっていいんですか?」
「馬鹿、いねぇから決められんじゃん。コレ今ここに真澄っちがいてみろよ、無理だとか嫌だとか不公平だとか、うるせーぜ?」
「ああそうか。そうだよね。欠席裁判か。うんうん。」
「いや…そらちょっとちげーだろ。あとは俺、北海道も行きてぇんだよな。知床、阿寒、カムイワッカの滝! タンチョウヅルとか見てみてー!」
「北海道かぁ。ひなっつぁまが何て言うかな…。」
「んな、アイツにはこいつ与えときゃどうにでもなんだろ。何せ王子と同じカオしてんだから。」
「ほんとにさ、その点インターネットってすごいよね。今やあたし、日本中に知り合いいるよ?」
「だよなぁ。顔は知んねぇけどな。」
「いや日本だけじゃないや。ボストンにもシンガポールにも、あとロンドン在住の人からも1回だけメール貰ったな。」
「冗談ともかくインターネットって、世界中と友だちになれますよね。」
「なれるなれる。現にかまりんとだってさ、ネットがなかったら知り合えなかったもんね。」
「ねー。そう考えると、何かフシギ。」
「まぁ今後ともヒトツよろしくお願いしますよ。」
「いえいえこちらこそ!」
 話しているうちに日は暮れおち、代わってネオンサインが輝き始めた。窓の外には東海道線の普通電車が、さらには中央線快速が、そしてついには山手線が並走するようになる。古(いにしえ)の都を出たひかり号は、現(うつそみ)の都へと無事に4人を運んでくれたのだ。
 
「さーて。明日から現実に戻らなきゃね。」
 ホームに立つと智子は言った。4人は階段を下りていった。バイバイ・ポイントが目前である。
「じゃあ…待ち合わせ場所だった南口改札で別れましょうか。」
「あ、そうだなそうすっか。起承転結はっきりしてて、なかなかいいじゃん。」
「おとといはかまりんがここに来なくてさぁ。焦ったよねぇ。」
「そうですよ。そのあと2人して荷物置いて走ってっちゃって、僕がかついで持ってったんですよホームに。」
「そうだったそうだった。思い出した。」
 改札口の空間で、彼らは少し黙った。3日前と同じこの場所から、5人での楽しい日々をもう1度繰り返せるような、そんな錯覚にとらわれたのだ。
「じゃ、ね。」
 だがそれも一瞬だった。振り切るように智子は手を振った。
「じゃあな。また。」
 拓が右足を引いた。
「うん。また。」
「またね。」
 カマタも八重垣も、それぞれの方角に歩き始めた。4人は後ろ姿で手を振り合った。雑踏はたちまちに彼らを隔てた。4つの背中が消えた東京駅を、飛鳥の風が吹きぬけた。

< 完 >

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