「大石たち、おっそーい! もう始めてるよ」
指定された時間に遅れること15分。越前南次郎氏が管理するお寺の境内に入ると、奥の桜の大木の根元から、聞き慣れた声に呼ばれた。
桜は今を盛りと花を咲かせ、確かに、日本人ならばこれを黙って見ているのももったいないという気がしてくるだろう。
その根元にシートを敷いて陣取っているのは、青学テニス部レギュラー陣である。いきなり電話で召集をかけられたと言うのに、もうすでに大石たちを除く7人は顔を揃え、宴も酣状態だった。
「ごめんごめん、バスの接続が悪くてさ」
大石がそう言いながら近づいていくと、風に乗って独特のフレグランスが漂ってきた。この面子でこの臭いは、本来ありえないはず。だが……
シートに座る彼らの横には、しっかりと「キリン」「菊正宗」「ムートン・カデ」etc.etc.のラベルのビンが鎮座ましましていた。
「なんだこれは!! おまえら、未成年が飲酒など!!!」
大石の隣で、手塚がぷつっと音を立てる勢いで切れる。だが、グラウンドを50周しても許してもらえなさそうなその怒号を真剣に受け止められる人物は、すでに当事者たちの中にはいなかった。
「え~、なんで? お花見なんだから、少しくらいいいじゃない」
にこにこと不二が手塚を見上げる、その呼気は充分に酒臭い。へらりとした口調は、とっくにアルコールの作用を受けているそれだ。が、手塚は眉間のシワを崩さずに言った。
「少しも何も、花見だろうが月見だろうが、未成年の飲酒は法律違反だ」
「まあまあ、手塚。酒以外の飲み物も、用意してあるから。そんなに堅いことを言うなよ」
そんな手塚の腕を引っ張って、無理やり座らせたのは乾。その手には、しっかりと『花見用春爛漫乾汁』が握られていた。とたんに、菊丸がずざっと飛び退る。
「ぎょえぇ! 乾、そんなのも用意してたの?」
「もちろんだ。宴会仕様に味も調えてある。今回のこれは、〝花見〟というテーマに合わせて、梅と桜のエキスを混入し……」
「へぇ? どんな味?」
興味深げに不二が手を出す。どうやら、青酢の教訓は不二の中に活かされてはいないらしい。また倒れたらどうしよう…と、横で河村がはらはらと見守る。
一気飲みでグラスを干した不二は、にっこりと乾を見た。
「今までのと違って、けっこう甘いんだね、乾」
「花見用だからな」
「どんな味なんすか、不二先輩?」
興味津々で訊ねた桃城に、不二は相変わらずの笑顔のまま答える。
「カルピスにユンケルとオロナミンCとゼナが混ざって子供向け歯磨きバナナ味で仕上げたような味」
「「「ぜってぇ飲まねぇ」」」
答えを聞いた桃城と海堂と越前はハモリで即答した。
「てゆーか、桜とか梅とか言ってた割に、その味しないんじゃん」
「体にいいぞ?」
「あ、じゃあ、乾先輩に譲りますよ」
「そうそう、乾先輩が飲むといいっすよ。いつも俺らが飲んでたら、先輩の分がないでしょ」
「っ! おいっ!」
乾が桃城にホールドされ、越前に花見用乾汁を飲まされているのを尻目に、大石は菊丸に、手塚は河村に飲み物を勧められる。
「大石、これ美味しかったよ~」
「あ、ああ…。ありがとう、英二」
そう言って、菊丸は大石にカンパリオレンジの缶を渡す。菊丸の呂律はそろそろ危ないが、大石はすっかり周囲の勢いに飲まれていて、気付かない。
「手塚、ソフトドリンクはこっちにあるから」
「すまないな、河村」
そう言って河村が手塚に渡すのは、ウーロンハイ。それが酒と知りながらも悪気はなく勧めた菊丸と違って、河村は完全にただのウーロン茶と取り違えて渡している。
「あ、桃先輩、そっちのヤツ取ってくれません?」
「お、これか?」
越前に言われて、桃城は自分の後ろにあった白い缶を取り上げる。
「どうも」
「おまえ、これってバドワイザーじゃん。飲むなぁ」
「まぁね。バドワイザーなら飲めるよ。桃先輩こそ、さっきからジュースばっかじゃん?」
「まぁな」
参加しているものは皆、1杯以上は酒類を飲んでいるはずだというのに、桃城だけは先ほどからずっと、1.5リットルのペットボトルを独占して、頑なにソフトドリンクを貫き通している。
からかわれることは必定なので誰にも黙っているのだが、実は、桃城は下戸なのだ。
