★ クインテット番外編 『カイ・ジューンと王子さま』 ★

 

 低い雲がうっとおしく垂れこめていた空が日に日に光を増す時期になると、鉱山の街はにわかに活気づき始めた。事故を防ぐため雪の間は閉ざしてあった鉱道をいつ開くか、同時に行われる安全祈願祭の日程をどうするか。それらを取り決めるため、市長たち街の為政者は、毎日集会場に集まっては相談を重ねていた。

 街に活気が戻ると、当然商いも盛んになった。カイ・ジューンの働いている定食屋にも先週あたりから客が増え始め、ずいぶん遠くから来たらしい旅人の姿も、ちらほらと混じるようになってきた。それは都との往来に使われる街道の雪がとけて、皆が通れるようになった証拠であった。
 

「いよいよ春だねえ、カイ。」
 いつも陽気なおかみさんが、厨房の窓から夕焼けを見てニコニコしながら言った。
「今年は雪が多かったから心配したけど、鉱道が崩れたって話も聞かないし、悪い疫病も流行らなかったしね。何よりだよ。うちん中で邪魔くさくゴロゴロしてた男どもにも、そろそろ稼いでもらわなきゃねぇ。」

 聞こえよがしなその声に、客の1人が苦笑しながら言った。
「おいおいおかみさんよぉ、そう邪険にすんなって。この街でとれる国1番の鉄鉱石を、せっせと掘り出してんのは俺たちじゃねぇか。雪のある間くらいはよ、のんべんだらりとさせてくれよ。」

「何を呑気なこと言ってんだか。昼間っから酒なんぞかっくらってないで、ほぉれ、食べたらとっとと、かあちゃんとこにお帰りよ!」
「何だよ冷てぇなぁおい…。ったく頑丈な女だぜ。こんな色気のねぇおばんになっちゃあ、お前は駄目だぞ、カイ!」

 おかみさんに追い立てられた男は、テーブルに金を置いて出ていった。
「毎度ありがとう! 気をつけてねー!」
 戸口でカイは後ろ姿に言った。粗末な外套の襟を立てて、男は道を歩いていった。店の中からおかみさんの声がした。
「カイ! ご苦労さん、あんたも上がっていいよ。弟たちが待ってんだろ? そこのイモ5〜6個持ってってやんな!」
「ほんと? ありがとう、いっつもすいません。助かるわぁ。」

 カイはかまどの前にしゃがみ、火の上にさし渡した長い串をはずして、あつあつのジャガイモを藤カゴの中に入れた。
「なぁに、イモくらいいいってことよ。ちっちゃいのがいっぱい下にいて、あんたも大変だと思うけど、父ちゃん母ちゃん手伝って、しっかり頑張るんだよ。」
「判ってるって。じゃあね旦那さん。お先失礼しまーす!」

 厨房の仲間に挨拶をして、カイは裏口から外へ出た。古びたショールは大して風を防いではくれなかったが、胸に抱えたカゴの中のジャガイモが、ぽかぽかと暖かかった。

 

「ただいまぁ。みんなおいでぇ、お土産があるよー!」
 家に帰るとカイはすぐに、弟たちを呼んだ。わっ、と皆が集まってきた。カイの家族は彼女を入れて8人。狭い家の中では、17歳の彼女を筆頭に弟弟妹弟妹、の6人きょうだいと、それに両親が暮らしていた。けれども冬の間は父親は出稼ぎに行っていて、その間の家と子供は、母親が機織りの仕事をしながら守っているのだった。

「お帰り姉ちゃーん! お土産って何、なに?」
 スカートにまつわりつく弟たちをカイはテーブルに座らせ、
「またお店のおかみさんがくれたよ。ほぅら熱いから気をつけて食べな。」
「わーいおいもだおいもだ!!」
 弟たちは大喜びした。と、奥から母の声がした。
「カイ、帰ったの? すまないけどこっちを手伝っとくれ!」
「はーい! お前たち、お行儀よく食べるんだよ!」

 カイは急いで台所へ行き、夕食を作っている母の手伝いを始めた。大鍋でグツグツと煮えているのは、美味しそうな野菜のシチューだった。カイは母親が背中を向けているのを確かめて、棚の上からそっと、父親がいつも鉱山に持っていく飯盒を下ろした。しかし母はすぐに気づいた。

「何やってんだよコソコソと。まぁた隣に持ってってやんのかい? 全くお前も変わりもんだねぇ。」
 ばれてる、とカイは首をすくめたが、
「いいじゃない、あたしの分を削るんだから。それにこないだマリアがいじめっ子に泣かされてたの、助けてくれたのは彼なんだよ? 貧乏人は助け合うべしっていうのが父ちゃんの口癖じゃないか。…じゃ、ちょっと行ってくるね。」
「早く帰ってくんだよ。そうしないとお前の分、ハンスたちに食べられちまうからね!」
 

 飯盒と、底に1個だけジャガイモを残した藤カゴを持ってカイは外に出た。垣根の向こうには共同の井戸があって、さらにその向こうが市長の家だ。このあたりでは一番広い庭の一角に、牛小屋と馬小屋と、それから下人の小屋が建っている。カイはその馬小屋へ向かった。小窓から明かりが漏れていた。

「いるの? プチ。おーい、プチキャットぉ。」
 戸口でカイは呼びかけた。ガサガサと干草の音がして、柱の影にヒョイと少年の顔がのぞいた。
「よぉ。」
 黄金(こがね)色の髪の少年は、太陽のように笑った。彼が“プチキャット”…そう、やがてはヒロ・リーベンスヴェルトと名乗ることになる、この物語の主人公である。

「夕ご飯まだなんでしょ? いいもん持ってきたよ。」
 カイは彼のそばに歩み寄った。木の柵で仕切られた馬房の1つは空室で、プチはそこに干草を敷きつめ、自分の部屋代わりにしていた。
「え、まじぃ? やったラッキー!」
 干草のクッションの上に、2人は並んで腰を下ろした。包みをほどくカイの手元を、プチは待ち切れないように覗いた。

「何なに、何持ってきてくれたぁ? 今夜は市長んとこに客が来てっからさぁ、まだ当分食えねぇのよ。」
「あのね、シチューとね、それにジャガイモの焼いたのだよ。あー、でもちょっと冷めちゃったね。さっきはあっつあつだったのに…。」
「いいよいいよそんなのぉ。うわ、うんまそ〜! 今日1日忙しくてさぁ、昼っからなんにも食ってねんだよ。」
「そうなんだ。じゃあ早く食べな。あ、シチューは熱いから気をつけなよ。」
 プチは飯盒の蓋を取り、吹き冷ましてから一口すすった。

「うんめー! これ、サイコーにうめぇよぉ!」
「ほんと? よかった。うちの母ちゃん、料理は得意だからね。」
「だよなぁ。何かさぁ、もぉとろけそうにうめー!」
「ほらジャガイモも食べな。あ、半分に割ったげるね。」
「さんきゅ。あー…天国みてぇ…。」
「やぁねぇ大袈裟。おだてたってこれ以上はあげらんないよ。」
「おだててなんかいねぇって。ほらおいらさぁ。ここじゃ一番下っ端だべ? 何食うんでも最後でさ、スープとかいっつも冷めてんだよ。こんなあったかいシチュー、カイがいなかったら食えねんだよなぁ。」

