ワカバ物語

市川 英子   

はじめに

 ワカバってなぁーに・・・?このままにしていたら消えて無くなりそう・・・そんな気がしていたある時、若い人に、『ワカバの事、いろいろ知りたいので教えてください。』と言われ、それではと思い立ってから時間ばかりが過ぎて、3年の歳月が流れてゆきました。水泳教室として形が出来てから30年、その間に書き溜めた記録や資料が、机の周りのあちらこちらに積み上げられ、これを纏めるのは相当なエネルギーが要ることを覚悟した次第です。それでも手をつけ始めると、面白く、懐かしく、夢中になり、改めて『かくも深きワカバとのつながり』を身に沁みて思わずにはいられませんでした。記録とはありがたいもので目を通しているうちに、その時々の情景がつい昨日のことのように浮かんできて思い出に浸り、食事の時間も忘れてしまうこともありました。
 そんなこんなの、より道、回り道の末にやっと原稿を書き始めたのが9月になってからでした。それからはキーを叩くのがもどかしいほどの速さで、あとからあとから書くことに追われました。記憶の中から手繰り寄せたこともあり、少々自信のない部分もありますが、お気づきの点は素直に受け入れますので、お聞かせ下さい。頭と尻尾が纏まらず、中味が出来上がってから時間がかかりました。ワカバにつながる方たちに何かを感じていただければ幸いです。


丸山先生の遺したもの

 府立第六高女初代の校長先生だった丸山丈作先生が、「海国日本の母となるべき者が泳ぎが出来なくては・・・」とプールの設立を考え、広く寄付を募って、当時としては稀有なタイル張りの4コース・25メートル・それに1メートルの飛び板・3メートルの飛び込み台が設けられ、冬になるとボイラーを炊き、一年中泳げる室内プールが出来上がったのは昭和6年の事でした。爾来多くの子女がこのプールで泳ぎを覚え、泳ぎを通して様々な事を学びました。当時はまだ室内プールは珍しく、時にはオリンピックの選手なども練習に使ったそうです。思えば少しづつ形が変わってゆく間には色々なことがありました。その一つ一つを同窓生の先輩後輩と言う信頼感・連帯感で乗り越えてゆくうちに家族のようなまとまりが生まれたのです。そして何よりも水泳が好きで、同じプールの水を飲んだ仲間と言う強い絆で結ばれ、今に至るまで継続しています。


泳ぎの仲間

 平成3年に他界された故野口徳先生を頂点に山本常子先生・藤井ヤス先生・栗村マサ先生(3人とも故人)今もなお元気な高橋静先生方は、先輩として丸山先生の意を汲んで後輩の指導にあたり、女子水泳学校(昭和9年併設)の河津タカ子・鈴木千鶴子さん等が加わり、在校生では、遠山房子・多屋あき子・筒井澄子・大西とみ子・西部夏子・蜂谷美佐子・高階尚子・金久美智子・大谷房子の諸先輩に,15年に入学して、第2次大戦の渦中に第六の生徒だった乾・市川・菊池らが続いたのです。その他にも多くの先輩が飛び込みに、競泳に、水球に、思う存分楽しんでいました。昭和9年に作られた女子水泳学校は当時としては珍しく、在校生以外の水泳好きの女学生が参加して、松永正雄先生を校長にむかえ、第六の生徒とともに対外的に活躍しました。これらのメンバーは競技会の花のような存在で、競泳は勿論日本泳法・飛込み・水球等大いに力を発揮したのです。シンクロナイズトスイミングのはしりのリズム水泳や、近頃プログラムに加わったシンクロナイズトダイビングも既にこの頃から披露していました。この指導には野口・山本・藤井の各先生が中心となってあたり、後輩を育てて仲間作りを心がけ昭和17年まで活動を続けましたが、戦争の為空白になりました。水泳学校も13年には閉校となりました。戦争中は泳ぐこともままならず、勤労動員の奉仕に明け暮れて過ごし、先生方もそれぞれ結婚されて家庭に入り、一時期、外部から見えた江尻先生がプールの主任として指導に当たってくださいましたが、1年程で閉鎖になりました。また、学校創立の翌年(昭和4年)の夏休みには静岡県三津浜に臨海学校を開き、希望者が参加して海の水泳を経験しました。その頃でも珍しいほど透明度の高い海で、赤やブルーの海金魚が泳ぎ、海底のウニやイソギンチャクまで手にとるように見えるほどでした。その中に脚立と木材を組んで作った25メートル×12メートルの海上のプールがあり、その中で横泳ぎやクロールや、時にはスイカ取りをしたり、楽しい生活でした。富士を正面に見て間に淡島が点景となってちょこんと海中から顔を出し、そこをめがけて5哩・2哩の遠泳が有り、和船の漕ぎ方なども三津で経験しました。ここでは1年生から5年生まで一緒の生活でしたから、水泳好きはすぐに親しくなり、助手の先生も卒業生ですから、学校を離れてからも何かと交流がありました。この臨海学校も16年の夏で終わりました。
 やがて20年8月15日、日本の敗戦による終結を迎え、誰もがこれからの指針となるべき道を見出しかねていた昭和22年の秋も終わりになる頃、山本先生からお声がかかり、昔の泳ぎ仲間が集まるきっかけを作ってくださったのです。プールはまだ使うことが出来ず、文字どおり『陸に上がった河童』でしたが、ささやかな集まりが次第にグループとして成長して行きました。まだ物のない頃で、自分達の手で水着(紺のブロード生地にゴムシャーリングを施したもの)を作ったりしました。昭和25年ごろからそろそろ盛んになってきた水泳競技会のプログラムに水書・日本泳法の模範演技が載るようになり、手作りのおそろいの水着で出場したことも有りました。その頃の練習の場所は野口先生のお顔で、元水泳選手が勤務しているホテルやゴルフ練習場のプールを、開場時間前の早朝使わせていただきました。


