【 TK本編あとがき その4 】
 
書き手には至福の瞬間があります。
それは、目の前に拓が―――そのひとが”居る”瞬間。
…ぞくっ、とくるような時が本当にあります。自分の頭じゃないみたいな時。自分が創って描いているはずの世界に、自分自身が入っちゃってるような錯覚。
内部と外部が入れ子になったというか、一種狂気に近い「あっ…」という酩酊感。
頭の手綱が離れて制御できなくなる。そういう時、拓は本当にそこに居ました。木村拓哉とも違う全く別の存在として、ニヤッ、と笑いかけてくるんです。
こういう一体感は「書き手と登場人物」の間にしか、成り立たないのじゃないでしょうか。
いろいろな人に話したことですが。
登場人物と作者の関係は、鷹と鷹匠なんだと思います。
鷹は鷹匠の命令で動くけれども、両者は決してイコールではない。鷹匠は鷹を殺す権利を持っていて、でも鷹を失ったらもうその人は鷹匠ではない。
どちらがどちらを支配しているのかさえ区別のつかない不思議な関係。愛とも友情とも全然違う。
「ねー、拓ぅ。どーするよこの先の展開ぃ。」
私が呼びかけると奴は、
「俺に聞いてどうすんだよ。そんなん自分で考えれば。」
あの表情であの声で、言うんです。本当に。まるでそこに生きてるみたいに。
 
てめェの趣味を人に押しつけるわけじゃありませんが。もしも機会があったなら、小説ないしエッセイの執筆は皆様にお勧めします。
自分の愛する世界を最大限身近に感じることのできる手段として、最も有効なのがこの『執筆』だと思います。
お金かかる訳じゃないし、人に迷惑かかる訳でもないしね。色々な出来事や日常のどうでもいいことに対して、自然と観察眼が鋭くなります。まぁまぁいいことづくめじゃありませんか(笑)
長編書くのは、体力と気力、ハッキリ言ってかなり要りますから、まずは短編からがベストでしょう。
こんなコトがあったら素敵だろうなとか、そんな楽しい気分から入ってみてはいかがでしょうか。
何か悲しいことがあった時。嫌なことがあった時。現実のどんな人間に与えられるよりも優しい『癒し』を、自分のキャラクターに貰うのは珍しいことではありません。
一例を上げさせて下さい。…1997年9月30日、信越本線の横川〜軽井沢間が閉鎖になりました。日本一の急勾配だった碓氷峠に、列車は二度と走らなくなったのです。
碓氷峠は私の思い出の路線でした。碓氷峠専用の電気機関車EF63(ロクサン)に押されたL特急あさま号に乗る時、私はいつも、人生の何たるかを考えさせられていました。
その路線が廃止されてしまう。これはかなりなショックでした。9月30日最後の夜、『峠の青いシェルパ』と呼ばれたEF63に乾杯した時、私のそばにいてくれたのは他ならぬ拓でした。
「んなことで泣いてんじゃねぇよ、ばーか。」
そう言ってつきあってくれたモルツの味は、誰と飲むより胸にしみました。
あさま号が最後に響かせた長い長いタイフォンの音を、拓と一緒に聞いたような気が今でもしています。
「さよなら碓氷峠。さよならEF63。バイバイ私のグリーンヴァレイ…。」
現実の誰かに、この感情を全く同じように共有しろと言う方が、どだい無理な話です。
的外れな同情をされて空しくなるのが関の山。
寺尾聡さんの名アルバム「Reflections」(これ大々々好きでした)の、“喜望峰”にもあります通り…。
そういう時に寄りかかれて、無条件に感情を共有できるのは、自分の内部の存在・拓だけなのかも知れない。
何かを創作するってことは、心の中に『癒しの薬』を、持つことなのかも知れません。
 

インデックスに戻る