【第3部・第2章】 最終回
 
 ナヴィールは面舵(おもかじ)をいっぱいに取って、船首を北に向け大阪湾に入った。西の大都市大阪の空の玄関である関西国際空港は、神戸・徳島・淡路島、それに大阪港と関空を結ぶ水上交通路の船駅として、ポートターミナルを備えている。空港の旅客ターミナルへはシャトルバスが頻繁に運行しており、アクセスは至便だ。湾内でナヴィールとすれちがった定期便の高速艇には、ほぼ満員に近い乗客が乗っていた。
 埠頭が近づくと、五人はデッキに立った。ジェット機が轟音とともに離陸していくのが見えた。フェリー乗り場には一艘の船が停泊していたが、そこから五十メートルほど離れたところで男が一人、あきらかにこちらに向けて手を振っていた。糸原であろう。ナヴィールは彼に導かれて微速前進し、岸壁に横腹をつけた。
 深川の投げた太いロープを、糸原は繋留杭にしっかりと結んだ。しかしなにぶん専用の乗降場ではないためタラップ板が安定しない。船腹と埠頭のコンクリートとの間には一メートル弱の隙間があった。一またぎとはいえ踏みはずせば海に落ちる。拓はジャケットの上から由布子の腰を抱き、
「いいな、二人三脚の要領で、せーので飛べよ。いくぞ。」
 ポン、とウエストのあたりを叩いて、
「いっせーのっ…せっ!」
 タッ、と踏み切ったのは同時でも、目測は由布子の方が大きくとったらしい。むしろ彼を引きずる恰好になって着地し、拓はあやうく転びかけた。
「走り幅跳びじゃねぇっつの、馬鹿。」
 腕を放しながら彼は、由布子の額を軽くこづいた。ごめん、と笑う彼女と拓の雰囲気が、昨夜までと違うことに気づかぬ高杉たちではないだろう。重ねあわせた唇の意味は、恋人たちにとってこんなにも深い。
「んじゃ、まぁ…名残はつきないけど、我々はひとまずここで、にしましょうかね。」
 高杉は言った。彼の後ろに幸枝と陽介と、糸原がいる。由布子は改めて頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。ここまで皆さんに送って頂けて、嬉しいです。そんな遠い国に行くわけじゃないですけど、精一杯、できる限り、頑張ってきます。」
「体にだけは気をつけてね。無理しないで。何かあったら遠慮なく連絡ちょうだいね。」
 幸枝が言うと、となりで陽介も微笑んで、
「行ってらっしゃい。昨日の約束、忘れないで下さいね。」
「ん? 何だ陽介。先生となんか約束したのか。」
 耳ざとく尋ねた高杉に彼は、
「内緒。俺と由布子さんの秘密。…ね。」
 共犯者の笑い方をされて、由布子もうん、とうなずいた。
「陽介さんも、お仕事頑張って。彼女と仲よくね。」
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。みなさんお元気で。」
 友人という名の人生最高の宝物に、由布子はもう一度礼をした。先ほど船の中で一人ずつと握手を交わした時も、彼女はあやうく泣きそうになっていた。そう度々ではいささかみっともなかろう。由布子は必死に涙をこらえた。
「んじゃ…俺は、ロビーまで行ってくっから。」
 彼女の横で拓がそう言うのを、誰も不自然には思わなかった。彼は、行くぞと言って由布子の袖を引いた。埠頭のコンクリートは白く長い。バスターミナルへと歩き始めてすぐ、
「フレーッ、フレーッ、由布子!」
 背後で高杉の声がした。二人は驚いて振り返った。応援団長よろしく高杉が、両腕をV字型に突き上げていた。
「フレーッ、フレーッ、由布子!」
 即座に陽介が習った。糸原も同様であった。四人は一列に並び声をそろえて、彼女へのエールを繰り返し送ってくれた。これには由布子も抵抗しきれなかった。四つの影が涙に歪んだ。くっ、と思わず嗚咽が漏れて、彼女は掌を口にあてた。気づいて拓は腕を伸ばし、彼女の肩を抱きよせた。すると、
「いよっ、ご両人ー!」
 エールはいきなり歓声に変わった。