同窓会の水泳教室

 25年の夏、同窓会主催により、卒業生の子女のために夏休水泳教室を三田校のプールで開くことになり、全面的に協力することになりました。その頃はまだ水泳教室も珍しく、口コミで多くの人に伝わり、たちまち定員に達し、毎年楽しみに待っているお顔なじみがどんどん増えて大変な人気でした。プールの中はスチームが通っていて熱気に満ち、反対に水はまだ暖めることが出来ず、相当冷たい水のプールでの講習会でした。私たちは丁度子育ての最中で、幼稚園,小学校低学年の我が子をを引き連れて指導に参加しました。同窓会館二階の畳の部屋に皆が集まり賑やかでした。この講習会では同窓会長の篠塚先生にずいぶんお世話になりました。講習生は上の広いフロアーで体操を済ませ、鉄の外階段を下りてプールに入ります。夏の恒例行事となりそれは賑やかでした。身長125センチ以上が条件で、それでもプールの中は、大人でも背の立つところが10メートルのところまででしたから、低学年や泳げない組を持った先生は場所取りに懸命でした。泳げる組は3メートルの深いところで指導をしなければならず、殆ど立泳ぎで教えました。お陰様で随分鍛えられ後年立泳ぎではちょっとしたものでした。最後の日は高さ3メートルの飛び込み台からの立ちとび、これが中々大変で尻込みする子やら、揚句の果ては階段を下りてきてしまう子もいて、見ているお母さん達も我が子はどうかと息を飲んでいる様子が良く分かります。手作りの水泳教室・赤ちゃんを産湯に使わせるような暖かい指導、と評判は良かったようです。男女共学になった三田校の男子卒業生も指導の仲間入りをして一段と多彩になりました。当時まだ水泳の指導者など殆どいなかった頃、この同窓会の指導仲間が世に知られるようになり、水泳教室や講習会が、あるいはデパートのサークル・新聞社や東京都・各区や学校の水泳部で開かれるときには、引く手あまたで一日に2・3箇所も回って指導に明け暮れました。その他テレビの出演やプール開きの模範泳法等々、真っ黒になって夏を過ごしました。


ワカバ水泳教室の独立とその推移

 39年の東京オリンピックの後は、スイミングクラブが大流行で大変なものでした。ワカバの仲間も世の中のニーズに応えて年間を通して教室を開くことになりました。これもまた野口先生のお顔で、当時高輪にあったセントメリーインターナショナルスクールのプールを、主任の根来さんを介して借用し、水泳教室を計画、それまでの講習会などに参加した人たちが、競って入会し賑やかに始まりました。当時はまだクラスも定まらず、回数券で参加するシステムでした。やがて中級以上を月謝制にし、だんだんに時間も増やしてゆきました。
 42年11月5日セントメリー日曜教室開始・43年11月9日土曜教室開始(15時ー17時)44年9 月には13時ー17時までと時間を増やしてクラスを作りました。その間に火曜教室(後に水曜日)も開くようになりました。ある時は隣のマンション工事のとばっちりを受けてプールに水漏れがおき、夜中まではがきの緊急連絡を会員宛てに送る作業をしたこともありました。このようにセントメリーのご好意によって根をおろしたワカバ水泳教室は、やがてさまざまな水泳活動を次々と展開してゆくようになるのです。
 当時水連の普及委員だった野口先生のお手伝いで、指導者養成の講習会なども開き、ワカバのスタッフも順に水泳連盟指導員の資格を取らせて頂きました。第2種指導員は此処から生まれたと記憶しています。三田高卒の若い人たちも一緒になって、水泳の指導に力を注ぎ水泳教室はいよいよ盛んになってゆきました。毎週の教室も盛況で、どれほどの人たちが通り過ぎていったでしょう。今でも思いがけないところで「昔セントメリーでお世話になりました。」と言われることが有ります。嬉しいことの一つです。
 昭和42年に高輪のセントメリーのプールで年間を通して教室を開くようになった時に、それまでは三田校同窓会(ワカバ会)の中の水泳部として活動していましたが、同窓会の勧めも有って、折をみて一団体として独立することになりました。その頃はまだ「ワカバ水泳クラブ」と称して、少しずつ大きくなって行く教室の運営と、新しい組織にするための準備に、慣れないことにも取り組みました。春と夏の同窓会の講習には引きつづきお手伝いをさせていただき、その他の指導はクラブの仕事として当たりました。クラブの中に理事会を設けたのもこの頃です。傷害保険の契約・水着・タオル・カバン・バッジの制定・進度表・記録帳の作成等々、事務的な仕事も大変でした。46年3月、それまで三田校に間借りしていた事務所を白金に移し、狭いながらも集まって仕事が出来る場所が出来ました。その頃セントメリーが高輪から上野毛にそっくり移る、と言う話が出て、1年間プールの竣工が遅れる事となり、その間の教室はどうするのかという問題が起こりました。故人になられた山之内さんのお骨折りと、地理的にも近いと言う点で聖心女学院のプールを拝借することになり一息つきました。