 ズルズルと一気に飯盒をカラにして、プチはジャガイモにかぶりついた。見ている方が嬉しくなるほどの食べっぷりにカイは見とれていたが、正直彼女も夕食はまだであるから、不覚にもそこで腹が鳴ってしまった。プチは彼女を見た。
「あれ…。何だよお前も腹減ってんの?」
「え? あたし? …うん、まぁね。でもほら、これから帰って、食べるから。」
 慌てて言ったはものの、彼女には予想がついていた。戻った頃にはあのシチューは、育ち盛りの弟たちの胃袋に、綺麗におさまっているだろう…

「ほら。」
 すると彼女の目の前に、ジャガイモの半分が差し出された。カイは驚いてプチを見た。
「食えよ。半分ずっこしよ。」
「そんな…。いいよあたしは。」
「よかねぇべー! ほら。遠慮しねぇで食えって。な。」
「遠慮って、それはあたしの台詞じゃない。」
「そっか。」
 どちらからともなく2人は笑った。カイはジャガイモを受け取って、ぱくりと一口噛んだ。

「ねぇ、プチ。」
「うん?」
 口をもぐもぐさせながら、彼は応えた。
「マイヤーさんに聞いたんだけど、今年からあんたも鉱山で働くんだって?」
「なんだ、耳が早ぇな。ああ、そうしようと思うんだ。市長に頼んだら許してくれたから。おいらももう自分の稼ぎが欲しいしさ。いつまでもここに居候して、牛や馬の世話してる訳にもいかねぇだろ。」
「ねぇ、まさか誰かに何か言われたの?」
「何かって?」
「ん…。例えばさ、なんか、嫌なことを…。」
 カイはプチの横顔を見た。彼はぽつりと言った。
「行き倒れの女に抱かれてた、どこの馬の骨かも判んねぇみなしごだとか?」

 けれど彼はすぐに、雲間から降り注ぐ朝日のように笑った。
「ちげーよ。そんなこと言う奴なんかいない。おいらが自分で考えたの。ちゃんと働いて、早く一人前になって、そしたらおいらは困ってる人たちをいっぱい助けてやりてぇんだ。病気の人とか親のいない子供とか、そういう人たちの力になりたい。おいらのこと拾って育ててくれた人たちへの、それが一番の恩返しだと思うんだ。」

 淡々と、だがどこか力強く語るプチに、カイの胸は熱くなった。子供の頃から一緒に遊んでいた幼なじみなのに、最近になってカイは時々、彼をとてもまぶしく思うようになっていた。

「偉いねぇ、プチは…。」
 カイは溜息をついた。
「あんたって、いったいどっから来たんだろう。あたしね? 思ったことあるんだよ。もしかしたらあんたは、赤ん坊の頃悪い奴にさらわれた、どっかの王子様かも知れないって。」
「おいらがぁ?」
 大きな目を見開いたかと思うと、プチはゲラゲラ笑い出した。
「ば〜か、なにお伽話みてぇなこと言ってんだよ。お前童話の読み過ぎだって。」

「判ってるよ。だから子供の頃の話だってば。いつかね、あんたを迎えに立派な馬車が何台もやって来て、それを見てみんなびっくりするんだ。あのプチキャットが王子様だったんだって。で、あんたはお城へ引き取られて、そして……」
 そこでカイは急に黙った。プチはそれをいぶかしんで、
「どした?」
 彼女の顔をのぞきこんで聞いたが、鴨居に立てた蝋燭の光だけでは、カイの頬の赤さまでは見えなかった。

「ううん何でもない。さてと、あたしそろそろ帰るね。母ちゃんが待ってるからさ。」
 干草をはたいてカイは立ち上がった。プチも、すり切れたズボンの尻に両手をこすりながら立った。
「ありがとな。うまかったよ。母ちゃんによろしく言ってな。」
「うん、判った。じゃあね、お休み。」
 ショールを首に巻きつけ、彼女は行こうとしたが、
「カイ。」
 プチに呼び止められ立ち止まった。振り向くと彼は照れたように笑って、
「あのさ。今度の日曜日、また一緒にミサ行こうよ。ほら、一人だとおいら、どうしても眠くなっちゃうからさ。神父様にまた大目玉くらったら、さすがにちっとやべーべ。なぁ。」

 ぷっ、とカイは吹き出した。先週のミサでプチは、お祈りの最中に居眠るどころか寝言で『てめ、そのミートパイはおいらんだろ!』と叫んでしまい、不謹慎なと激怒した神父に鞭で尻を叩かれたのだ。
「判った。いいよ。一緒に行こ。」
 カイが言うと、プチはうなずいた。
「んじゃな。お休み。またな。」
「うん。またね。」
 カイは歩き出した。北風が吹きつけてきたが、胸の中は暖かかった。先程言いかけた言葉を彼女は思い出し、続きを一人つぶやいた。

「王子様はお城へ引き取られていきましたが、その女の子のことは、ずっと忘れませんでした。そしてある日、彼は迎えに来たのです。真っ白い馬に乗ってマントを翻して、彼女をお妃様にするために…。」

 

 一週間後、街じゅうの男たちを集めて鉱山開きが行われた。鉄鉱石の坑道は何本もあり、それぞれにベテランのリーダーがいる。プチはマイヤーの班に加わり、力自慢の坑夫たちに混じって、鍬の下ろし方やトロッコの動かし方など、仕事の基礎から学び始めた。
 

 ある夕暮れどき、マイヤー班は、そろってカイの定食屋に食事をしに来た。どうやら班長のおごりのようである。プチの姿もその中にあった。いつも通りの粗末な身なりに革の帽子をかぶった彼は、先輩たちにすっかりとけこんで、楽しそうにしていた。カイはホッと安心した。

「今年は石の具合はどうなんだい。水が入ったり、してんじゃないかい?」
 料理を運びながらおかみさんは言った。歯欠けの口でマイヤーは笑った。
「なぁに、水なんざ出ちゃいねぇよ。でかいひび割れもないし、上等だな。夏までにもう少し深く掘りこんでみりゃあ、多分新しい鉱脈にぶち当たる。そしたらうちが稼ぎ頭さ。なぁチビ。お前にも頑張ってもらわねぇとな。」

 ごん、と頭をこづかれて、プチは痛ぇなぁと笑い、
「だから親方、そのチビっつうのはやめて下さいよ。チビじゃなくて、おいらはプチ。正式には“プティ”なんですから。歯の裏っかわに舌つけてこう…プティ。」

