MemoryPage One

 

大好きだった母が死んだ。二月の寒い日のことだった。シングルマザーだった母は、女手一つで僕を育ててくれた。そのことはみんな知っていたし、僕も隠さなかったから、友達は父親がいなくて寂しいだろうと聞いてけど、そんなことはなかった。一人っ子だったけど、母さんは僕にありったけの愛情を注いでくれたから、そう思う暇もなかった。それに・・・あの人がいたから・・・。

 

僕、瀬谷瑞樹、中学二年、背は中の下で女顔と評される僕は、父親不明、母親死去と、天涯孤独の身となってしまった。親戚がいてくれればよかったんだけど、至るところでたらい回しにされるのがオチなので、そういう意味では親戚と疎遠だった母さんに感謝している。

父親の正体は不明だった。母さんに聞いたところ、シングルマザーをやりたかったという理由(胡散臭いけど深追いできなかった)で結婚寸前までいった父さんと別れたと、大笑いで話していた。だけど、母さんは独りではなかったんだよね。時々うちに若くてきれいでかっこいい(あくまでもイメージ)お兄さんがきてくれたんだ。

その人はとってもやさしい人で、僕と会うときはいつも穏やかな笑みを浮かべながら頭をなでてくれた。その人と会わなくなってから結構経つけど、まだあの大きな手の感触「だけ」は忘れていない。忘れられない。もし父さんがいたら、こんな人がよかった。僕は小さいころからなんとなくその人が父でないとわかっていた。今だから子供って残酷だなぁと思うけど、当時の僕はわざわざそんなことは考えないので、単刀直入に「お兄さんは誰?」と聞いてしまったんだ。でも、その人はやっぱり優しかった。そこ言葉の秘める意味に気づかなかったはずはないのに、笑みを絶やさず「僕は律子さんの友達だよ」と即答したんだ。

これで父親でないことははっきりしたんだけど、がっかりするどころか、感謝したくらいだった。父親でもないのに僕を育ててくれたんだからね。だから僕は彼を実の兄のようにも慕ったものだった。僕にとって彼は父であり、兄であった。でも、出会いがあったから、当然別れも来てしまったんだ・・・。

それは僕が小学校3年の夏のころ、お兄さんは残念そうに僕に言った。

『瑞樹くん、残念だけど僕は今日で君とはお別れだ』

『お兄さん・・・僕を嫌いなの・・・?』

『大好きだよ?だからさ。でも、君は独りじゃない。律子さんがいるし、僕もずっと君を見守ってるから・・・』

『二度と会えないの?』

『それは僕にも分からない。でも、もし瑞樹くんが僕を必要とするときがあれば、そのときは会いに行くから・・・約束するよ』

これ以上僕は何も言えなかった。強制する権利がないことくらい、僕にだって分かっていた。彼にも理由がある以上、我侭を言ってはいけない。だから僕は彼を困らせないよう、笑って見送った。でも、家に帰ったら泣いてしまった。僕が泣き止まなかったから母さんが困っていたのは覚えている。でも、僕はそのときのショックで重要な記憶をデリートしてしまった。そう、そのお兄さんの顔、声が思い出せないんだ・・・顔を見たら、声を聞いたらお兄さんだと思ってしまうから・・・。

 

忘れたはずなのに、そんな昔のことを思い出してしまった。すべてはこの手紙が悪いんだ。

『もし私が死んだら父親予定者だった人のとこに行ってねぇ。瑞樹が読むころには手筈は整ってるはずだから』

これはまぁ、身体に先天的な欠陥のあったらしい母が常に更新していたらしい遺書、遺言の最新版の一節だった。自分の死期を察してか、紙に書いておいたらしい。読んで笑えてくる。この人はこれを書くまでは実際に死ぬことになるなんて思ってなかったんだろうなって・・・。でもねぇ、残されたほうはどうしようもないんだよ。