46年5月6日丸山校長先生逝去

 46年6月15日セントメリースクールの上野毛移転に伴ない、高輪のプールともお別れです。この頃は夏休みの間は教室がなくて、もっぱら外の講習会の指導に当たっていました。8月の末になって30・31日と聖心教室の募集をしたところ、大変な行列が出来て、嬉しい悲鳴をあげました。翌日も雨の中大勢の人が申し込みにこられて、お断りをするほどでした。聖心教室は9月から無事開催、賑やかに始まりました。ただ聖心のプールは学校の都合で12月から2月までは閉ざす為に、お休みとなる間は、荏原のプールを借りて子供の教室を開いたり、選手コースは慶応と一緒に日曜の朝、大井の小野学園のプールで練習したり、苦労しました。47年6月にいよいよ上野毛に新しいプールが完成、5月に白金の事務所で、セントメリー教室の受付を行ったところ、思いも寄らぬほどの行列となり入り口のシャッターを閉める始末、それでも訪ねてくる人がいて、予約のノートもたちまち一杯になるほどでした。聖心教室も盛況の為続行、6月1日付でワカバ水泳教室は法人となり、(株式会社 ワカバ・通称ワカバ水泳教室)15日には上野毛の駅に近い牧田さん(八百屋さん)の二階に事務所を移転したのです。28日には玉川区民会館でワカバの総会を開き、レギュラーのスタッフも揃って、(野口・山本・藤井・遠山・多屋・松岡・市川・棚田・仁科・多田・山之内)気持ちを引き締めて滑り出したのです。この他にもパートのコーチとして大勢の協力がありました。プール契約書の作成・入会案内の作成・コーチ出欠名札版・の準備など何もかも始めて新しく作らねばならず、無我夢中でした。その頃のコーチのメンバーは次の方々です。

山本・藤井・遠山・多屋・松岡・市川・棚田・仁科・多田・山之内・河津・鈴木・ 堀井・森田・太原・横尾・増田・立川・河上・大倉・今村・岡本・内村・太田・浜本・ 岩倉・小倉・松内・坪井・田上・益田・木村・陶山・辻・宮下・福田・黒川

教室はいつも定員を越えるほどで、予約のノートも後から申し込みの人がつづき、クラスを増設すればすぐに50名は集まると言うような状況でした。活気に溢れた教室の運営の一方で、日赤の佐藤先生を招いて救助法のコーチ研修会を開いたり、東京体育館スポーツ医事室での体力テスト・身体検査・各記録会への出場・館山の下見・ワカバ旗の作成・レクリエーション指導の研修・三対抗記録会(日吉)等があり、48年8月5日には、事務所を竣工したばかりのアキラマンションに移しました。
セントメリーにも近くなり、教室の仕事はいよいよ忙しくなりました。この年の9月、ワカバニュース第一号を発行、会員との連絡が密になりました。年末には生徒数・児童913名・婦人165名・成人43名を数えるほど大勢になりました。年が明けて49年1月にはオイルショックのためにプールの燃料の確保が出来ず、教室を休まなければならない事態になりました。世の中を挙げての騒ぎでした。それでもセントメリーの父兄の力添えで他より早く解決し、1ヵ月半の休みの後3月2日に教室を開くことが出来ました。本当に何時なにがおきるかわかりません。
 夏の間は教室を休んで、よその講習会を手伝いに行っていたワカバでしたが、山本先生の「よそのスイミングクラブは、夏休みに大勢集めて夏期講習をやっているのに・・・。」と言われた一言で、51年の夏から8月教室を夏期講習として開くことになり、日程を組んで募集をしたところ、これが又朝の8時から沢山の生徒が集まり、大盛況でした。水曜・土曜・日曜のクラスが合計で12も有り, ピークのときは生徒会員だけで1200人近くも在籍していました。が、56・7年ごろから、生徒の数も少しずつ減って、子供の絶対数が少なくなったのがはっきり感じられるようになり、反対にスイミングクラブやスポーツクラブがいくつも出来てきたのもこの頃です。
ワカバの中では相変わらず色々な行事が盛んに行われていました。52年には三田高校の新しいプールが竣工、6月3日にはプール開きが有り、水書・平体・横体・雁行の模範泳法を披露しました。
53年2月より土曜Jクラス新設・3月の生徒数は次のとおりでした。