「へっ、何を生意気言ってやがる。お前はまだまだ半人前なんだよ。一人でやぐら組めるようになったら、なんだその、ブッチでもブチでも好きなように呼んでやらぁ。」
「ブチって、イヌじゃねんだから…。」
「何だ。まだ何か文句あんのか? 逆らうとお前、やぐらの補助柱はずしちまうぞ?」
「やだやだやだ! あれはずされたらおいら何もできないですよぉ。判りました明日っからまたよろしくご指導下さい。あ、親方お酌を…。」
 わざとペコペコしてみせるプチに、男たちは大笑いした。

 と、その時店の入口あたりで、ガチャンと皿の割れる音がした。驚いて全員がそちらを見ると、
「何だとてめぇ! もういっぺん言ってみやがれ!!」
 旅人と思われる男たち2人が、互いにつかみあいを始めた。テーブルには酒瓶が倒れていた。酔っ払いのケンカである。

「おお始まった始まった。」
「いいぞ、やれやれ! なぁおいどっちが勝つか賭けるか。」
 男たちは面白がったが、おかみさんは慌てて止めに入った。
「ちょっとちょっとあんたたち。およしよ喧嘩なんか。どうしてもやるんだったら、頼むから店の外でやっとくれ。」
「うるせえ! 女はひっこんでやがれ!!」
 男の1人が彼女を突き飛ばした。カイは駆け寄った。

「おかみさん!」
 抱き起こしながらカイはプチを振り返った。帽子のつばの下の彼の目が、カイの頼みに気づいた。ガタン、と椅子をどかしプチは男たちに近づいた。

「おい、やめろよ喧嘩は。」
 もみあっている2人は彼を無視した。
「な。聞こえてんだろ。いい大人がみっともねぇよ。やめろったらほら。外でやれって。」
 プチは両腕で男たちを戸口の方に押した。すると、
「んだよこのガキゃあ!! ケガしたくなきゃどいてろ!!」
 1人が怒鳴って突き出した拳が、プチの顎に当たった。
「あいてっ。」
 プチはそこを手で撫でて、じろりと男を睨んだ。切れ長の大きな目をぎょろりと光らせると、彼の面構えには予想外の迫力があった。

「ンの野郎…。」
 すうっと息を吸ってから、
「ざけんじゃねぇ表出ろ貴様らぁ!!」
 プチは2人に体当たりした。小柄だがバネのある体である。開け放された戸口から、男たちは道に転げ出た。
「目には目を歯には歯をっつぅのがな、おいらのポリシーなんだよっ!!」
 何が起きたか把握できていないらしい男に、プチは殴りかかった。通行人も足を止め、たちまち人垣ができた。
「何だてめぇ、このクソガキ!!」
 喧嘩していたのは自分たちなのに、もう片方の男もプチに向かってきた。プチはくるっと身をひねり、気合も鮮やかに回し蹴りした。

「よそもんだろぉ貴様ら!! 人んとこ来たら大人しくすんのが礼儀なんだよ!!」
 よろめいた男の襟をつかみ、腹の真ん中にドカッと膝蹴りをぶちこんでおいて、前屈みになった男の顎をプチは反動をつけて蹴り上げた。男は血と前歯を吐き出し、仰向けに倒れて気絶した。

「あとはお前か。」
 もう1人に向き直ると、その男は大きな図体に似合わず、恐怖にすっかり青ざめていた。
「何だよ。やんねぇのかよ。かかってこいよ、おら。」
 後ずさるところにダッと踏み出して、
「どっちだかはっきりしろよこの野郎!!」
「ままま参りました!!」
 男はプチの前に土下座した。全身がぶるぶる震えていた。

「そうか。ま、判りゃいいんだよ、判りゃあな。」
 プチは芝居じみて鼻を鳴らし、
「とっとと消えな。2度とおいらの前に現れんじゃねぇぞ。」
 帽子のつばを目深に下げて、クルリと背を向けた。野次馬の群れはドッといなないた。
「いいぞいいぞプチキャットぉ!」
「かっけぇぞぅ!! ヒューヒュー!!」
「よっ大統領!! あんたが1番っ!」

 戸口でプチは立ち止まり、肩ごしにニヒルな横顔を見せ、
「…おいらに触ると、怪我するぜ。」
 そう言い残して店の中に戻っていった。カイとともに一部始終を見ていたおかみさんは、つくづく感心の面持ちで言った。

「ほんとに負け知らずだねぇ…。あんなに細っこいくせに、あの子と喧嘩して勝った奴はいないんだから…。実際あれはプチキャットじゃないね。ワイルドキャットだよあの子は。」
「そうかもね…。」

 カイはあいずちを打ったが、心の中は誇らしさで一杯だった。荒くれ揃いの鉱山の街では、まずは喧嘩に強くてこそ、男として一目置かれる。つまり強い男を恋人に持つことが、女にとっての花道なのだ。恋人、とはまだ呼ばれないながらも、プチの一番近くにいるのはこの私なのだとカイは思った。

「よぉしカイ。迷惑もんを叩き出してくれたお礼だよ。今夜はプチにふんぱつしてやんな!」
「はい!!」
 おかみさんの一言に、カイは厨房へ駆け込んだ。
 

 騒ぎがおさまると人だかりは散ったが、群衆の中にいた黒いマントの男だけは、しばらくそこに立ちつくしていた。身なりからしておそらくは、貴族の従者と思われる。道行く人が不審げに振り向いても、彼は目の前の定食屋を凍りついたように凝視していた。

「似ておられる…!」
 男はつぶやいた。次に彼は、忙しく目を動かしてあたりの様子を確かめ、四つ角に停めてあった大型の馬車に駆け寄った。

「サイトー様。サイトー様!!」
 男は車内に呼びかけた。
「ジプシー女の情報は確かかも知れません。今の少年は、まさに奥方様のお若い頃に生き写しでございました!」
「まことか!?」

 サイトーと呼ばれた男は聞き返した。深々と男がうなずくと、
「そうか…。では、今度こそ本物かも知れんな。よし、お前はその少年のことをもっと詳しく調べよ。シュテインバッハ家の名が出たあとで、人違いでしたでは許されんのだ。くれぐれも隠密に、迅速にな。」
「心得ましてございます。」
 男は走っていった。

 サイトーは溜息をつき、膝に抱いた包みをあけ肖像画を取り出した。

「奥方様。今度こそ神は、奥方様のお心をお聞き届け下さったのかも知れませんぞ。もしあの少年がヒロ様だとすれば、もうじきご対面がかないます。どうか今しばらく、私めにお時間を下さりませ。」
 サイトーは両手を組み合わせ、悲願の成就を天に祈った。

 

 新月の晩がめぐってきた。
 夕暮れとともに教会には街の者たちが集まってきた。今夜はパン屋の伜ヘルマンと、お針子のアンナの結婚式である。プチはヘルマンと仲がよく、カイもアンナの友達だ。誓いの儀式がおごそかに済むと、あとは教会の広い庭で、賑やかな宴会になった。アンナはお針子仲間が縫ってくれた可憐な花嫁衣装に身を包み、花冠をかぶって幸せそうだった。慣れない晴れ着を着たヘルマンは、すっかり緊張して固くなっていた。