ちゃんと遺言どおり(効力はあったらしい)その父さんであるらしい人の家に行ったのはいいけど、現場についてから気づく。僕にとっては他人だから、どうしても入り込めないんだ・・・。考えてみてよ。どうして今まで一緒に暮らしていなかった男を子供だと認められるの?普通は急に「あなたの子です」と言われても認めるわけがないよね。でも、僕はこの家にお世話になるしかないことも事実で、独りというのがこんなにも辛いということを思い知ったんだ・・・。

「あら、ひょっとしてあなたは瑞樹ちゃん!?会いたかったわ!」

感傷等もろもろの感情に浸っていたら、ねぎの入ったスーパーの袋を抱えた背が高く、長い髪を後ろで束ねている、妙に家庭的できれいなお姉さんに抱きしめられてしまった。あなたは誰?というか、何で僕の名前を知っているの?そんな疑問をさせる暇も与えずに彼女は僕を無理やり家の中に連行してくれた。

「博美、遅かったじゃないか・・・ってその子は・・・」

「そうよ。あなたのご子息瑞樹ちゃんよ!」

呆気にとられていたサラリーマン風の男は、僕の父親らしい。とすると、この女の人(おそらく博美さんとかいう人)は僕の義母だろうか。

「そうか・・・君が律子の・・・。今まで悪かったな。俺が不甲斐なかったから、君たち母子には辛い目にあわせてしまった。いまさら俺を親なんて思えないだろうが、律子の忘れ形見だ。君を引き取りたい俺の気持ちも察してほしい」

「いえ。突然訪問した僕を何の疑いもなく家に入れてくれたお二人には感謝してもし尽くせません・・・」

目の前の男が父親であるという実感は全くないけれど、表面は嫌がっている様子がなかったので、感謝しているのは本当である。

「そんな、別に気にしなくてもいいのよ、瑞樹ちゃん。私たちはあなたを歓迎するわ」

もう家族がいない僕にはうれしい言葉だったけど、父さんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。僕はなんか悪いことを言ってしまったのかな。

「瑞樹がいるんだ。その口調はやめろ」

何のことを言っているんだろう。博美さんを見ると、つまらなそうに舌打ちをした。

「はいはい、先輩の大事な律子さんのお子さんですからね。先輩がどうしてもこの口調が嫌いだと言うのなら僕は元に戻りますけど」

目の前で拗ねている美人さんは、実は男だった。しかも、最近はやりのオネエだった。

「あ、瑞樹くん?勘違いしないでね?僕は先輩が男だからだめだと言うから、こうやって趣味と実益をかけているだけだよ。別にオネエなわけじゃないよ?

自己紹介しなきゃね。僕は紅林博美。麻生達樹先輩、あ、君のお父さんね、とは結構昔に色々とお世話になったんだけど、この家子供が多くて四苦八苦している話を聞いたから、押しかけたんだよね。あ、僕は麻生家の中では母親という立場でよろしく」

最初はそのキャラクターにびっくりしたけど、話を聞いていると、この人は慈愛にあふれた人なんだということがわかってくる。いくら先輩が困ってるからって、普通家に居着いてまで家事はやらないよね。きっと父さんもそれを知ってるから男でも追い出さないんだろう。まぁ・・・ある種の刷り込みもあるかも知れないけど。

「ただいま・・・この子は?あんたが作ったのか?」

「このいかにもやかましそうだけど実はかわいいところの満載な少年は、大地。高一。大地のように物怖じしない性格であってほしかったらしいけど、実際は地震のようにうるさいわね」

「何を、この変態野郎!かわいいって言うんじゃねぇ!」

「おほほほほ、そうやってムキに反論するのがかわいいって言ってるのよ!で、この子が瑞樹くん。君の義弟ね」

「ははは、またオヤジほかに種付けしたのか?」

「いや?これは律子さんとの」

「そ・・・そーか。悪かったな。許してくれ」

「いえ。僕も急に家族ができると同じこと言うと思いますから」

 