何の疑問もなくウーロンハイを飲んでいた手塚の横で、海堂がごん! と音を立てて転がった。
「あーっ! 海堂が倒れた!」
「いや、これ、倒れたんじゃなくて寝たんだよ」
「マジっすか!?」
叫んだ菊丸に、寄って行って様子を見た大石が言うと、桃城が面白そうに覗き込む。海堂は酒で真っ赤な顔をして、ふしゅるるる…と寝息を吐いていた。
「うわー、ホントに寝てるよ、こいつ」
「コップ握ったままだよ、どうする?」
「どうするって、そのままってわけにはいかないだろう」
感心したように、近くに落ちていた枝で、桃城が海堂をつついた。不二の指摘に、ため息をついた大石が、先ほどまでビールで満たされていたグラスを離させる。
「貴重な映像が撮れたな」
「乾……」
気がつくと、日本酒のグラスを片手に、乾がデジタルビデオを回していた。準備がいいと褒めるべきか、こんなときまで持ってきているのか…と呆れるべきか。手塚は深々とため息をつく。
「あ、なんだ。手塚、グラス空じゃない」
「あ…、ああ。すまない、不二」
手塚の手元に気づいた不二が、慣れた手つきでウーロンハイを作る。ウーロン茶はなにも混ぜないんじゃなかったか…? という疑問が、初めて手塚の脳裏をよぎったが、それは深く追求されずに思考の片隅に追いやられた。なんだかんだ言って、手塚もそろそろ毒されてきているらしい。
「ふーじっ! なあなあ、飲んでるー?」
海堂が酔い潰れ隔離用シートに収容されると、菊丸ががばっと後ろから抱きついてきた。その顔は真っ赤で、呂律は回っていない。「飲んでる?」が「おんれる?」に聞こえる。完全に酔っ払いだ。
「うん、飲んでるよ。これ、2本目だもん」
そう言って不二が示したのは、赤ワインのフルボトル。その2本目も、もうすぐ尽きる。どうやら、1人でここまで空けたらしい。
「あっ、じゃあ、これもあげるー!」
そこにどぼどぼと注ぎ足されたのは、スクリュードライバー。飲み切りサイズのボトルを丸々1本分、空けられてしまった。
「英二、これじゃワインじゃなくてカクテルだよ?」
「うん、甘くて美味しいよなっ!」
既に正常な論理は通用しなくなっているようだ。楽しそうにくすくすと笑いながら、不二はワインクーラーもどきになってしまった赤ワインに口をつけた。
「タカさんも、飲む?」
不二に勧めてご満悦の菊丸は、隣の河村にも同じ物を勧めようとする。
「おっ、いいねぇ! カモン、ベイビー!!」
そのボトルは、ものすごくエネルギッシュな雄叫びと共に、がしっと握り締められた。その顔はすでに出来上がっている。
「げっ、タカさん、酔ってる!?」
「へぇ…、河村先輩って酒乱だったんだ」
相変わらずオレンジジュースを飲みつづける桃城が驚く横で、越前が平然と本日4本目のバドワイザーに手を伸ばす。酒に強いというよりは、酔っている自覚がないだけのようで、顔色は充分酔っ払いのものだ。
「よっしゃぁ、バーニーン!!!」
それまで持っていたグレープフルーツハイを仁王立ちで一気飲みした河村は、着ていたTシャツを勇ましく脱ぎ捨てた。
「うっわー、お約束…」
「タカさん、男らしー。かっこいいよ」
つぶやく越前にかまわず、ワインクーラーもどきのグラスを手にしている不二が可愛らしい仕草で河村に見蕩れる。実は半分わざとの確信犯なのだが、河村はあっさりと騙される。
「そぉかぁ! フジコ、かっこいいか!!」
「うん、かっこいい。すっごい男前」
「うおぉ―――っっ!!! グレイトぉ!!」
語尾にハートマークの幻覚さえ見えそうな不二の口調に、勢いづいた河村は履いていたジーンズも脱ごうとする。
「バーニーンッ!!!」
「「わ―――――――っっ!!! タカさん!!」」
「やめんか、みっともない」
全裸は困る!! と桃城と大石が慌てて叫ぶのに対して、至極冷静に言い放った手塚が、振り向きもせずに手近な空きビール瓶で裏ラリアットを食らわせた。凶器を使用している辺り、もういい加減、手塚も酔いが回ってきているのだろう。
ずむっ! とくぐもった音を立てて、それは河村の急所にヒットした。
「ノォゥ…ッ!」
「「「うっわー……」」」
「大丈夫か、タカさん…?」