「おめでとうヘルマン、アンナ。」
 グラスを手にプチは祝福の言葉をかけ、新郎新婦を交互に抱擁し、左右の頬を触れ合わせた。
「ありがとうプチキャット。それにカイ。みんなに祝ってもらって、あたしたちほんとうに嬉しいわ。」
「綺麗よぉアンナ。何だかお姫様みたい。」
 カイはうっとりして言った。ヘルマンはプチと話し始めた。そこでアンナはカイを手招いた。2人はあずまやのかげに身を潜めた。

「ちょっと何よ、こんなとこ連れてきて。」
「いいからいいから。内緒話があんのよ。」
 アンナはカイの耳に口を寄せ、
「あんたさ、プチのことどう思ってんの。」
「どうって?」
「どう…って、だから、男と女として、プチとはどうなのよ。」
「ええぇっ!?」

 カイは妙な声を上げてしまった。しーっ!とアンナは人差指を立てた。カイは息声で言った。
「何なのよいきなり! プチとあたしは別に、そういう間柄じゃないんだから。」
「またまたまた、強がり言っちゃってぇ。あたしら何年のつきあいになると思ってんの。あんた見てれば判るわよ。プチを見る目、全然違うもん。」
「違う? 全然?」
「え〜え。全然ですとも。」
 同い年のくせにアンナは姉のような態度になった。

「いいこと、カイ。プチを狙ってる子はね、あんたは知らないだろうけどけっこういるんだから。面倒見てくれる親がいなくたって、むしろしがらみがなくて、いいってよ。おばちゃん連中にもプチを悪く言う人はいないし、うちの婿になって欲しいって思ってる親、かなり多いんじゃないかしらぁ?」

「ちょっと…。だから何なのよアンナ。そんなこと、そんな、急に言われたって…。」
「ね。なにをあんた赤くなってんの?」
「もう!!」
「いたっ。叩くことないでしょ叩くこと! もう、人が親切に教えてあげてんのに。そんなだとあんたね、誰かにプチを取られちゃうから。それでもいいの? 嫌なんでしょ?」

 その言葉にカイの胸はキリッと痛んだ。自分のそばからプチがいなくなってしまうなどと、予想さえしたことはなかったのだ。
「だからさ。好きならちゃんと、プチに言いなさいよ。」
 黙ってしまったカイの肩に触れ、アンナは優しく言った。

「プチだってもう仕事始めてるんだし、子供じゃないわよ。今のうちにしっかりつなぎとめておかないと、自信つけたら彼はもっともっと素敵になるわよ。ふざけてばっかりいるから気がつかないけど、あんなに綺麗な顔した男、そうそういやしないわ。街中の女がプチに恋する前に、彼のオンリー・ワンになっちゃいなさい。」

 言いきかせ終わるとアンナは、花嫁のブーケをカイに渡した。
「これ、あんたにあげる。幸せのバトンタッチ。祭壇に立つのは次はあんたよ。隣にはあんたの大好きなプチ。その日のために今から頑張りなさい。ね。」

 アンナの励ましは力強かったが、カイは思い悩んでしまった。頑張れと言われてもまさかいきなり、つきあってくれと言う訳にはいかない。そんなことを言ったらプチは間違いなく、
「何だよお前。気は確かか? 何か悪いモンでも食ったんじゃねぇの?」
 そう言って大笑いするに決まっている。プチは誰にでも愛想がいいし、街の老若男女ことごとくが彼を愛しているのだと、今さらのようにカイは思った。

(あたしなんかじゃ、駄目かもなぁ…。)

 教会の池のかたわらにしゃがんで、カイは溜息をついた。同じ年頃の未婚の女が、みなプチを狙っているように思えた。彼女は水鏡に顔を映してみた。

(ちっとも美人じゃないしなぁ…。プチはサラサラの金髪なのに、あたしの髪は真っ赤っ赤。スタイルも悪いし口は悪いし、女らしいことなんてちっとも出来ないし…。そう、せめてこの目がねぇ。もうちょっといい形してればなぁ…。)

 さらに首を伸ばした時、ポシャン!と水がはねた。カイは仰天したが、
「なぁにやってんだよ、こんなとこで。」
 聞こえたのはプチの声だった。カイは顔にかかった水しぶきをぬぐいながら立ち上がった。

「ひっどおい! 石投げることないでしょお!? 当たったらどうすんのよぉ!?」
 プチはポケットに両手を突っ込み、
「石じゃねぇよ。クルミ。…っとによぉ、あっちこっち探したべ? もぉみんな帰っちまったよ。」
「そうなんだ。ごめん。」
「何してたんだよ一人で。腹いたでも起こしたのか?」
「違うよ。ちょっとね。一人になりたかったの。」
「へー。お前でもそんなことあんだ。」

 プチは茶化したが、カイは冗談に乗らなかった。どした?と聞かれるかと思いきや、
「わり。こゆこと言うから、おいら駄目なんだよな。」
「…え?」
「いや何でもない。さ、帰んぞ。」
「うん。」

 歩き出したプチのあとに、カイは続いた。新月ゆえ道は暗く、彼の下げている坑道用のカンテラだけが行く手をたどる道案内だった。

「あの2人、無事に一緒になれてよかったな。」
 しばらく無言だったプチが言った。カイはふふっと笑った。
「そうだね。昔っからしょっちゅう喧嘩ばっかりしてたのにね。」
「ああ。一時は別れるんじゃねぇかって言ってたしな。」
「そうそう。あたしアンナに相談されてさぁ。一晩中、話聞かされたこともあるよ。」
「へぇー。なんかあいつらって、お騒がせ夫婦になりそうだよな。」
「言えてる。一生ああだよきっと。」
「だろぉなぁ。んでもいいよなそういうの。思うことそのまんまぶつけあえて、喧嘩しても必ず仲直りして。変にカッコつけて、言いたいことも言えねぇなんて、本物じゃねんだよなそんなのは。」
「うん。あたしもそう思う。喧嘩できるのって、仲がいいからだよね。」

「…おいらたちも、そうなれるかな。」
「えっ?」
 カイはドキリとして思わず立ち止まった。プチも足を止めた。

「ほんとはさ。ずっと、言おうと思ってたんだ。お前に会うたんび、今日は言おう今日は言おうって。でもしょっちゅう冗談ばっかなのに、なんか、今さら…って感じでさぁ。」
 へへっ、とプチは笑い、そのままの口調で言った。
「んでも今日は新月だろ。こんだけ暗かったらおいらにも言えっか知んない。明るかったらぜってー言えねぇけどな。照れ臭くって…。」

 自分の胸を、カイは手で押さえた。心臓が口から飛び出しそうという言葉は、誇張ではないのだと判った。プチの気配から笑いが消えた。

「―――おいら、カイが好きだ。」

 彼女の体の中で、血液がてんで勝手な方向に流れ始めた。今の声が果たして本当に聞こえたのか、幻聴だったのかさえ判らなくなった。膝ががくがくして立っていられず、彼女はその場にしゃがみこんだ。
「カイ? どした? …大丈夫か!?」
 彼女の肩に手をおいて、プチもそこにしゃがんだ。カンテラを顔の高さまで持ち上げ、彼はカイの顔を見た。
「おい泣いてんの? カイ。どしたんだよ。おいこら!」
 見られまいと顔をそむけた彼女の肩を、プチは離さなかった。地面に立てたカンテラが、2人をうっすらと照らしていた。

