春月

 午後、休憩を入れようとお茶を運んできたは、土方に湯飲みを差し出す。土方は筆を置いて受け取ると、湯飲みに口をつけた。

「美味い」

「ありがとうございます」

 は盆を横に置くと、ひと息つく土方の様子を見ていた。

「なんだ?」

「いえ……土方殿が肩の力を抜いていらっしゃる様子が、最近読んだ句集の雰囲気ととてもよく似ていたものですから……。ごめんなさい」

「句集?」

「ええ。沖田殿が貸してくださったのですけれど、『豊玉発句集』という……土方殿、どうされました?」

 が言い終える前に、土方がいきなりばさばさと机の上をあさり始めて、は驚いて目を瞬く。

 取っておかなくてはならない書状、会津藩に持っていく書類、山崎の報告書、などなどなど……どさばさと土方がひっくり返していくのを、は急いで片付け始める。汚損してはいけない書類を受け止め、なくしてはいけない書類を拾い、他の書類と混ざらないように横に選り分け、土方が崩した書類の山を横からどんどん片していく。

 やがて、目当てのものを見つけられなかった土方がゆらりとを振り返る。

「その句帳、総司から借りたと言ったな?」

「ええ。先日、手ごろな読み物がないかと思っていたら、沖田殿がこれがお勧めだと言って、貸してくださいました」

 土方がひっかきまわした机の上を元通りに片付け、は答える。土方の反応も行動も、さっぱりわけがわからなくて、は土方に向き直りながら首を傾げた。

「それ、いま持っているか?」

「? ええ」

「寄越せ」

「まだお借りしていてはだめですか?」

 いつも素直に「はい」というが思いがけず拒み、土方はきりきりと表情を険しくした。

「なぜだ?」

「まだ全部読み終えていないんです。それに、句集は沖田殿からお借りしたものですから、沖田殿にお返ししなくては……」

 律儀なに、土方はため息を吐く。

「総司には返さなくていい。俺に渡せ」

「ですけど……」

 どちらにしてもまだ読み終えていないと、は頑なに拒む。土方はちっと舌打ちをして、なおもに詰め寄った。

「もともとそれは俺のだ。総司が勝手に持ち出してったんだ」

「あらでは、沖田殿は勝手に持ち出したものをわたくしに? どうしてそんなことを」

「それは、お……」

 言いかけて、土方ははっと言葉を止める。『俺が書いたものを人目に曝して俺をおちょくりたいからだ』と、危うく、勢いでそのまま言ってしまうところだった。すでに中を読んでしまっているに、間違っても、それは自分が書いたものだなどと知られたくない。

「『お』?」

「あ、いや……なんでもねえ。とにかく返せ」

「……わかりました。では、気に入った句を書き写してもよろしいですか?」

「それもだめだ!!」

 せめてと思って尋ねると、思いがけず大声で言われて、は驚いてびくりと肩を震わせた。

「いいか。その句帳は門外不出だ。一句も書き写すな。覚えた句を外で話すな。いいな?」

「『豊玉発句集』って、そんなに重要な句集なんですか…」

 畳み掛けるように土方に命じられて、感嘆のため息とともに、は袂から句集を取り出した。反射的に、土方が手を伸ばす。

「え…っ?」

 次の瞬間、は畳に転がっていた。上には土方が圧し掛かっていて、土方の手が『豊玉発句集』を持っているの手を握りしめている。

 状況を把握した途端、は耳まで真っ赤になって、声が出なくなってしまった。「どいて」とも、「嫌」とも言えない。ぱくぱくと口を開閉していると、土方が呻きながら身を起こした。起こしたと言っても、腕で立ち上がっただけで、の上に覆いかぶさっていることに変わりはないが。

「…ってぇ……。すまねえ、怪我はねえか?」

「あ、は、はい……」

 ようやく声らしい声が出て、はうなずく。と、そこへ、すらりと障子が開く気配がした。

「副長。物音がしましたが、なにか……」

 言いかけた山崎が、言葉を続けられずに室内を凝視する。

 室内。つまり、を組み敷いている(ように見える)土方。

 次の瞬間、山崎は障子を閉めた。慌てたのは土方だ。

「待て山崎!! 誤解だ、心得顔で立ち去るな!!」

 慌てて立ち上がり、部屋を出ていきかけて戻ってくる。の手から句集を取り、懐深くに仕舞い込むと、あらためて山崎を追いかけていった。

「あら、まあ……」

 起き上がったは、空になった己の手に目を落とす。

「慌ただしかったこと」

 あんなふうに焦る土方は、初めてだった。いつも冷静な土方には珍しいほどだ。

「……ああ、そうだったの」

 ふいにその理由に思い至って、はくすりと笑みをこぼす。

「今度、春の月を見に行きましょう? 土方殿」

 土方が飛び出していった廊下に向かって、はくすくすと笑った。


Page Top