「ごめんな、恭弥。もうすこしだから」
愛車のフェラーリを運転しながら、ディーノは助手席に座る雲雀に話しかけた。雲雀は車窓に目を向けたまま、むっつりとうなずく。
時間は宵、もうそろそろ7時になろうかという頃である。夕食を摂るにはちょうどよい時間だが、ディーノの仕事が長引いて、行動は本来の予定よりも1時間半ほど遅れている。予約を入れていたレストランには先刻連絡済だったが、それよりも問題なのは手持ち無沙汰に1時間半待っていた雲雀の機嫌だった。
時差がある分、イタリアとのやり取りでバタつけば、8時間の差を考慮して動かなくてはならない。電話で話せばどうにかなるとわかっている内容でも、イタリアの担当者が出社する時間まで待たなくては、どうにもならないのだ。昼過ぎに取引のトラブルの報告を受けたディーノは、午後5時までやきもきと時間をやり過ごして、ようやく現場担当者に処理を託せたのは6時を回った頃だった。それは、雲雀も不機嫌にもなろうというものだ。
事実、雲雀の機嫌は史上最低並みに悪い。夕食を一緒に、というディーノの誘いを雲雀が受けてくれたのはありがたかったが、不機嫌炸裂の雲雀と一緒にテーブルに着くのはありがたくなかった。まして、今日はクリスマス・イブである。
ハンドルを人差し指でとんとんと叩きながら、ディーノは思案する。どうすれば、雲雀に食事を楽しんでもらえるか…。
そうこうするうちに、車は銀座に差し掛かる。右に老舗デパートを見て、ふとなにかを思い立ったディーノは唐突に右折のウィンカーを点け、次の交差点を強引に曲がった。
「どうしたの?」
そのまま晴海通りを直進するものとばかり思っていた雲雀が、予想外の右折を訝しむ。ディーノはちらりと雲雀に目をやると、軽く微笑んだ。
「せっかくのディナーだからな」
ディーノが車を止めたのは、並木通りだった。数あるショップの中から、とりわけ有名なある店のドアを潜って、ディーノは雲雀を店内に導く。珍しくもスーツを着ていたディーノはともかく、並中男子旧服の雲雀には、すこしどころか敷居が高い。
「考えてみたら、恭弥、制服のままだっただろ。頭のてっぺんから足の先まで、好きなの選んでいいぜ」
上機嫌至極、といった風情で微笑みながらショップスタッフに雲雀を委ね、ディーノは手近な柱に寄りかかった。
十数分後、試着室から出てきた雲雀はわくわくする気持ちを抑えているディーノの前に立った。
「…待たせたね」
雲雀は膝丈のドレスを着て、居心地悪そうにしていた。ショップスタッフに褒めちぎられたのが、こそばゆくて仕方ないらしい。ライラック・パープルのシフォンは、実際、とてもよく似合っていた。
ドレスに合う靴やバッグまで揃えて、「そのまま着ていく」とスタッフに告げると、ディーノは支払いを済ませて雲雀と店を出た。
「もう1軒、回ろう」
すこぶる機嫌のいいディーノの様子に、先ほどまでの不機嫌さもどこへやら、雲雀はようやくくすりと笑みをこぼした。
「あなた、僕を飾って破産する気?」
「恭弥が微笑ってくれるなら、本望だぜ。…もっとも、こんな程度の出費じゃ痛くもないくらいには稼いでるけどな」
「ふぅん。…じゃあ、好きにしたら」
雲雀の微笑が、呆れたような笑みから嬉しそうなそれへ、変化する。ディーノは雲雀の機嫌が直ったことに気をよくして、フェラーリを発進させた。
ディーノが車を止めたのは、世界的に有名なジュエリーブランドの銀座本店の前だった。
その前で車を降りた雲雀は、ディーノに正気を疑うような目を向けた。この人は、いったい何百万を使う気なんだろう。
そんな雲雀の視線に気づいているのかいないのか、ディーノはあっさりと店に足を踏み入れる。
雲雀に示されたのは、ライラック・パープルのドレスに合いそうな、ピンク・ダイヤモンドだった。
石の魅力を損ねないように配慮された、品のいいデザインのイヤリングとチョーカーのセット。使用している石はすべて、後から染めたのではない、天然のピンクだという。
「ねえ、あなた、本当に大丈夫なの? 僕は宝石のことなんてわからないけど、これはいくらなんでも、高すぎると思うけど」
ディーノが支払いにカードを出すと、雲雀は低い声でディーノを制した。店内のムードやスタッフへの迷惑を考慮した、けれどしっかりとした声に、ディーノは動きを止めて振り返る。
「なんで? オレが恭弥に贈りたいだけなんだから、甘えてくれればいいさ」
「バカ馬、いくらあなたの金銭感覚が一般よりずれていて、それを許す財力があっても、常識の範囲ってものがあるでしょ」
「恭弥の口から、〝常識〟なんて言葉が出るとは思わなかったな」
「あなた、咬み殺すよ?」
躾の行き届いたスタッフは、低い声でぼそぼそと交わされる口論にも顔色を変えず、一歩ひいた位置から二人を待っている。ディーノは、スタッフに「そのまま会計をしろ」と合図を送った。
「今日の買い物、服はとにかく、この宝石が何百万なんてものじゃないってことくらい、僕にもわかるよ。確かに、あなたはお金持ちなんだろうけど……」
「好きにしていいって、恭弥が自分で言ったじゃねーか。それに、恭弥はオレに、自分から誘っておいて女に財布を出させるような男になれって?」
「……ぐっ」
切り札のように持ち出された言に、雲雀は言うべき言葉を奪われる。確かに『好きにしたら』と言ったのは、ほんのすこし前のことだ。
「じゃ、決まりな」
ディーノは勝利宣言すると、雲雀を店の外にエスコートする。雲雀は仕方なさそうにため息をついた。
「……いつか、覚えてろ」
雲雀の唇が紡げたのは、使い古しの捨て台詞だけだった。
三度、雲雀を乗せた車が、今度は日比谷交差点に向かう。正確には、日比谷交差点のところにある外資系ホテルだ。そこの最上階のレストランとスイートルームを、ディーノは予約している。
助手席に座っている、ディーノの思惑通りにドレスアップした雲雀は、困惑をポーカーフェイスに隠して車窓を眺めていた。
「……なあ、恭弥」
すこしばかり重たくなってしまった雰囲気の中、ディーノが口を開く。雲雀はゆっくりと首をめぐらせて、ディーノを見た。
「その…、強引で悪かった。恭弥の気持ちも考えねーで」
「………」
「せっかくディナーに行くのに、恭弥、不機嫌だったからさ。なにかプレゼントしたら、機嫌を直してくれんじゃねーかと、思っただけだったんだよ」
子供の我侭のような言い方に、雲雀はため息をつく。確かに、今日のディーノの態度はらしくもなく子供じみていた。
「…でも、やり方が強引すぎた。悪かった」
けれど、すまなそうにそう言ったディーノに、雲雀はなぜか、怒れなかった。呆れたようにひとつため息をついて、雲雀はぷいと顔を前へ向けて言った。
「バカ馬。美味しいご飯だけでも、僕は充分だったよ。無駄金なんか使って」
厳しいせりふに、ディーノは一瞬、落ち込みかけた。けれど、
でも、ちょっと嬉しかった。
表情にそう滲ませた雲雀に、ディーノは満足そうにうなずいた。
「じゃ、本命のディナーに行こうぜ。もう腹ぺこだ」
ぐっと車のアクセルペダルが沈む。フェラーリはたちまち加速して、ホテルへと向かった。