「ただいま・・・ん?博美さん・・・その子はどうしたの?」

「あら、帰ってたのね?そこにいるのは和也くん。無口に見えて排他主義に感じちゃうかもしれないけど、あれで結構優しいのよ?和也くん、彼がこの前言った瑞樹くん」

「あぁ、初めまして。俺はどうも怖い人間に見られてしまうようだが、そう思ったら遠慮せずに言ってくれるといい。直せるとこは直すから」

「はい。ありがとうございます。大地さんとは結構違うんですね・・・」

「ははは・・・違うも何も、私たち血はつながってませんから」

どうやら家族はもう一人いたらしい。最後(恐らく)に現れた人は今まで見た人とは全く違うタイプだった。メガネが似合う、利発そうな人だった。

おっと、そんなことはどうでもいいよね。僕は笑いながら言われた言葉を疑った。

「その顔だと、信じてないですね?私たちは母親が父に育児を任せた子・・・というのは表の姿で、実際には人のいいあの人がそれにつけこまれて「これはあなたの子です」と押し付けられたんですよ。考えてみるとわかりますように、30代半ばの父さんが私のような年の子供を作ること自体無茶ですからね。もっとも、私は感謝してますが。彼らもそうみたいだけど、本気出せば警察に届けられるところを、こうして身に覚えもないくせに育ててくれたんですからね。あぁ、私は泉。長兄ってことになりますね。よろしく」

笑顔で手を差し出されたので、慌てて握り返してしまった。でも、考えてみたら、父さんと血がつながっているのは、僕だけってことになるよね。それって素直に喜べない。だって、血がつながってるってことだけでこの家に入り込む資格なんて僕にはないから・・・。もし僕が入り込んだことで家族のバランスが崩れたらと思うと・・・。

「気に病むことはないわ。ここの子たちはみんなあなたが来るのを楽しみにしていたのよ?『新しい弟が来る!』ってね」

「そういう博美さんこそ、部屋中を踊りまくるほど嬉しがってたじゃないですか?」

「当然よ?これが嬉しくないとでも?」

このわけの分からない会話から想像できたのは、どうやら僕は歓迎されているらしいということだった。一気に家族が出来るのは、本当はまだ実感がわかないけど、想像していたよりは安心して生活できる。それはそんなことを思った矢先に発生したことだった。

「だから博美、気持ち悪いからその言葉は使うなといっただろう。どうしてもその口調をやめないなら、お前には出てってもらう」

穏やかな空気が一転。突然の修羅場だった。すさまじい殺気を放った父さんが博美さんを睨みつけている。だけど、博美さんはそれに勝っていた。さっきまでの中性さがすっかり抜けていて、悔しいけど僕はそれを格好いいと思ったほどだった。

「僕はあなたの一番にはなれないから、こうやって女の格好をしてまでもそばにいて、せめて子供たちの母親としていようかと思ったのに・・・それを出てけと言いますか。えぇえぇ、分かりましたよ。あなたにとって僕がそれだけの存在なら、僕もあなたのそばにいても苦しいだけですからね」

今度は僕のほうを向く。父さんに向けていた怒りは消え、申し訳ないといった顔だった。

「瑞樹くん、ごめんね?来て早々こんな嫌なところを見せちゃって。あの子達も達樹先輩もみんな優しいから、絶対君の力になってくれる。だから・・・君は独りじゃない。がんばって・・・」

「ちょっと!博美さんが行くなら僕も行く」

 

そう、それはあまりにも突然だった。僕も何も考えないでモノを言ってしまったのだ。家を出ようとする博美さんの顔はあまりにも儚げで・・・ということがあれば理由として充分成立するんだろうけど、そんなことはまったくなかった。でも、今博美さんの手をつかまなければ、僕はまた後悔する。それだけは分かったんだ。だって・・・あそこで独り立っていた僕を見つけてくれたのが、博美さんだったから・・・。

「ほーんと、瑞樹ちゃんも物好きね。あたしなんかについてこなくてもよかったのに」

「しょうがないでしょ。僕だって急なことだったからつい」

「ふふふ・・・ありがとね。君がいてくれれば僕は独りでもやってける。あ、君がいるなら独りじゃないか」

いきなりこの人は僕に抱きしめてきた。最初会った時といい、スキンシップ過多のようである。この人にとっては普通なのかもしれないけど、僕には今までそんな知り合いはいなかったので、どうしても慌ててしまう。

