大石君の昼休み~受難の愛妻弁当~

「きりーつ、れーぇ」

 授業終了のチャイムが鳴り、日直のダレきった声が面倒くさそうに号令をかける。きちんとした姿勢で最後まで頭を下げ、礼をしたのは、大石を含む、数人の体育会系の部活に所属している生徒だけだった。

 最後まで礼もせず、頭を上げながらそれぞれに昼食を取る支度を始めるクラスメイトたちに内心ため息を漏らしつつ、席についた大石は自分の弁当をカバンから取り出す。

 大石の弁当は、菊丸特製の、その名も「愛妻1号弁当」である。自分の存在を主張するかのようなそのネーミングは、大石的にはどうかと思うのだが、ふたりの妻、菊丸と手塚の仲はいたって良好でもあることだしと、彼は菊丸の命名を黙認している。

「はー、メシメシ! 早く喰おうぜ」

 にぎやかに騒ぎながら、大石がいつも一緒に昼を摂っているクラスメイトたちが、大石の机の周りにやってきた。周囲から机と椅子を拝借して、人数分の座席を確保する。

 大石自身はというと、大抵、自席から動く必要なく済んでしまうので、あとはウーロン茶の入ったペットボトルを出せば、彼の昼食の支度は完成。朝練もあって昼休みには空腹は絶頂で、座りながら尚もじゃれあっている友人たちを尻目に、いそいそと弁当を包んでいる大き目のハンカチをほどく。

 菊丸の弁当は、冷めても美味しく食べられて、かつ、ボリュームも充分という、至れり尽せりの逸品である。ご飯は毎朝、このために炊いたばかりのものを詰めてあるし、野菜も肉もバランスはばっちりだ。味付けはやや薄めになっていて、それが大石にはジャストの濃さである。

 が、菊丸は、絶対にその日のおかずがなんなのか、前もって教えてはくれない。最初の頃、おかずを訊いたら、「ふたを開けるとき、わくわくして欲しいじゃん?」と言って、にかっと笑うのを見て、それもそうだな、という気になったから、今ではもうおかずについては朝の大石家では話題に上らなくなった。

 さて、そんなわけで、大石は箸を手にして「いただきます」と手を合わせた後(まったく律儀なことである)、今日のおかずはなんだろう、と、期待を込めて弁当のふたを持ち上げた。

 瞬間、マッハの速度でふたを元の場所に戻す。なにか、ものすごく、危険なものを見てしまった気がした。

「なに、どした、大石? 弁当、空だったか?」

 大石の奇妙な行動に、周りの友人たちがにやにやと声をかける。が、大石はその声が耳に届いていないようだった。

 喧騒の教室の中、大石の周囲にだけ、異質な雰囲気が現出する。大石は、動揺した自分に、必死に言い聞かせていた。

 ちょっと待て。今のは気のせいだ。絶対気のせいだ。ちょっと見間違っただけだ。本当は、あんなんじゃないはずだ。

 ふたを開けたとき、一瞬だけ目にした嫌な色彩は、先ほどまでの空腹感を異次元の彼方まで吹き飛ばしていた。

 かぱ。祈りを込めて、もう一度、ふたを持ち上げる。大石が認めたくなかった現実は、しかしその希望に反して、なんの変化もなく存在していた。

 すなわち、ピンクの鯛田附で白飯の上に描かれた、紛うことなき巨大なハートマークが……

 こわばった笑みが大石の顔に浮かぶ。手は無意識に、再び弁当箱のふたを閉めた。手早く、元通りに弁当箱をハンカチで包み、開封前の姿に戻す。

 弁当の包みを右手に、ウーロン茶のペットボトルを左手に持ち、大石は立ち上がった。

「すまない、今日は他で一緒に食べる約束があったんだった」

 引きつった笑顔で、友人たちに断りを入れる。こんな弁当を、人目に曝しつつ食べる度胸は、大石にはなかった。

 なんとしてでも、余人に手元を覗き込まれない環境を確保しなければならない!

 それは、本日の弁当を無事に完食するための、最大の命題であった。



 大石が立ち去った教室では、事の成り行きを理解しきれていない周囲が、微妙に間の抜けた会話を交わしていた。

「……なあ。大石、どうかしたのか?」

「さあ? 変なもんでもおかずに入ってたんじゃねぇの?」

 大石にとっての幸いは、弁当のふたが開いていたのは本人が思っている以上に短い間のことで、例のアレはクラスメイトの目には触れていなかったことであろう。





 昼休みは、みな、それぞれに昼飯を摂り、クラスごとに割り当てられた場所の掃除をしてから自由時間となる。

 それでいくと、昼休みの始まった今の時間は、みな食事をしている真っ最中のはず。そう考えた大石は、無人のはずのテニス部部室にと足を向けていた。

 ホコリと汗の臭いが少し気になるし、少々狭くてアメニティに若干の問題があるが、部外者はまずやってこないし、落ち着ける場所ではある。そこで、菊丸の弁当をゆっくり食べよう。