「いいなーっ、らぶらぶーっ!」
「一緒に乗ってけ拓! 戻って来んでいいぞーっ!」
「お熱いわよっ、お似合いね!」
「がんばれにいさーん!」
 てんでに冷やかされて拓は呆れ、
「何なんだよあいつら。盛り上がっちゃって。」
 笑ったところへ実に信じられないことが起きた。客を積み終えて出発時間を待っていた一艘のフェリーから、喝采とともにうわあっと歓声が上がったのである。二人はぎょっとして船を見た。野次馬はデッキにすずなりで、下の船室の窓からも顔という顔が突き出されている。団体客ではないらしい。たまたま乗り合わせた見知らぬ乗客たちが、今のエールを耳にして突如、一致団結してしまったのだ。
「ユウコさんっ、綺麗よーっ!」
「お熱いお熱い! うらやましいっ!」
「いつまでもお幸せになぁ!」
「人類の繁栄は君たちの肩にかかっている! 夜ごとに精進してくれたまえ!」
 口々の声援と指笛に、一瞬由布子と顔を見合わせた拓は、彼女の肩に回していた手をぐいっと強く引き寄せたかと思うと、フェリーに向けてVサインを出して見せた。乗客たちは大喜びした。由布子は幸せを通り越して身の置き所を失い、どうしていいかわからずに、拓の胸に顔をうずめた。やんやの大喝采にフェリーの船長も気づいたか、ブォオーッと汽笛まで鳴らされてしまった。ナヴィールの五人もいつの間にかフェリーのすぐそばまで来ており、
「それではーっ、若き二人の前途を祈ってーっ!」
 衆人のさえずりを割って響いたのは、潮風に鍛えぬかれた糸原の声であった。
「どちら様も万歳三唱、七回リピートでお願いします! よろしいでしょうか! いよーおっ!」
 万歳、万歳と繰り返される中、二人はターミナルに向かって進んだ。幻の花吹雪が由布子の目に映った。フェリーで手を振り続けているこの人たちとは、多分二度と会うこともあるまい。つかのまの、行きずりの、すれ違っただけの他人に対して、人間とはこれほどまでに暖かな心を示せる生き物だったのか。燦爛たる宝石のライスシャワーを、由布子は全身に浴びせられていた。万歳と叫ばれるたび、ありがとうと彼女は応えた。見も知らぬあなたのその笑顔を、私は死ぬまで忘れない…。シャトルバスが発車しても、彼女の涙は止まらなかった。拓は由布子の頭を自分の胸に抱きよせて、子守歌のリズムでずっと、彼女の肩を叩いていた。
 
 搭乗手続きを済ませ、ロビーで案内を待つ間、二人は互いの手にしっかりと指をからめていた。陽介の彼女や高杉の歌、幸枝のフラメンコなど、話題はおもに夕べのパーティーのことであった。消え落ちる砂時計の粒を、二人はもう畏れていなかった。
 出発案内の声が流れた。上海行き・全日空155便。由布子の乗るボーイングであった。二人は立ち上がりゲートへ歩いた。人工の境界が床の上に並び、行く者・送る者を隔てようとしていた。
「じゃ、な。」
 立ち止まって、拓は言った。同じ機に乗るらしい客たちが、二人の脇を次々通り過ぎていった。
「うん。じゃあね。」
「気をつけてな。馬鹿食いすんなよ。」
「わかった。」
「無理すんなって言っても無理だろうけど、マイペースでな。」
「そうね。あなたもね。大変だと思うけど、頑張って。」
「ああ。由布子もな。ランファンス、ちゃんと作れよ。」
「うん。拓こそ、預金高日本一目指して頑張ってね。」
「違うだろそれ。」
「え?」
「日本一じゃねぇよ。どうせやんなら、世界一。」
「世界一…。」
「そ。世界、いち。」
 どちらからともなく、二人は唇だけを寄せあった。暖かく、柔らかく、重なりあって想いを伝えるもの、唇。
「じゃあ、ね。」
「じゃ、な。」
 彼女は右足を引いた。左足が続いた。指先が離れた。セキュリティチェックは目の前である。そこに入ってしまえばもう拓の姿は見えない。だから、一歩でも、一秒でも長く…しかしその時二人の間に、出張らしきビジネスマンの一団がどやどやと割りこんできた。灰色の壁が彼の姿を隠した。何という残酷な隔てかただろう。行列に押し込まれて彼女はあっけなく、出発ロビーから三階へ降ろされた。