A141
B143
C134
K110
J43
G148
H128
L120
I60
D69
25
計 1121名

 この他に成人・婦人会員を入れると大変な会員数でした。今では考えられないことですが・・・
 54年の9月には1月に結婚した仁科さんが退職、新天地をドイツに求めて羽ばたいてゆきました。
 この頃からワカバで育った若い人たちが指導員の資格をとり、皆張り切って指導の手伝いに加わりプールの中は活気に溢れていました。一方婦人教室も盛会で,親睦を兼ねたバス旅行も良く行われました。奥村農園のバーベキュウ・館林のつつじ・長瀞と川越・身延山の枝垂桜見物が雪見になったツアー・八ヶ岳方面・七沢温泉・吉野梅郷・横浜見物・柴又の帝釈天と川千家・等あちらこちらに行きました。いつも参加者は大勢でした。

56年 12月 水府流太田派の家元(師範)が宮畑虎彦先生から堀内先生に譲られました。
58年   選手コース,寒中合宿館山にて22名参加。7月には館山臨海教室に先立って強化合宿。
59年   体育優良団体として文部大臣表彰を受ける。3月には寒中強化合宿を多摩スポーツセンターで開催。
60年 1月 田垣さん退職
3月27日棚田さん退社、アクアマリンへ。
4月3日品川アクアマリン・プール落成式
一部選手コースも品川へ移動
6月山本先生退職
10月山之内さん退職
61年2月宮下君退職
62年6月17日同窓会の篠塚先生逝去
人の動きの多い連続でした。
11月中旬藤井先生・河津先生のお二人が中国寒中水泳団に加わり、貴重な体験をされました。
12月17日11時8分仙台地方で大地震があり,プールの水が津波のように揺れ動いたのに驚きました。
63年2月広幡君退職
5月16日宮畑虎彦先生逝去
5月31日付にてアキラマンション201号室を解約。事務所をセントメリー受付に移す
25日遠山先生入院。
11月29日遠山先生逝去
64年1月7日昭和天皇崩御 昭和から平成へ時代が移って行きました。
平成2年1月15日逗子寒中水泳大会第40回記念の表彰を受ける。
2月11日太田派新年会幹事を引き受け、都ホテル東京にて開催盛会でした。
平成3年4月18日野口先生逝去
平成5年6月26日山本先生逝去
8月18日辰巳プール開き。ワカバより水書の演技に,河津先生・多田先生・横田さんが出場
10月17日泳法練習会第1回開催、日本泳法の存続に力を入れました。このシリーズは12年の9月まで64回開かれました。
12月平成6年2月まで、霞プール工事の為品川プールにて婦人教室開催
11月19日水連70周年祝賀会 東京プリンスホテル
平成7年1月7日阪神大震災
平成8年12月セントメリー教室を全て終了、30年近く高輪から続いていた、セントメリーとのお付き合いが終わり、その間吉崎さん・白さんには大変お世話になりました。

 お互いに年をとりましたけれど・・・。後に残ったのは霞ヶ丘プールの婦人教室だけになりました。時々泳ぎにきていらっしゃった藤井先生も平成10年9月29日に亡くなり、いよいよ寂しくなりました。後は3人が残され、どのようにワカバを繋いでいったらベターか考えてしまいます。大きな宿題です。平成13年の秋、何かが実りますように、どこかで見守っていてださる、先輩の方達のお力をお借りしたいところです。
 現在のスタッフは
多屋あき子・松岡壽々子・市川英子・多田三千代・太原富美子・渡辺豊子・小林陽子 

協力者
河津タカ子・鈴木千鶴子・広幡安子・片岡保子・倉田三紗子・長谷川道子・横田恵子・青木誠子・南澤純子・竹内何羽・松岡寿郎
 婦人教室の会員はおおよそ70名が登録しています。