「違う。違うんだよ…。」
 夢中でカイは言ったが、
「違うって何がだよ。おいらじゃ違うの。おいらのこと嫌いなのか?」
「だから、違うの!! そうじゃないの!」
 彼女はぶるぶると首を振った。涙が飛び散った。

「あんたのこと、嫌いな奴なんかいないよ。そうじゃなくて、あたし、信じらんなくて…。」
「カイ…。」
「だって言えなかったのはあたしの方だもん。言いたかったのはあたしなんだもん。あんたが好きだって、言いたくてさ…。」
 彼女の涙はもう止まらなかったが、プチは笑顔を輝かせた。
「そうなのか? カイ。お前もそう思ってたのか?」

 言葉の代わりに彼女は、大きく幾度もうなずいた。プチはカイを抱きしめた。耳元で彼の声がした。
「ンだよぉ。おいらと一緒じゃんかよぉ。何を我慢してたんだよ、好きなら好きって、言ってくれりゃいいじゃねぇかよお!!」
「なによ、それはあたしの台詞よぉ! 何をグズグズしてたのよ、喧嘩っ早いワイルドキャットのくせに! あたし、不安だったんだから。あんたがどっか行っちゃったらどうしようって、すごく不安だったんだからぁ!」

 ついにカイは声を上げて泣いてしまった。プチはポンポンと彼女の頭を叩き、体を左右に回した。
「ごめんごめん。怖がらせてごめん。言わなくてごめんな。おいら、どっこも行かねぇから。ずっとカイと一緒にいるから。」
「絶対だね。」
「うん。絶対。」
「絶対離れないね。」
「離れない離れない。ずーっと、お前と一緒にいる。」
「絶対だよ…。」

 プチの胸に、彼女は頬をすり寄せた。彼の腕の力がゆるんだ。自然、カイは顔を上げた。間近にプチの、美しい瞳があった。
「大好きだよ、カイ…。」
 その声は、今度ははっきり聞こえた。カイは目を閉じた。唇が、プチのぬくもりを受け止めた。

 月のない暗闇の夜、2人の恋はひそやかに始まった。この幸せがいつまでも続くと、カイは信じて疑わなかった。満ちた月はすぐに欠けゆく。そのことを彼女は、思い出そうともしなかった。

 

 翌日のことであった。
 店に着き、エプロンを結んでいたカイのところに、バタバタとおかみさんがやってきた。
「ちょっと、ちょっとカイ。あんたプチから何か聞いてる?」
「…え?」

 ぎくっとして彼女は問い返した。昨日の今日で、まさかもう噂になっているのかと思ったが、
「さっきね、プチのこと聞きに変な男が来たんだよ。仰々しい黒絹のマント着て、帽子も取らないでさぁ…。言葉つきも偉そうで、何だか気持ち悪かったよ。何者なんだろう。なんでプチのこと探してるのかね。」
「プチのこと…。」
 カイの胸はえもいえぬ不安で泡立った。みなしごの彼を探している男。仰々しい黒絹のマント…。けれどもそれを打ち消すが如く、彼女は別のことを思い出した。

「ねぇおかみさん、それって、あれじゃないかな、仕返し。」
「仕返し?」
「ほら、この間プチがやっつけた男。酔っ払って喧嘩始めた。あいつらってこの街のもんじゃなかったよね。旅行者か、じゃなきゃ流れ者でしょう? そいつらがプチをうらんで、仕返しに来たんじゃないかな。」

「そうか逆恨みかい! なるほど、それはありえるね…。」
「それでおかみさん、そいつに何て言ったの。プチはどこに住んでるとか、まさか教えたりしてないよね。」
「当たり前だよ、あたしがそんなことするもんかい。…だけど、ねぇ…。」
「だけど? だけどなに。何かあるの?」

 おかみさんの口吻に引っかかるものを感じ、カイは畳みかけて聞いた。するとおかみさんは、
「そいつはね、もう知ってたんだよ。プチが市長のうちの下人小屋に住んでることも、昼間は鉱山で働いてることも、マイヤーさんの班にいることも、それからあんたと親しいことも…。」
「何ですって…。」

 カイの顔から血の気が引いた。おかみさんは重大機密を相談する表情になって、
「あんたね、今夜にでもプチにこのこと教えてやんな。人間、恨まれると怖いんだよ。何だったら市長にも相談して役人に来てもらったほうがいい。いくらプチが喧嘩に強くたって、飛び道具でも持ってこられたら大変だよ。あたしたち街のもんがさ、一致団結してあの子を守ってやんなきゃ。そうだろカイ。あんたもしっかりするんだよ。」

「そうだね…。」
 応えたはものの、カイの不安は消えなかった。自分で言っておきながらなぜか、彼女には男の目的が仕返しだとは思えなかった。それはいわば恋する者の直感であった。
 

 夜になり店を終えると、カイは自宅の前を通り過ぎて、まっすぐにプチのもとへ行った。市長宅の母屋の玄関先には、大型の馬車が停まっていた。カイはハッとしたが、市長の元への来客は別段珍しいことではないと思い直して、そのまま厩に走った。馬車の脇腹に付けられた家紋が、青地に銀色の獅子の印、シュテインバッハ公爵家のものだとは、都へ行ったことのないカイには判るはずもなかったのだ。
 

 プチは厩の自室にいた。彼はカイの顔を見ると、
「よぉ。どした。何ハァハァいってんだよ。」
 そう言っていつも通りに笑い、干草のソファーの位置を譲った。崩れるようにそこに座って、カイは呼吸を整えた。

「どしたんだって。汗びっしょりじゃねぇか。誰かに追っかけられたのか?」
「違うよ、それはあたしじゃない。」
「はぁ?」
「ねぇプチ、誰かが、あんたのこと探してまわってるよ。」
「おいらをぉ? …誰が。」
「判んない。でもね、今朝がた変な男がおかみさんとこに来て、根掘り葉掘り聞いてったんだって。もしかしたらあんたに喧嘩で負けた奴がさ、逆恨みして探してるのかも知れないし、じゃなきゃ、じゃなきゃもしかして…」

「ば〜か。んなことで必死に走ってくんなよ。」
 カイの言葉を遮って、プチは一笑に付した。
「喧嘩に負けた逆恨みだぁ? んなもんが怖くて喧嘩できっかよ。仕返しなんざいつだって来い。いくらだって相手になってやらぁ。」

「あんたはそう言うけどね、プチ。」
 座り直して彼女は言った。
「相手が大勢だったらどうするの。あんたがいくら強くたって、せいぜい3人がいいとこでしょ。逆恨みする奴なんてだいたいが卑怯者に決まってるよ。ねぇ、何かあってからじゃ遅いんだよ?」
「大丈夫だつーの。信じろよおいらを。」
「信じる信じないの問題じゃないよ。あんたに何かあったら、あたしは…」