うめいて前のめりにうずくまった河村を、面々が恐る恐る取り囲む。桃城と菊丸と不二が憐れみの目で見下ろすと、大石が怖々と問い掛けた。
「多分死んでる」
河村の真正面にしゃがみこんだ越前が、河村の顔を覗き込みながら答える。
「いい絵が撮れたな」
少し離れた場所で、乾は一人悦に入っていた。
河村が酔い潰れ隔離用シートに引きずられていくと、宴は何事もなかったように再開される。
調子よく飲んでいた菊丸が、にゃへら~と不二に寄り掛かりはじめた。そろそろ彼も限界だろう。乾が日本酒のおかわりを手酌で注ぐと、あまりの惨状にとにかく笑うしか出来なくなった大石が不思議そうに声をかけた。
「すごいな、乾。何杯目だ?」
「日本酒なら、3杯目だよ」
「『なら』って?」
「その前にビールを4本飲んでる」
の割には、表情どころか顔色さえ変わっていないが。
「……………………………。……ザルか?」
「ワクだって言われたことはあるよ」
「さすがは乾だな……」
ふぅ…と大石の目つきは遠くなる。ありえないシチュエーションにありえないチームメイトたち。酒を飲んだことはないはずでなければならないのに、やけに酒の酔い方が板についているのはなぜだろう?
とうとう菊丸が酔い潰れ隔離用シートに連行されていった。
不意に、大石のシャツの左袖がくいくいと引っ張られた。振り向くと、酔って真っ赤な顔をした手塚が、しょんぼりと大石の袖をつかんでいた。その手には、ウーロン茶よりも焼酎の方が多いに違いない色合いのウーロンハイがある。
「手塚、どうした?」
「……………淋しい」
「えっ!?」
「大石……」
今にも泣き出しそうなほど眉の下がった手塚は、擦り寄るように大石の肩に顔を埋める。思いがけない手塚の様子に、こんな手塚を相手にするのは初めての大石は、おろおろとうろたえてしまった。
「ぶほっ!」
向かいで、がっちり目撃してしまった桃城がジュースを吹き出した音がした。もちろん、残りの3人も、吹き出さないまでも、驚きの表情でしっかり注目している。
「て…手塚? あ、あの、ほら、みんな見てるぞ。離れよう?」
「…嫌だ」
「『嫌だ』って……」
いやいやと首を振って大石から離れようとしない手塚に、大石は困り果てて手塚を見下ろした。どうしよう? と不二に救いを求める目を向けると、不二はひょいと肩をすくめて苦笑した。「自力で何とかしろ」ということらしい。乾は興味津々でビデオカメラを向けてくるし、越前は嫉妬丸出しの目で睨んでくる。桃城は「こっちのことは気にしないでくださいね~」と手を振ってきた。
「なあ、手塚? ほら、みんなも困ってるから……」
いちばん困っているのは自分だが。
本当は堂々と抱きしめ返してやれればいいのだろうけど、自分にはできない相談だ。いくら手塚が好きでも、そこまでバカップルにはなれない。
そう、思っていたけれど……
ふと見ると、手塚の目には涙が溜まっていた。大石が抱き寄せてくれなかったのが、かなり堪えたらしい。その顔を見た瞬間、大石はとても自然に手塚を抱きしめていた。
「ごめん」
つぶやくと、手塚は大石に縋りつくようにしながら、こくりとうなずいた。
「悪いけど、これで帰るよ。手塚、かなり酔ってるみたいだから…」
「うん、そうだね。気をつけて。タクシー拾った方がいいかもよ」
大石が手塚を抱き支えながら立ち上がると、不二はうなずいてふたりのカバンを差し出した。
「門の前、そこそこ車の通りあるから、たぶんすぐ拾えるんじゃないか?」
そういった乾が「なあ、越前?」と同意を求めると、越前はぶっきらぼうに「もう1本向こうの方がタクシーは多いっすよ」と答えた。その越前の頭をなだめるようにぐしゃぐしゃと撫で回しながら、桃城が言う。
「じゃ、大石先輩。また学校で。今年もよろしくお願いしますね!!」
それは、言わずもがなのことではあったけれど、改めて言葉にされると、とても幸せな響きを持っていた。
「ああ、桃。今年もよろしくな」
みんなも、と言い添えると、心強い笑顔が3つ加わる。大石もそれに笑顔で応えると、手塚を抱きかかえるように支えながら、寺の境内を後にした。
それは、とてもうららかな、桜が満開のある春の一日のこと…。