遠泳と寒中水泳

 45年1月15日ワカバ第1回の逗子海岸の寒中水泳として初参加、その後長く恒例となりました。
 真冬の海は肌を刺すように冷たく、痛く、中には尻込みする子もいて、先生は面子にかけても平気な顔で水の中へ入って行かねばならず、丁度お臍のあたりが天下分け目でそこを過ぎてしまえばもう大丈夫、後は悠々と決められたとおりに泳いで浜辺に上がります。浜では木を組み上げた大きな焚き火が数個所に準備され、勢い良く火の粉を吹き上げて空に舞います。暖かいお汁粉が配られ、お腹に入ってゆくときの幸せはこの上ありません。中には寒さに手が震えて、お汁粉を口まで持ってゆけない人もいて落着くまでが大変です。それからお風呂に行くのですがこれが又一騒動、冷え切った身体にはごくぬるいお湯が熱湯のように感じられ、慣れるまで時間がかかります。上がってから『京急ビーチセンター』特製のおでんに舌鼓を打ったり、付き添いの父兄も一緒になってゲームを楽しんだり、色々おまけがついた有意義な一日でした。テレビの取材も何度か有って、最年少参加のインタビューを受けたことや、大人たちは冷たい水の中で何度も大抜手を泳がされたこともありました。泳いだ後で夕方から、コーチの新年会を養神亭で賑やかに開いたことも有りました。金波・銀波に輝く海のはるか沖合いに浮かんだ富士山のシルエットの美しかったこと、未だに眼に残ります。
 不思議なもので冷たくて寒くてとても大変!と思った寒中水泳が、いつの間にかこれが済まなければお正月が来たような気がしないと思うほど、その清々しさは病みつきになってしまいました。参加者も生徒の多かった54年ごろから次第に増えてこの年47名・55年には実に77名が泳ぎ、翌年は66名とまさに大部隊でした。ワカバ色の大旗を先頭に長い列が続き、冬の海を泳ぎ切った姿は感激でした。
 子供達を連れての遠泳は、42年の逗子海岸が始まりです。森戸海岸から鐙摺(アブズリ)までの2キロの組と、江ノ島から逗子までの10キロの組がありました。さすがに後のコースは波が高く、風当たりも強くてかなり泳力のある人も参っていました。波に酔い、船に酔い相当辛かったことと思います。その後ワカバの遠泳は、館山臨海教室のメインとなって引き継がれました。これには婦人教室からも毎年12・3人の人が参加しています。
 熱海〜初島13キロの遠泳は3人がチームを組んで纏まって泳ぎ、ゴールすると言うルールがあり、若いコーチが参加して入賞したことがあります。心細くなって前の晩に宿から逃げ出そうかと思った人もいたとか・・・・。
 後に水泳連盟主催の全国遠泳大会が、広島の江田島湾で開催されるようになり毎年2〜3チーム(3 人1チーム)が参加しています。第1回は51年8月7・8日に行われました。宿舎となる海上自衛隊江田島術科学校は、普段女子は寝泊りしたことが無いそうで、女子の宿舎には不寝番を置くようにと言われ緊張しました。生活は全て自衛隊に準じ5分前の更に5分前の精神と言うことで行動します。
 広い構内を走るようにして次の行動に移るのは、焼け付くような夏の日には結構辛いものがありました。瀬戸のべた凪ぎといわれるように、夕方になると風がぱったり止まり、ただでさえ暑苦しいのに、夜中もクマゼミの大群がわめきたてます。
 本番の遠泳は江田島湾1周組みと2周組みの競技が行われ、散在する監督船から応援の指示が飛びます。目標を定めるのが難しく湾内を台形に回るコースは、ある時は遠くの山の峰だったり、方向が変わると今度は白い建物に向かって泳ぐ、と言った状況です。目標から一寸ずれるとコースが外れて遠回りになります。この遠泳も3人がチームとなり励ましあって泳ぐ姿は良いものです。10年続いたこの大会もその後、館山湾に所を変えて「オープンウオータースイミング」と名前を変えてリレー形式で行われるようになりました。