 またも泣きそうになったカイの頭を、よしよしとプチは撫でた。
「判った判った。ちゃんと気をつけるよ。変な奴らに会ったら逃げる。おいら逃げ足速ぇかんな。お前もよく知ってんだろ?」
「知ってるけど…。ほんとに気をつけてくれるね? プチ。」
「ああ。つけるつける。カイが悲しむような真似はしない。それでいいだろ?」
「ほんとだね。」
「うん。お前が悲しむのが、おいら一番悲しいからさ。ほら、約束だ。指切りしよ。」

 プチの差し出した小指に、カイは指をからめた。ようやく彼女は安心し、普通に話ができるようになった。

「ねぇ、なんか市長さんとこ、今夜もお客さん来てるんだね。玄関に大きな馬車が停まってたよ。」
「そうみたいな。多分どっかの偉い人だろ。今度教会の修理するとか言ってたから、その打ち合わせかも知んねぇな。」
「ふうん。じゃあ今夜もあんた、ご飯遅くなっちゃうね。何か持ってきてあげようか。」
「いいよいいよ。今日は夕方ハゼックのおっさんに焼きソーセージおごってもらって、そんなに腹減ってねんだ。だから今さ、ちょっと勉強してたとこ。ほら。」
 プチは1冊の本を彼女に見せた。

「え、なになに? ええと…『鉱物組織の分類と特性』…うわぁ難しそうー!! プチってこんなの読めるんだ!!」
「うん、字は読めんだけどさ…ただ、どーも中身が頭に入んねんだよな。気がつくと寝てんの。でも2ページは読んだな。大したもんだろ。」
「大したもんだね。」
 カイは言い、勉強の邪魔をしてはいけないと思って立ち上がった。

「じゃ、今夜は帰るね。居眠りしないように頑張って。」
「おう。なるべく頑張るわ。またな。」

 2人は手を振りあった。カイは外に出、さらに道に出ようとした。しかし彼女はそこで立ち止まった。母屋から走り出てきた人影が3つ、厩へ向かうのが見えたからだ。中の1人は市長だった。何事だろうとカイは思い、厩の裏に回った。小窓はあるがとても背が届かず、彼女は壁に耳を押しつけた。
 

「な…何ですかいきなり。」
 プチの声は驚いていた。次に言ったのは市長だった。
「いやいや、ちょっとね、こちらの方たちが、君に会いたいとおっしゃるもんだから。」
「会いたいって、誰ですかこの人たち。こんな人、おいら知りません。」
「それがね、都からわざわざ―――あっ! ちょっと、何を…」
 カイには見えなかったが、2人の男たちはずかずかと干草を踏みつけて中に入り、間近でプチをじっと見た。

「似てる…。本当に奥方様にそっくりだ…。」
「サイトー様もそう思われますか。私も最初は、我と我が目を疑いました。」
 ともに黒マントの男2人に凝視され、プチはとまどい、救いを求めるように市長を見たが、男はいきなり、プチのシャツの襟に手をかけた。

「なっ、何すんだよっ!!」
「いいから大人しくするんだ!」
「触んなヘンタイ!! 市長! なんだよこいつら…離せよっ!!」
 プチは男の顔面を殴った。男は吹っ飛んだが下は干草であるからダメージはなく、すぐに起き上がって再びプチを押さえつけた。

「やめろ――っ!! なにすんだよっ!」
「何もしやしない、肩を見るだけだ! ここにいる市長に聞いた。そなたの左肩には青い入墨がしてあるそうだな。その紋様を確かめるだけだ。だからそう暴れるな!!」
「嫌だっつってんだろ! 離せーっ!!」

 ドカッ、とプチは2人の男の腹を蹴った。思わずうずくまった彼らを押しのけ、プチは外に逃げようとしたが、
「待ちなさいプチ!!」
 戸口を塞いだのは市長だった。味方のはずの彼までもが、
「誰か! 誰か来なさい!! 早く――っ!!」
 大声で手勢を呼んだ。プチは信じられない顔をした。

「どうしたんですか旦那!」
 バラバラと集まってきた下人たちに市長は、
「プチをおさえつけなさい。この方たちの前に座らせるのです、早く!」
 何が何だか判らなかったが、男たちは市長の命令に従った。腕を足を押さえこまれ、それでも抵抗するプチの襟を、黒マントの男はむんずと掴んでビリビリと縦に破いた。

「おお!!」
 驚嘆の声にサイトーは跳ね起きた。プチの肩にあったのはまさしく、咆哮を上げる獅子の紋様、シュテインバッハ家の家紋であった。

「神よ…!!」
 いきなり虚空に両手を組んだサイトーを、下人たちは気でもふれたかと思ったが、次の瞬間彼ともう1人の男は、プチの前で額を床にすりつけた。
「お探しいたしました若様…!! よくぞ、よくぞご無事で…!」

 何が起きているのか判らない一同の中、真っ先に市長は言った。
「それではやはり、この少年が、お探しの…。」
「そうだ。」
 サイトーは袖で涙をぬぐい、
「間違いない。この御紋が何よりの証拠。これはまさしく、公爵家家訓に従ってご嫡男のお体にのみ彫りこまれる青獅子の紋…。」
 感無量、といった風情のサイトーは、そこでハッと我に返り、
「無礼者! ただちにそのお方から手を放せ!!」
「放せって…。」

 下人たちは不満そうに顔を見合わせた。彼らとて命令されてやったこと、怒られる理由はなかったが、
「このような辺境の地、そなたたちが知らぬのも無理はない。2度とは言わぬ故しかと耳に刻め。よいか、恐れ多くもこのお方のご本名は、ヒロ・リーベンスヴェルト・フォン・シュテインバッハ。王家に次ぐお家柄にて王位継承権も持つ我が国第1位の貴族、シュテインバッハ公爵家のご嫡男であらせられる!」

 ヒッ、と奇妙な悲鳴を上げて下人たちはプチの…いや、ヒロの体を放した。サイトーは説明を続けた。

「若様はご幼少の折に賊どもにさらわれ、以来14年間、公爵閣下のご命を受けて私どもは諸国を訪ね歩いた。その思いが今、やっとむくわれたのだ。そう思えばそなたたちにも、感謝せねばなるまいな。若様を今日まで、お預かり頂いたことになる。礼を申すぞ市長。いずれ正規の使者をつかわし、そなたたちの恩に報いることにしよう。」

「はっ…!」
 市長が最敬礼するのを見て、下人たちは慌てて土下座した。ヒロだけがまだキョロキョロしていたが、やがて彼はつぶやいた。
「なに…。このおいらが、公爵家の跡取り…?」

 

 サイトーは市長に命じ、屋敷内で最も豪華な客室をヒロのために開けさせた。といってもそれは今夜だけで、明日の朝にはここを発って都へ向かうとサイトーは言った。ヒロは湯あみさせられた後サイトーの持ってきた衣装を着せられ、客室の中に(ヒロからすれば)閉じ込められてしまった。念のためにとサイトーは、部下の男と馬車の御者に、客室の扉を守らせた。そのため誰も入ることはできず、ヒロも外へは出られなかった。