 出国手続きを終えたあとは、ウィングシャトルに乗らなければならない。案内板に従って由布子は進んだ。アナウンスと雑踏がやけに大きく聞こえるのは、フロアの天井が高いせいだった。そうか、ここは吹き抜けになっているのだと由布子は気づいた。あのガラスの向こうはおそらく、二人がさっきまでいた出発ロビーだ。拓はもう、ポートターミナルへ戻るバスに乗ってしまったのかも知れない。広大な滑走路を離陸していくジェット機のどれが上海行きなのか、見分けなどつきはしないだろう。埠頭を離れたナヴィールから、拓はきっと西の空を見上げていてくれる。それでいい、もうそれだけでいい…。
 由布子は左手で唇に触れた。拓の唇の暖かさを思い出すためだった。この位置の、この角度で、たった今交わしたくちづけの甘さ。彼がそこにいるかのように由布子は、ゆっくり顔をあおむかせた。
 ぴくり、と彼女は足を止めた。
 ガラスの向こうは四階の出発ロビー。見送るものに許された最後の場所。由布子はそこに人影を見た。一瞬、幻だと思った。恋しさが形をもって虚空に映じたのだと思った。
「拓…。」
 面影ではなかった。見下ろしているのは彼自身だった。両手が拳の形なのは、ガラスに打ちつけて私を呼んだからだろう。あんなところから見渡せるなんて、彼も知らなかったに違いない。背後の人波を彼女は忘れた。この広い国際空港で、拓と由布子はいま二人きりで向かい合っていた。厚いガラスも空間も恋人たちの前では意味を失う。瞳だけで伝えあえる言葉があることを、由布子はこの時初めて知った。
  行けよ。見てるから。ここでお前のことずっと見てるから。
  そうだね。でも私もふりむいていい? あなたを見ていたい。一分でも、一秒でも長く。
  欲張りだな。いいよ。けどつまづいてすっ転ぶんじゃねぇぞ。
  大丈夫。転んだら、ちゃんと起きるもの。
 彼女は歩き始めた。数歩あるいては振り向き、拓と眼差しを交わし、また振り向いては微笑みを交わした。
 別れではない。由布子は確信した。これは別れではない。いつか再び会う日を信じて、拓と私は手を放したのだ。この指が、肩が、唇が彼を覚えている。幾千の夜と朝を繰り返し、その果てに私たちは必ず、もういちど手を取り合うだろう。
 バイバイ、拓。
 最後にふりかえった時、由布子は手を振った。彼も大きく振り返した。
 その日まで、その時まで。バイバイ、私の拓。
 信じている。この想いは、時を経ても決して変わらない。あなたにも、私にも、これからいろいろな出来事があるだろうけれど。
 あなたが好き。だから心は、いつもあなたのそばにいる。
 鋼鉄の鳥が、由布子を乗せて舞い上がった。空から見る海もやはり、果てなき群青にきらめいていた。
 
 
「ああもうっ! 菅原ちゃんごめん! 資料もう一回練り直し!」
 オフィスに戻ってくるなり関根は、書類の束をデスクに放り出して椅子に倒れこんだ。あと十分で零時になる。フロアにはもう人影はなかった。
「いったいどうなさったんですか。この数字はもう落とせないギリギリのラインですよ。何が問題だっていうんですか。」
 由布子が聞くと関根は、あーあ、と息を吐いてくるりと椅子を一回転させた。
「ほんっとに融通のきかないお役人どもよ。たかが百ドル二百ドルの差でつっ返してきて、外資優遇措置の上限がなんぼのもんだっていうの。そんなこと言ってるからアジアはいつまでも不景気なのよ。まったくもう、これでまたスケジュール狂うわ。…八重垣くん悪い、コーヒーいれて!」
 ディスプレイの陰でキーボードを叩いていた彼は、突然の指名に慌てることもなく、はいと応えて立ち上がり、トレイにカップを三つ乗せてやってきた。
「どうぞ。ちょっと濃い目にしときました。どうせ今夜も徹夜ですよね。」