「ちょっと!いくらなんでもそれは大げさでしょ!」

「いや?大げさなんかじゃない。君に会えて一番喜んでいるのは、実は僕かもしれない」

いきなり何を口説くんだこの人は。ったく、スキンシップもすごければ出る言葉もすごい。僕の心臓、ばくばく言ってるよ。今日初めて会ったはず・・・だよね・・・?いや、僕もなんか自信がないんだけど。だって、懐かしいような・・・気のせいだね、うん。僕にオネエの知り合いはいないはずなんだ。

「えっと・・・前会ったことはありますか?」

それでも生まれた疑問は波のように押しかけてゆき、堰を切った部分が言葉になって出ることになる。考えてみたら、初めて会った人がここまで僕に尽くしてくれるはずがないんだ。その言葉に一瞬だけ寂しそうな目をしたけど、すぐに優しそうな、例えるなら父親のような目で僕を見つめてきた。

「まぁ、あの時は僕も先輩にべったりくっついてたし、律子さんとも知り合いになったからね。一回くらい会ったことがあるかもね」

う〜ん・・・一瞬僕の思い出の中のあの人かと思ったけど、疑問は疑問の域を出なかった。母さんに会ったことのある人は山ほどいるから。それに、考えてみたら、顔を見た時点で思い出してるんだよね。

「あぁ、律子さんで思い出したけど、家のほうはどうしたの?来たときにはたいした荷物を持ってなかったでしょ?」

「あっちにある程度慣れたら処分しようかと思ったけど、でも・・・」

本当はたった一人の親との場所を失いたくないんだ。新しい家族ができるとしてもね、僕が生きてきた場所がなくなるのは抵抗がある。僕と母さんの生きていた証が消えてしまうんだ。僕って女々しい。

「じゃぁ、せっかくだからそっちに引っ越そう。あ・・・そっか、僕が立ち入れる領域じゃないよね」

「ううん。博美さんがいいなら来てくれると・・・嬉しい・・・」

別に博美さんのためだけじゃないよ。独りであの場所にいても、僕はたぶん母さんを思い出して泣きたくなる。でも、誰かとなりにいてくれれば、僕はそれを乗り越えられると思うんだ・・・。

 

「なるほど・・・ここが瑞樹くんの育った家か・・・」

「そんなに大したとこじゃないよ」

「いや?律子さんと君が暮らしていた家だと思うと、どうしても感慨深くなっちゃうんだよ・・・」

「前から思っていたけど、ひょっとして母さんのこと・・・」

父さんと博美さんのやり取りの間に、母さんの名前があった気がする。僕がくることで父さんも博美さんも喜んでいる。すると、博美さんと父さんがライバルだと考えるのが普通だよね。昔父さんと博美さんは母さんを取り合った。それが元で奇妙な友情が生まれて・・・?そのはずなんだけど、博美さんが心なしか脱力している気がする。

「君って子は・・・気づいてたと思ったんだけど。僕が好きだったのは、先輩のほう。中学・高校のときにお世話になってね、強引だけど優しいあの人に惹かれていっちゃったんだよ」

えー!!博美さんはオカマじゃなくて正真正銘のホモぉ!?

「あ、君には絶対手を出さないから警戒しないように。ま、結果は知ってのとおり、徹底的に振られたけどね」

あはははは、と愉快そうに笑っているけど、それならどうして父さんの子供にあんな優しそうな顔をできるんだろう。もし新しい子だと言われたら、親も子も僕はきっと殺したくなるほど憎むと思う。それに・・・そうだ。僕がその対象とならないはずがないんだ。自分の好きな人を奪った女の子供だよ?それに気づき、僕の胸が締め付けられる。どうしてだろう。博美さんに嫌われるのが、こんなにも恐い。

「ご推察のとおり。僕もいい人じゃないから結構ドロッとしてるんだよね。あの子達を何度殺そうと思ったかな。いやぁ、あの子達をこの手で絞め殺す図を想像しちゃってね。だってそうでしょ?僕は男からだめなのに、あの子達はただ先輩と関係を持ったと「されている」女が産んだ子というだけで無条件に達樹先輩の側に居られるんだよ?それって・・・理不尽だよね。