 騒ぎを聞きつけ集まってきた街の人々は、あのプチキャットが大貴族の跡継ぎだったと聞いて、まるで物語のようだと感心した。

 

 夜も更けた頃、市長夫妻はベッドに入った。するとベランダの窓をトントン叩く音がした。どうやら風ではなさそうである。窓のそばに立ち、市長は言った。
「どなたですか。泥棒さんですか?」
 すると聞こえたのはヒロの声だった。
「おいらです。ここ開けて下さい。お願いがあるんです。」
 市長は驚いてカーテンと窓をあけた。
「プチ…。何をしてるんですかこんな時間に。それにこんなところから…。」
「すいません。ドアの外には見張りがいて、こうでもしなきゃ出らんなかったんです。」
 窓枠をまたいで部屋に入ると、彼は床に両手をついた。

「市長、お願いです、おいらをここにいさせて下さい。都になんか行きたくないです。鉱山の仕事、やっと少しずつ覚えたのに、そんないきなり公爵だとか何だとか言われても、おいらには判んないです。ここにいたいんです。お願いします。どうかここに置いて下さい!」

 市長はヒロのそばにしゃがみ、
「とにかく、さぁ、顔を上げて下さい。君の言いたいことは十分判りましたから。」
「え、それじゃあ…。」
 笑おうとしたヒロに、市長は悲しげに首を振った。

「でも、残念ながら聞いてはあげられません。あの人たちと一緒に都へお帰りなさい。」
「帰りなさいって…。」
 ヒロは言葉を失った。市長は淡々と言った。

「前に、話して聞かせましたね。14年前、君を抱いて教会の前に倒れていたのは、見知らぬ中年のご婦人でした。ガリガリに痩せて、髪の毛も囚人のように短くて、息はもうありませんでした。でもその人に守られていた君は、丸々と太って健康そうでした。それを見て私は思ったんです。ああ、この子は愛されているんだと。お母さんと、それに神様が、君を十分に愛しているんだと。そして私は君をこのうちに連れて帰りました。神様にお預かりした子なんだと、そう思って育てました。いつかお迎えが来るような気は、正直、ずっとしていたんです。その時は笑って送り出してやろう。この子のいた世界に帰してやろう。そう思っていたんですよ私は。」

 手はついたまま顔だけ上げて、ヒロは市長を見つめた。叱る時も褒める時も、市長の口調はこのように穏やかだった。
「そのお迎えが、やって来たんです。神様ではありませんでしたけれども、君の本当の御両親のお使いです。君は帰らなくてはいけません。待っている人が、いるんですよ。」
「そうですよプチ。」
 市長夫人も反対側に屈んで、彼の背中を撫でた。

「あなたのおうちは公爵家だというではありませんか。しかもご嫡男というのなら、将来に何の不安も苦労もありません。誰もがうらやむことですよ。こんな田舎の、しかもあんな小屋に住んで、毎日つらい仕事をするのに比べたら、楽園のような話ではありませんか。」

「いいえ…。」
 ヒロは首を振った。床にぽたりと涙が落ちた。
「おいら、ここが好きなんです。ずっとこの街にいたいんです。仕事は辛くなんかありません。マイヤーさんもハゼックさんもいい人です。それに―――」
「聞き分けて下さい、プチ。」
 しかし市長は言った。

「寂しいのはほんの一時です。どこへ行っても、君ならすぐに馴染めます。本当のご家族と暮らすのに、何が嫌だと言うんですか。新しい友達も、きっとすぐに出来ますよ。」
「嫌です…。嫌です嫌です嫌です! おいらはずっとここにいるって、そう約束したのに…!!」
「いいえ、無理なんですプチ。」
 すっと背中を伸ばして、市長夫人は言った。

「いいですか、よくお聞きなさい。あなたをお迎えにやって来たのは、ただの貴族のお使いではなく、公爵家の方なのです。私の母は昔、都の貴族様のお屋敷で下働きをしていたことがあって、だから私も聞いたことがあります。シュテインバッハ公爵家というのは、国王ご一家の次に身分高きお家柄。その公爵家のご命令に逆らうことが…何を意味するか判りますね?」

 ぴくり、とヒロは涙を止めた。

「先程、お使者様はこう申されました。街の者たちの全てに、いずれ十分な報酬を与えると。公爵家にはそれだけの力があるのです。逆に、もしあなたを帰すことを拒んで公爵家のお怒りをかったら、街の1つや2つ潰すくらいのことは、大貴族の権力を持ってすれば赤子の手をひねるようなものなのですよ。」

「奥様…。」
 絶望の表情で、ヒロは2人を見た。夫妻は辛そうに目を伏せた。ヒロには判った。もしこれで逃げるなどして自分の気持ちを押し通せば、最悪の場合、市長たちの命さえ危うくなってしまう…。

 あの男たちに従うしかない。ヒロはガクリと肩を落とした。

 

 翌朝、食べたこともないような豪華な朝食に、ヒロはほとんど手をつけなかった。お召し変えをと言われゴテゴテ飾りのついた服を着せられる間、彼は人形のように無抵抗だった。意志の全てを放棄した、魂の抜け殻にも見えた。

「それでは出発いたしましょう。若様、何卒お馬車の方へ。」
 サイトーに肩を抱えられ、ヒロは虚ろな目をして階段を下りていった。庭先には街の者たちが黒山になっていた。市長と神父たちが彼らをなだめているところへ、ヒロが姿を見せた。

「プチキャット!!」
 誰かが叫んだ。市長は青ざめた。
「いけません、前に出ないで! お使者様の邪魔をしないで下さい!」
 けれども叫びはあちこちで上がり、
「行っちまうのかよぉ! プチ! 返事しろよおい!!」
「もう帰ってこねぇのか!? これで会えないのかよ――!!」

 サイトーは顔をしかめ群衆を肘で押しやって、
「ああもううっとおしい…。どかぬかこの無礼者ども!! さ、若様お早く!」
 馬車の扉をあけてヒロを中に入れた。群衆は悲嘆の吐息を漏らした。
「出せ! 1日も早く公爵家へ戻るのだ、急げ!」
 ヒロの隣に乗り込みながらサイトーは御者に命じた。馬車はゴトリと走り出した。

 

 カイは夕べからずっと、納屋に籠って出てこなかった。なだめてもすかしても反応のない娘に手を焼いて、母親はアンナを呼んだ。

「2人きりにして下さい、おばさん。」
 納屋の前でアンナは言った。
「その方がカイも話してくれると思うの。心配いらない。ちょっとショックが大きかっただけよ。」
「ならいいけど…。あの子がまさか早まったことでもしやしないかと…。」
「大丈夫よ。カイはそんなに弱くないから。ね。」
 母親は離れていった。アンナは納屋の扉に口をよせた。