 菊丸がどんな気持ちでこの弁当を作ってくれたのか。動揺から立ち直った大石は、そんなことを考える余裕を取り戻していた。

 がちゃりと、部室のドアを開ける。ようやくゆっくり食事が出来ると気を緩めた大石の視界に、不意に見慣れた反射光が飛び込んだ。

「あれ、大石? 何か用か?」

 運が悪いとはこのことか。中では乾が、包丁とまな板、ミキサーを前にして、なにやら作業をしているところだった。

 なにかと問われて、このラインナップから判明するのはただひとつ。言わずと知れた、「乾汁」の作製中である。材料は、ビニール袋から見えるものを手がかりに推測すると、葉物野菜をベースにシソやセロリと言った、少々癖の強い野菜類のようだ。申し訳程度に置いてあるハチミツが、乾のせめてもの情けなのだろう。

「……いや。ちょっと、今朝忘れ物をしたような気がしたから、来てみたんだけど……思い違いだったみたいだ。邪魔したな」

 内心のショックを隠しつつ、そう言い繕って、大石は部室を出た。おそらく、乾はこのまま部室で、昼休みを目一杯使って本日分の「乾汁」を作るのだろう。それでは、部室で弁当は食べられない。

 他に、誰もこなさそうで落ち着けるところ……

 大石は、おとなしく、次を当たることにした。




 前方の渡り廊下から、長身の影が歩いてくる。前髪を横に払った形にセットしている彼、泣く子も黙る手塚国光である。両手にはプリントの束。手塚が束ねるもうひとつの組織、青学中等部生徒会で使用する資料のようだ。

 渡り廊下に垂直にぶつかる廊下を歩いていた大石は、手塚を呼び止め、追いついた。

「なんだ?」

 無愛想に応えた手塚は、大石が手にしている弁当を見て、片眉を吊り上げた。まだ食べていないのか、とでも言いたげな様子だ。手塚は、毎朝、菊丸が弁当を作るのを手伝っている。大石は、手塚が例のアレを知っているのか気になって、手塚のはどうだったのか訊ねてみた。

「弁当? 俺のか?」

「そう。どんなヤツだった?」

 自宅にいるときと違い、学校での手塚はまったく事務的で素っ気ない。大石に弁当の内容を尋ねられて、一瞬迷惑そうな表情を見せはしたが、あっさりと答えた。

「野菜の煮つけと、出汁巻き卵、鶏のそぼろ飯だったか。…それがどうかしたか?」

「…いや。ちょっと気になっただけだよ。ところで、もしかして、今日は生徒会室を使うか?」

「ああ。これから、2学期の文化祭の準備の打ち合わせをする」

「そうか。わかった、ありがとう」

 手塚しかいないのなら生徒会室で食べられるかという大石の考えは、これで潰えた。手塚は公私混同はしない。何もないときならともかく、打ち合わせで使うのなら、予定の時間前でも入れてはくれないだろう。

 屋内は諦めてみるかと考えながら、大石は歩き出した。




 たたんっ! たたんっ!

 向こうから、リズミカルな音が聞こえてくる。聞きなれない者にとっては、何の音なのか、咄嗟には判断できないだろうけれど、大石には耳に馴染んだ音だ。ひとりでショットを練習する、壁打ちの音である。

 学園の敷地内、テニス部部室の対角線上にある特別教室が集まった文化棟の裏の、ちょっとした空き地。そこは、あまり人の通らない、秘密のイベントの穴場スポットである。告白、おしゃべり、昼寝など、余人を交えたくない生徒たちがここを活用している。使用権は先着順だ。

 誰もいないことを願ってやって来た大石は、その音で、校舎の角を曲がってそこに着く前に、先客がいることを悟った。しかも、どうやら、それはチームメイトのようである。

 知り合いがいるのでは、一角に陣取って弁当を広げるわけにはいかない。万が一にも見られたら、弁当の例のアレの存在はその日のうちにテニス部員全員の知るところとなるだろう。

「ふしゅぅぅ」

 壁打ちの音が止み、聞きなれたため息が聞こえた。彼ならば、言いふらしはしないだろうが…、自分の居心地が悪いことに変わりはない。

 大石は、刻々と減っていく残り時間を気にしつつ、次の心当たりへと移動した。




 校舎内に設置されているエレベーターは、生徒は使用禁止となっている。もっとも、大石にとっては、階段は脚力を鍛えるちょうどいい場所だから、エレベーターが使えても階段を選ぶが、やはり、空腹で屋上まで行くとなると、やや「いい運動」となってくる。