館山臨海教室

 ワカバ盛んなりし頃の、昭和47年から開かれた夏の行事、館山臨海教室はこの教室に参加した誰もが忘れられない楽しい行事で、ワカバの総力をあげての4泊5日でした。臨海教室の始めは、海の事について詳しい日泳会が、昭和45年に千葉県の鵜原海岸で海浜生活を計画した時に、ワカバの中から選ばれた人が10名ほど参加して、経験させていただきました。これを手がかりとして、47年の夏に第1回の館山臨海教室を開きました。このときは慶応スイミングと同じ日程で、館山の慶応葉山の宿舎をお貸りしました。笹島先生にはいろいろ教えていただき、大変お世話になりました。48年からはワカバ単独で宿舎をお貸りしての開催となり、年毎にプログラムも充実して楽しいものとなりました。後に往復のバスもセントメリーのスクールバスを利用、ずいぶん便利になりましたが、まだその頃は千葉へのアクセスが今ほど良くなくて、時間が確定できず往き帰りの道路の混雑は苦労でした。川崎からのカーフェリーを利用したり、ある時は陸路を走ったり、途中マザー牧場へ寄ったりといろいろ考えました。お昼過ぎに宿舎につくと、食堂でお弁当を食べてから部屋割り、班編成などがあり一休みの後、午後は早速水泳です。夕ごはんのあとは慶応のお兄さんも交えて体育館で親睦ゲーム大会。これが又盛り上がって、一気に全員が親しくなります。
 午前と午後2回の水泳は、泳力別に分かれ遠泳の為の練習が始まります。先生も生徒も一生懸命、朝のカルピス、午後のおやつも楽しみでした。一寸沖へ出て遠泳の予行演習をしたり、遠泳前夜はは体育館で隊列の組み方や、いろいろな注意があり嫌でも緊張した雰囲気がみなぎります。この沖ノ島までの3キロ・6キロ(往複)の遠泳は、泳ぎ切った全員の心に残る、忘れられない思い出の行事です。館山がなくなるまで15年の間にどれだけの子供達が参加したことでしょう。私たちコーチにとっても思い出深いものがあります。
 本番の日は朝からそれぞれが大忙し、昨夜遅くまでミーテイングをしたつもりでも落としていることは無いか、お天気は、子供達の様子は・・・とチエックすることがたくさんあります。野口先生もお元気な頃は、指揮船の上からメガホンを片手に音頭を取って下さいました。号令をかけて励ましたり、一人一人に気をつけたり、氷砂糖を配ったり、と中々大変なことでした。ある時は逆波に押されて、いくら懸命に泳いでも少しも進まず、それでも頑張ったこと、くらげに刺されて悲鳴をあげる人、精神力でひたすら黙々と泳ぐ人、それぞれの思いが伝わってくるようで、3時間に及ぶ遠泳を終えて慶応浜に到着したときは毎度のように感動で胸が熱くなります。その年によって必ず何かドラマが生まれます。頑張って遠泳を成功させた子供達は見違えるように自信を持って行動するようになり午後の海浜運動会の楽しみようはもう大変なものでした。この遠泳には宿舎を提供してくださっている、慶応水泳部葉山部門の学生さん達の絶大な協力を忘れることは出来ません。指揮船・葉山2世号(モーターボート)による誘導・添走・手漕ぎボートを何杯も出しての警護・バックアップ・トランシーバーによる陸上との連絡・毛布や医薬品の準備万端・等葉山の方達の協力がなければ出来なかったことです。日頃の訓練から海の事は知り尽くしていて、波や、風や、潮の流れ、潮目を見定めることなど全てにお世話になりました。本当に有難うございました。
 その年によって北条海岸で地引き網をしたり、船遠足と称して坂田(バンダ)辺りの海水浴場で遊んだこと、洲崎灯台から外海へ船で出たとたん、波のうねりがまるで違うのに驚いたり、海辺の生活を満喫しました。最後の晩は浜辺でキャンプファイアーと大花火大会が恒例となっていました。楽しく歌い、愉快に踊り、エネルギーを全て発散させての全員参加です。明日の別れを惜しんで、ちょっぴりオセンチになる頃は満天の星が空に輝きやがてどの子も満足した表情で夢路につくのでした。館山では水泳とは別に、生活班を組み、掃除・食事の配膳・等が当番制で順にまわってきます。配膳ができると鐘(木柄鈴モクヘリン)の合図があり、席につくと大きな声で『ごはんの歌』の合唱です。
♪♪・・・ご飯だ、ご飯だ、さあ食べよう、風は爽やか、心も軽く、みんな元気で、感謝して、楽しいご飯だ、さあ!食べよう・・・♪♪。「いただきまーす。」と何とも楽しい食事です。
 いよいよ帰りの日、もう一つおまけがついて、午前中近くの岩場で磯遊びをします。宿舎を出ればそこはもう海辺、という恵まれた場所なので時間を無駄なく使えるのもありがたい事です。思い思いに連れ立って、潮溜まりや、波の打ち寄せる格好の場所を選んで魚や蟹を捕まえたり、皆もう夢中です。1時間半ほどが過ぎて昼食が済むといよいよお別れです。お世話になった慶応の方にお礼をのべ、バスは思い出を一杯詰め込んで出発です。東京にいてこんなにエネルギーを発散させたことはおそらく無いでしょう。
 この館山臨海教室は皆に惜しまれつつ第14回60年の夏を最後に中止となりました。