でもね、小さかったあの子達が、僕の後ろをついてきて、手を握ってきたとき、僕は自分が馬鹿な男だと思った。全ては逆恨みだって気づいたんだ。あの子達に罪はない。だから・・・罪滅ぼしと言うわけじゃないけど、せめてこれからはあの子達の母親になれるように誓ったんだよ。そしたら愛しく感じるようになっちゃってね」

そっか、博美さんはそこまで父さんのことが好きだったんだ。それなのに父さんは博美さんを追い出すようなことをしちゃったんだ・・・。

 

「あぁ、あっちに居なかったと思ったらこっちにいたんだ。住所聞いておいてよかった」

なるはずのないチャイムが鳴ったので、不審に思いつつ出てみると、そこには和也さんが居た。手には大きな荷物を持っている。

「私は帰らないからね!」

博美さんは戦闘準備ができているらしい。敵意丸出しだ。

「そのくらい分かってるよ。父さんも泉も、ついでに大地の奴も、まぁ、彼は空腹が原因だけど、博美さんたちがいなくてくたばってる。でも、あの言葉は明らかに親父のほうが悪いから、俺は博美さんのしたことはしょうがないと思ってる。だから、瑞樹も側に居てやって欲しい。これは置き忘れていた荷物だ。じゃ、俺はこれで。あーそーそー、博美さん?俺はあんたがホモであろうとオネエであろうと、そんなあんたが好きだから」

「ははは。照れるね。そんなことを言うと立てなくしてあげるよ?」

「それはご勘弁願いたいな。あんた本気を出すと激しそうだし。それに、絵的には俺のほうが上だろ?」

「やーね、上に見える子が下になるから面白いんじゃない」

「そんだけの元気があってよかった。じゃ、俺は失礼するよ」

 

「ったく・・・偵察に来たのね、あの子」

でれでれしたオネエモードから一転、苦々しい顔で博美さんが吐き捨てる。偵察?心配してきてくれたんじゃ・・・って、そうか。住所を知っているのは父さんだからね。でも、顔を見に来たということは、ほんの少しは心配してくれたのかな。

「大方達樹先輩に泣きつかれて行ったんだね。ここには人質が居るし」

不敵な笑みを浮かべる博美さん。その頭で何を考えているのかが全く分からない。でも恐らく父さんをやり込める方法を考えているんだろう・・・と思っていたら。

「博美、俺が悪かったから戻ってきてくれ!」

妻に逃げられた夫の心からの叫び。どうやら和也さんと一緒に来ていたらしい。

「おほほほほ、達樹先輩、オネエで『ホモ』な私は気持ち悪くて嫌なんじゃなくて?」

妻、ねっとりとした口調。しかし、その甲高い笑い声とは裏腹に、目は全く笑っていない。それどころか、鋭い氷の刃という言葉が似合う。刑法で殺人罪がなかったら、冗談抜きに・・・ぞっとするよ。

「だから・・・それも悪かった!俺が嫌いなのは仕方ない。俺はそれだけのことをしてきたんだ。だけど・・・せめて・・・子供たちの母親では居てくれ」

この人は本当に自分の言ったことに責任を感じているんだろう。そんなに時間が経っていないのに、すっかりとやつれてしまったような気がするし、演技には見えない。父さんは博美さんを必要としている。これならきっと博美さんも機嫌を直してくれるだろう。しかし、現実というのはそこまで甘いものではなかった。そもそも、この人たちには僕が知るはずのない時間が存在するんだ。そんな単純なものではないんだ・・・僕は博美さんのオネエでごまかされていた、二人の本当の関係を垣間見た気がする。

「な・・・にが、『母親で居てくれ』だ。先輩は人の気持ちを知ってたくせに。あの時どれだけ僕が辛かったか泣きたかったか知らないはずないくせに!それでも先輩がどんな形でも必要としてくれたから、先輩の側に居られるからと僕は子供たちの面倒を見たよ。自分の子のように可愛かったよ。だけど・・・先輩。これ以上あなたを嫌いにさせないで。僕はあなたを嫌いにはなりたくないんだ・・・だから、もう帰って!」