 ギィと重い鉄扉を開けると、よく晴れた空が目に入る。今日は風も強くないし、屋上は気持ちがよさそうだ。ここなら落ち着いて食べられるだろうと、大石は一歩踏み出した。

 途端に、ぎょっとして右横に目をやる。人の気配を感じたのだ。

 気配の元は、校庭側のフェンスに背を預けて昼寝をしている真っ最中の越前だった。

 帽子を目深にかぶり、日の光を遮って眠っている越前に、大石は少しほっとして、離れたところに座ろうと歩を進めた。

 と、後ろから威勢のいい足跡が聞こえ、ばぁんっ! と鉄扉が開いた。振り向いてみれば、桃城である。どうやら越前に会いに来たようだ。

「いたいた、やっと見つけたぜ、越前!」

 ずかずかと歩み寄った桃城は、眠っている越前をたたき起こしている。2、3度揺すられて、越前は迷惑そうに瞼を上げた。

「なんスか、桃先輩?」

「おまえ、ちょっと手伝え。もうメシが済んでるなら、いいだろ? 早くしないと、売り切れちまうんだ」

「だから、なにが?」

「売店だよ! 早くしないと、後出しの焼きそばパンを確保できないだろ!」

 どうやら、昼休みが半分すぎた頃に棚に並べられる「後出し」の分のパンを欲しい分だけ買うのに、越前を駆り出そうということらしい。

「…あれ、大石先輩? こんなところで、これから昼っスか?」

 渋る越前を急かしながら、今更のように、桃城が大石に気付いた。その言葉に、越前も大石の方を見る。

 大石の手に健在の弁当の包みを見て、桃城は大石がここにいるだいたいの理由を察したようだった。

「俺ら、もう行くんで、気にしないで喰ってくださいよ」

「………ああ、ありがとう。桃、あんまり食いすぎるなよ」

 食欲の塊のような桃城には言ってもあまり意味のないことだとは思ったが、大石は一応、そんなことを言って、まだ眠そうな越前を、半ば引きずるようにして屋上を出て行く桃城を見送った。

 さて、それで結局、どこで食べようか……。

 無人になったとはいえ、なんとなくその気をそがれて、大石は屋上を放棄した。





 その後、図書室、視聴覚室、音楽室、特殊講義室etcを回っては見たものの、どこも人がいたり、飲食禁止だったりと、大石が「ここだ」と思うような場所はなかなかなかった。残り時間もあとわずかになって、今にも鳴り出しそうな腹を抱えて、大石は仕方なく、自分の教室に戻ろうと、来た廊下を戻り始めた。

 と、正面からばったり、手塚と出くわした。生徒会の打ち合わせはもう終わったようだ。様子からすると、手塚も教室に戻るところらしい。

「やあ、手塚」

 声をかけると、手塚は思い切り顔をしかめた。手塚がここまであからさまに表情を表すのも珍しい。大石は不思議に思って、訊ねようと口を開きかけた。

「昼休み中、なにをしていたんだ。飢え死にする気か?」

 大石が言葉を発するより早く、手塚の厳しい声が響いた。大石の手にある、未だ重量が減ったように見えない弁当箱と、中身の減っていないペットボトルを見咎めたのである。

「あ、いや…これは」

 大石は説明しようとしたが、それよりも先に、手塚はくるりと踵を返して歩き始めた。

「早く来い、休み時間がなくなるだろう」

 呆然としている大石を振り返り、手塚が催促する。大石は慌てて、手塚に付いて廊下を進んだ。 手塚が開けたのは、生徒会室のドア。大石が中に入ると、手塚は大石を振り返りもせずに、片隅の給湯器でお茶を淹れた。

「適当に座って、早く食べろ。体によくないし、箸もつけないんじゃ菊丸が可哀想だ」

「あ、ああ。ありがとう、手塚」

「礼はいい。予鈴が鳴ったら、ここは閉めるぞ」

 そっけない手塚の物言いに、大石は感謝しつつ、急いで弁当のふたを開く。いつになく挙動不審に昼休みを過ごしている大石をいぶかしんだ手塚が、湯飲みを口に運びながら横からちらりと中を見て、その瞬間、盛大にお茶を吹き出した。