「カイ。カイ、聞こえてる?」
 返事はなかったが気配が動いた。アンナはさらに言った。
「いつまでそんなとこに閉じこもってるつもり。プチはもう行っちゃうよ。あんたに会いたいに決まってる。どうしてそう意気地なしなのあんた。」

 アンナは語気を強め、
「いい? よく聞いて。プチはあんたと一緒にいるって約束した。でもね、これは彼にだってどうしようもない出来事でしょ? そんなすごい貴族の跡取りだったなんて、プチ自身知らなかったんだから。でもお迎えが来た以上、どうしても帰らなきゃならない。貴族に逆らうことなんて、市長にも出来る訳ないじゃないか。この街を離れるのを、一番嫌がってんのはプチだよ。なんであんたにはそれが判んないの。あんたが最後に会いに行ってやらなかったら、この先プチはずっと、あんたを置いてった気持ちになって苦しむ。あんたとの約束をはたせなかった自分を、一生憎むかも知れないんだよ。プチってそういう奴だろう!? あんたが明るく送り出してやんなかったら、プチの行く先は地獄と同じ。好きな男をあんた、そんな目に会わせて嬉しいの!?」

 バタン、と扉が開いた。真っ赤にまぶたを腫らしたカイが立っていた。
「あーあーあー、何て顔してんのさ。まぁいいよとにかく行きな。お隣なんだからまだ間に合うよ!!」
 アンナはカイを納屋の外に引き出し、どんと背中を突き飛ばした。スカートをたくし上げてカイは走り出した。
「ッとに世話の焼ける子だよ。」
 アンナは苦笑し、見送った。
 

 共同井戸のそばを駆け抜けた時、カイは行く手に馬車の背面を見た。街の者たちが何人か馬車を追って道に出た、その1人が彼女に気づいた。
「カイ!!」
 全員が後ろを振り向いた。カイは靴を脱ぎ捨てた。
「プチ―――っ!!」
 カイは呼んだ。けれども馬車との距離は、すでに50メートルはあった。
 

 馬車の中でサイトーは、ヒロの気を引き立たせようとあれこれ話しかけていた。
「これより3日の旅になりますが、都は賑やかで楽しいですぞ。毎日のように市が立って、広場には芸人どももおります。人気のある芝居小屋には客がおしかけ、城下は活気にあふれております。若様とお歳の近いご子息がた4人とは、すぐに仲良くなれますですよ。」

 しかしヒロはうなだれたまま、身動きひとつしなかった。さすがのサイトーもいささか心配になったところへ、
「プチ―――っ!!」
 かすかに少女の声がした。
「ん?」
 サイトーが気づくより早く、ヒロはビクリと顔を上げ馬車の窓をあけようとした。
「若様! なりません危険でございます!!」
「放せっ!」

 ヒロは身をよじってサイトーの手をふりほどいた。ガタガタと窓を開け、彼は首を突き出した。
「プチ―――っ!」
 カイは髪を振り乱し、裸足の脚を膝上まであらわにしてこの馬車を追っていた。
「カイ!!」
 ヒロは手を振り、御者に向かって、
「停めろ! な。停めてくれよ頼むから!」
「いけません若様!」
 サイトーは肩をかかえようとしたが、
「停めねぇならここで舌噛んでやんぞ!! カイーっ!! 停めろよ、停めろってんだよ――っ!!」

 ヒロは両手で馬車の壁をところかまわず殴った。別れを惜しむくらい仕方なかろうと、サイトーもついに観念した。
「停めろ。」
 反対側の窓から顔を出して、サイトーは御者に告げた。馬車はゆっくり停まった。

「外へ出ることはなりません。こちらからお話し下さい。」
 サイトーは言った。ヒロはチラリと彼を見て、その細い肩先までを窓の外に突き出した。
「プチ…。」
 ようやくカイは追いついた。ヒロは彼女の手を掴んだ。と、カイはそこに何かを握っていた。
「これ、あんたにあげる。持ってって。」
 受け取ったヒロは目を見張った。銅製に1つだけ青い石のついた、十字架のペンダントであった。

「お前これ、死んだばぁちゃんの形見…。お前の宝物じゃねぇかよ!!」
「うん…。」
 苦しい呼吸の下、カイは精一杯の笑顔を見せた。
「あんたに、持っててほしいの。どこへ行ってもこの十字架が、きっとあんたを守ってくれるよ。」
「カイ…。」
 涙を浮かべているヒロに、彼女は明るく言った。

「ね? あたしの思ってた通りだろ。あんたはやっぱり王子様だった。赤ん坊の頃悪者にさらわれたってくだりまで、あたしが言った通りじゃないか。いつかお迎えが来るはずだった。物語はみんなそうだよ。お城に戻った王子様は、大勢の家来にかしずかれて末永く幸せに暮らしました。そうだよね、プチ?」

 自分では笑っているつもりだったが、カイの頬には涙が伝っていた。

「元気でねプチ。あたしのこと忘れないで。あたしも忘れないよ。あんたと居れて楽しかった。あんたのこと、大好きだったよ。…あーあー、何だよ男だろ? みっともない、べそべそすんじゃないよ。ほらほら、家来さんに笑われるから。」

 ポケットからハンカチを出して、カイは彼の顔を拭いてやった。ヒロは幾度もうなずいた。様子を見てサイトーは言った。
「よろしいですな。出しますぞ。…娘。そこは危ない。下がりなさい。」
 ギィ、と車輪をきしませて馬車は再び動き出した。

「ばいばいプチ! ばいばーい!!」
 ちぎれんばかりにカイは手を振った。ヒロは袖口で涙をぬぐい、大声で叫び返した。
「カイ――っ! ありがとな!! ありがとな――!!」
「ばいばーい!! 元気でねー!!」

 岡の向こうに馬車の姿が見えなくなるまで、カイはその言葉を繰り返したが、
「ばいば… プチ…。ばい…」

 最後は嗚咽に変わった。彼女は道に座り込み、両手で顔をおおって泣いた。子供の頃からの思い出が、いちどきに脳裏を駆け抜けた。都ははるかかなたの地。プチにはもう会えるはずもない。王子様が女の子を迎えに来るのは、あれはお話だからなのだ。本当はありえない夢物語なのだ。公爵家の跡取りと田舎の坑夫の娘では、どう祈っても交わらぬ人生であった。

 

 その後の10日間を、カイは独りで泣き暮らした。さらに1か月の間、夜になると彼女は涙を流した。ふた月が過ぎ半年が過ぎた頃、カイはようやく静かな心でプチを思い出せるようになった。もちろん胸は痛んだが、心の傷口をうっすらと、懐かしさの膜が覆い始めていた。

 公爵家に戻ったヒロも、想いは同じだった。ルージュたちとの出会いや礼儀作法の習得などでヒロの毎日は多忙を極めたが、彼は時おりふところからカイの十字架を取り出しては、微笑みながら語りかけた。
 

 引き裂かれた初恋の2人を、運命はいずれ再会させることになるが、それは物語がもっと進んでからのこと、今の2人には知る由もなかった。

<完>

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