「ありがと。実はその通り。明日の会議までには練り直しますってタンカ切っちゃったんだ私。ごめんね菅原ちゃん事後承諾で。こういう奴と組んだのが運の尽きと諦めて、つきあってくれるかなぁ…。」
「当然です。どうせそんなことだろうと思って、実はさっき八重垣さんと腹ごしらえしときました。」
 由布子は関根の机から書類の束を取り、半分を八重垣に渡して、もう半分を自分の机に置いた。
 彼らが上海に来て四ケ月が過ぎていた。紆余曲折・暗中模索の道のりだったが、ランファンスは着実に顧客層を広げており、販売体制増強策として先月日本から、新たに七名の若手社員が赴任してきていた。由布子は企画および営業のみならず彼らへの教育担当も兼務することになり、徹夜はもう当たり前、日常茶飯事となっていた。
「はい、夜のお供はチョコレートです。召し上がれ。」
 八重垣は二人の女上司に、手品のように板チョコを差し出した。コンピュータ回りの業務を一手に引き受けている彼も、徹夜メンバーの常連であった。
「謝々(シェイシェイ)。さーて、それじゃあやりますか!」
 三人は無言で、資料の改訂に没頭した。神経を使う細かい作業を、どうにか終えたのは午前五時だった。プリンタの吐き出す紙を眺めていた関根は、ふと時計を見上げて言った。
「そろそろ夜明けね。まったくこの現状、本社の奴らに見せたいもんだわ。少数精鋭だから回るようなもんの、スタッフ全員、よく怒らずにやってくれてると思うわよ。…おや、どこ行くの菅原ちゃん。」
 部屋を出ようとしていた由布子は、関根に呼び止められて振り返った。
「ちょっと深呼吸してきます。すぐに戻りますから。」
「はいはい行ってらっしゃい。」
 関根に会釈して彼女は廊下に出、エレベータホールへ向かった。NKが借りているこのビルは浦東新区の北西部に位置し、再開発エリアに建ち並ぶ摩天楼のちょうど外周の縁(へり)にあたっていた。屋上からは長江口が見える。誰もいない展望フロアでエレベータを下り、由布子は非常階段を昇った。屋上へのドアロックを解除し、体重をかけて押し開ける。びゅう、と強い風が吹きつけてきて、彼女は思わず目を細めた。
 下界はまだ暗く、あちこちに人工の星がちらついていたが、海の向こう東の雲間には、朝焼けの光がのぞき始めていた。
 夜明けが、近い。
 由布子は手すりに両手をついて、淡い水平線を見渡した。この海は東シナ海となり太平洋に続き、拓のいるあの大陸までを群青の水でつないでいる。
 一週間前、幸枝から手紙が届いた。陽介は定時制の高校に通い、志望校にうかった泉はクラブ活動のかたわら、今まで通り香川とともにナヴィールで働いているという。それぞれの道でみな、一つずつの人生を生きているのだ。由布子は水平線に向かって大きく両腕を広げた。太陽がついそこまで昇ってきているのがわかる。暁の女神オーロラのヴェールが、闇を払う風となって街を吹き過ぎていった。
 灰色の雲が割れた。最初の朝日が由布子に届いた。まぶしさに目を閉じかけた時、金色の波の上に鮮やかに、恋人の面影が立ち昇った。
 夜明けよ、拓。あのときと同じ、私たちの朝―――――
 いくつもの命を乗せて、この星は回っている。涙や笑いや悲しみや幸せを、心から心へ伝えつつ。
 海よ、風よ、私はここにいる。命の砂のほんの一粒として、この世界で私は生きている。かけがえのないもうひとつの、命の砂を愛しながら。
 時の船が足元で揺らいだ。波うちぎわを駆けてくる拓が見えた。手をふって、髪をなびかせて、駆けてくる彼の笑顔が見えた。
 由布子は太陽に両腕を差し伸べた。暖かかった。さながらのぬくもりに似ていた。面影を透かして金色の光が、指に、肩に、心に届いた。潮風に乗って汽笛が聞こえた。瞼をとざし由布子は今、光に抱きしめられている自分を知った。

――  完  ――


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