4月の魚

 4月2日。

 身支度を整えたディーノは、あくびをかみ殺しながら、食堂に入った。

 雲雀はすでに完璧に仕度を整えて、緑茶を飲んでいる。子供たちはそれぞれ、小学校と幼稚園と子供部屋で、いつもどおりの一日を始めていた。

「おはよう、恭弥」

 雲雀の向かいの椅子に腰を降ろしながら声をかけると、雲雀は湯飲みをテーブルに置いて顔を上げた。

「おはよう。あなた、今日はずいぶんゆっくりだったね」

「…まぁな」

 昨日、エイプリル・フールにどきどきして、日付が変わるまで眠れなかったディーノは、今朝、少しだけ寝過ごしたのだ。だが、そんなことを雲雀に言えば、なんてからかわれるかわかったものじゃない、と思い、ディーノはとぼける。

「あなたが来るのが遅いから、時間なくなっちゃった。大事な話があるんだ」

「話?」

「そう」

 朝からいったいなんだろうという顔のディーノに、雲雀は真顔で切り出した。

「離婚しよう」

「……へ?」

 真剣に驚くと、人は叫ぶことはおろか、言葉を発することもできないらしい。ディーノの喉から、ものすごく間抜けな声が洩れた。

「離婚しよう。あなたのこと、もう愛してないし。ね?」

 「ね?」なんて可愛い念押しをして、雲雀は席を立つ。そして、戸口でディーノを振り返ると、「じゃあね」と手を振って出て行った。

 その一部始終を、ディーノは抜け殻のように茫然と見届けた。

 離婚? りこん? リコンってなんだ…?

 3文字のひらがなが、ぐるぐるとディーノの頭の中を駆け回る。

「ボス? 恭弥がずいぶん機嫌よく出かけたが、いったいなにが…。…!?」

 雲雀を振り返りながら、今日の仕事を始めに入ってきたロマーリオは、ディーノの様子を見て、言葉を詰まらせた。

 ディーノが子供の頃からの付き合いのロマーリオでさえ、こんな顔をしているディーノは初めて見る。

 不意に立ち上がると、ディーノは無言のまま、玄関へ向かって歩き出した。

「ボス?」

 ロマーリオの問いかけもまるで無視し、愛車に乗り込む。察したロマーリオが助手席へ滑り込むかどうかのうちに、車はロケットスタートで走り出した。

 鬼気迫るディーノの様子に、さすがのロマーリオもそれ以上何も言えず、車内に沈黙が流れる。ディーノは何も言わなかったが、窓の外の景色で、車はボンゴレ本部へ向かっているのだと知れた。

「恭弥!!」

 乱暴に車を停め、取次ぎも請わずに中へ入っていくと、ディーノは雲雀の名を絶叫する。

「恭弥、どこだ!?」

「おわっ、ディーノさん!?」

「んだよ、朝からうるっせーな」

 ばったり出くわした山本と獄寺が、驚いて声をかけるが、ディーノは挨拶もせずに進んでいく。後から追ってきたロマーリオに、山本は「いったい何事か」と目顔で訊ねたが、ロマーリオは「さっぱりわからん」と首を振って、ディーノを追いかけた。

「恭弥!!」

 ばんっと壊しそうな勢いでドアを開け、ディーノは雲雀の執務室に踏み込む。机に着いていた雲雀は、顔を上げてディーノを見ると、ふふっと笑った。

「やっぱり来たね、pesciolino」

「……へ?」

 楽しそうな雲雀に勢いを挫かれたディーノは、雲雀の口にした単語に、目を瞬かせた。

「pesciolino?」

「そう。pesciolino」

 pesciolino。小魚ちゃん。

 ぺしょりーの…ともう一度つぶやいて、ディーノはようやく理解した。

 これはエイプリル・フールだ…!!

 イタリアでは、エイプリル・フールは「pesce d'aprile」、ペッシェ・ダプリールと言う。嘘に騙された者は、背中に「pesciolino」と貼り紙をされるのが習慣だ。

 ディーノはがっくりと肩を落とした。朝一番に最愛の妻から「離婚しよう」と言われた精神的ショックは、スクデーリアに「パパのと一緒に洗濯しないで」と言われているのを聞いてしまうよりも大きかった。

 だいたい、今日はもう4月2日だ。

 涙をいっぱいに浮かべた抗議の目を雲雀に向けると、さすがの雲雀も申し訳ない気持ちになってきたのか、バツが悪そうに目を逸らして言った。

「あなたが起きてきたとき、日本はまだ4月1日だったからね」

「!!!」

 時差を使うとは、ずるすぎる。

 とうとうぐったりと座り込んでしまったディーノに歩み寄り、助け起こして、雲雀はごめんなさいとつぶやいた。

「あなたがそんなに本気にするとは、思わなかったんだ」

「……そう言うなら、おまえ、朝一に真顔で離婚するって言われてみろ……」

「だから、ごめんなさいって」

「悪いと思うなら、今日は丸1日、オレにくれ」

 いつもなら、「わがまま言わないで」と撥ねつける無理な要求だったけれど、今日の雲雀には断れるはずもなく。

 「Si」と言うか言わないかのうちに、深く口付けられた雲雀は、その場から動くこともできないまま、ディーノに貪られたのだった。




 雲雀がディーノを愛しているからこそ、「離婚しよう」が pesce d'aprile になるのだとディーノが気付くのは、雲雀を美味しくいただいている最中のことだった。


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