「そうか・・・本当にごめん。俺はお前の気持ちを利用していたんだ。でも、それがここまでお前を追い詰めることになるとは知らなかった。分かった。お前の言うとおりにするよ。瑞樹、博美の側に居てやってくれ。お前なら博美も・・・」

少し寂しそうに目を伏せながら父さんは出ていった・・・。

 

「博美さん・・・平気?」

もっと粘るかと思ったけど、父さんはあっけなかった。父さんにとって博美さんはどんな存在なんだろう。好きな人と、最悪といってもいい形で別れたんだ。博美さんは相当傷ついているに違いない。

「クソオヤジ・・・いつも『母親で居てくれ』、たまには自分の気持ちを言ったらどうなのよ。ほんと卑怯なんだから・・・」

いや・・・傷ついているというより、純粋に腹が立ってる感じだった。

「はは・・・そんなに怒っても体に悪いだけだよ。アルバムでも見て機嫌直して?」

 

「あぁ〜小さいころから瑞樹ちゃんは可愛いねぇ〜」

「ちゃん」づけから分かるとおり、頭のネジが外れまくりの博美さん。これはこれで恐いけど、さっきの戦闘モードよりははるかにいい。博美さんは笑っている顔のほうがはるかにきれいだ。

「ねぇ、瑞樹ちゃん、この写真もらっていい?」

そうは言っても、彼がほしがる枚数が莫大なので、アルバムごとあげたほうがいいんじゃないかと思ってくる。母さんとの思い出という、大事なものをあげてもいいのかって?別にいいんだ。見ていても、あのころを思い出して寂しくなるだけだ。今までやっと耐えてきたのに・・・隣に人がいるせいか、目の前が霞んでいく気がする。

「瑞樹ちゃん・・・泣きたいんだ?」

僕の顔は相当情けないものらしい。博美さんに心配かけてしまった。でも、僕は泣くわけにはいかないんだ。僕は死期の近づいた母さんと、最後の約束をした。それが、泣かないということだった。僕はどうしてもそれを守りたい。

「男だもん。泣かないよ!」

「どうして男だと泣いちゃいけないのかな?男だって泣いてもいいじゃない。本当に泣きたかったら泣いたほうがいいよ?泣けるときに泣いとかないと、本当に泣けなくなる」

「ごめん・・・。母さんと約束したんだ」

博美さんが言うたびに、僕も意地を張ってしまう。博美さんが僕を気遣っているとは分かっているんだけど、泣けと言われると余計泣きたくなくなるものだ。でも、そんな僕であっても、博美さんは母親と父親が混ざったような優しさで僕を包んでいく。

「・・・律子さんらしいね。あの人なら豪快に笑ってそう言いそうだ。でも・・・僕が許す!お叱りは僕が受けるからね」

ほれ、泣け!そう言って僕をきつく抱きしめた。僕は最初は耐えていたけど、どうしても我慢できなかった。どうしてだか博美さんの腕の中ではそれができなかった。

「ずっと僕を・・・育てて・・・くれたんだ・・・。寂しいと思ったときには・・・いつも側に居て・・・優しくて・・・なのに・・・なんで・・・」

彼は何も言わずに、黙って僕を抱きしめてくれている。僕が言うのを待ってくれているんだろう。その暖かさが僕の閉ざされた口と、鍵をかけてしまった心を開いてくれる。僕は段々素直な気持ちになった。

「泣けなかった・・・。母さんとの約束もあったけど・・・涙が出ないんだ・・・。悲しくなくて・・・何もなくて・・・ぽっかりと穴が開いて・・・泣こうとしても何も感じないんだ・・・あ、僕壊れちゃったのかなって」

「大丈夫。瑞樹は壊れてなんかいないよ。泣けなくなるほど悲しかったんだ。でも、今は泣けるほどに癒えてきたんだ・・・。君にそこまで想われて、律子さんも天国で喜んでるよ・・・」

それから僕はずっと博美さんの胸で泣き続けたのだった・・・。

 