ワカバ水上カーニバル

 ワカバを語るとき、忘れることの出来ない行事の一つです。
 高輪にあったセントメリースクールが、新校舎・プールともに上野毛に建てる計画が決まり、ワカバも一緒に新しい土地に移ることになりました。新生ワカバとして発足する為にさまざまな準備に追われました。セントメリーには高輪の頃から「セントメリーカーニバル」と称して学校を挙げての楽しい行事があり、バザー・模擬店・と、お国ぶり豊かに立ち並び、安く、美味しく、楽しく、なかでも自動車を始めとして豪華な賞品が当たる抽選は圧巻でした。全員挙げてこれほど楽しめる素晴らしいイベントがワカバでも何か無いだろうか、とかねがね思っていましたが、前から水上クリスマスと名づけて、年末に皆で楽しんでいたささやかなゲーム大会を拡大・充実させて気候の良い5月のゴールデンウィークに持ってきたらと話が決まり、その名も「ワカバ水上カーニバル」として始まりました。第1回は48年5月27日でした。年とともに参加者も多くなり、プログラムも充実してワカバの名物となりました。
 先生たちの総力を挙げて、この日ばかりはプールの中が子供達の歓声であふれていました。
 クラス別にプ-ルを区切り水上遊園地に見立てて、スワンボートを操る子、サーフィンを楽しむ子、パンダやいるかに乗ったり、抱きついたり、中にはフロートの上に立ち上がってバランスをとり、得意満面の子もいます。面白いゲームも盛りだくさん、綱引き・玉入れ・陣取り合戦・等々全て水の中でやるのですから勝手がずいぶん違います。そこが又何ともいえぬユーモラスな、見ていても飽きないところです。
 最後に小さい人たちはゴムボートに乗って、プールの中に色とりどりの、何百と浮かせたゴム風船のヨーヨーをかき分けながら、夢の中のお伽噺の国のようなプールの中を一回り、気に入ったヨーヨーを両手に一杯抱え、上がるときに一寸勇気を出して水の中にもぐって、底に撒いてある缶ジュースを拾います。『宝缶ジュース拾い』と名づけただけに缶に書かれた番号で商品と引き換え、持ちきれないほどのお土産に大満足です。流れる音楽は「アラウンド・ザ・ワールド。」素敵な演出でした。
 3組以上は呼び物の全員参加のワカバリレー。これが又いやがうえにも盛り上がって、プールの中が割れんばかりの歓声に包まれます。紅白をそれぞれ2組ずつに分け4コースで競います。大きい人・小さい人・速い人・まだやっと25メートル泳げるようになったばかりの人が入り混じって、抜きつ抜かれつのゲーム展開ですから無理もありません。一人一人が持っている力以上の泳ぎで自分の責任を果たす・・・そんな思いが目に見えるようで、素晴らしいリレーです。終わると缶ジュースをプールの中から拾い上げて商品と引き換えです。どの子の顔にも思い切り力を出した自信にあふれた顔が輝き、一回り大きくなったように見えます。
 このワカバのカーニバルがピークに達したのは、上野毛に移って10年目の祝賀会、第10回のときで、57年5月5日には実に300名もの子供達が参加して大々的に行われました。この日午後は記念の祝賀パーテイをセントメリーの体育館で開き、昔からワカバを良く知っている水泳界の錚々たる方々・セントメリーの校長先生始めお世話になっている学校関係の方々・教室関係のワカバをこよなく愛してくださっている、生徒・ご父兄・婦人教室の方・コーチとしてお手伝いくださった懐かしいメンバーが会場に溢れんばかりにお集まりくださり、皆さんからお祝いの言葉を頂き、折からの新緑に映えてワカバが一段と輝いた日でした。


3対抗記録会

 教室が軌道に乗り出した42年,慶応スイミング・東京体育クラブ(日泳会)・ワカバの3チームで第1回3対抗記録会を開きました。この記録会は,友好的な3つのクラブ・・・慶応スイミングスクール・東京体育クラブ・ワカバ水泳教室・が会場持ち回りで,年2回を目標に開催。男子・女子・総合の3つの優勝杯を賭けて,8歳以下から14〜5歳のグループまで各種目のレースを組み、大いにハッスルして頑張りました。会場は日吉の慶応の50メートルプールの時もあり、志木のプール,文京区のプール,上智大のプール、東京体育館のプール、横河電気のプール、セントメリーのプールといろいろなところで開きました。出場した人はこの記録会に出ることにより実力が身につく良いきっかけとなりましたが,惜しまれつつ61年の第20回を最後に終止符を打ちました。ちなみにこのとき体育クラブはメンバーが揃わず欠場、慶応とワカバの2対抗で競いました。仲良しの水泳クラブが和気藹々の中に競い合った、忘れられない良い記録会です。この他にもスポニチエイジグループ・関東春季・東京スイミングセンター招待記録会・その他に大勢の人が参加して、それぞれ活躍しました。指導の先生たちも一生懸命でした。選手コースの人たちが、競泳の場でも大いに活躍したことは言うまでも有りません。


婦人教室

現在霞ヶ丘プールで開いているワカバ婦人教室は、その「はしり」とも言える歴史があります。東京でオリンピックが開かれることが決まった頃は、夏の間だけ幾つかの水泳教室がありましたが、まだ婦人教室と言うのは聞きませんでした。ワカバのメンバーは泳ぎたくてたまらない人の集まりでしたから、霞のプールが借りられるとなったのを期に、自分達の研修の時間にしようということに決めて、グループとして泳ぎ始めたのです。そのうちに第六の卒業生以外の人も入ってきて、婦人教室の始まりとなったのでした。その後、デパートの婦人サークルや、東京体育クラブ、各区市町村の婦人のための水泳教室が開かれ、盛んになってゆきました。オリンピックの後は正に花盛り、多くの婦人・成人教室が出来たのです。40年にも及ぶ年月、回数券制度を続け、会員の方からは納得の行く方法として喜ばれています。泳ぎに見える方もずいぶん長いお付き合いの方が多く、その間に自然と出来上がった雰囲気は、ワカバ独特の良さが有ります。何時までも失いたくない物の一つです。近頃はプールも,婦人教室も増えて,ワカバに新しい人が入って来る事も少なくなりました。少しずつ会員の数も減っているのが残念です。今は日本泳法をメインにプログラムが組まれているので、目指す方が居れば、どうぞとお誘いしたいところです。前にも述べたように、若い人が戻ってきてこれからのワカバを盛りたててくれるようになれば万々歳です。スタートしたときのように、ワカバのメンバーが研修の場として使ってもいいと思います。