「うわっ、大丈夫か手塚!?」

「げほごほがほ……っ」

 丸くなってお茶にむせる手塚の背を、立って行って擦る。手塚は、げほごほ言いながらも、自分に構わず食えとジェスチャーした。

 実際、急いでかき込んでも予鈴ぎりぎりの時間とあっては、心配だが遠慮なく弁当に専念せざるを得ない。大石は手塚に謝りつつ、箸を動かした。



 予鈴5分前に空になった弁当箱に手を合わせて「ごちそうさまでした」とつぶやく大石に、温かいお茶の湯飲みが差し出される。大石は礼を言って受け取り、一息に飲み干した。

「…しかし、アレはいったい、どういうことだ?」

 大石と菊丸と手塚の関係は、学校では秘密である。怪しまれる余地を作らないためにも、「弁当での愛情表現はご法度」という暗黙の了解があったはずだ。

 が、あれはどう見てもしっかりはっきり「愛妻弁当」である。

 渋い顔で尋ねる手塚に、大石はすまなそうに応える。

「俺にもわからないよ。教室でふたを開けて、ものすごく驚いたんだから」

「……だろうな」

 なんとなく菊丸に抜け駆けされた気分の手塚は、ややご機嫌斜めらしい。眉間のしわの深さが、当社比3割増である。

「お茶、ご馳走様。ここで食べさせてもらえて、助かったよ」

「昼を食べないと、放課後の練習に差し障るからな」

 大石が満面の笑みで礼を言っても、手塚の答は相変わらず愛想がない。つくづく、「素直」という言葉が当てはまらないヤツである。





「なぁなぁ、大石! 弁当、美味かった?」

 夜、帰宅した途端、大石は菊丸のにぎやかなお出迎えを受けた。菊丸の瞳は、期待に満ちてきらきらしている。大石はにっこりと微笑んで、頷いた。

「美味かったよ。…ちょっと、アレには驚いたけど」

「〝アレ〟? 〝アレ〟って……?」

 大石の言葉を、菊丸はきょとんと聞き返した。〝アレ〟にすぐには思い当たらないその様子に、大石は衝撃を受けた。あんなにあんなに、苦労したのに!

「ほら! 飯の上の田附! ピンクのハートの……」

 大石が説明すると、菊丸は「おお!」と手を叩いた。

「なんだ。あれを驚いたの? なんで?」

「英二………」

 拍子抜けするほどさらりと返されて、大石はがっくりと肩を落とす。あんなに恥ずかしいものを、驚いてはいけないと言うのか?

「どしたの、大石?」

 ショックで二の句が継げなくなってしまった大石を、菊丸が不思議そうに覗き込む。心底、アレの重大性が判っていない風情で、大石はずどーんとヘコんだ。

 そこへちょうど、台所へ飲み物を取りに来た手塚が通りかかった。帰宅してすぐに菊丸に経緯を問いただしていた手塚には、大石の様子を見ただけで状況が飲み込めたらしい。ひとつため息をついて、菊丸に言った。

「菊丸。弁当のこと、大石に説明してやれ。最初から」

「『最初から』だって?」

 訳ありげな手塚の言い方に、大石が反応する。手塚は頷くと、目で菊丸を促した。

「最初って、田附のこと? あれはさ、昨日タカさんからもらったんだよ。あまったネタ使って作った試作品とかって言ってくれたんだ。それで、味見したら美味しかったし、使わないのももったいなかったから、今日の弁当に使ったんだよ」

 何事でもないように説明する菊丸。大石は「憂鬱」という漢字をお習字したくなってきた。

「じゃ…、じゃあ、どうして俺のにだけ、ハートなんか描いたんだ?」

「大石のだけじゃないよ。俺のにも使ったよ。大石の分と二人分作ったら、手塚の分がたりなくなっちゃって、手塚のは鶏そぼろを使ったんだ。型を使ったのは、バランス的に、ご飯の上全体にかけると味が強すぎちゃいそうだったから、型抜きして白い部分を作った方がいいと思ったからだよ。だけど、どういうわけか型がハート型しか見つからなくってさ。他の探してる時間もなかったし、仕方がないからそのまま使っちゃっただけ」

 つまり、大石があれだけ動揺したことも、あれだけ苦労して放浪したことも、菊丸にしてみれば深い意味など一切ないことだったわけだ。

 真相を知ってみれば、報われないったらありやしない。そんな理由なら、ストレートに縞模様を描いてくれれば、あんな苦労はせずに済んだのだ。大石は落ち込んだ。これ以上ないほどに。

「だから、どうしたんだってば、大石? 弁当、なにか、悪いものでも入ってたか?」

 大石の本日の昼休みの様子を知らない菊丸は、心配そうに大石の肩に手を置いた。この期に及んで、大石の苦労の根源を察知できない辺り、むしろ素晴らしい。

 そんな二人を眺めていた手塚は深々とため息をついた。

「とりあえず、大石は部屋に荷物を置いて来い。菊丸には、その間に、俺から説明しておこう」




 その後、しばらく、菊丸の弁当にトラウマのできてしまった大石のために、大石の弁当だけは手塚が用意することになったという。


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