「ごめんなさい。恥ずかしいとこ見せちゃった・・・」

「別に恥ずかしくなんかないわ。だって、今の瑞樹ちゃん、かなりそそる顔してるもの」

急にオネエ化するのが博美さんなんだね。せっかくかっこいいと思ったのに・・・。このギャップは何だろう。素直に尊敬させてほしい。

「ふぅ・・・そろそろ入れてあげないとね」

急に向きを変えて彼は入り口に向かい、勢いよくドアを開ける。何を言っているんだろうこの人はと思っていたら、鈍い音がするのと同時に頭を抑えながら父さんが来た。まだ帰ってなかったらしい。

「先輩、帰ると言ったくせに、まだそこにいるんですね?瑞樹が欲しいんですか?あなたには絶対渡さない」

「だから俺が悪かった。お前は聞きたくないだろうから・・・いや、お前のせいじゃないな。俺の気持ちが虫のいいことであることくらい知っていたから言えなかったが、俺はお前に助けられていたよ。独りでくじけそうになったときもあったけど、お前が支えていてくれたからここまで来れたんだ。でも・・・それでもお前の欲しがる気持ちに応えられなかった・・・。何度も抱いてやろうと思ったけど、どうしてもできなかった・・・。でも、俺はお前を失いたくなかったんだ。だから博美の気持ちを利用してまで側に置こうとした。許してくれ。身勝手なことだとは分かってる。でも、それでもお前にそばにいて欲しい・・・だから、お願いだ、帰ってきてくれ!」

玄関で土下座までした。博美さんは相当怒っていたけど、父さんは父さんなりに苦しんでいたんだね。僕にそんなことを言う権利はないけど、父さんも反省したんだから、今度こそは博美さんも許してあげて欲しい。二人が喧嘩しているのは、見たくない。どっちも好いているんだから・・・。

「ったく、最初からそう言っていれば僕だってもう少し早く帰ったんですよ」

 

「あぁ、父さん、帰ってこれたんですね。まさか今日帰ってくるとは思いませんでしたよ、ははははは」

あきれて物も言えませんという顔をしているけど、はっきりと泉さんは言った。この分だと僕らが帰るまで父さんは家に入れなかったのかもしれない。そう考えると父親も大変なんだなと思えてくる。

「あぁ、無事に帰ってこれたよ」

そんな冷たい息子の反応に苦笑しながらも、その表情は嬉しそうだ。博美さんが帰ってきたからだろうな。

「いや、あのオカマより、瑞樹が帰ってきたことのほうが嬉しいんじゃねーの?」

僕の考えをある程度見通してしまったのか、大地さんがげっそりとしながら言う。この人はどうも博美さんのことは苦手らしい。まぁ、あんな性格だから苦手な人が出てきてもしょうがないような気はする。うん。僕も博美さんの優しさを見なければ苦手なままだったと思う・・・。

「ほほほ・・・あたしの帰宅は嬉しくはないのね?」

「ったりめーじゃん。俺は瑞樹だけが・・・ぐえ」

一瞬のことで何があったかわからなかったが、目の前では博美さんが勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。

「この僕にそんなこと言うなんて、百万年早いよ?」

「ご・・・ごめんな・・・さい・・・」

屈辱にまみれながら大地さんは文字通り地に沈んだ。一体何が起きたのだろう。泉さんに聞くと、人間知らないほうがいいこともあると、笑ってはぐらかされた。そういわれると返って恐いんだけど・・・。

「まぁ・・・何はともあれ、我が家にようこそ、だな」

のんびりと一部始終を目撃していた和也さんが、タイミングを見計らったかのように付け足した。

「んまっ和也ちゃんってばいいところを奪っちゃって・・・うきぃ」

どうやらその言葉は博美さんが言おうと思っていた言葉らしい。それを言えずにショックのあまり暴走した博美さんがハンカチをかみ締めながらだらだらと涙を流しているのが目に入ったけど、まぁ楽しいので放っておいた。新しくできた家族は多少アクの強い人たちだけど、何とか楽しくやっていけそうだった。僕も溶け込めるように努力しよっ!そんな決意を持ったのでした。


おわり