ワカバと日本泳法

 水泳のさまざまな分野におけるワカバの活動について述べてきましたが、忘れてはならないものに日本泳法があります。その端緒となったのは品川の海辺で育った野口先生が、毎年夏になると開かれる日本体育会の水泳講習会に通い、その稀な資質に恵まれた泳ぎはぐんぐん上達し、第六高女に入学したときは既に相当な泳ぎ手であったのです。そのときに教わったのが『水府流太田派』でした。
 第六高女時代の活躍はもとより、卒業と同時に丸山先生の要請を受けて、新しく作られたプールでの指導を任され、授業の水泳の最初は横伸から始められました。そして一重伸・二重伸・片抜手一重伸・抜手伸・と順に教えていただいたのでした。みようみまねで抜き手が出来たときは、嬉しくて何度も何度も泳いだものです。先輩達は立泳ぎで扇に筆で文字を書いたりして羨ましがらせます。そんな思い出があって戦後集まったときに、競技会やプール開きに主催者から頼まれ、日本泳法をいろいろ泳いでいるうちに、やがてワカバのテーマーになったように思います。他の人から見れば、余り見たことのないそれは珍しい泳ぎで知る人も少なく、今の盛況ぶりからは考えられない事でした。
 それでも伝統を守る人々が日本中に広がって受け継がれ、長い間それぞれの流派を守りつづけた甲斐が有ってやがて水連の定める12流派が公認され、27年に第1回の研究会が開かれたのです。その後31年に第1回日本泳法大会が開かれ今年で46回を数えますが、その盛況ぶりは眼を見張るばかりです。
 ワカバは野口先生のお陰で研究会には第1回から参加、日本泳法大会には38年の第8回から毎年参加して、水練証、教士(51年より)範士(52年より)游士(平成7年より)の資格審査・泳法競技・団体泳法競技・ジュニア泳法競技・横泳競泳・支重競技・に出場し、それぞれ成績を納めました。時にはちびっこから先生まで30人ほどで水書のご披露をしたこともありました。
 泳法競技に優勝者が出て意気盛んなときも有りました。団体戦にも優勝し沸きに沸いたことも有りました。役員としてもお手伝いが楽しく、いつの間にか30年余りがたちました。と同時に泳法大会も少しずつ変わり、ワカバの枝葉が分かれて野口先生の息のかかった新しいグループも参加するようになりました。日本泳法の普及も目覚しく、中高年には何ともいえない魅力もあり、1年ごとにぐんぐん広まっていったのです。団体戦のグループの数もずいぶん多くなりました。昔ながらのワカバのメンバーもいつの間にか年をとり、反対に太田派の泳ぎは力強くて、スピードのあるものを要求されると、とても体力的には及ばず無理なものがあります。山本先生が亡くなり、藤井先生も世を去られ、野口先生はその前に長いご病気の末に私たちを遺してなくなりました。その上遠山先生まで急いで行ってしまわれるし、ばたばたと先輩方を無くし、セントメリーの子供達のワカバ教室も平成8年12 月に終わり、そうなってみるとまことに寂しいものです。残った3人(多屋・松岡・市川)で何とかワカバの名前を残さなければ、と考えました。婦人教室の方たちも昔からの方が多くそれぞれお年を重ねて、友達同志楽しく泳ぐのが目的できている方が多く、それも一つの大切なことですし・・・。
 現在は品川のグループの方、町田方面の日本泳法愛好者の方がワカバの一員として、資格を目指して練習に精を出し、毎年何人かが挑戦しています。でも残念なのは、嘗てワカバで日本泳法を習い、泳法大会に出場た人たちが、もう1度帰ってきてくれないかな、と思うことです。日本泳法の良さが分かる年になって、再び始めるのも良いことではないでしょうか。水切れの良いスピードのある泳ぎはワカバの方達の持ち味です。それを復活させたいと願うのは無理でしょうか。幸い南澤さん、榎本さん(旧姓竹内何羽)が少し時間を割いて来てくださるようになりました。若い人たちの力でもう1度ワカバに花を咲かせて見ませんか。立泳ぎをしながら書く「水書」も奥の深い、楽しい技です。ワカバには河津先生と言う達人がいらっしゃるので昔から今に至るまでその流れが続いています。年に1回、日泳会の岩下先生が企画してくださる、水書の競書大会がありいつもよい成績を収めています。又水泳連盟の日本泳法委員会の委員として野口先生が長い間勤めていらっしゃいましたが、亡くなられた後、松岡寿郎さん・南澤純子さんが委員として活躍しています。更には『水府流太田派連絡会』という団体も作られ、流派の研鑚と共に新年会・練習会・機関紙「游泳」・会員名簿の発行・等を行っています。事務局長に松岡寿郎さん、運営委員に南澤さんが当たっています。


おわりに

この先、世の中がどのように変わっていくのか分かりませんが、昭和のはじめから平成に至る70 年の間、ワカバが生まれ、育ち、歩んできた道を、聞き伝えたこと、身をもって経験したこと、等々を思いつくままに書き連ねました。『こうなって欲しい』と言う願いは行間紙背から汲み取っていただくとして、ワカバ物語を終わりたいと思います。ワカバの未来に幸がありますように・・・そして一人でも多くの人の心の中に大切な思い出として生きつづけますように・・・。


   平成13年11月1日
市川 英子